前回の続きです。

 (前回) 今を生きる … メメント・モリ(死を想え)よりも、カルペ・ディエム(今日の花を摘め)

 

これからはカルペ・ディエム(今日の花を摘め/今を生きる)で行こうと決めたとたん、

うちの家には、けっこう花柄の物があるということに気がつきました。

 

ベッドのマットレス、床のラグ、アートポスター、ポストカード、ランチョンマット……

 

私はそれらの物を毎日見てるんだけど、それらの花柄を花柄とは認識しておらず。
自分がいかにぼんやり生きているかがよくわかりました……(^_^;)

 

【今回のもくじ】

 

・ 花のメッセージ

・ 見ても見えず、聞いても聞こえず……

・ 神に心を開く

 

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■ 花のメッセージ

 

私は毎日このラグの上で生活しています。

というか、このラグが花柄だったことに、いまさら気がつきました。

 

 

この花柄ラグは、私の脳内ではただの背景というか、

ただ単に視界に入っているだけの状態で。

意識的にそれらを「見る」ということはぜんぜんしてなかった。

 

人間の認知カニズムは不思議で面白いですね。

自分に興味あるものは誇張されて見える、聞こえる、感じる、記憶に残る……

心に興味があるものだけを認知して、それ以外のものは全自動スルーしてしまう。

 (参考) 見えているのに、見えていない。… 人を錯覚から解放して、真実に導く神

 

テーブルの陰になってる部分に、何か英語が書いてあります。

よっこらしょっとテーブルをどけて、花柄ラグのメッセージを確認してみました。

 

 

 無垢に咲いている小さな花々は

 すてきなメッセージを

 わたしに届けようとしてくれている

 

ああ、やっぱりそういうことですか。

やっぱりカルペ・ディエム(今日の花を摘め)で正解なんですね、よかった。

 

しかも花々は、メッセージを trying to convey … 伝える努力をし続けているとのこと。

ここでいう「花」を、実際の花に限定する必要はないでしょう。

花のように小さくて見過ごしてしまうようなものを通して、

神様はいつも語りかけてくれているという意味で理解しました。

 

 

部屋に飾っているカードを、あらためて手に取ってみました。

昨年の誕生日に、友人が贈ってくれたカードです。

 

このカードも花柄だなあ~

中を開けてみると……

 

 

ああ。

お花がいっぱい咲いているね。

 

私は、友人がカードに書いてくれたメッセージの内容はしっかり覚えています。

だから、ふだんはカードを閉じた状態で、部屋に飾ってました。

カードの中身デザインのことはまったく頭になかった……忘れてた。ゴメン。

 

私は友人が贈ってくれた文字メッセージしか見てなかったんだな。

もちろん文字メッセージも大切だけれど、

友人がこのデザインのカードを選んでくれたことにも、もっと心を向けるべきだった。

 

このカードを閉じてはダメだったんだ。

表紙の「たくさんの幸せが……」ってところで止まってました。

友人は、「あなたのまわりに咲きますように」って伝えてくれてたのに。

 

友人に心の中でお礼を言って、あらためてカードを飾りなおしました。

カードの表紙を飾るんじゃなくて、中を開いた状態で飾る。

今度彼女に会ったときに、このことを話そうと思います。

 

私はなぜか幼少の頃から文字を読むことにすごく興味がある人で、

だからルーン文字占いとは相性が良かったと思うのですが、

これからは文字情報を読むだけでなくて、文字の周辺情報にも心を配ろうと思いました。

 

先週にカルペ・ディエム(今日の花を摘め)に心を向けようと意識しただけで、

すぐに視界が変わって、あらたな発見があったことに驚いています。

メメント・モリ(死を想え)が悪い考え方というわけではないですが、

私には合ってなかったんですね、ほんとに。

 

ひきつづき、カルペ・ディエムつまり命あるものに心を向けて、

あらゆる命の源である神に従っていきたいと思います。

 

■ 見ても見えず、聞いても聞こえず……

 

