【今回のもくじ】

 

・ 「行く」は簡単、「待つ」は難しい……
・ 「待つ」という冒険(アドベンチャー)
・ 神と人が出会うという冒険(アドベンチャー)
・ 預言者エリヤと洗礼者ヨハネが、心の準備をさせてくれる
 (1)エリヤの問いかけ 「いつまでどっちつかずに迷っているのか」
 (2)エゴの徹底的な挫折 「主よ、もう十分です、命を取ってください」
 (3)神の問いかけ 「あなたはここで何をしているのか」
・ クリスマスの日付は人それぞれ

 

■ 「行く」は簡単、「待つ」は難しい……

 

昨晩(日曜)に、漢字テストの答案を返却される夢をみた。

10月に風邪で寝込んだときは、数学テストで0点を取る夢をみたわけだけれど。

 (参考) 見えているのに、見えていない。… 人を錯覚から解放して、真実に導く神

 

今回の漢字テストは、60点ちょいだった。
私に答案を渡してくれた女性はこう言った。
ギョウニンベン(彳)の成績が悪いですね~ (´∀` )hahaha」
 

睡眠中の夢はたいてい支離滅裂で無意味だから、起きたとたんに忘れてしまう。

でも、時折、これは明らかに神様からのメッセージだなとわかる夢もある。
そういう夢は、ちゃんと覚えていられるんだよね。
 
聖書でも、夢の中で神のメッセージを受けとるエピソードがたくさん出てくる。
神のメッセージは、言葉の直球メッセージの場合もあるし、
シンボルメッセージの場合もある。
 
前回記事では、バーンアウトした預言者エリヤが荒野で独りになって、
静かな神の声を聞くという場面を紹介したけれど。
いちばん心が静まるのは、身体が眠っている時なのかもしれないね。
 

私の夢の中の漢字テストでは、「ギョウニンベン(彳)の成績が悪いですね~

という課題をいただいた。
こういうシンボル夢の場合は、
ギョウニンベン(彳)というシンボルが何を意味しているのか、解読する必要がある。
 

さっそく漢和辞典で(彳)を調べてみた。(新版漢語林)

部首説明の冒頭で、いきなり私の思い込みが砕かれてショックだった。
 
(1) 彳 … ギョウニンベン
(2) 行 … ギョウガマエ (行、街、術など)
 
 両者は旧来、別の部首であったが、形や意味は共通しているので同じ項で扱う。
 両者とも、「行くこと」「道路や街に関すること」という意味。
 
そうか。
「行」はギョウニンベンだと思いこんでたけど、実はギョウガマエだったのか……
 
しかし神様は、そんな豆知識を教えるために、
漢字テストの夢を見させたわけではないと思う。
 
夢の中では、「ギョウニンベン(彳)の成績が悪い」とはっきり言われたから、
ギョウガマエ(行)の漢字は除外して、(彳)の漢字だけに目を通してみた。
 
そして目にとまったのがこれ。
 
 音符の寺は、止まるに通じ、とどまるの意味。
 彳は歩行の意味。
 歩行をやめてとどまる、まつの意味を表す。
 
ああ、これはたしかに、苦手だな。
もとより、待つのが得意って人はかなりの少数派だと思うけど。
私の「待」の成績が悪い(笑)というなら、それはまったくそのとおりだ。
 
「歩く、行く、待つ」という動作は、人の歩み、人生のシンボルでもある。
聖書でも頻繁に登場するシンボルの一つ。
 
預言者などを通して神が人を正す際は、
「行け」よりも「待て」「とどまれ」と命ずる方が多い。
 
人間側に忍耐が無く、神の救いを待ちきれないために、
神を無視して身勝手な計画をたててゴリ押し、
個人も社会もぐちゃぐちゃにこじれるというパターンが多い。
 
そんなせっかちな人間に対して、神は何百年もかけて……今に至るまで、
とにかく「落ち着け、静まれ、待て」と語っている。
 
しかもちょうど今の時期、クリスマス前の4週間は、
イエス・キリストの降誕を待つ「降節たいこうせつアドベント」にあたる。
「神の約束された救い主を信じて待つ」ということを意識するための期間かと思う。
 
