前回の続き。
 
【今回のもくじ】

・ 越えてはならない境界線(divide)
・ 平和ではなく、剣(divide)をもたらすキリスト
・ 神の言葉は、切れ味のよい神剣
・ エゴは神剣(divide)から逃げる

 
■ 越えてはならない境界線(divide)
 
 
このたびの水害では、川の氾濫が各所でおきている……
倉敷の水害は、今年に着工予定だった河川改修工事が完了していれば、
防げたであろうとのこと。
                
川の堤防 = 境界線(divide)。
 
神は天地創造の一環として、水と陸を分けた。
 
河川と住宅地、あちらとこちらをきっちり分離して、境界線を定めることは、
双方の立場を尊重して守ることでもある……
 
 あなたの神、主があなたに与えて得させられる土地で、
 すなわちあなたが受け継ぐ嗣業の土地で、
 最初の人々が定めたあなたの隣人との地境を動かしてはならない
                           
 ――旧約聖書 『申命記』 19章14節など
 
堤防は、川と陸の地境。
前回は、「隣人との地境」を、心の境界線として説明したけど、
「地境」とは、文字通り「地境」でもあるのだと、あらためて気づかされた。
 
川の堤防が、ぜったいに守られるべき境界線であるように、
その他の境界線についても、日ごろから意識して尊重しなさいと、
神から念押しされたような気がする。
 
事物の境界線をあやふやにしたり、守らなかったり、軽んじたりするのは、
寛容とはいわないね。
ただのルーズだね。
 
日ごろから境界線をおろそかにしていると、
自分の限界も自覚できず、過信して自滅することになる。
「人間として越えてはならない一線」をも、平気で越えてしまうようになるだろうね。
 
神への畏れがあれば、「越えてはならない境界線」の手前でストップできる。
神への畏れを失うと、守るべき境界線が消え、すべてがぐちゃぐちゃに……
 
東日本大震災では、先祖の定めた境界線(津波記念碑)を守っていた地区は、
津波の建物被害がゼロだったそうだ。
 
境界線を定めること、厳しく分離すること……けっして不寛容ではない。
人間のためにも、境界線はなくてはならないもの。
 
人間が調子にのって、境界線を踏み越えすぎている分野では、
神は長期間にわたって警告を与えているはずだ。
原発事故、化学物質由来のアレルギー、公害病、
人間の技術で制御も根治もできないものを「安全」と言うのかと。
 
 身分の低い者から高い者にいたるまで、
 皆、利をむさぼり、
 預言者から祭司にいたるまで皆、あざむく。
 
 彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、
 平和がないのに、『平和、平和』と言う
                    
 ――旧約聖書 『エレミヤ書』 6章13、14節
 
検査データを偽装して、安全ではないのに、「安全、安全」と言う。
個人レベルなら、体調が悪いのに「大丈夫、大丈夫」と言い、
できもしないのに「できる、できる」と言う。
 
想定外のことが起こらない限りは大丈夫ってことなんだろうけど。
神の手は「想定外のなんちゃら」をいくらでも起こせる。
 
ここ数年で、「観測史上初の○○、数十年に一度の○○、想定外の○○」
というお天気ニュースにもすっかり慣れてしまった感がある。
本来、慣れてはいけないはずなんだけれど。
大きな地震、火山噴火、水害、猛暑、大雪……ほんとに多いよね。
これは人間の限界と境界線を自覚させるための警告メッセージだよね、やっぱり。
 
想定外の雨量に耐えられなかった堤防が決壊してしまうように、
人間としての境界線を踏み越えることを続けていると、
その分野の堤防がある日とつぜん決壊してしまうのではないかと思う。
 
以前に、「河川防災の基本は、感情制御にも使える。」 の記事でも書いたけど、
漢字の「決」の一文字だけで、「堤防が決壊する」という意味がある。
 
川が氾濫しそうなときには、氾濫しても大丈夫な場所で堤防を切る「決断」が必要。
もし神が何かを決断(divide)して実行したなら、それは堤防が決壊するのと同じで、
人間には止められない、変えられない。
旧約聖書で何度も預言されている「神の怒りの日」は、
そういうことを暗示しているのかもしれない。
 
