ちゃちょの「東京を歩く!」に今週もようこそ!今回は、東大と天神さまと
文人ゆかりの街を歩き、知的好奇心満開に!
歩いた1月23日(火)は、最低4℃、最高12.3℃の西から寒波が来る直前でした。
24日(木)、能登地震に近かった金沢は、お昼12時でも0℃でした。僻地の復旧が遅れて
2次災害での死亡者が心配されます。今後は、生活再建支援が大切になります。
今回、巡った本郷は、文京区にあります。山手線内側の中心部です。
東京大学を筆頭に大学が多い文教地区と閑静な住宅街が多く、文人、学者、
政治家が多く住みました。出版、印刷、大規模病院も多いです。
文京区の公式キャラクターは、文京戦隊BUNレンジャーで、区を元気へと戦います。
文京区の街の名前です。本郷は、南側で千代田区と接しています。2022年10月7日の
「お茶の水を歩く!」で、小石川後楽園や日本サッカー協会を訪ねました。2022年5月15日
「小石川を歩く!」で白山から、六義園の本駒込へ歩きました。2022年8月19日でも、
「新大久保~護国寺を歩く!」で、新宿区から、肥後細川庭園・椿山荘のある関口から
講談社のある音羽、護国寺のある大塚まで歩きました!2022年3月12日には、根津神社を
「谷中・根津・千駄木を歩く!」でも巡りました。ちゃちょは、小石川生まれです。
太赤字は、タッチすると、リンクしてるページへ飛べます。
文京区は、武蔵野台地が途切れて崖になっている、「坂道の区」とも言われています。
名前の付いている坂だけでも、現在113あります。
文京区内には、東京メトロ有楽町線・丸の内線・南北線・千代田線と都営地下鉄
大江戸線・三田線の13駅あり、面積11.29㎢、人口245,611人(2023年12月1日)です。
赤い東京大学本郷キャンパス周辺には、小石川後楽園、台東区の上野公園・谷中墓地、
根津神社、JRでは、中央線と山手線に囲まれています。
今回、回るコースは、今まで巡らなかった、まん中にある湯島・本郷・春日周辺です。
中心に東京大学の本郷キャンパスがあります。
4時間半、1001kcal、18.8km、29,375歩でした!大分、道を間違えました。
地元・練馬区の西武池袋線・石神井公園駅を、9:27の急行ノンストップで池袋
9:39着です。東京メトロ丸の内線に乗り換え、池袋9:43発。
本郷三丁目駅9:53着です。乗車時間は22分でした。
ここは、1954年にできた駅で、春日通りと本郷通りが交わる、内側にあります。
2000年にできた都営地下鉄大江戸線の本郷三丁目駅は春日通り沿いです。
帰りに戻りますが、まずは、春日通りを東へ行きます。
本郷3-42-8に、江戸寛永年間(1624~1644)に創業した和菓子屋・壺屋総本店を
訪ねます。明治維新の折、江戸の大店が次々と暖簾を下ろす中、大贔屓だった
勝海舟から、市民のために続けるように諭されました。
砂糖壷をかたどった壷型最中は、こしあん(白)250円、つぶあん(黄)270円です。
5cmくらい。香ばしい皮と小豆の風味が豊かな餡が絶妙に調和しています。
老夫婦が売っていました。この先でもそういう所があります。
春日通りの向かって左(北)側に渡ると、春日局(かすがのつぼね)の銅像が道沿いに
見えます。1989年、NHK大河ドラマ「春日局」放送記念に文京区が建立。奥に山門。
湯島4-1-8にある、1624年開山の春日局の菩提寺、天澤山・麟祥院(りんしょういん)です。
3代徳川家光の乳母であった斎藤福は、兵庫丹波の浪人の妻でした。家光が将軍職に就くよう
献身的に働き、実現後も、大奥を仕切り、7人以上を奥入りさせて、大奥の原型を作りました。
天皇から春日の姓を賜り、従二位、65才没。家光が命じて建立。寺は6:00~17:00。
家光が疱瘡に伏せたときも、日光東照宮に額づき「家光殿の病が治るならば