聖書でも、人間の認知機能のいいかげんさについて、様々な表現で語られています。

 

人間のエゴが、事実を歪めて解釈してしまう、神の言葉を都合よく曲解してしまう。

そして神の声が聞こえなくなってしまう……

 

だから聖書は、まず第一に神に心を向けよとしつこく伝えているのでしょう。

 

 聞け、イスラエルよ。

 我らの神、主は唯一の主である。
 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

 

 ――旧約聖書 『申命記』 6章4、5節

 

まず神が第一、隣人愛はその次です。

神を第一としないと、自分のエゴに支配されるか、

他者にふりまわされるだけの生き方になってしまいます。

 (参考) 【ダニエル3章】 好きなものは好きと言え … 常識という神像は拝みません

 

新約聖書のイエスは、神の言葉を「たとえ話」に託して伝えることが多いです。

神の言葉を「種」にたとえた話では、

人の心に蒔かれた神の言葉が、すべて成長して実をつけるわけではないと言います。

残念ながら芽を出さない種もあれば、途中で枯れる種もある……

 

せっかく神の種を蒔いてもらっても、花実をつけられなかった畑というのは、

心のベクトルが神以外のところに向いている人のことでしょう。

神以外のもの(他者、富、心配事など)に心が向いているから、神の種が育たない。

ひどい場合は枯れてしまう。

 (参考) 神の言葉の種 … 悪魔のウンコとダークホースが、神の言葉を拡散する。

 

『マタイによる福音書』の13章で、イエスの弟子たちは、

神の種のたとえ話の合間に、こんな質問をしています。

「どうして群衆に語るときは、たとえ話を用いてお話になるのですか」と。

 

イエスは旧約聖書『イザヤ書』の6章を引用して、こう答えています。

 

 あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、

 あの人たちには許されていないからである。  (11)

 持っている人は更に与えられて豊かになるが、

 持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。  (12)
 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。

 見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。  (13)
 

 イザヤの預言は、彼らによって実現した。

  『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、

  見るには見るが、決して認めない。  (14)
  
この民の心は鈍り、

  耳は遠くなり、

  目は閉じてしまった。

  こうして、彼らは目で見ることなく、

  耳で聞くことなく、

  心で理解せず、悔い改めない。

  わたしは彼らをいやさない。』  (15)

 

 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。

 あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。  (16)
 はっきり言っておく。

 多くの預言者や正しい人たちは、

 あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、

 あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。  (17)

 

 ――新約聖書『マタイによる福音書』 13章11-17節

 

イエスは物理的な視力や聴覚の話をしているのではありません。

心の視力・聴覚……神に対して心を開いているかどうかという話です。

 

神に対して心を開いている人 = 神を愛する人は、神の意図を理解できるが、

そうでない人は、何を見聞きしても体験しても、そこに込められた神の意図に気づかない。

 

持っている人は更に与えられて豊かになるが、

 持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 (12)」

 

物理的な富や何かの話ではないです。

神の御心を行いたいという心(信仰)を持っているか否かという意味だと思います。

 

山上の説教で「求めよ、さらば与えられん」と言われているとおり、

本気で神の御心を知りたいと願っている人には、それを知る機会が与えられる。

神に対して開かれた心に聖霊が宿ってくれるから、

神の御心に気づくことができるようになる。

 

神に対して開かれた心は、聖書ではしばしば「打ち砕かれた心」と表現されます。

自力ではどうにもならない不幸、挫折、後悔などで心が粉々に砕けた人は、

本気で神に頼るしかない = 神に対して心が開かれている状態だからです。

 

しかし神を都合よく利用したいだけの現世利益祈願者は、

心がエゴに占領されていて、神に対して心を閉ざしたままなので、

そのわずかばかりの信心すらも枯れてゆく。

そしてますます神の御心がわからなくなる、神の声が聞こえなくなる。

 (参考) 「求めよ、さらば与えられん」が実現しない6つの理由/他にも理由はあるだろうけど。

 

