土木遺産シリーズ2
眼鏡橋
往訪日:2024年4月29日
所在地:長崎市魚の町
■竣工:1634年(寛永11年)
■諸元:橋長22.0m×幅員3.65m
■形式:二連式石橋
■国指定重要文化財(1960年)
《只今ちょっと増水中》
雨模様なので長崎県立美術館だけで四日目の観光は終えるつもりだった。ところが、普段の心がけが良すぎたらしく、想定外の青空が広がった。恐らく疑似晴天。だがそのまま帰るという法はない。この隙に眼鏡橋を拝むことにした。だが行ってみれば(やはりというか)絶賛増水中!
「これでも引いた方だにゃ」
やっとこれたよ。アーチ式の石橋は幾つかあるけれど一番美しいと言われるね。ひとつにはアーチライズ比(路面高と支間長の比率)が1/2なので、川面に映った影とあわせて奇麗な円形の眼鏡の形を作るからなんだ。
「ぜんぶそうなんじゃないの」 テケトーなこと言って
いやいや。必ずそうとも言えない。例えばさ、ふたつ上流の東新橋をみてみよう。
ほらね。1スパン(径間)でしょう。こうなると路面高:橋長=1:3。アーチライズ比は1/3。映った影は紡錘形だよ。実際なっているでしょ。風でハッキリみえないけど。
「なぜ二つにしなかったの?」
実はアーチライズ比が小さいと、撓もうとする力が大きくなって架設が難しくなる(専門的には曲げモーメントが大きくなるという表現をします)。
「でも成り立ってんじゃんね」
眼鏡橋は最古の(最初に建設された)アーチ式石橋だった。そのため建設に不安があったため二連に割ったという説が有力だ。実は1982年の長崎大水害で中島川に架かる9橋が流出した。そのニュースは今でもよく覚えている。東新橋もまた、架け替えられた鉄筋コンクリート(RC)の橋なんだ。
ちなみに眼鏡橋は高欄と右岸の橋台の部材が流されただけで橋本体は崩壊していない。昔の石工たちの技術力の高さが偲ばれる。
漆喰の白がまたいいアクセントなんだよね。できるだけ高欄の旧部材を拾ってきて再利用したけど、路面と高欄、そして右側の橋台が新しいのが判る。
災害前は端部はスロープだったけど、再調査で階段と判明。旧態に戻したそうだ。
「なんて書いてあるのかにゃ」
免可ね𣘺(めがね橋)じゃないかな。高欄が擬宝珠になっているのは中島川を渡った左岸側が寺町だかららしいね。
海側(袋橋方面)を見返す。あの先が(洪水対策の)暗渠の排水路だね。
ひとつ上流の魚市橋。残念ながら平凡なコンクリート桁。
こちらが黙子如定(もくすにょじょう)。明朝・江西省の偉いお坊様だよ。興福寺の二代目として1632(寛永9)年に来日。中島川は源頭から短距離で海に注ぐため、鉄砲水を繰り返していた(その頃は木橋)。そこで明から石工を呼んで二年後に眼鏡橋を完成させた。日本初の近代石橋と言われるゆえん。
(芊原橋とその奥に一覧橋)
今西祐行著『肥後の石工』という児童文学がある。鹿児島城内の石橋架設のために肥後の腕利きの石工たちが呼ばれるのだが、戦時の特殊な仕掛けを知る彼らは、薩摩の刺客に命を狙われることになる。すごくシリアスな物語で、こんな救いのない物語を子供に読ませるのかと思ったが、石工の派遣は史実で、橋の建設が藩の統治にとっていかに重要だったかが判る話だった。
ということで、天気の様子を窺いながら散策を続けた。
「サルは早く帰ってシャワー浴びたい」 湿度高すぎ!
(旅はつづく)
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