なんのこっちゃホイ! -7ページ目

なんのこっちゃホイ!

世の中の、これでいいのか、こんなことでいいのかを描くブログ。そんなにしょっちゅう怒っていられないので、ほどほどに色々な話題も混ぜていきましょう。

レゲーという音楽をご存じだろうか。

ジャマイカが発祥とされるポピュラー音楽である。

4/4拍子の2,4拍目をカッティングで弾くのが基本のリズムである。

 

僕は中学生の頃から永遠の吉田拓郎フォロワーであるが、拓郎はフォークソングの枠にこだわらず、初期の頃から様々なジャンルの音楽に挑戦している。1981年のアルバムタイトル曲でもある「アジアの片隅で」という曲を聴いたとき、聞き慣れないが、かっこいいリズムに、「これはなんというリズムか」と友人に聞いたら「レゲェじゃ!知らんのか」みたいに言われて、覚えた。

 

ボブ・マーリーとは、その後に僕がレゲェに魅了されていってから出会った。拓郎に出会った時のような衝撃だった。まるでどっかの島の土民の音楽のように、カッティングされる4/4拍子が、ずーっと続き、魂を絞り出すような声で「Unite ! 団結せよ」と叫ぶボブの歌。単純なリズムとメロディー、短い歌詞のフレーズの繰り返しは、一種の呪術的効果があって、そこにいるものをかき立て、沸き立たせ、徐々にトランス状態に入っていく。吉田拓郎がつま恋や篠島で見せた「人間なんて」の40分演奏など、そのさいたるものである。

 

ボブ・マーリーは1981年5月に、皮膚がんで亡くなる。だから、彼のステージを生でみることはできなかったわけだ。

YOUTUBEに流れる古びた映像だけでボブを観ていた。

 

そのボブの半生を映画化すると聞いて公開前から随分楽しみにしていた。

結果から言うと、ガッカリした。

何も知らずにこの映画を観たら、結局ボブマーリーって誰だったのか、多分、分からないだろう。

それほど表面だけを、すーっとなぞったような。そんな映画に思えた。

 

彼は何と戦い、何を苦悩し、彼は何をメッセージしていたのか。

名作アルバム「EXODUS(脱出)」では、彼の主張は何だったのか。

曲作りの場面でも、ややこだわりを見せる部分は表現されているが、多分もっともっとこだわった音作りをしていたのではないか。

こだわった作った音を、どれほど自由に表現できるか。

ステージから投げつける、彼のメッセージを乗せられるだけの、強いリズムとメロディー。

コーラスの美しさ。

 

かなり消化不良で、映画を終えたのでした。

 

ず〜〜っと胸に刺さっていることがある。

大学の後輩達との飲み会で聞いた言葉。

「先輩の年収は、そんなにあったんですか?僕らはその半分なんですよ!ひどいと思いませんか?」

僕らが大学を卒業する時には、すでに公務員の給与待遇が民間より低いことは知られていた。

そのかわり「親方日の丸」で、倒産もしないし、解雇もされない。安定した職業ということになっていた。だから、それを承知で公務員になったんだから、今になって民間の給与と比較され苦情を言われても答えようがない。「分かって教師になんったんでしょ?」としか言いようがない。金が欲しければそっちではなく、民間の経済という戦場で戦う道に進むべきだった。

しかし僕がひっかかったのはそこではない。給料が高い、安いの議論でもない。

公務員、ことさら教員の仕事内容は、果たして対価に見合っているのだろうか、という疑問である。

 

中教審報告のニュースを聞いて驚いた。

教員は残業代は支払われず、一律給与の4%を見なし残業代として上乗せされる制度(給特法)で運用されていて、今回それを10%にすることで、教員の処遇改善、ひいては若い教員のモティベーションを高めるとのこと。

え?処遇改善というのは、6%の手当をアップすることで改善されるものなのか?

 

疑問に思ったらすぐ調べる。

そもそも戦後の日本に「労働基準法」が定められたのは、1947年のことらしい。週の労働時間は40時間まで、1日の労働時間は8時間までと定められ、残業や休日出勤、時間外労働については「36協定」を労働者側と会社側が締結せねばならない。

ところが、公務員は部署や職務によって、拘束時間が一般企業とはことなるため、公務員の制度改革が行われた。結果、1971年に給特法が成立し、現在でもそのやり方がまかり通っている。

なぜ教員を労基法から除外したかというと、教員の職務は、自主的、創造的、自立的であることから、労働時間を管理すべき管理職者が、その実態を把握しきれないという理由らしい。例えば、夏休み等の長期休暇中は、概ねセミナーや研修に参加することになるが、その時間はどう監督するのか。命令実行によるものではなく、教師が自主的に参加しているセミナーをどう管理するのか。家庭訪問や修学旅行、遠足等の校外行事において、勤務時間の制限を設けるのは適当ではない等々。

つまり、学校の雇用主側と従業員である教員との「36協定」に基づいた、命令実行を原則とする時間外労働管理ができません。教師が自分達で勝手に決めてやってますんで、管理できませんということか?それでも管理職はいて、管理職手当をもらっているのか?