自分は一生どんな病気になっても薬は飲まない」と誓いを立て、家光は平癒しました。
右手前に山門があり、左奥に春日局の墓があります。四方への円筒形の穴は、
死んでもあの世から天下の政道を見守るという遺言に基づき開けられた、無縫塔
という卵型の墓です。
春日通りから、南へ小道を入ると、天満宮の石柱と、石の大鳥居があります。
湯島3-30-1の湯島天満宮(湯島天神)です。日本の2大天満宮は、福岡大宰府と
京都北野です。江戸3大展天神の筆頭が湯島です。
458年天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を奉斎し創建、1355年、学問の神様、
菅原道真公を合祀しました。6:00~20:00。社務所9:00~(祈祷~16:30)
本殿です。1995年に総ヒノキ造りで改築されました。境内には、銅製の鳥居
(都指定文化財)や,奇縁氷人石(区指定文化財)も、あります。
徳川家康の朱印地寄進や徳川綱吉の金500両寄進など徳川家の崇敬も篤かったのです。
授与所には、受験生の長い列ができています。
合格祈願は、5千円、1万円、2万円とあります。これは1万円の、祈願代と、
木札27cm、学業守(白)800円、学業成就鉛筆700円、学業成就鉢巻を含みます。
5m幅の絵馬吊るし5箇所とも、びっしり「合格祈願」が吊るされています。
大学名より、圧倒的に高校名の方が多かったです。ちゃちょは、現役時代は
すべて自分の実力次第だと思って来なかったけどね。
東京メトロ南北線の湯島駅、JR山手線の御徒町駅、上野、アメ横が近いです。
ここから、不忍池から1本西へ小道を北上します。これから歩く東大周りは
木造の家がびっしり建っていて、道も狭く、段々坂もあって、消防車が
入れないようなところも多くあります。
台東区池之端1-3-45に、1896年に建てられた国指定重要文化財の旧岩崎邸庭園
があります。三菱創業の岩崎弥太郎が買い取り、明治の名建築科ジョサイア・コンドル
に建てさせた第3代岩崎久彌の旧本邸です。9:00~16:30。無休。400円。
約15,000坪が、戦後、GHQに取られ、その後、和館部分を湯島地方合同庁舎に取られて、
1/3の約5,000坪になりました。今は、都立公園です。世界の住宅史でも稀有な和洋
バランスの取れた、財閥だから建てられたものです。東側は、上の不忍池、北側は東京大学です。
東京都立の庭園一覧です。浜離宮恩賜庭園と芝離宮恩賜公園は、2022年
5月20日の「東京タワーを歩く!」で巡りました。小石川後楽園は、2022年
10月7日の「お茶の水を歩く!」で最初に立ち寄りました。六義園は、
2022年5月15日の「小石川を歩く!」で最後に立ち寄りました。向島百花園は、
2022年11月4日の「スカイツリーを歩く!」で巡りました。清澄公園は、2022年
10月14日の「深川を歩く!」で訪れました。
廊下をはさんだ2重の内窓になっています。
ジョサイア・コンドル(1852-1920)は、いわゆるお雇い外国人の一人で、明治以降の
日本建築界の基礎を築き、日本人と結婚し、辰野金吾などを育てました。
上野博物館、鹿鳴館、有栖川宮邸、東大法学部、ニコライ堂、三菱1号館、三井家俱楽部
など有名なものばかり数十あり、リンクされたウィキペディアに一覧があります。
洋館と撞球室(ビリヤード室)は、15m離れた別館(極めて稀)になっています。
しかもその15mを、地下道で結んでいます。全面白タイルで覆い、
天井からは日光も取り入れています。図書室にもなりました。
凝った撞球室です。校倉造りで、刻みの入った柱があり、軒を深く差しだした大屋根、
スイスの山小屋風です。普通は建物内部にあります。当時、玉突きは紳士の嗜みでした。
石垣とレンガの壁の旧岩崎邸を出た北側の湯島4丁目は、無縁坂です。
さだまさしが、日本テレビのドラマ「ひまわりの詩」(1975)の中で