そして聖書とはまったく関係がないが、京都の清水寺で、
漢字で1年をふりかえる恒例イベントも、ちょうど今の時期なんだよね……
 
『今日のコトダマ 12月のおくりもの』 ことばのギフト366日シリーズ
 
私のこの1年を漢字であらわせば、【待】だったということになるな……
しかし【待】のテスト結果は60点ちょいだったから、
こうして追試レポートを要求されていると(笑)
 
■ 「待つ」という冒険(アドベンチャー)
 
「待つ」という神命について、私がすぐに思い出すのはこの聖書個所。
 
● この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。
 それは偽りではない。
 もしおそければ待っておれ。
 それは必ず臨む。
 滞りはしない。
 見よ、その魂の正しくない者は衰える。
 しかし義人はその信仰によって生きる。
 
 ――旧約聖書 『ハバクク書』 2章3、4節
 
 
● まことに、イスラエルの聖なる方
 わが主なる神は、こう言われた。
 「お前たちは、立ち帰って
 静かにしているならば救われる。
 安らかに信頼していることにこそ力がある」と。
 
 しかし、お前たちはそれを望まなかった。
 お前たちは言った。
 「そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう」と。
 それゆえ、お前たちは逃げなければならない。
 また「速い馬に乗ろう」と言ったゆえに
 あなたたちを追う者は速いであろう。
 
 ……それゆえ、主は恵みを与えようとして あなたたちを待ち
 それゆえ、主は憐れみを与えようとして 立ち上がられる。
 まことに、主は正義の神。
 なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。
 
 ――旧約聖書 『イザヤ書』 30章15、16、18節
 
視野が狭い人間には、どうしても神の言葉の実現が遅く感じてしまう。
この境遇が永遠に続くのではないかと不安になる。
そこで不安に負けて、「馬に乗って逃げよう」とすると、余計にこじれる。
 
「待つ」というのは、消極的にぼんやり過ごすことではない。
「待つ」は積極的に神に信頼して委ねるという冒険的行為だと、私には思える。
 
アラビア語の慣用フレーズになっている、
イン・シャーア・ッラー(神の御旨のままに)も、
未来を積極的に神に委ねているから言えることだと思う。
 
(1) 危険をおかしてでも自力で前進する
(2) 自分の計画を手放して神の導きを待つ
 
気分的に、私は(1)の方がラク。
(2)の方が困難な選択肢だ。
それでも神にコミットしよう、すべてを賭けようと本気で決めた今は、あえて(2)を実践中。
神に信頼して「待つ」を続けるのは、私にとっては大冒険だ。
 
きっと私以外の多くの人も、神の導きなど待たないで、
何かしら自分で計画を立てて、忙しく動き回っている方が、気が楽だと思う。
その方が自分で自分の歩みをコントロールできている安心感があるから。
何事かを成し遂げている充実感も得られる。
 
でも、神の命じる「待て」は、その真逆なんだな。
自分の歩みを自分でコントロールしたい誘惑と闘い、
自分が無為の人間だという無力感と闘いながら、
神の次の一手を信頼して静かに待つ。
 
こういう心境について、預言者エレミヤがうまく言ってくれている。
 
 主よ、わたしは知っています。
 人はその道を定めえず
 歩みながら、足取りを確かめることもできません。
 
 主よ、わたしを懲らしめてください
 しかし、正しい裁きによって。
 怒りによらず
 わたしが無に帰することのないように。
 
 ――旧約聖書 『エレミヤ書』 10章23、24節 
 
私の場合、自分で自分をコントロールしようとする試みはことごとく失敗、
または表面的に成功しても、心が虚しくてたまらないという結果に終わったから。
 
それならば消去法で、と言ったら神に大変失礼だけれども、
神を信頼して次の一手を「待つ」という以外にはもう選択肢がない。
 
今さら虚しい自己実現の道に戻りたいとは思わない。
それについては、挫折した預言者エリヤと同じく、「主よ、もう十分です」と思っている。
 
だったらエレミヤの言うとおり、「人はその道を定めえない」という無力さを認めて、
神の正しい裁き(判断)によって、私を懲らしめて(正して)もらうのが良い。
(神に怒られるのが快感という趣味プレイではない、けっして。)
 