 

公務員の多くは「エッセンシャルワーカー」と呼ばれ、社会の仕組みを形作る欠くことのできない機能を果たしている。例えば、警察官、消防士、救急隊員等から、ゴミの収集員まで、その人達がいないと、社会の機能が損なわれると思われる職務である。僕は教師もそうだろうと思っている。

エッセンシャルワーカー(公務員)には、スト権がない。そらそうだ。警察官がストなんかやったら、泥棒や犯罪者が大喜びするだろう。消防士がストしたら、誰が火を消すのか。

しかし、それと教師は少しニュアンスが違う気がするのだ。

 

僕は教師でもないし、学校に勤務したこともないから、あくまで外から見ている立場でものを言うが、教師を一般的な企業と同様な勤務体系、勤務時間管理をしても、不都合はないのではないだろうか。

8:00から17:00を就業時間とし、それを超える時間外労働には、その労働に対する対価を支払えば問題なかろう。時間外労働については管理者へ報告し、上長の命令で行う。監理者が「その内容は時間外で行うには不適切。明日でもいい」と判断したら、時間外労働を命じない。

ところが、実は学校の先生というのは、本来の授業以外の仕事が一杯あるらしい。放課後のクラブ活動しかり、夏休みの勤務しかり。運動会や文化祭、遠足や修学旅行。定時では収まらない仕事がたくさんたくさん。でもまてよ。企業だって、国内出張もあれば海外出張もあるし、時差やフライト時間の関係で、定時勤務とはいいがたい。しかし出張手当や実費の負担、日当等が支給されている。

多分、手当は先生達にも支給されているのではないかなぁ?運動会や文化祭は週末や祝日に行われることが多いが、その分、代休で学校が休みになっていたと記憶している。先生も休めばいい。

夏休みも、「在宅勤務」扱いでリモートにすればいいし、なんなら学校に来て仕事すればいい。生徒が休みだから先生も来なくていいというのは少し変。リモート勤務なんて今の企業では当たり前の働き方であるから、それを教師に当てはめることは、それほど難しくないだろう。

 

ここで立ち塞がるのが「そうは言っても教師には」という、学校、教師双方の言い分。

そう、教師の職務の定義が極めて曖昧で広範囲にわたっていることが、問題を複雑にしているのかもしれない。教師の能力や実績をどのように定めるのか。クラスの偏差値を上げることができれば、高評価が得られるのか。入試の合格者の数を目標として設定し、達成度を評価するのか。

「学校」という存在の定義を、今こそ再定義せねば、教師の処遇問題は解決しない。10%もらったって、こんなクソ忙しくて、ガキは生意気で、親はモンスターで、その上、教頭含めて人間関係が複雑で面倒。ガキの家庭環境にまで配慮し、3者面談などで好きなことを一方的に言われて、ストレスは全部教師の側に押しつけられる。ちょっと手を上げようものなら、ハイエナのようなマスコミがよってたかって、ボコボコに攻撃する。そんな職場に、誰が務めたいのか。やってもやらなくても、頑張っても評価されず、前年の民間給与の上昇下降を参考に、年次昇級だけで給与が上がり下がりする。どうしてそんな職業に就きたいのか、僕の理解を超えている。

 

それでも「未来の日本を支える人材育成」であったり「ちゃんと自立した大人になるための知識と教養」を養ったり、なにより子供が好きってな人もいて、高い使命感に燃えて今日も戦う教師もいる。

 

「でもしか教師」なんてのも僕らが卒業するときには話題になっていたが、いまでは一般企業を定年退職した人が、レベル2とかいう教師の支援を行う職に就いているそうな。ところが、英語教育の低年齢化と、「喋れない英語は意味がない」とかでネイティブの外国人(中には怪しいのもいるし、そもそもネイティブとは何人のことなんだろう)にその職を奪われていると怒っている人もいる。

 

学校は授業を行い、知識を教え、結果として高度な試験に合格して、次の学府へ飛躍することを目標としてはいけないのだろうか?クラブ活動なんか、その専門の人を呼んできて責任もってやってもらえばいいような気もするし、そもそも学校のやる事か?(高校野球がなくなるのはちょっと悲しいが)。

荒れる学校や教室問題、いじめ問題は警察OBにある程度までの調査権と送致できる権限を与えて、プロが見張ればいい。なんで教師が心をすり減らして、そんな問題児のケアーまでしなければならないんだろう。

