「仁多郡(にたのこおり)の条」
三澤郷(みざわのごう)
(原文)
「大神大穴持命御子 阿遅須伎高日子命 御須髪八握于生 昼夜哭坐之 辞不通 爾時 御祖命 御子乗船而 率巡八十嶋 宇良加志給鞆 猶不止哭之 大神夢願給 告御子之哭由 夢爾願坐 則夜夢見坐之御子辞通 則寤問給 爾時 御津 申 爾時 何處然云 問給 即御祖御前立去出坐而 石川度 坂上至留 申是處也 爾時 其津水汲出而 御身沐浴坐 故國造 神吉事奏参向朝廷時 其水汲出而 用初也 依此 今産婦彼村稲不食 若有食者 所生子已云也 故云三津 〔神亀三年 改字三澤〕即有正倉」
(おおかみオオナムチのみこ アジスキタカヒコ みひげやつはにはえるまで ひるよるなきまして みことかよわざり そのときみおや みこをふねにのせて やそじまをめぐりて うらかしたまえど なおなきやまず おおかみゆめにねがいたまいし みこのなくよしのりたまえ ゆめにねがいましき そのよみこのみことかようとゆめみまして すなわちさめてといたまう そのとき みつ ともうしたまう そのとき いずくをかしかう といたまえば すなわちみこみおやのまえにたちさりいでて いしかわをわたり さかがみにいたりとどまりて ここであるともうしき そのとき そのさわのみずをくみいだして みみそぎざす ゆえにくにのみやつこ かみよごとまおしにみかどにみむかうとき そのみずくみいだして もちいそむるなり これによりて いまもはらめるおみなかのむらのいねをくわず しかしくうものあれば うまむこやむというなり ゆえにみつという すなわちしょうそうあり)
(現代文)
「大神大穴持命(オオクニヌシ)の御子、阿遅須伎高日子命(アジスキタカヒコ)は、あごひげが長く生えるまで、昼も夜もただ泣いているばかりで言葉が話せなかった。そのとき、御祖命(みおや)は、御子を船に乗せて八十島(やそしま)を巡って、心を癒そうとしたが、それでも泣き止まなかった。大神が夢で願って「御子が泣くわけをお告げください」と夢に願ったところ、その夜の夢で、御子はもうすでに言葉を話せるようになったと告げられた。すなわち目覚めて御子に問うと、御子はそのとき「御津(みざわ)」と申された。そのとき、大神が「どこをそう言うのか」と問うと、御子は御祖の前から立ち去り、石川を渡り、坂の上に至って留まり、「ここです」と申された。そのとき、その澤の水を汲み出して、その身を清めた。だから、国造が神吉事の奏上のために朝廷に参内するときに、その澤の水を汲み出して初めに用いるのです。
これによって、(それだけ神聖な水なので)今も妊婦はその村の稲を食べない。もし食べると、生まれる子は流産してしまう。ゆえに、三津(みざわ)という。(神亀三年 字を三澤に改める)ここには正倉がある。」
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最後の「若有食者 所生子已云也」は「しかし食すれば、生まれながらに子は言葉を話す」と訳せますが、その前の文「今も妊婦はその村の稲を食べない」と文意が合わなくなります。
この伝説では、大神が夢に願って御子が泣くわけを訊いたのですが、大神が目覚めたとき、御子は言葉を話すことはできても、泣き止んだのかどうかはわかりません。また、御子が唐突に言葉を発した「御津(みざわ)」が御子の病とどんな関係があるのか、私の力及ばず、因果関係を読み取れませんでした。
アジスキタカヒコ…『古事記』ではアヂスキタカヒコネ。オオクニヌシとタキリヒメ(宗像三女神)との御子。
御須髭…あごひげ。
八握…拳八つぶんの長さ。
正倉…税として納めた米や穀物を保管していた倉のこと。出雲国には15の正倉があった。
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