神の決断でなくても、人間の決断でも、きっと同じこと。
いいかげんな決断(divide)をすると、あらぬところが決壊して大惨事になる。
 
決断には決断者の責任がともなう。
「私は悪くない、あの人に言われて仕方なくやっただけ」
という言い訳は、神の前には無効。
アダムとエバは、この言い訳をしたために、楽園を追放された。
 
ともかく、定められた境界線を守れ、神聖なものとして守れ。
まずは各自の境界線(バウンダリー)を守ろう。
 
■ 平和ではなく、剣(divide)をもたらすキリスト
 
守るべき境界線がある一方で、壊すべき境界線もある。
以前にもとりあげたが、イエスはこういう大胆な発言をしている。
 
 わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。
 平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
 わたしは敵対させるために来たからである。   (マタイ福音書 10章34、35節)
                        
 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。
 そうではない。
 言っておくが、むしろ分裂(divide)だ。
 今から後、一つの家に五人いるならば、
 三人は二人と、二人は三人と
 対立して分かれる(divide)からである。  (ルカ福音書 12章51、52節)   
 
本物の平和をもたらすメシア(キリスト)は、偽りの平和をぶち壊す剣である。
川の堤防は壊してはならないが、偽りの平和はさっさと壊すべきもの。
 
偽りの平和……事なかれ主義、長いものに巻かれること、曖昧に言葉を濁すことなど。
人間目線では平和に見えても、神の目には完全にアウト。
 
マタイ書では「敵対」、ルカ書では「分裂、divide」といっているが、どちらも同じこと。
 
メシアの存在(言葉)は、本物と偽物をきっちり分別(divide)してしまうため、
平穏であったはずの環境、人間関係、生き方等に、
混乱・不和・争論をもたらすこともある……というか、
ほとんどの場合、そういう混乱を避けられない。
 
イエスの家族ですら、世間体を気にして、イエスの伝道をやめさせようとした。
イエスの家族内で分裂(divide)が生じた。
 
 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、
 一同は食事をする暇もないほどであった。
 
 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た
 「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
 
 エルサレムから下ってきた律法学者たちも、
 「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、
 また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
                                
 ――『マルコ福音書』 3章20-22節
 
『ヨハネ福音書』では、
エルサレム神殿でイエスの話を聞いた群衆の間に対立が生じる。
 
 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、
 イエスは立ち上がって大声で言われた。
 
 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
 わたしを信じる者は、聖書(旧約)に書いてあるとおり、
 その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」
 
 ……この言葉を聞いて、群衆の中には、
 「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、「この人はメシアだ」と言う者がいたが、
 このように言う者もいた。
 「メシアはガリラヤから出るだろうか。
 メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、
 聖書に書いてあるではないか」
 
 こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた
                      
 ――『ヨハネ福音書』 7章37、38、40-43節

メシアの言葉を聞いた人々は、何らかの反応をする。
反応するということは、心が揺さぶられている証拠。
心が揺さぶられると、それまで意識してこなかった本音、考え方等が表に出てくる。
偽りの平和に依存していた生き方は壊れる。
 
それは魂的には良いことである。
 
偽りの社交辞令、宗教儀式、仲良しごっこ等は、誰の益にもならない。
互いに本音を隠して我慢を強いるだけの、ストレスフルな関係ができあがるだけだから。
 
■ 神の言葉は、切れ味のよい神剣
 
曖昧な対応を、「言葉を濁す」という。
イエスは言葉を濁さない。
然りは然り、否は否、と純粋に言いきる。
 
イエスは、神の言葉が肉体として顕現した存在だから、
言葉を濁す、あいまいにする、ごにょごにょ誤魔化すということができない……
 
 初めに言(ことば)があった。
 言は神と共にあった。
 言は神であった。
 
 ……言の内に命があった。
 命は人間を照らす光であった。
 
 ……(イエス)は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
 
 ……言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。
 わたしたちはその栄光を見た。
 それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
                             