 

一方で、塾と学校の機能分担はどうするのかという問題。

塾では基本的に受験を前提とした学力を養成している場所だったのに、今では「学校の教えるレベルは、中庸な生徒や、低いレベルの生徒の学力に合わせるので、とても受験に勝てないからそれを補う」という本末転倒な場所でもあるようだ。つまり、学力だけを考えるなら、学校なんか行かずに塾に行ってればいい。不良もこないだろうし、いじめもないだろうし、勉強だけをしにくる生徒達であろうから、学力も上がる。するとこの部分は塾に任せて、学校はそうでない生徒。学習意欲がなかったり、不良と遊ぶ方がずっと楽しい子供達や他人をいじめてストレスを発散したり、優越感に浸る生徒達を矯正する場になるのか?ますます教師のなり手が減るような気がする。

 

学校はやはり、勉学がその第一の目的であって、それ以外は学校外で対処するという、欧米的な割り切りが必要なのかもしれない。欧米はかなり割り切っているので、勉強しない子は退学にされてしまう。義務教育機関であれば、技能習得で手に職をつけるか、高学歴を目指すかにはっきり分かれる。どちらが上ということではない。だから「塾」なんてない。

どうも、日本の学校教育は、少し歪んでしまったのではないかと思う。

霞ヶ関あたりで机にかじりつき、古い経験を頼り、現状に理解を示せず、理解しようともしない、頭の固い爺と、事なかれな官僚が考えることなんて、やっぱり所詮「お手当10%でどうですか?なんとかそれで、納めてもらえませんか?」なんだろうな。日本はここからも崩壊に向かうのか。

 

 

 

 

全3作の主人公であった、シーザーの葬儀シーンから始まる、猿の惑星の第4作目。

シーザーの死から数世代後の世界が舞台。

 

猿の支配が続く世界のどこか(多分、ロスかな。空港が写ったような)に、イーグル族というエイプの集団が暮らしている。イーグル族とは、鷲との連帯で生活をたてていて、鷲が捕らえてきた魚を干物にしたりして、エイプ達は生活してる。

一族のイーグルマスターという鷹匠の息子ノラ、幼なじみのアナヤ、スーヤが、ツタに覆われた高層ビル群の壁を、ズンズンと登っていく。目的は、高所に作られたイーグルの巣から卵を拝借すること。その卵は翌日に控えた「絆祭り」に使うためのようだ。最初の巣には卵が3個。しかし、必ず1個は残さねばならないというのが、一族の掟だ。1個足りない卵を求めて、最も高いところにある巣に挑むノラ。首尾良く危機一髪ながら1個をゲットしたノアと幼なじみは、帰り道、エコーの匂いのする布を見つける。エコーとは人間のことだ。

「エコーは谷を越えてはやってこない」

一族長老は、偵察に1頭のエイプを派遣する。

その夜、物音に気づいたノアは、そこにエコーの娘と出会う。娘ともみ合っているうちに、大切な卵を割ってしまう。それは明日の朝の儀式に使う大切な卵だ。仕方なくノアは夜中に卵を探しにでかけていった。

途中、エコーの毛布を見つけた場所で、多くの蹄の音を聞く。トンネルを越えたそこには、これまで見たこともないエイプの軍団が。

甲冑を身につけマスクを身につけ、電気を使った武器まで持っている。そこへ偵察に出された1頭のエイプが瀕死の重傷で現れる。村が危ない。急いで駆け戻ったノアが見たものは、火をかけられ、次々と連行される一族のエイプ達だった。鷹匠の父も殺されたノアは、復讐に燃え、一族のみんなを、家に連れ帰るために、一人で旅にでる。

 

旅の途中で出会ったオランウータンのラカと出会う。ラカは、昔の人間の書物を、知恵の袋として大切に守る役目を果たしていた。そこでノアは、初代長老と呼ばれるシーザーの話をラカから聞く。「エイプは決してエイプを殺さない」「エイプが大勢で団結すると強い」

その夜、村で出会ったエコーの娘と再会する。どうやらこの娘はノアをつけてきたようだ。この娘にリンゴと毛布をあげ、旅を共にすることに。なんかRPG的展開だなぁ。

たどり着いた川辺には、シマウマの群れと、その奥から現れたのはエコーの群れだった。そこへ甲冑のエイプが大勢で押しかけて、エコーをとらえている。どうやら彼らが探しているのは、この娘のようだ。追い詰められた娘は遠くで眺めているノアに向かって大声で助けを求める。

「ノアー!」

娘を救出し、洞窟で一夜を明かす3人。そのエコーは言葉が話せる。自ら名前を「メイ」と名乗る。しかも、普通のエコーよりかなり賢い。その上、メイは連れ去られたイーグル族の居場所を知っていて、そこまで案内するという。