年老いた母に対する息子の想いを歌いました。
「母がまだ若い頃 僕の手を引いて この坂を登る度 いつもため息を
ついた ため息つけば それで済む 後だけは見ちゃだめ」
無縁坂というのは、坂の途中にある講安寺が、元無縁寺と言ったからです。
1708年に開山の土蔵造りで防火仕様だったため、焼け残った第一級文化財です。
森鴎外の「雁(がん)」(1915)の主人公、東大医大生・岡田の毎朝散歩していた
コースにもなっています。無縁坂に住むお玉は、会釈する岡田に親しみを感じ、
告白しようとします。下宿の賄いに大嫌いな「サバの味噌煮」が出たため、
岡田は一人ではなく友達と散歩に出て、さらにもう一人が不忍池の「雁」を石で
撃ち落とし、雁を持って無限坂を通ったために、お玉は岡田が一人ではなくて
言いそびれ、岡田は洋行が決まっていて、翌日には下宿を出発してしまいました。
お玉と岡田は縁がなかった=無縁坂でした。
5分ほど北上した台東区池之端1-4-24に、横山大観記念館があります。
旧宅及び庭園で、2階の画室からは、大観が見ていたのと同じ四季の折々の
草木と、不忍池を見られます。国指定史跡及び名勝。月~水休。10:00-16:00。800円。
京風数寄屋造りです。1908年40才から没した1958年90才まで住みました。
横山大観(1868-1958)。90才没。客間、居間、アトリエに作品が並んでいます。
1953年木版画作、「霊峰富士」
1952年作、「夜桜」。
北西方向へ道が少し東大外壁に沿って折れ曲がり、暗闇坂になります。
昔は、うっそうと木が生えていて、薄暗かったことから名前が付きました。
ここは、青山霊園へ渡る車道のように、ものすごい仮眠車の列です。
すると弥生2-4-2に、竹下夢二美術館・弥生美術館があります。
10:00-16:30。月休。2館共通1000円。渡り廊下でつながっています。
竹下夢二(1884-1934)は、大正ロマンあふれる美人画が得意でした。
1933年作、「水竹居」
高畠華宵(1888-1966)。昭和初期の抒情的な色気がある挿絵が得意でした。
今に通じるジェンダーレスなまなざしがあります。
本郷弥生交差点で、本郷通りを、南へ折れます。東大正門へ南下します。
このまま行けば、本郷三丁目駅です。北の農学部のある弥生町で見つかった
弥生式土器は、「弥生」時代の名前になりました。右側、東大本部。
今は、反対側にびっしりあった古本屋さんはありません。
正門のイチョウ並木です。今は全部、葉が落ちています。本郷7-3-1。
まっすぐ行くと、1925年建築の安田講堂(大講堂)です。39.7mあります。篤志家の
寄付で天皇の行幸に間に合わせました。篤志家が安田財閥だとバレたのでした。
1968年、東大紛争で全共闘が占拠し、機動隊が入った処です。国の有形文化財。
正門の本郷通りのほぼ反対側、本郷6-1-14に、1952年オープンの喫茶ルオー。
最初は赤門脇に120席ありました。1979年、正門前に、移転しました。
ここのイチオシは、セイロン風カレー1000円。小麦粉から丹念にルーを
作っています。大きく切ったチキンやジャガイモが入っています。
デミ・コーヒー付き。
東大赤門は、加賀前田家上屋敷でした。11代徳川家斉の娘・溶姫(やすひめ)が
正妻として嫁いだ1872年に建設した御守殿門です。ここで、記念撮影する高校生
たちが多くいました。1923年の関東大震災にも耐えましたが、耐震性から2021年
2月から閉鎖しています。国指定の重要文化財です。
江戸時代の赤門前の加賀前田家上屋敷です。御守殿と御守殿門です。
ここに1876年、東京医学校(医学部の前身)が移転、翌1877年、法・理・文の
神田にあった東京開成学校と医学校が合併して、東京大学が発足しました。
前田家は、代わりに現・駒場公園に移転しました。(下北沢を歩く!)