■ 神と人が出会うという冒険(アドベンチャー)

 

日本で「待降節」と訳されている「アドベント(advent)」の原義は「到着」。
アドベンチャー(adventure・冒険)も語源が同じ。
 
待降節/アドベントは、人がメシア(キリスト)の到着を信じて待つ期間というだけでなく、
神と人が出会うという冒険に備えて、
人が心を整えるための準備期間の象徴と考えてもいいと思う。
 
神霊イエスにとって、神の位を降りて、地上に降誕(アドベント)するというのは、
たしかに冒険(アドベンチャー)だ。
 
そして地上の人にとっても、イエスを救い主として受けいれることは冒険だ。
 
イエスを救い主メシアとして受けいれるということは、
イエスを自分の主人(王)としてお迎えし、イエスに従う生き方にシフトすること。
そうすると、それまで築いてきたエゴの自分王国は滅ぼされてしまう。
 
古代ユダヤ宗教エリートは、エゴの本性を映し出す鏡としてのイエスに耐えられず、
イエスがエゴの破壊者であると感じたから、イエスを強引に十字架刑にしてしまった。
 
宗教エリートに限らず、
「すべて自分の思い通り」「自分の歩みは自分でコントロールできている」
という人生を歩んでいる人、またはそういう人生を望んでいる人にとって、
イエスは救い主ではなく、破壊者だ。
 
『ヨハネの黙示録』(使徒ヨハネの霊視録)で、イエスがこう語っている。
 
 あなたは、
 『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』
 と言っているが、
 自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、
 裸の者であることが分かっていない。
 
 ――新約聖書 『ヨハネの黙示録』 3章17節
 
物事がうまくいっているときに、自分が惨めだと自覚するのは難しい。
心が満たされていなくても、違和感を覚えながらも、
外部の人付き合い・趣味・娯楽などで、心の惨めさを麻痺させることができる。
 
イエスは、そういう心の本性を暴いて責めて罰する神ではない。
惨めな本性を明るみに出させたうえで、それを癒してくれる救い主。
ただし、その救いにあずかるためには、
まず当人が自分の惨めな本性を自覚しないとはじまらない。
 
自分が実は「惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者……」
であることを自覚するための期間が、待降節/アドベントかなと、私は思っている。
だから本来、待降節/アドベントは、試練の時で、苦しい時なのだ。
 
■ 預言者エリヤと洗礼者ヨハネが、心の準備をさせてくれる
 
旧約聖書には、やがて救い主メシアが生まれるという預言だけでなく、
メシアが来る前にまず、預言者エリヤがやって来るという預言もある。
 
旧約聖書の最後の最後、『マラキ書』の終わりはこう締めくくられている。
 
 見よ、わたしは
 大いなる恐るべき主の日が来る前に
 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
 彼は父の心を子に
 子の心を父に向けさせる。
 わたしが来て、破滅をもって
 この地を撃つことがないように。
 
 ――『マラキ書』 3章23、24節
 
預言者エリヤはイエス時代のユダヤ人にも広く知られた人気者。
イエスと同時代人の洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)を導く霊であり、
福音書によると、どこぞの山上で
イエス、モーセ、エリヤの三者会談も開かれたことがある。
 
歴史的には、救い主イエスの先駆けとして、洗礼者ヨハネが登場した。
洗礼者ヨハネの父親ザカリアは、ヨハネについて、
天使ガブリエルからこう告げられている。
 
 彼は主の御前に偉大な人になり、
 ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、
 イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。
 
 彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き
 父の心を子に向けさせ、
 逆らう者に正しい人の分別を持たせて、
 準備のできた民を主のために用意する。
 
