何をやるかとか、
どうやるかの前に
なぜ、何のために
ということが大切だと
思っています。
なぜ、何のためにという
Whyがなければ
何をするのがよいかも、
考えられませんし、
もし思いついたとしても
それが効果のあるものに
なるとは思えません。
そして、
WhyのないWhatは
運動や勉強や食習慣など
たとえそれが明らかに
やった方がよいという
ことであっても、
やろうと思ったまま
実行に移さずに終わったり、
たとえ始められたとしても
続かなかったりします。
何かを始めてみたのに
続かなくて挫折して
自分はダメだと思うことを
繰り返すくらいなら、
それをする動機が
明確でなければ、
むしろ始めない方がよいのでは、
とすら思います。
こういったWhyの大切さについては
何度も書いてきました。
そしていつも、
Whyを意識して
日常生活を送るようにも
しています。
ところが、
今週の AERAに掲載されていた
モデルの井手上漠さんの
インタビュー記事を読んで
Whyがないのはだめだけど
Whyがあればいいという
ものではない、
と考えさせられました。
井手上さんは、
LGBTQの「Q」にあたる、と
著書の中で述べられているそうです。
恥ずかしながら、
LGBTQの「Q」という言葉を
今回初めて知りました。
Questioningの「Q」で
自分自身の性や
好きになる対象の性が
定まっていないし、
分からない、
ということのようです。
井手上さんが
自身の性について
自覚したのは
小学校5年生の時に
体育の授業の着替えが
男女別になったことだそうです。
お伝えしておくと、
ここで考えたいのは
LGBTQのことではなくて
あくまでWhyについてです。
性差というのは、
それ自体がWhyとして
存在しているような
気がするものの
これまでの基準が
男女の2択であるために
必ずしもその2択には
当てはまらないという
認識の方たちにとっては
まったくそれはWhyには
なりえないものなのだ、
ということを
この記事を読んで
考えさせられました。
自分にとってのWhyは
それがどのような
Whyであれ、
共通のものとして
一般化されるものでは
ないのです。
書いてしまえば、
まったく当たり前のことで
自分の価値観が
必ずしも
正しいわけではないとか、
自分と相手は
違っているだけで
どちらかが間違っている
ということではない、
ということの
一つの例であって
なんら新しい視点や
考え方でもありません。
しかし、こういった
「価値観の違い」というと、
宗教や政治や民族や
ジェンダーやその他いろいろ、
社会問題と言われるような
ことに対して
発動される意識ではあるものの、
自分が持つ動機(Why)に
対しても、
同じように
この意識を持って
過ごせているかどうか、
疑問に思いました。
もしかしたら、
そういった意識を持てていなくて
知らないうちに自分のWhyを
押し付けてしまっていることで、
身近な人との間で
共感を得られなかった時や
意見が食い違った時に
いちいち腹を立てたり
がっかりしてしまうのかも
しれません。
「価値観の違いを認める」
「みんな違って、みんないい」
「ダイバーシティが重要だ」
と、口では言いますし
頭でも分かっています。
でも、それを本当に
実践できているのかどうか。
今回の記事を読んで、
今日も一日、小さなイラっとに
囲まれる中で
改めて考えさせられました。
一朝一夕に変わることは
難しいと思いますが、
社会問題としてではなく
自分事として
自分の行動に対する
Whyに対しても
この意識を
発動させていかれるように
したいと思います。
【今日のまとめ】
価値観の違いは
社会問題だけでなく
個人の行動の動機(Why)の
中でも起こるもの。
気付かないうちに
自分のWhyを他者に
押し付けていないか、
よくよく注意する。