一族の救出に向かう3人の仲間。しかし、途中の橋で甲冑のエイプに襲われ、ラカは濁流に呑み込まれる。知恵の印しのペンダントをノアに残して。そのペンダントこそ、第1作でシーザーが初めて書いた、あの懐かしい家の窓の図形だった。

ノアとメイが連れて行かれたその先には、プロキシマスというゴリラが支配しており、そこを自ら「帝国」と呼んでいる。その帝国には、更に言葉を話すエコー、トレヴェイサンが、プロキシマス始めエイプにローマ史を教えている。そのおかげで、プロキシマスはかなり知恵が働く。多くの手下を前に「なんて素晴らしい日だ!」と演説を始める彼は自らを「シーザー」と呼び、巨大なドアのある貯蔵庫(Vault)の向こうにある、人間が残した道具(兵器)を手に入れたがっていた。しかしどんなに引っ張っても、そのドアは開かない。

その夜、メイはノアに「実は崖の上に入口がある。崖を登る手助けがほしい」と頼む。ノアと幼なじみ3頭は、ノアと共にその崖を登っていく。

 

前作の「猿の惑星 聖戦記」を観たときからずーっと疑問があった。本当に人類は絶命し、本当に人類は皆、言葉を失ったのか。

第1作でジェネシス社が作り出したアルツハイマー病特効薬の副作用で、動物実験に使った猿の知能は驚くほど急速に発達し、それは猿ウイルスとなり人間が感染すると、言葉を無くし、知恵を失う。人類は自ら引き起こした内戦で滅ぶことになっているけど、全部いなくなるとは思えなかったし、第3作でも現れる北部の軍隊等のような生き残りがいるはずだと。

それらの謎は今作で収斂される。

そして、これはどうにも次回作が必至な展開を迎えて、エンドロールが流れる。

 

絶対おすすめの一作です。

 

 

 

GWは、絶対に仕事をしないと心にきめてのぞんだ。

朝からTVでは渋滞のニュース、円安、インバウンドで溢れている。

こんな中、どこへも出かける気にもならない。

こんな時は、配信だ。

Amazon Prime で「古畑任三郎」全話を一気通貫で鑑賞。

中には権利の関係で配信されていないエピソードもあるが、それは仕方ない。

中で僕が選ぶ、ベスト3のエピソードを書きたい。

 

第1位  Season 2_Ep 1  「喋りすぎた男」

やり手弁護士の小清水潔(明石家さんま)には、愛人がいる。しかし、大物弁護士の娘との結婚が決まり、この女が邪魔になる。彼女の部屋を訪ねた小清水は、別れを切り出すも、女は別れることを認めない。カッとなった小清水は、手近にあったバラの刺さった水差しを振り上げると、彼女の頭に叩きつけた。崩折れる女、砕け散る水差し。そこへ、古畑の部下の今泉がたこ焼きを持って尋ねてくる。今泉は何度も結婚を申し込み、すべてつれなく振られていた。とっさに小清水は、今泉に全ての罪をなすりつけることを考える。二人は学生時代の同級生だった。「えーか、罪を軽くするなら、犯行を法廷で認めるんや。そした、情状酌量を取れるように、俺がなんとかする。そうせんかったら、お前はこのまま刑務所へ行くんや。よー考えろよ!」

冒頭陳述の日、裁判官の罪状認否で、「殺すつもりはなかったが、殴った」と犯行を一部認める。

傍聴席には、古畑任三郎の姿が。その後の面会で「やってないのなら、やってないと次の公判で前言を撤回するんだ。もし認めたら、情状酌量であっても、これまでの毎日は返ってこないんだよ」と説得する。

「古畑さん、もしかして、犯人を知っているんですか?」と問う今泉に、「僕がこれまで失敗したことがあるかい」と薄笑いを浮かべる。

そして罪状認否を否定した今泉の公判、古畑が証人席に立つ。「実は私、犯人を知っているんです」

終盤の裁判所のシーンが大どんでん返しで、極めてロジカルに小清水を追い詰める古畑。

あっと驚く謎解きが痛快。

 

第2位 Season2_EP 2 「笑わない女」

宗教をバックボーンとする女子校は、厳しい戒律と校則に縛られ、ほとんど自由というものがない。その学校の教師阿部哲也は、校庭でギターを弾いて生徒と歌をうたうなど、自由奔放な振る舞いを見せていた。厳しい校則や戒律に縛られた学校に反対し、もっと自由な高校生活を送らせてやりたいと考えている。