 ――新約聖書 『ルカによる福音書』 1章14-16節
 
「エリヤが先に来る」という旧約聖書の預言は、
この洗礼者ヨハネを指しているというのが、一般的な説明かと思う。
 
しかし一般的な説明ではなく、私の実感ベースで説明するならば。
 
「エリヤが来る」というのは、
『列王記上』のエリヤ物語で象徴されている3つの出来事……
 
 
(1)エリヤの問いかけ
 「いつまでどっちつかずに迷っているのか」
 
(2)エゴの徹底的な挫折
 「主よ、もう十分です、命を取ってください」
 
(3)神の問いかけ
 「あなたはここで何をしているのか」
 
 
これらの出来事に各人が直面した時、
その人に「エリヤが来た」ということになるのだと思う。
 
だから私の考えでは、待降節/アドベントは、
預言者エリヤと出会う時節であり、
洗礼者ヨハネの洗礼を受ける時節のこと。
 
厳しい試練にあうことを、「○○の洗礼をうける」と表現することがあるよね。
たいてい、あまりいい意味では使われない表現だよね。
 
エリヤの霊を帯びた洗礼者ヨハネが授ける洗礼も、その意味での洗礼……
人がメシアに出会うための試練を象徴するのだと思う。
 
 荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
 
 そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、
 罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
 
 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、
 ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた
 
 ――新約聖書 『マルコによる福音書』 1章3-5節
 
洗礼者ヨハネの洗礼内容は、霊的には、以下の3つに集約されると思う。
 
(洗礼1) エリヤの問いかけ
 
紀元前9世紀頃。
神ヤハウェを離れて、異教の偶像崇拝に陥っていたイスラエル王と民に、
預言者エリヤがこう問いかける。
 
 あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。
 もし主が神であるなら、主に従え。
 もしバアルが神であるなら、バアルに従え。
 
 ――旧約聖書 『列王記上』 18章21節
 
うやむやに誤魔化して、先送りしてきた問題について。
真正面からその問題を突き付けられ、
いよいよ決着をつけなければならない状況に追い込まれた時。
それが預言者エリヤが来た証拠だと思う。
 
エリヤが来たなら、「どっちつかずに迷う」のをやめて、答えを出さなければならない。
本物の神か、自分に都合のよい偶像か。
本心に従った選択か、他者の顔色にあわせた選択か。
どちらかにコミットせよと。
それが、救い主のアドベント(到来)をうけいれる準備の第一歩。
 
(洗礼2) エゴの徹底的な挫折
 
エリヤの挫折詳細は、前回記事のとおり。
自分自身でなんとかできるというエゴを、徹底的に砕かれる挫折体験もまた、
「自分の思い通り」という竜宮城パラダイムの限界を知り、
神の救いを求める心が表に出てくるために必要な道。
 
挫折内容の軽重は不問。
当人が挫折すべきところでしっかり挫折できたなら、
それでエリヤの役割は果たされている。
 
挫折を挫折と認めないで、麻薬のような癒しメソッドをはしごしていると、
心に本物の光はさしてこないし、救い主が破壊者としか思えない状態が続く。
挫折すべき時には、きちんと挫折したほうがよい。
つまらないプライドを砕いてもらえる機会があるなら、砕いてもらった方がよい。
そこから本当の神との関係が始まる。
 
(洗礼3) あなたはここで何をしているのか?
 
挫折して、天職の表舞台から逃げたエリヤに、神が問いかける。
エリヤよ、ここで何をしているのか
 
私の場合、神からの問いかけというよりは、自問という形で現れることが多い。
私はいったいここで何をしているのだろう?
 