 ……こうして、彼らは目で見ることなく、

 耳で聞くことなく、

 心で理解せず、悔い改めない。

 わたしは彼らをいやさない。』  (15)

 

神の言葉は、頭で理解するのではなく、心で理解するものなんですね。

イエスを十字架刑にした宗教エリートは、神の言葉を頭でしか理解しなかった人たちでした。

神の言葉を頭で理解しようとすればするほど、過激な原理主義におちいります。

 (参考) キリスト教原理主義(聖書鵜呑み派)と、エルサレムの騒動について。

 

イエスが選んだ12人の弟子の中に、宗教エリートはいませんでした。

宗教エリートでない弟子たちは、高度な宗教教育を受けられなかったおかげで、

原理主義におちいることなく、

純粋にイエスの話を神の言葉として聞くことができたのだろうと思います。

少なくとも、頭の理解だけで終わらせようとはせず、

心で神を理解したいと願っていた人たちでしょう。

 

だからイエスは、弟子たちにこう語っています。

 

 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。

 あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。  (16)

 

心の目、心の耳のことですよ。

宗教教育をどれだけ受けたとかは無関係。

霊能力も無関係。

 (参考) いちばん重要な神業(カミワザ)はどれ? … 神意を正しく理解して受けいれること

 

2000年前に、目の前でイエスの奇跡を見ても信じない人がいた一方で、

一度もイエスを見たことがない後世の人が、

イエスを救い主メシア(キリスト)と信じて魂に平安を得ることができている。

ふつうに考えればおかしな話です。

 

自分の目で見たら信じる。

自分の目で見てないから信じない。

それがふつうの反応です。

 

しかし神と人との関係については、人間世界のふつうが通用しない。

結局、神に心を開いているかどうかだけの違いなんだと思います。

 

■ 神に心を開く

 

イエスと行動を共にしていた12人の弟子たちは、最終的に、

全員がイエスを裏切って散ってしまいます。

イスカリオテのユダはイエスを売り渡してしまうし、

残りの11人の弟子も、イエスを置いて逃げてしまった。

 

それでも11人の弟子は、イエスを十字架刑にしたユダヤ人たちを恐れていたけれど、

神に対して心を閉ざしたわけではなかったから、

墓から復活したイエスは彼らの心の真ん中にすっと入ってくることができた。

 

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、

 弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。

 そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、

 「あなたがたに平和があるように」と言われた。
 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。

 弟子たちは、主を見て喜んだ。

 

 ――新約聖書 『ヨハネによる福音書』 20章19、20節

 

「家」というのは、自分の心のシンボルですね。

弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、心に鍵をかけて閉ざしていた。

にもかかわらず、復活したイエスはあっさり心の真ん中に入ってくる。

弟子たちがそう望んでいたから。

 

もし神に対して心をロックしている場合は、神は強引に心に入りこむことはしないです。

心のドアをノックして、外から呼びかけるだけ。

人間の自由意思によって、人間が心のドアを開けるのをいつまでも待っています。

 

 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。

 だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、

 わたしは中に入ってその者と共に食事をし、

 彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。

 

 ――新約聖書 『ヨハネの黙示録』 3章20節

 

本人が神に心を開きたいと願っているのに、それを妨げる事情がある場合は、

神がそれらを蹴散らして強行突入してくることもありますが、

そもそも当人が神を拒否している場合は、神を拒否する気持ちを尊重してくれます。

 (参考) 「私はロボットではありません」… 神は人間に個性と自由意志を与えた。

 (参考) 救い主を「待つ」というアドベンチャー … アドベント(キリスト待降節)の試練を抜ける。

 

今の私には神様を拒否したい理由がまったくないので、

ひきつづき神様に心を開いて、神様が心の真ん中にいてくれている状態で、

心に理解すべきことを理解できるようになりたいです。

 

 

 

 

 

 

※ 記事中の聖句引用元/日本聖書協会『新共同訳聖書』または『口語訳聖書』
 
※ イエスキリストの純粋な福音を知りたい人には、
 『キリスト教放送局 FEBC』をお勧めします。
 
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