生活科主任教師兼寮長の宇佐美ヨリエ(沢口靖子)は、自らもこの学校の卒業生であり、敬虔に、忠実に戒律に従うことを絶対とする教師。ある夜、寮にある阿部の部屋を、宇佐美が訪ねた。授業で使う本を貸してくれと。本棚を探す阿部の頭部に、渾身の力を込めて鉄パイプを叩きつける宇佐美。「どうして・・・」すがりつく阿部は、宇佐美のガウンのボタンをむしり取り、倒れる。宇佐美は近くにあったバーベルに阿部の頭を叩きつけ、とどめをさす。しかし!ボタンが無いことに気づいた宇佐美は、阿部の手の中で握られたボタンに気がつく。しかし、彼女にはそれを、奪い返すことができなかった。

古畑との、丁々発止を沢口靖子が演じる。無表情で感情を表に出さず、冷静に古畑を向かい合う。

沢口靖子31歳の芝居。

 

大変美しい女優さんで、出身も関西ということで、勝手に親近感を持っているのだが、この人の芝居は、これまで一度も、上手いと思ったことがないのです。武田鉄矢の刑事物語でデビュー。まぁ、その素人丸出しの台詞、演技には恐れ入った。ゴジラにも出演したが、これもはっきり言って臭い。

ところが、このドラマでは、素晴らしい演技を見せている。新境地開拓か!と思える程に。そして、31歳でも、美しいルックスは、時に幼ささえ漂わせている。素晴らしい沢口靖子だ。

古畑が厳しい戒律のジレンマに立つ沢口靖子を追い詰めていく。最期にその動機が明らかになった時、爽やかな感動すら覚えた。

 

第3位 Season 1_EP4 「殺しのファックス」

人気推理作家の幡随院(笑福亭鶴瓶)は、妻を殺して狂言誘拐を仕組んだ。犯人、もちろん幡随院なんだが、からの身代金要求、受け渡しの方法は、タイマーで設定されたFAXを使って、幡随院が仕事場にしているホテルの部屋に届くように仕掛けてある。この段階では、妻の生死は不明のため、念のため殺人課の刑事古畑任三郎もホテルの部屋に待機している。友人の結婚式から直接駆けつけた今泉と、時間を持て余す古畑。

しかし、幡随院の計画は、思わぬ道路工事などのために、些細な食い違いを生んでいく。それを見逃さない古畑は、最期の身代金受け渡し現場に、ある仕掛けを施して、幡随院を追い詰める。

前半の鶴瓶の芝居は決していいとは言えないが、後半謎解きで次々に繰り出す古畑の追求に、思わず歪む顔の表情が実に楽しい。

 

この3話は本当に秀逸だと思う。

それにしても、シリーズ1〜3までを見ると、そのゲスト出演者の豪華なことと言ったら。

中森明菜、堺正章、坂東八十助、桃井かおり、木の実ナナ、小林稔侍、小堺一機、福山雅治、そして菅原文太。プロデューサー関口氏の実力発揮というところか。

 

もし古畑任三郎が懐かしいなぁとこのブログを読んで思われた方は、AMAZON PRIMEがFODでご覧ください。古畑任三郎でした。

 

 

 

かなり期待して待っていた作品であります。

前作ゴジラvsコングのタイトルロールでこの作品の企画をチラ見していらい。

満を持しての公開初日に鑑賞です。

 

コングは、地球内部の空洞世界に戻り、一人孤独に暮らしていた。歯痛に悩んだコングは地上に現れて、歯の治療をしてもらうというお笑いまで用意されている。彼が地下へ戻るタイミングに合わせて、モナークの連中が新しい潜水艇(っていうのかな?地下に行ける船)に乗って、地下世界にあるモナークの基地を訪れる。

コングと話せる少女のジアは、14歳になっている。あのまま14歳になったって感じ。

彼女の出自が、ちょっとした物語なのだ。彼女の部族はどんな部族より長く存在しているのに、その記録は驚くほど少ない。彼らは言葉を持たず、意思を疎通してたらしい。一種のテレパシーか。ジアも言葉が話せない。

 

モナークの地下基地は破壊されていて、そのカメラに写った影は、はっきりとはしないが・・・・のようだった。背後の壁には、デッカい手形も残されている。コングは一人なんだから、コングではない。では、だれが。

 

地下世界を支配していた、というよりは、孤独だと思っていたコングには、別種族が存在していた。彼らは窮乏で残忍で、まぁ、893かマフィアなムードだ。迷い出た小猿について行き、彼らの存在を知ったコングは、そのボスとの対決を迫られる。今度こそ、地下世界を支配するために。

 

ゴジラは、ローマに現れた蜘蛛の怪獣を倒した後、コロシアムの遺跡で眠りについている。新たな脅威が彼の縄張りを侵すまで。

 