自問であれ、他者からの問いかけであれ、
「あなたはここで何をしているのか」
という問いが浮上してくるのは、間違った道を歩んでいる時だよね。
本心では「嫌だ、おかしい、何か違う、虚しい」と思いつつも、
「これでいいや」ということにしているような時。
 
「あなたはここで何をしているのか」
という声が心の中で大きく響くのは、
エリヤが来て、洗礼者ヨハネに水をかけられたからだ。
それによって、正しい道に立ち返りたいという願いを自覚させ、
救い主をうけいれる準備ができる。
 
メシアの先駆けは、『イザヤ書』では「荒野に呼ばわる声」として預言されている。
 
 呼びかける声がある。
 主のために、荒れ野に道を備え
 わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。
 険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
 主の栄光がこうして現れるのを
 肉なる者は共に見る。
 主の口がこう宣言される。
 
 ――旧約聖書 『イザヤ書』 40章3-5節
 
魂の荒れ野を整え、心の凹凸を平らにして、広い道を通す。
メシアがアドベント(到来)するための道を準備する。
それが預言者エリヤであり、洗礼者ヨハネの役割だと。
 
こうして各人の荒れ野に道が敷かれ、準備ができたときに、
やっと救い主をうけいれることができるようになる。
 
だから、クリスマスやアドベントの日付はぜんぜん問題じゃない。
重要なのはイエスの生年月日などではなく、
イエスが救い主として各人の人生に現れるという事実の方だから。
 
■ クリスマスの日付は人それぞれ
 
イエスが馬小屋で生まれた日に、
天使が羊飼いたちにあらわれて、こう告げる。
 
 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。
 この方こそ主メシアである。
 
 ――新約聖書 『ルカによる福音書』 2章11節
 
聖書を歴史書として読むと、
「2000年前にキリストが生まれて、十字架刑にされたけど、復活しました」
という他人事で終わる。
 
「2000年前に生まれたキリストが、今の私と何の関係があるの?」
 
聖書を神の言葉として受け取るためには、
聖書の内容を霊的シンボルとして読み解く必要がある。
 
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。
 
その「今日」を2000年前の12月25日に限定する必要はまったくない。
聖母マリアを仲介する必要もない。
神と人が出会う日時を決めるのはカレンダーじゃない。
神が個別に、その日時と場所を決める。
 
私の人生に、私のために救い主イエスが突入してきた
と実感できた日が、自分にとっての「今日」であり、クリスマスとなる。
 
「イエスが突入してきた」という表現は乱暴かもしれないが、それが私のリアルな実感。
「救い主がお生まれになった」というよりは、
救い主がエゴ王国のバリケードをぶち破って突入してきた」という印象。
 
イメージとしては、私のエゴが、私の魂を人質にとって籠城していたところを、
イエス直下の特殊部隊がいつにまにか包囲していて、
ある時イエスがドアを蹴破って突入してきたような感じ。
エゴは抵抗するが、エゴから解放された魂は喜ぶ。
 
私にとっては、天使部隊の包囲網に追い込まれて苦しんでいた期間こそが、
メシアを待つ準備期間 = 待降節/アドベントだったのだと思う。
 
この意味で、私の待降節/アドベントは、20年以上続いた。
素直な人なら、もっと短期間で経過できるだろう。
 
主に先立つ預言者エリヤ、また洗礼者ヨハネは、日陰の存在だ。
キリスト教や聖書に関心のない人は、彼らの存在すら知らないと思う。
 
でも、彼らに出会って洗礼(試練)を受けるというアドベント期間がなければ、
神の救いを求める気が起こらないし、救い主の意味も価値もわからない。
まして「信じて待つ」という冒険(アドベンチャー)はできないんだよね。
 
宗教行事がどうこうではなく、
神と自分と一対一の関係において、メシアと出会う日が、クリスマス。
 
今まさに、魂のアドベント期間にあり、心の奥で神を求める人が、
今日すぐにでも本物のクリスマスを体験できますように。
 
 
次回に続く。
 
 
※ 記事中の聖句引用元/日本聖書協会『新共同訳聖書』または『口語訳聖書』
 
※ イエスキリストの純粋な福音を知りたい人には、
 『キリスト教放送局 FEBC』をお勧めします。
 
■ 「神と聖書と日ユ同祖論」 記事一覧&リンク →こちら
 
 

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