お読みいただきありがとうございます。
人生の彩どり師・関みゆ紀です。
おわりははじまりー2「波上宮のねずみ」の続きとなります。
本日、6月21日の夏至を超えた6月22日。
22を超えてゆけ。
今、私は、テレ東の「ハーフタイムツアーズ」を観ながら、
ブログを書いております。
テーマは、「四国八十八ヶ所を巡る専門案内人同行お遍路ツアー」で、
弘法大師の拓いたルートを見せられています。
目の前にあることが「応え」なので、なるほど、そういうことね。
先を進めます。
私たちが降ろされた場所は「護国神社」の前。
タクシーの運転手さんにとっては、「護国神社」も「沖宮」も、
奥武山公園の同じ敷地内にあるので、
どちらでも同じでしょ?的な感覚だったのかも知れません。
この後の予定があり、急いでいたからタクシーで来たのに、
私の思っていた場所と違っていた、
私の思い通りにならなかった、ということですが、
来たヨ、北、キタ「待つ理」が来たよ。
間違いは間違いなんだけど、間違いでも無くて、
そこから繋がる糸(意図)があります。
「護国神社」の前で降ろされたということは、
わらしべ長者で生きるのなら、目の前のそれを受け取れということ。
ここへ辿り着いた意味と意図を汲み、観えるものを明らかにすること。
護国神社ですから、戦争で亡くなった人々を悼み祀る場です。
ホームページには、このように表記してありました。
日清日露戦争以降、先の大戦までの国難に
殉ぜられた沖縄県出身者の軍人、
軍属をはじめ、沖縄戦にて散華された
一般住民並びに本土出身の御英霊を祀る神社です。
終戦は、昭和20年で1945年。
今から78年前で、78は那覇。
そして、ここは「那覇(78)市奥武山町44」の護国神社。
「奥の武の44」って、凄い「暗号の暗合」を提示しますな。
「陸奥の武の44」ってことではないですか。
三と五の間に入る「アに達する太郎」のことだ。
アイは地球を掬ぶー28「三と五の間の安達太郎」
ここで、福島と繋がってしまいました。
「アに達する太郎」の為に沖縄の歴史(経緯)を学べということなんだな。
神紋が「菊」と「桜」ですから、菊理媛と木花咲耶姫が出てきました。
「むすび」と「ひらき」になります。
「きく(聞く・聴く・訊く・効く・利く)」ことで
「ひらく(開く・啓く・拓く・披く)」ということ。
これから、私は「きく」ことになるからその通りになるのですが。
木花咲耶姫と磐長姫の伝言-57「99のクラウド」
記録と記憶を残してきたから、
目の前にある応えこそが、タテの交信(更新)
でもあることを実感できてるんですね。
目で見てわかることを掴んでいくこと。
去年の3月21日の春分に、あやちゃんより伝えられた
普賢菩薩からの伝言を思い出した。
一石何鳥が動くー3「目で見てわかること」
ブログを書き続けて来たことが、自らの研磨研鑽になっていたということ。
このブログが誰かの何かの点(天)になってもならなくても、
意味は確実にあったんだなと、今、噛み締めております。
一先ず、自分の中で響いているこの感覚が何より嬉しいです。
結局、私は、報われたいんだよね。
この感覚を、共有、共感、共鳴したいという願望が、
私のウ目の中に、ウなり、ウまれている。
また、それが切望だったり熱望だったりすると、
他者を自分の思い通りに動かそうというエゴも観えるから厄介。
厄(89)を落として、役(89)に当たるよりありません。
この嬉しいな~っていうのはご褒美なのですが、
「おわりははじまり」の連続なので、
「知らぬが仏知ったら修行」の連続でもあります。
この行に、苦(9)が入ると、
「あま(天・女)」の間に「く」が入って
「あくま(空く間に悪魔)」になると、
重い沈んだエネルギーになる可能性もあるので、
咲くという笑いという祓いが大切なのだと思っています。
恐らくですが、女性は特に「悟る・覚る」という、
差を取っていく「差取る」に関して、
一石何鳥が動くー22「光の柱」
苦行に没頭みたいなことをしなくても大丈夫なような
機能(システム)が備わっている、のだと思います。
一石何鳥が動くー114「猿田彦のみちひらき」
蓋を外しちゃうと、回るように出来てるのよね。
「㐭」のなべぶたを外す(心に降りてくる言葉)より画像をお借りしております。
だから、女性向けの読み物などに、ワクワクする方向へ進め、
というような表現が多いのかも知れません。
「楽」があれば「笑=咲=ひらき」が多い方向性ということだから。
ひらいたら、むすばれる、その連続が人生。
「楽」ありゃ「苦」ありで、振り子でもあるのですが。
だから、見えないチームは「WIT」という
機知,ウイット,頓知,ユーモアに富んだ
禅問答(なぞなぞ)を仕掛けてくるのだろうなぁ。
人間だから感情を殺(56)す必要は無くて、
それを味わってそれがどこから来るものなのか、
噛み締め味わうという咀嚼して腑に落とすことが身(実)になるのでしょう。
蓋したほうが楽だし、観ないで済めば、イイ人でいられるし、
自分の正義はそのまま置いておくことができる。
でも、これをやることが振り子に乗ることでもあるんですよね。
一見面倒くさいし、臭いものの蓋を開けるのはちょっとした勇氣も要る。
木花咲耶姫と磐長姫の伝言-85「木花咲耶姫と磐長姫」
私が和多志(白も黒も含めた虹色のグラデーションを持つ)を観て、
醜い(見にくい)和多志を「うん」と認めることは、
苦痛も伴うので「知ったら修行」ですよ。
蓋をしたまま肯定するのと、蓋を外して肯定するのとでは、
ルートもひらく扉も違ってくる。
自分に対しての「うん(有無)」を認めることが、
外側の世界のグラデーション(多様性)に対しての
俯瞰に繋がっている氣がします。
もののべ=敵とするエネルギーが湧き上がった時が俯瞰のチャンス。
懸命に生きた先祖の御魂へ祈りを捧げ、
一路、沖宮(おきのぐう)へ。
おわりははじまりー4「天主大御神・うてんうやがなしい」へ続く
大変申し訳ございません。
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お応えお答えすることをお受けしておりません。
どうかご了承くださいますよう、
よろしくお願い申し上げます。