ってな感じで、日本のゴジラとは違って、ゴジラにしてもコングにしても、すでに立派に主役としてキャラが立っていて、ストーリーに出演者として組み込まれている。日本のゴジラは、結局なんだか知らないけどすごい怒っていて、突然現れて街を破壊し、人間にやられてすごすご海へ帰っていったり、凍らされたり、粉々にされたりする。ここは日米のゴジラは対局にある。しかしおかげで、怪獣が登場する怖さであったり、圧倒的な破壊力による恐怖は、ハリウッドゴジラにはない。敵が必要なのだ。

 

今作の敵は、コング以外の部族が飼い慣らした冷凍怪獣だ。冷凍光線をはくと、立ち所に凍ってしまう。氷河期を招いたのはこいつでないかと思われるほど、冷たい。ゴジラはひたすら核燃料を充填して、暑い、熱い。この二匹が、熱いパープルの熱線と、白い冷凍光線を吐き逢う。

コングはひたすら茶色の893のボスと戦い続ける。

 

怪獣の戦闘シーンにおけるVFXはさすがに白組とはレベルが違う。いや!実力ではなく、資金の問題なのだろうか。ラストに向けての怪獣同士の対決の音のすごさ、画面に躍動する怪獣の迫力は、さすがだと思う。

ただ、ゴジラがアスリートみたいに両手を振って、素早くダッシュで走る姿は見たくなかった。やっぱりあいついは、どっしりと腰低く、太もも太く、尻尾も太くて体重を支え、ズ〜〜〜ン!と歩いて欲しいのだなぁ。100m走みたいに、走っちゃダメダメ!

 

なんだかんだのおよそ2Hの映画。なが〜〜〜いタイトルロールを見終えて劇場を出て一言。

これ、なんだったんだろう・・・・・

疲れた。

 

年末の親戚のおじさんの家にいとこ達が集まる。コタツに足を突っ込んで、トランプで遊ぶのが恒例であった。

「1」

「2」

「3,4」

「5」

と言いながら、各自の手札を相手に見えないように、テーブルの中央に積んでいく。

「6,7」

「8」

「9」

「10」

「ざぶとん!!」

すかさず誰かの声が飛ぶ。

「10」と言って出された手札をめくると、それは「3」であった。

「ほれみぃ〜〜!チョンバレじゃぁ〜〜」と憎々しげに「ざぶとん!」と声をかけた人が大笑いする。

バレたプレーヤーは、場に出された手札の全てを、自分の手札に加えねばならない。

そして、

「11」

「12」と非情にゲームは続く。

次に誰かが、「ざぶとん!」と叫ぶまで。

 

このゲームが、大阪や兵庫以外では、「ダウト」というゲームであることを知ったのは、神奈川県に住み始めた41歳の時だった。

「かまへん、かまへん!腹一杯食うて寝たら、なんでも、どないかなる!」

「いいから、いいから、とりあえずお腹いっぱい食べて寝たら、なんとかなる」

この「なんとかなる(どないかなる)」という関西文化における根拠のない慰めないしは励まし。

あいまいで中途半端で、何も提案してないし、解決に向けてどうしろとも言わない。

だけど、なんか心の中がすぅ〜〜〜っとする感じがする優しさがある。

他には「知らんけど」というのもある。

「それはそうやて!絶対にやった方がええよ!絶対ええよ!、知らんけど」

ちょっと一言、責任逃れをしているようで、関東の人には嫌われるけど、この「知らんけど」も「どないかなる」と同じように、「決めるのはあんたやで」と優しく背中を教えているのである。まぁ、関西文化のおさらいはこの辺にして。

 

兵庫県尼崎市。

兵庫と大阪の境目に位置するこの街。

いろいろと悪評(?)のある街で、ダウンタウンの二人の出身地でもある。

海抜0メートルの尼崎市には、洪水や津波から街を守るために「尼崎閘門(こうもん)」と呼ばれる可動式防潮堤がある。通称「あまろっく」。

この街で生まれ育った39歳の近松優子(江口のりこ)は、独特な感性で、小学校の時から「空気を乱す」と言われながらも勉強に励み、京都大学を卒業し、東京で就職したが、理不尽なリストラにあい、実家の尼崎に帰ってきた。

そこでは、毎日やることもなく、ぶらぶら過ごしている優子に、町工場を経営する父親近松竜太郎(笑福亭鶴瓶)は「人生に起こることは、なんでも楽しまな!」と言いながら、こちらも仕事は工員に任せきりで、調子よく生きていた。

そんな竜太郎がある日、優子に切り出した。「おとうちゃんな、再婚すんねん」そして連れてきた再婚相手は、市役所に勤める20歳の女子、早希だった。39歳の優子に、20歳の母ができた!パニックのあまり反抗を繰り返す優子。

 

そんなある日、超大型の台風がアマに接近。雷ゴロゴロの最中に、竜太郎は若妻にすすめられ、町内をジョギング。その時、一筋の雷が!