赤門は、耐震性不足で閉まっていましたので、さらに南の通用門から入りました。
東京大学本郷地区キャンパスの全体図です。北は左側です。
赤い印の三四郎池(育徳園心字池)を目指します。守衛はいますが、構内は誰でも立入自由です。
江戸時代は本郷台地・育徳園の湧水でしたが、今は激しい勢いで井戸水を循環させています。
どこも、険しい山登りのような、大きすぎる石が飛び飛びに崖に埋め込まれているだけです。
下に降りると、まるで東大付属・小石川植物園のような静かな場所です。
ここが、夏目漱石の小説「三四郎」の舞台になりました。三四郎は九州から
上京する列車で相部屋にされた女性に気を使い過ぎ、別れ際に「あなたは
よっぽど度胸のない方ですね」と詰められる始末でした。女性に対して全く免疫の
ない初心な青年でした。西洋化された東京にも憧れを持つ一方、故郷や家族の伝統
も失いたくないと思います。恋人の鈴子に対しても、価値感のズレを感じて葛藤します。
東大本部内は、早稲田の全学部が、最新鋭の高層ビル化したのに対して、まだ
レンガ作りの建物を多く保有していました。
東大本部キャンパスを出て、赤門の目の前の1950年創業の和菓子屋、扇屋を
のぞきます。本郷5-26-5。9:00-18:00(祝-17:00)。日休。現役の子供世代も
いるのでしょうが、応対したのは、かなりの老夫婦でした。
ゆず餅2個ビニール袋入りで、280円。ヘタにゆずの砂糖煮がついてます。3cm。
赤門もち230円。沖縄黒糖を原料としたわらび餅です。4つに切れ目入り。5cm角。
1627年開山の浄土宗法真寺は、真ん中が潜り抜けられるような本堂?になっています。
すぐ左に腰ころも観音像です。
その脇に樋口一葉の像もあります。腰ころも観音は、一葉の「ゆく雲」に詳しいです。
一葉は、幼い頃、この寺の隣の「桜木の宿」と今は呼ばれる所に住んでいました。
また「たけくらべ」で主人公が恋心をいだく青年・真如のモデルが寺の若僧でした。
その奥が、法真寺の山門のように思えます。裏に墓があります。
数分北上し、西へ(東大を背にして)細めの道を曲がって進むと、本郷5-10-5に
1905年創業の鳳明館があります。国指定有形文化財です。漱石、鴎外ら文豪が
愛した純日本旅館、本物のレトロ感、改修中で日中利用のみ和室1名8時間5500円。
道を突き抜けて菊坂に出ると、1877年創業のゑちごやがあります。本郷4-28-9。
11:00-17:00。不定休、21席。和菓子、甘味処、和式中華、食堂。
朝4時に起きてつく、いそべ巻き2つで400円。
「菊坂」は、菊花を作る者が多く住んでいたため、付いた坂の名前です。
また、文人たちが、貧しい生活の中、数多く住んだ坂でもあります。
本郷通りから西片1丁目までの長くゆるやかな坂。坂周りは菊坂町でした。
菊坂、旧伊勢屋質店。本郷5-29-4。樋口一葉は、上に書いた1876年に赤門前の法真寺隣に、
千代田区から引っ越してきましたが、1890年、より家賃の安い菊坂に引っ越してきて、
針仕事や洗い張りなどをしながら、母と妹との一家の暮らしを支えました。生活は苦しく、
近所のこの質店をたびたび訪れています。この質店跡は、跡見学園女子大学が所有しています。
菊坂の途中、本郷4-11-6に、金田一京介・春彦旧居跡があります。
金田一京介(1882-1971)。言語学者、民族学者。アイヌ叙情詩紹介で1954年、文化勲章。
出身の盛岡で2級下の石川啄木の上京時、かわいがり、よく援助もしていました。
1960年初版発行の三省堂国語辞典の編集代表でもあります(2022年第8版)。
一葉が使っていた雨抜井戸がまだ残っています。辺りが樋口一葉住居跡です。
ときどき歩いてくる地元の方に聞きながら、やっと見つけました。
静かな民家なので、看板を付ける訳にも、行きません。
寝覚めせし よはの枕に音立てて なみだもよほす初時雨かな 樋口夏子(一葉)
1893年7月から1894年5月まで下谷龍泉寺町に住んでいました、
間口2軒奥行5間半の小さな家です。隣は人力車夫が澄んでいました。
樋口一葉(本名、夏子1872-1896)。24歳の短い人生の中で、幾度となく引っ越しをし
ています。本郷で過ごしたのは、4歳から9歳までの6年間と、18歳から21歳までの4年間、