 ――『ヨハネによる福音書』 1章1、4、11、14節
 
ウソ、社交辞令、へつらいの言葉に、「恵みと真理」はない。
イエスは多くの人に理解されず、分裂(divide)をもたらし、逆恨みされてもなお、
恵みと真理の言葉……神の言葉を語り続けてやまないメシアである。
 
神の言葉は、心が砕けた人には癒しとなぐさめを与える甘い蜜となる。
しかし別の人には、偽りの平和を切り裂き、本性を暴露する裁きの剣となる。
 
 神の言葉は生きており、力を発揮し、
 どんな両刃の剣よりも鋭く
 精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して
 心の思いや考えを見分けることができるからです。
 
 更に、神の御前では隠された被造物は一つもなく、
 すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。
 この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。
                     
 ――新約聖書 『ヘブライ(ヘブル)人への手紙』 4章12、13節
 
私自身の偽りの平和……社交辞令で保ってきた平和も、やはり神の介入でぶち壊された。
 
私は社交辞令を「相手への配慮/大人の対応/適度な潤滑油」だと思っていたけど、
神から見れば浄化すべき悪癖でしかなかったらしい。
 
 災いだ、悪を善と言い、善を悪と言う者は。
 彼らは闇を光とし、光を闇とし
 苦いものを甘いとし、甘いものを苦いとする。
 災いだ、自分の目には知者であり、うぬぼれて、賢いと思う者は。
                            
 ――旧約聖書 『イザヤ書』 5章20、21節
 
波風立つのが面倒だから、「悪を善と言い、闇を光とし」、こちらが悪くもないのに謝る。
その「賢い処世術」で相手の機嫌をとって丸くおさめようとする。
私は、偽りのピースメーカーだったわけだ。
 
ここ3年ほど、今までわりとうまくいっていたこのやり方が、裏目に出ることばかり続いた。
偽りの平和をキープしようとする私に、神の剣が向けられたのだと思う。
 
神の剣が向けられたことで、いろいろゴタゴタして、心身ともにひどく消耗したが、
おかげで、この悪癖はほぼ手放せたと思う。
 
私はもう二度とあなたの機嫌を取らない、あなたのプライドにも配慮しない。
「然りは然り、否は否」と、ありのままに言うだけにする。
そう決断(divide)できたおかげで、今はたいへん心が軽い。
 
このようにして、本物の平和をもたらすことが神の慈悲であり愛だと思う。
 
■ エゴは神剣(divide)から逃げる
 
神の言葉とまともに向き合うと、
エゴのメッキが剥がれ、本性が暴露され、ごまかしがきかなくなる。
それまで隠されていたネガティブなものが丸見えになってしまう。
 
偽りの平和から現世利益を得ているエゴは、今の生き方を維持したいと望むから、
メシアの言葉という神剣に切り殺されることを恐れて、延々と神から逃げ続ける。
 
 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。
 それが、もう裁きになっている。
 
 悪を行う者は皆、光を憎み、
 その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。
                           
 ――『ヨハネによる福音書』 3章19、20節
 
とはいえ、本物の神の光を避けているエゴは、
神を避けているという事実を自覚したくないし、指摘されたくもない。
だからイエスは処刑された。
イエスがいるかぎり、エゴに不利な証拠がどんどんあぶり出されてくるから。
 
イエスを処刑した宗教エリートは、メシアに背を向ける一方で、
「私は神に選ばれたユダヤ人」という自己演出に余念がなかった。
たぶん本気でそう思い込んでいたのだと思う。
その心理事情は、現代でも変わらないと思う。
 