あっけなく竜太郎は逝ってしまった。そして、若妻佐季のお腹には、竜太郎の子供が宿っていることが分かった。

優子にも出会いがあった。大手商社のエリート社員だ。

それぞれに問題を抱えながら、アマの地で家族が形作られる。

 

前編、尼崎でロケを行い、出演者はみんな関西出身の関西弁ネーティブスピーカー達。個性的な俳優の裏で、浜村淳やら佐川満男やらが、顔を出す。公開も、関西だけは全国より1週間早い公開とするなど、それなりにこだわりを持った関係者が作ったんだなぁという、手作り感のようなものが、心地よい。

 


 

1949年7月5日、当時国鉄総裁であった下山定則が行方不明となり、翌日未明、足立区綾瀬付近の国鉄常総線の線路で、轢死体として発見された。当時国鉄は、占領軍から10万人のリストラを迫られており、下山はその先頭に立って苦悩していたことから、「自殺」とする説が第一報として報じられた。しかしその後、東京大学法医学部で検死の結果、下山は死後に轢断されたものと断定された。「他殺」説が一気に吹き出し、その犯人に国民の関心は集中した。だが警察は「自殺」とも「他殺」とも断定せず両面での調査を開始。「自殺」とする根拠は、下山はその事件の前に、多くの人に目撃されており、その姿が俯き加減で思い悩んでいる風であったとの証言による。しかし、現場のかなり手前の枕木に血痕を発見、それを分析したところ、特殊な血液型で、それが下山の血液型と一致した。つまり、轢断される前に、そこで出血していたということを意味しており、「他殺」の疑いが強まった。

検察と警察の懸命の捜査の結果、ある韓国人が浮かび上がる。彼の証言は実に微に入り細にいっており、「犯人による秘密の暴露」に値するとして、重要参考人となった。彼は、下山を日本橋三越へ呼び出し、更に拉致して、ソ連大使館へ連れ込み、そこで殺害してから、線路の上においた。殺害の手口は、手首から体内の血液を採りだして、失血性ショックにより殺害した。右腕は残るように線路においた等、詳細にわたる。

そしてこの韓国人は、自分はソ連の諜報員であり、アメリカの動向をモスクワにおくるスパイ行為を行っていたと告白した。

ソ連による謀略。暗殺の線が浮き上がり、捜査員は、国内の左翼、共産党関係の人物を洗い始める。

 

しかし、ここに一人、韓国人の証言は、すべて真っ赤な嘘だと言う新たな証人が現れる。

その韓国人は確かにソ連のスパイだが、アメリカにソ連の情報を流す、ダブルエージェントである、というものだ。

もしそれが真実だとすれば、糸を引いているのはアメリカということになる。戦争が終わり、日本を占領した連合軍、その中にCICというアメリカの諜報機関があり、そこは、ソ連の共産主義が日本に蔓延するのを防ごうと諜報活動を行っていた。この事件をソ連の謀略と発表すれば、日本人はソ連を憎み、共産主義が蔓延することはないという理屈だ。当然、アメリカ本国もそのことは承知していて、日本を共産主義の侵略を防ぐ橋頭堡とする考えだった。新たに浮かび上がるアメリカの闇。下山が誘拐され連れ込まれたのは、ソ連大使館ではなく、アメリカのCICが利用していた旧岩崎邸。その庭にある別の狭い建物の中に下山は連れ込まれ、殺害された。それを目撃していた日本人がいた。後にかれは自殺する。米国諜報部のOB達も口を開く。殺害を直接的に認める者ではないが、キャノン機関という特殊部隊の存在、キャノン大佐のこと。彼らが何をしていたのか。恐るべきアメリカの陰謀が見え隠れする。

 

しかし、当時は占領下にあった日本で、これらの事実は全て機密とされ、この事件は、韓国人による犯行であると、当時の総理である吉田茂が講和条約会議で宣言して幕引きとされた。この講和会議で日本は占領かいら解放され、完全な独立国家となった。あくまで書類上は。

 

NHKについて、あれこれ言う意見もあるが、僕は結構楽しんでいるものもある。毎正時に放送されるニュースに加えて、ニュースウォッチ9、大河は今回の平安時代には興味がないが、鎌倉時代や幕末ものは毎週欠かさずみた。

戦後70年経って、アメリカでも極秘であった情報が開示されはじめ、日本でも秘匿情報が開示され始めた。今こそ、戦後、米国に占領されていた日本で、アメリカは何をしたのかを明らかにしようとするこのシリーズは、注目に値する。