さらに22歳から24歳で亡くなるまでです。
つまり1876年(4歳)に東大赤門前の法真寺隣に越してきて、1890年(18歳)に菊坂に越して
きました。裕福な家でしたが父と兄が相次いで亡くなり、母と妹を養わなければなら
なかったのが大きい負担です。一葉の名は、人生を漂う葦舟の葦の葉から付けました。
1894年、下谷龍泉寺の二軒長屋へ転居し、荒物・駄菓子屋を開業しました。1896年
辛1896年へかけて「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」など代表作を相次いで
発表し、奇跡の14か月と言われています。しかし11月に肺結核で亡くなりました。
2023年5月5日の「吉原を歩く!」でも台東区竜泉3-18-4の一葉記念館を紹介して
います。女性作家の単独文学館としては日本初です。
さて、樋口一葉の菊坂旧居跡を見てから、今度は、南の春日通りの真砂坂下交差点へ
出る、急な炭団坂に道を取ります。炭団などを商売にする者が多かった、急でじめじめして
いて、雨上がりなどは炭団のように転び落ちて泥だらけになってしまったでしょう。
坂の右(西)上には、今はマンションがあるだけです。
しかし、ここは、坪内逍遥旧居跡・常盤会跡です。坪内逍遥(1859-1935)は、
小説家・評論家・教育家です。1884年この旧真砂町18番地に住み、「小説神髄」
(1886年)で勧善懲悪ではなく写実主義を提唱、文学は芸術であると主張しました。
「当世学生気質」は、写実主義を具体化したものでした。1887年旧伊予藩主の育英
として「常盤会」という寄宿舎になり、俳人正岡子規は、1888年から3年余りも寄宿
しました。また、早稲田大学校歌の最後のリフレイン「早稲田早稲田早稲田」を付け
足したことでも、有名です。
ガラス戸の外面に夜の森見えて清けき月に 鳴くほととぎす 正岡子規
(常磐会宿舎から菊坂をのぞむ)
坪内逍遥旧居跡から見下ろした炭団坂です。
19年かけたシェークスピア全集完成記念に、1928年、早大内に演劇博物館が
建設され、内部にイギリス流の劇場があり、演劇の資料が揃っています。
アジアで唯一、演劇を専門的に扱う博物館として知られています。
さらに文京区炭団坂を南下すると、本郷4-9-29に、文京ふるさと歴史館
が、あります。1991年オープン。10:00-17:00。月・第4火休。100円。
文京区は、弥生土器命名の地であり、江戸時代には武家や寺社、町家などが発展し
明治時代には東京大学が開校して文教の町になります。こうした町の歴史を
資料やコンピューターシステムでわかりやすく学べます。
本郷弥生土器を複製展示しています。
江戸時代の駒込のやっちゃば(市場)の武家・町人の活気を表現しています。
武蔵野台地の東端に当たり、谷に刻まれ多くの垢道があります。名付坂だけでも113あります。
団子坂(千駄木1丁目の森鴎外記念館からメトロ千駄木駅まで。江戸川乱歩の
明智小五郎探偵初登場作品「D坂の殺人事件」の舞台)や、42023年11月には、
湯島天満宮で、「どうする家康 菊人形祭り」が行われています。夏目漱石の
「三四郎」や森鴎外の作品にも、菊人形のことが出てきます。
真砂坂下から春日通りを越えて、さらに南下するビルの谷間、本郷1-28-32に
大クスノキがそびえたっています。「本郷弓町のクス」とも呼ばれています。
樹齢推定600年、地上1.5mの幹回りは8.5mあります。司馬遼太郎の「街道をゆく」
~本郷界隈~にも、出ています。町名変更前は、弓町でした。
春日通りを西へ行きます。下をメトロ丸の内線と都営地下鉄大江戸線が通っています。
春日大通りをそれて、南西へ旧東富坂を下ると、丸の内線が地面へ出てきます。
春日通りと白山通りの春日町交差点を渡ると、春日町1-16-21に、1999年オープンした
シビックセンターがあります。23区で一番高い区役所で、28階142mあります。ホール、
高速シースルエレベーター10基があります。
ここで、これから回る、宮沢賢治旧居と石川啄木旧居を1階の観光インフォメーションで
確認しておきたかったからです。
25階展望ラウンジは105mです。9:00-21:00まで毎日無料でオープンです。
東京スカイツリーが見えます。
