すべてを神に委ねること、神の御心のままにということを、 
日本の神道では「カンナガラ(惟神)」または「カンナガラの道」という。
一神教徒が大勢を占めるアラビア語ではイン・シャーア・ッラーという。

カンナガラも、インシャーアッラーも、
「神の御心のままに」という日本語訳になってしまうが、
両者はぜんぜんニュアンスが違う。
まったく意味が異なるといってもいいぐらいに、大きな隔たりがある。

昔の私はカンナガラ型の考え方で神様と接していたが、
今はインシャーアッラー型の考え方で神様と接している。

 人は心に自分の道を考え計る、
 しかし、その道を導く者は主である。

 ――旧約聖書 『箴言』 16章9節


インシャーアッラーは、唯一なる神への揺るぎない信頼心がベースにある。
積極的に神を信頼して、喜んで神の摂理に自分を委ねる。

カンナガラは、人間にはどうにもならないから神に任せるしかないという
消極的な委ね方であり、自分のあきらめにアクセントがついてしまう。
神の存在は信じていても、神への信頼は薄い

カンナガラの道は、天地自然すべてを神として大切にする心を育むにはすばらしいが、
一個人としての天命を自覚して生きたい人には心もとない。
心もとないから、周りの雰囲気にうまく同調することをもって天命とし、
長いものに巻かれるだけの生き方で終わってしまうリスクがある。

神の存在を信じることと、神を信頼することとは、まったく違う。

たとえばこの世にアメリカ人、欧州人、アフリカ人等が存在することは疑いなく信じられても、
彼らがゆりかごから墓場まで自分の人生を支えてくれると信頼しているわけではない。
信じるのと、信頼するのは、全く違う。

神を信じることはできても、信頼できないのが神道の弱点であり、不完全なところだと思う。
神を八百万神としてしまったために、神と向き合う際のピントが定められないのだ。
ピントが定められないので、こちらの心も定まらない。


 神はわれらの避け所、また力である。
 悩める時のいと近き助けである。

 このゆえに、たとえ地は変わり、
 山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。

 たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、
 そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。

 ――旧約聖書 『詩編』 46編1-3節



 
残念ながら、神道では、これほどの信頼をもって神と付き合うことが極めて困難だ。
真剣に神に向き合いたくても、どこに向き合えばいいのかがはっきりしない。

前回の記事 で、人間が素直になるべき対象は神のみと書いたけれども、
神道は八百万神を祀ってしまったために、
素直になるべき対象としての神をうまくイメージできないという欠点を抱えている。

何となくこの辺。
たぶんこの辺。
だいたいこの辺……

こういうぼんやりした手がかりしか与えられないため、
アンカリング(心を定める錨をおろす)のポイントが絞れない。
心をどこにアンカーすればよいのかわからないので、いつも不安を抱えて生きることになる。

とりあえずこの辺だと目したポイントにアンカーしたとしても、
それがアンカーポイントとして正しいのかどうかという不安が常につきまとう。

その不安を解消するために、複数の神社仏閣をはしごして、
それぞれのご祭神のご利益を期待するということになる。
つまり、心の保険をかけるのだ。

観光旅行などの娯楽目的で神社仏閣をめぐることについて語っているのではない。
娯楽は娯楽として楽しめばよい。

しかし人生に不安や迷いがあるときに、あちこちの神社仏閣をめぐって神頼みをするのは、
信心深さのあらわれではなく、むしろ神への不信感のあらわれにすぎない。


不安だから、信頼できないから、
あちこちの神仏に保険をかけずにはいられない。

A神がだめでもB神は助けてくれるかもしれない。
それがだめならC神、D神、さらには天使のナントカエル……
現代社会では神仏に頼るだけでは心配だから、
パワースポットのエネルギーを盗み取るツアーに参加し、
自己啓発セミナー、スピリチュアルおまじない、願望達成メソッドなどをはしごするなど、
とにかくあちこちに保険をかけて安心しようとする。

でも、そのやり方では、永久に心が落ち着かない。
キリがない。
しかもそうして神を信頼しないことによって、神を侮辱することにすらなる。

霊的アンカーポイントは、一点だけでいいし、一点しかない。

そしてそのアンカーポイントは、単なるポイントではなく、あらゆる命の源である。

 神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、
 
 全能者がこう言われる。
 
 「わたしはアルファであり、オメガである。」
 
 ――新約聖書 『ヨハネの黙示録』 1章8節


過去・現在・未来……永久に生きている神ををユダヤ教ではヤハウェといい、
キリスト教では三位一体の神あるいはキリストといい、イスラム教ではアッラーと呼ぶ。
(※唯一神をヘブライ語ではヤハウェといい、アラビア語でアッラーという。
 ヤハウェ神、アッラー神という別々の神がいるのではない。)

残念ながら、日本の神道では、アルファでありオメガである神、
明確な意思をもってこの天地万物を創造した神をピンポイントにさし示せない。


八百万神ヒエラルキーの頂点にある天之御中主神(アメノミナカヌシのカミ)は、
万物創造の神ではない。
八百万神の中で最初に登場した神格であったとしても、
それも万物創造神による被造物の一つでしかない。

