名建築シリーズ86
大浦天主堂
往訪日:2024年4月28日
所在地:長崎市南山手町5-3
開園時間:8時30分~18時(季節で変動)
料金:一般1000円 中高400円 小学300円
アクセス:長崎道・長崎ICから約10分
駐車場:なし(市営松ヶ枝町第2駐車場が便利)
■設計:ルイ・テオドール・フューレ
■施工:小山秀之進
■竣工:1879年改修(1864年創建)
■国宝:1933年
※すべての施設が内部撮影NG
《なんとなく記憶にあるのだが…》
続いて大浦天主堂を見学した。何といっても国内有数の天主堂であるうえに国宝。小学校の修学旅行でこの階段の下から仰ぎ見た記憶が朧げに残っているが、あの頃は仏閣マイブームの只中にあり、キリスト教など無縁の世界だった。
開園前は御覧のとおり。やはりマリア様は俗人の陋巷から遠くにあるのが相応しい。
右手に立ちはだかるのはド・ロ神父設計で1915年に建替えた司祭館(旧長崎大司教館)。木骨煉瓦造り。テラスつきの赤煉瓦の建物が美しい。その奥にはキリシタン博物館(旧羅典神学校)があるはずだ。
(配置図)
こんな感じね。まずは中庭の彫刻を見学して、天主堂で穢れを落すことにした。GWだったが思ったほど混雑していない。と云いつつ世界遺産に登録されたのでインバウンド比率は高い。
「意外に空いているにゃ」
教会だしね。長居できんでしょ。
1858(安政5)年の日仏通商条約締結後、パリ外国宣教会のフューレ神父が長崎に派遣され、居留地に隣接するこの地を購入。自ら設計にあたり、天草の棟梁・小山秀之進に普請を依頼。1864年に完成している。
「日本人の大工さんが造ったんだ」
維新前の疑西洋建築はだいたいそうだね。
正式名称は日本二十六聖人殉教堂。居留地内の西洋人向けの聖堂というのは、或る意味建前で、1597年のサン・フェリペ号事件が引き金になった秀吉の大量弾圧による殉教者26名に祈りを捧げるため、そして、何処かにいるかもしれない潜伏キリシタンを見つけるためだった。ファザードに掲げられた「天主堂」の文字は赴任したプティジャン神父の発案。
「てっきり後から日本人がつけたんだと思ってた」 目からうろこ!
実は僕も(笑)。
煉瓦造りで全体が漆喰で覆われている。
1865年2月に公開されると、一月後には狙い通りに潜伏キリシタンが神父の元を訪れ、キリスト教徒だと告白した。宗教史上名高い奇蹟「信徒発見」だ。
「どーして奇蹟なのち?」
通商条約を結んだとはいえ、キリスト教はいまだ禁教の対象だったでしょ。「居留地だけなら許しちゃる」という条件で聖堂建設は可能だったわけだし、もし長崎奉行に見つかったら、拷問やひどい場合は死刑だってありうるわけだよ。でも、神々しい天主堂を見て信徒は黙っていることができなかったんだろう。
「縋る対象が必要だったんだの」
残念ながら、その後も摘発(「崩れ」と呼んだ)はつづき、1867年の浦上四番崩れと呼ばれる大規模摘発を実施。死刑こそ免れたが3394人の信者が萩、津和野、福山などに流配。禁教令が解かれる1873(明治6)年の高札撤去まで拷問・苦役が強いられ、600人以上が亡くなったとされる。
創建時の天主堂は海鼠壁の折衷バロック風(出典)パンフレット
こうして明治憲法が信教の自由を保障するとカトリック信者は戻ってきた。大浦天主堂は司教が常駐するカテドラルとなり、早坂久之助神父がザビエル以来初の日本人司教に任命される。
(早坂久之助神父)
多くの信者を受け入れるため、天主堂も(上の写真の)海鼠壁に覆われた和洋折衷の建物を覆うように現在の形に増築された。
(平面図)
カテドラルの配置はご覧のとおり。
※内部撮影できないので(以下三点)ネットから拝借いたしました。
身廊は創建時のままだろう。側廊は拡幅。聖具室と礼拝堂も増築。木造漆喰造りのリブ・ヴォールト天井の繊細で嫋やかなフォルムは見事としか言いようがない。
聖体拝領台両脇の壁龕にはイエズス聖心像(左)と信徒発見のマリア像(右・上の写真)が並ぶ。このマリア様を求めて潜伏キリシタンたちはやってきた。
「判る気もする」 優しげでうつくしい
どことなく舟越保武っぽい。順序逆だけど。
そしてステンドグラスも。これは増築による後づけかも知れない。
尖塔は木造。
外から見た礼拝堂部分。桟瓦葺きでバラ窓が設えてある。中から見たいね。
原爆の被害も相当だったが、1952年に修復を終えて、その翌年に国宝指定を受けた。熱心に祈りを捧げる信徒の方もたくさんいる。無用な長居は禁物。
次は旧羅典神学校だ。
大きすぎて入らない(笑)。重文指定。1875(明治8)年竣工。設計は同じくド・ロ神父。旧長崎大司教館と一体で博物館となっている。長崎と日本全国におけるキリスト教伝来と弾圧の歴史が展示されていた。
記憶に残った事績をメモして終わりにしよう。
江戸幕府による禁教令
秀吉の私欲(貿易で荒稼ぎしたい)と小心(でもスペイン怖い)が招いた中途半端なキリスト教への態度は、その後の江戸幕府にも引き継がれる。しかし、イエズス会を筆頭に布教はどんどん活発になり、熾火のような事件も起こり「やっぱりバテレンはいかん!」と慶長の禁教令(1612年)を発布。二代秀忠は狂気ともいうべき大弾圧を開始する。世にいう元和の大殉教だ。
中山正実《都の大殉教》バチカン美術館蔵
とりわけ1619年の京都大殉教では52人(うち子供11人)を鴨川河川敷の方広寺前(現在の正面橋あたり)で火炙りに処した。ヨハネ橋本太兵衛の妻テクラは三人の子供とともに荒縄で括られた。そして、迫りくる炎に母と子は「熱くない。もうすぐ天主様のもとにいける」と励まし合って絶命した。権力の暴走など、信じる者の前では何の意味も持ちえない。
聖コルベの遺徳
ポーランド人のマキシミリアノ・コルベ神父が長崎に着任したのは1930(昭和5)年4月。聖母の騎士修道院を開いた。貧困と病に苦しみながらコルベ神父は異邦の地での布教に勤しんだ。師は日本が好きだった。
しかし、会議のため帰国した1936年、母国の修道院長に選出され、二度と日本に帰ることはなかった。間もなく勃発した第二次大戦とナチスの蛮行によって神父はアウシュビッツ収容所に連行され、若い父親の身代わりになって進んで殉じた。47年の生涯だった。神父の遺徳には大浦の聖コルベ記念室で触れることができる。
旧長崎大司教館のベランダ。天井が美しい。
そもそも広島と長崎の建築と景勝地をめぐる旅の予定が、図らずして戦争の爪痕を追っていた。これもまた巡りあわせ。知らないことをひとつ、そしてまたひとつ知った気がする。このあと次なる目的地を目指して汗を拭いつつバスに乗って移動した。
「お腹減った」 なんか喰いたい!
(旅はつづく)
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