天ぷらつな八 高島屋店で、天ぷらをおまかせで頂いた。

カウンターで熱々の天ぷらを頂くのは、幸せいっぱいでありました。

若鮎のテンプル

 

かき揚げ茶漬け

 

概して食事というのは、第一印象で味が違う。

カウンターに座るやいなや、連れの女性がマシンガンのようにおしゃべりを始めたので、飲み物の注文もできないありさま。

確かにお店の「間」を壊したと言えばそうかもしれない。

店長や職人が我々を見る目線が、客を見切る視線であった。

「ははぁ〜、あまりこういう所で食事したことない、フリの客だな」という空気が、漂う。

上からの目線を感じる。

だから手を抜いたとは、思わないが、出てくる様々な天ぷらが、どういう訳か、一段下のものをだされた気分になる。

残念な夜だった。

原爆開発のリーダー、核物理学者オッペンハイマーのドキュメンタリー映画でした。この映画を語るとき、必ず出る話題が、「世界で唯一の被爆国である日本への配慮から」公開が遅れたとか。広島、長崎の爆弾投下のシーンが描かれていないとか。産経新聞の評論の中には「この映画の試写会で、ポップコーンを食べ、コーラを飲みながら観ている若者がいたのに驚いた」とか。

全く当たってないし。この映画が描きたかったのは、広島や長崎の惨状などではなく、終わりのない核分裂により地球が滅びることはコントロールできても、それを兵器として持ってしまった国のコントロールは開発者ではきかないということだ。それは政治の具となり、他国への牽制、同盟国からの信頼等、開発者の手の離れた所で動き出してしまう危険性について警鐘を鳴らすことではないだろうか。

日本人は、非常に核について自意識が強いし、被害者意識が強い。これは代々語り継がれてきた、あるいは教師を通じて教科書から学んできた核を生理的に嫌う国民性によるものだろう。それを悪いとはいわない。それは持ち続けるべきだとむしろ思う。だが、それでこの映画の本質を見間違えてはいけないと思うのです。

 

オッペンハイマーは子供の頃から頭のいい少年で、ハーバード大学で化学を学び、飛び級で3年で主席卒業。物理を学びたくて、当時アメリカより研究が進んでいた、イギリスのオックスフォード大学へ留学。実験を伴う化学から理論中心の物理学の世界へと入っていくことになる。彼は実験物理学が発展していたケンブリッジから、理論物理学が発展していたゲッティンゲン大学へ移籍して、博士号を取得した。その後はアメリカに戻り、UCBやカリフォルニア工科大等で教鞭を執りながら、宇宙物理学を研究し、星の終焉で起こる爆縮により、非常に大きな質量で小さな星、つまりブラックホールについての研究発表等を行っていた。

 

その頃、世界情勢は不安定な様相を呈しており、ナチスドイツが原子爆弾を開発しているという情報を得たアメリカは、ナチスドイツより先に原爆を開発して、ドイツを牽制する必要がある。そこでオッペンハイマーをリーダーとするマンハッタン計画を立案し、ロスアラモス国立研究所の初代所長になり、原爆の開発チームを率いることに。この頃からオッペンハイマーは、科学者としての顔より、むしろ政治家としての顔を出した活動をする。彼のチームでは、ある大きな不安が議論になっていた。ウラン型もプルトニュウム型も、元素に中性子を衝突させ、その分裂するときのエネルギーを利用する。中性子がぶつかると元素は壊れて分裂を始めるが、その時、新たに中性子を2.5個出す。これが別の元素にぶつかり核分裂が連続して起こると、それは制御できなくなり、地球が滅ぶまで、核分裂が繰り返されるのではないかということ。アインシュタインともその話をする。アインシュタインは、そのことより、核自体が持つ政治的なリスクの方が高いと意見を述べる。池の畔で天才二人がほんの立ち話を交わしたあと、立ち去るアインシュタインの表情は、凍り付いていた。

 

彼のチームはついに原爆の開発に成功し、ニューメキシコで爆破実験を行う。トリニティー実験と呼ぶ。その威力は開発者の想像すら上回るものであり、結果は大成功であった。しかしすでにナチスは終焉の時を迎え、原爆を開発することができないまま、ヒトラーは自殺を遂げた。必要のなくなった原子爆弾は、そのまま葬りさるべきだと彼は主張するが、時の大統領のトルーマンは、日本との戦争を早期に終結させ、かつ被害者が多い、地上戦を避けたがっていた。オッペンハイマーが恐れていたとおり、巨大は爆弾は一度は利用しなければ、国際的なパワーの均衡、つまり抑止にはならないとする政府の方針で、日本への投下が決まる。

オッペンハイマーは、原爆投下の30日後に、その惨状をフィルムで目にする。彼の表情は凍り付き、その顔には恐怖がはりついていた。