もっとも、神道の名門家(カモ、モノノベ、ミワ等)ではユダヤ由来の教えを隠しているとか、
政権を独占するために真理を八百万神と仏教でカモフラージュしたとか、
途中で失伝してしまったとか、いろいろささやかれてはいる。
でも、ここではそういう検証不能な噂話は聞かなかったことにする。

ともかくも、神道の不安定を補うためには、個人的な工夫がいる。

日本の歴史が漢字を受け入れ、律令制を取りいれて日本流にアレンジしたように、
神道の不完全な部分を補ってくれるものとして、一神教の考え方をとりいれる

聖書で語られている神を外国の神だと定義せずに、
八百万神の層を突き抜けた深奥にある真実の神と定義する。

そうすると、近視の者がメガネをかけたように、
ぼやけていた視界がクリアになって、
神にピントを合わせられるようになる。

神にピントが合えば、漠然とした不安はなくなる。
神社仏閣めぐりも、厄払いも、占いも、諸々の開運メソッドもすべて不要になる。

一神教の教義がそれらを禁じているから、仕方なしに手放すのではない。
アンカーすべきポイントが定まったとたんに、それらのものへの興味が自然と失せてしまう。
子どものオモチャみたいに思えてくる。
だから不要物として、かんたんに手放せる。

ユダヤ教エリートの地位を捨てて、キリストに回心した使徒パウロは、
こう語っている。


 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、
 キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、
 今では他の一切を損失とみています。
 キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、
 それらを塵あくたと見なしています。
 
 ――新約聖書 『フィリピ人への手紙』 3章7、8節



これまでパウロが大事にしていた地位、名誉などは、
キリストを知った今では不要なゴミ屑にすぎないということ。

神の御心のままに……インシャーアッラー型の、積極的な神への信頼心は、
人間をして「神の僕」とか、「神の奴隷」と表現することもある。
聖書にもしょっちゅうそういう表現が出てくる。

奴隷というと、自分の意思に反してイヤイヤ隷属している状態を想像してしまう。
しかしインシャーアッラーの奴隷は、使徒パウロのように、
自発的に喜んで神に帰依している僕という意味である。


 「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。」

 ――旧約聖書 『列王記上』 17章1節



 
「自分は神の奴隷ではない、自由人だ。
 一神教の神は傲慢なお山の大将にすぎない。」

という人は多いが、たしかに旧約聖書の第一印象はまさにそれなのだが、
自称自由人も、自覚なしに様々なものの奴隷になっている。

不安の奴隷、世間体の奴隷、お金の奴隷、他者の顔色の奴隷、自己実現の奴隷……
だれしも、人は自分が執着している対象物の奴隷となっている。

一神教では、人のエゴが執着する対象物を「偶像/アイドル」、「異教の神」、「バアル」と呼ぶ

そんなものの奴隷として生きるぐらいなら、万物創造神の奴隷になる生き方、
つまりインシャーアッラー、神の御心のままに委ねる方がよくはないか。
カンナガラ(惟神)型のぼんやりした委ね方ではなく、委ねる対象を積極的に信頼した委ね方。

宗教・教義・神学に参加することとは関係ない。
自分の心をどこにアンカーするかという話。

預言者エリヤが、イスラエルの民に問うたことがある。


 エリヤはすべての民に近づいて言った。

 「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。
  もし主が神であるなら、主に従え。
  もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」

 民はひと言も答えなかった。

 ――旧約聖書 『列王記上』 18章21節



 
預言者エリヤの勧告に、当時(BC9世紀頃)のユダヤ人はだれも答えることができなかった。

当時のユダヤ人はヤハウェ一神教を離れて、周辺民族の多神教に傾倒していたが、
祀る神を増やした分だけ迷いが増えて、どの神にも委ねることができなくなってしまった。

アラビア語の「委ねる、コミットする」という言葉(IRTKB)は、
「乗り物に乗る」(RKB)から派生している。
インシャーアッラー、神の御心に委ねるとは、神の乗り物に乗せてもらうイメージなのだ。

自分の身体は一つしかないのだから、一度に複数の乗り物に乗ることはできない。
どれか一つを選んで、信頼して乗るしかない。
神への信頼があれば、安心して神の操縦する船に乗れる。

船を操縦するのは神であって、自分ではないから、
思いどおりにいかないことがあったとて、それを力技で達成しようとは思わない。
それは神の御心ではない、ただそれだけのことなのだ。

インシャーアッラー、神に委ねる生き方は、人間の常識にはギャンブルに見えるが、
霊的にはもっとも安全確実な生き方だと思う。


 狭い門からはいれ。
 滅びにいたる門は大きく、その道は広い。
 そして、そこからはいって行く者が多い。

 命にいたる門は狭く、その道は細い。
 そして、それを見いだす者が少ない。

 ――新約聖書 『マタイによる福音書』 7章13、14節



 
狭い門 …… 神に信頼して心が一点に定まった状態
広い門 …… 神に信頼しきれず心があちこちさ迷っている状態 

私は小心な実利主義者だから、世間的によしとされる無数の道を離れて、
霊的に確実な一本道を選んだ。







※ 記事中の聖句引用元/日本聖書協会『新共同訳聖書』または『口語訳聖書』

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以下追記 2022年12月16日

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