エゴは「私は神の光の中にいます」とやたらに宣伝することで、
自分自身をも騙して、エゴの闇を隠そうとする。
 
現代なら、こういう形であらわれてくるかと思う。
 
■ 「ライトワーカー (light worker/光の働き人)」と自称する。
 
■ 「パワースポットに光の柱を立てました」系の自慢をする。
 
■ 「光」と名のつく団体・組織・グループをつくる。
 
■ 光のワーク! 光の瞑想! 光のヒーリング!……とりあえずなんでも「光」という。
 
■ 聖母マリアと天使を大絶賛するが、イエスは無視。
 
■ 世界中のあらゆる神仏を受け入れるが、神ヤハウェという一点だけは巧妙に避ける。
 
社会的には善良な人なんだけれども、
実は神を避け、エゴの奴隷となっている状態。
 
2000年前にも、こういう類の人がたくさんいたらしい。
使徒パウロは彼らを「サタンの手下」だと、ばっさり斬っている。
 
 こういう人々はにせ使徒、人をだます働き人であって、
 キリストの使徒に偽装しているにすぎないからである。
 
 しかし、驚くには及ばない。
 サタンも光の天使に偽装するのだから。
 
 だから、たとい
サタンの手下どもが、 義の奉仕者のように偽装したとしても、
 不思議ではない。
 彼らの最期は、そのしわざに合ったものとなろう。
                     
 ――新約聖書 『コリント人への第二の手紙』 11章13-15節
 
明らかな犯罪者よりも、
善意で「光の奉仕者」等と自称している人の方が、神の目にはたぶん重症。
真実の神を避けているという自覚がないから。
 
神を避けた薄暗い所(真っ暗ではない)で「私は光の中にいるからOK」だと思い、
あるいは蛍光灯のような人工照明(独善)がギラギラしている所を光の中だと思う。
 
そのため、自覚無しに、神に背き続ける道を歩んでしまうことになる。
自覚なしに、善だと思いこんで、マガ(曲・禍)な道をつきすすむことにもなる。
 
そういう人の場合、何かのきっかけで(たいていは自力コントロール不能な不幸)、
神の剣にエゴのお城を滅ぼしてもらうことが救いとなる。
エゴのお城が滅びることで、本物の光が差しこむ。
 
本物を知るまでは、偽物が偽物だとわからない。
 
偽ブランド品を見分けるプロ職人によると、
本物と偽物を判別(divide)する目を養うには、
本物をたくさん見て触る経験」が不可欠だそうだ。
古美術鑑定家の中島誠之助さんの著書でも同じ内容のことが語られている。
 
頭の知識だけでは偽物を見抜けない。
むしろ知識が仇になって、かえって騙される
偽物を看破するには、本物を実体験するしかない。
 
神や光についても同じことだと思う。
明るい人工照明(人間由来の道徳など)の中で生まれ育ってしまうと、
それが本物の光だと思いこむようになってしまう。
それは当人の落ち度ではない、そういう環境に生まれ育ったのだから仕方ない。
 
だから神は、一人ひとりのタイミングにあわせて、
愛と憐れみをもって、「偽りの平和」をぶち壊す。
それは神罰じゃなくて、恵み。
 
丹念に築いてきた「偽りの平和」がぶち壊されると、
壊れた屋根の隙間から太陽光がさしこむようにして、本物の光がはいりこんでくる。
そこではじめて、電灯が偽物の光だったとわかる。
 
太陽 … 人間の都合どおりには動かない。コントロールできない。神の支配領域。
電灯 … 人間の都合だけで設置・撤去、スイッチ ON・OFF ができる。人間の支配領域。
 
どちらの光に頼って生きるかは、各人の自由意志に委ねられている。
 
 
 

次回に続く。

→ 生命の樹への道であるキリスト … 受けいれる(QBL・カバラ)/信じる(AMN・アーメン)

 
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■次回予定
 
(仮題) 生命の樹への道であるキリスト … カバラ研究は柿泥棒
 
※ 記事中の聖句引用元/日本聖書協会『新共同訳聖書』または『口語訳聖書』
 
※イエスキリストの純粋な福音を知りたい人には、
 『キリスト教放送局 FEBC 』をお勧めします。
■ 「神と聖書と日ユ同祖論」 記事一覧&リンク →こちら
 
 

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