今日、歩いた東京大学の安田講堂が茶色く見えます。
もちろん、寒波で強い風が吹いていますから、富士山も新宿ビル群の
隙間から見えます。但し南側の東京タワー方面は、同じ階のレストラン
に入らないと見えません。
気を取り直して、春日通りを本郷三丁目の方へ戻ると、本郷1-35-26に、
本店が春日局の故郷・兵庫丹波にある、丹波風土東京春日店があります。
10:00-19:00。無休。
お福の里200円が春日局にちなんだベストな選択です。
文教ふるさと歴史館の前を戻ります。炭団坂と菊坂のぶつかるところ、
宮沢賢治旧宅は、菊坂に戻った本郷4-6-13にありました。道脇に銘板もありました。
宮沢賢治(1896-1933)は、詩人・童話作家。岩手県花巻市生まれ。1921年上京、
本郷菊坂町75の2階に間借りしていました。菜食主義者でした。赤門前の文信社
で、謄写版刷りの筆耕夜行性で自活し、昼休みには日蓮宗の布教活動をしました。
夜に童話・詩歌の捜索に専念し、1日300枚の割合で原稿を書きました。童話集
「注文の多い料理店」に収められた「かさしわばやしの夜」や「どんぎりと山猫」
などの主な作品はここで書かれました。8月妹トシの肺炎悪化で急ぎ帰郷するとき
トランクの中いっぱいに原稿が入っていました。
菊坂を春日通りに出る前に東へ100m折れた路地に、本郡5-3-15に
金魚坂があります。11:30-^21:30。月火休。
江戸時代から約350年続いたという金魚の卸問屋と釣堀の本業の方は、
水槽の水が全部、抜かれ、「長い間大変お世話になりました」と張ってあります。
ただ喫茶店の方やっていては、金魚模様をあしらったカップのブレンドコーヒーが
800円です。
本郷通りと春日通りの十字路の角、本郷2-40-11に、かねやす用品店がありましたが
実際は、シャッターが閉まっており、かねやすビルはテナント募集中と張られて
いました。「本郷もかなやすまでは江戸の内」という川柳の銘板は、角に残っています。
そもそも1730年の大火で、町奉行・大岡越前は、ここから南側を耐火土蔵造りを命じた
のにちなんで、そう呼びはやされたのですが、実際の江戸の守備範囲は、もっと大きく
線が引かれました。
享保年間(1716-36)に乳香散という歯磨き粉を売って繁盛していました。
300年近く当時の面影を伝えるのは、貸しビルになっても本郷ではここだけ
で、非常に貴重なものです。店の賑わいは「三四郎」にも描かれています。
かねやすから、春日通りを西(地図の下)へ戻ると、啄木喜之床跡と記されています。
本郷2-28-9は、奇しくも同じ床屋のアライ理髪店になっていました。
石川啄木(1886-1912)は、岩手県出身の歌人・詩人。代用教員や銀座の朝日新聞の
校正係になって出版した「一握りの砂」は3行分かち書きで新しい歌風として名声を
得ました(銀座を歩く!)。しかし結核により26歳で小石川5-11-8で亡くなります
(小石川を歩く!)。これで目的のめぼしいコース上の文人旧居は探し当てました。
帰りの東京メトロ丸ノ内線の本郷三丁目駅15:26発です。15:35池袋着。
西武池袋線池袋15:39発準急の最尾列に乗り込めました。
練馬を過ぎた辺りで、ほんのちょっとだけ秩父連峰が高架線上から
見えました。空は白い雲の下から、これから進む西の方からもくもくと
黒い煙のような雲が上がってきていて、本格的な寒波が寄ってきています。
15:51石神井公園着。自宅着16:01着。
雨戸、着替え、うがい、シャワー、洗濯。文鳥の新太郎君は、
「日没ぎりぎりじゃないかよ」と、でも、ほっとした様子です。
30gもないのに、一生懸命、帰りを待ってくれていると思うと
うれしいです。
あわてて、外の庭に出たら、今、庭に咲いているのは、この黄水仙
だけでした。寒波に野ばらも全部、花びらが落ちました。
もちろん、テラスのプランターに植えた、パンジー、葉ボタン、
ガーデンシクラメン、ノースポールは元気です。
ここまで読んで下さり、ありがとうございます。お疲れさまでした。
温かくして、ゆっくりお休みください。
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次は、2月2日(金)に、新宿区の牛込を歩きます。
それまで、皆、元気でね。じゃ、またね。