■前回の続き。 御神体のカガミ(鏡・神我見)… 神と顔を合わせる安心感と、気まずさと。

 
神道では鏡を神の霊的シンボル、あるいはヒモロギ(神籬)として祀っている。
もちろんその鏡は、あくまで人間の手によってつくられた物体であって、神そのものではない。

しかし2000年前にイスラエルの地にあらわれたイエスは、
天地万物創造神の神霊が人間として生まれてきた、神の子である。
イエスは、生ける御神体ということになる。

■神の子イエスの歩みを神道的に読み解くと、少なくとも二つの側面が見えてくる。

【1】 歩く御神体、生けるカガミ(鏡・神我見)としてのイエス

  →人の悪意を反射するカガミ、真実を映して罪を自覚させるカガミ。
   罪を自覚した魂を赦し、神の道へ立ち返らせる神。

【2】 人の罪を取り除くいけにえの子羊、カタシロ(形代)としてのイエス

  →人の罪を引き受けるカタシロ、罪人の身代わりとなって処刑されるカタシロ。
   イエスは、イエスを神の子と信じた人の罪滅ぼしのカタシロとして死ぬが、
   イエス自身は無罪の神霊であるがゆえに死なない→復活する。
    
今回は、【1】生ける御神体カガミのイエスという視点から、聖書の関連個所を見ていきたい。
【2】は次回予定。
   人類の罪を引き受けるカタシロ(形代)としてのイエス … 神の子羊、子羊の血

むずかしいテーマだけどなあ……できる範囲で。

■イエスが多くの奇跡を起こしたことは、新約聖書の福音書に書かれている。
(福音書 …… マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四書。イエスの一代記)

難病の完全治癒、悪霊祓い、5つのパンと2匹の魚を数千人に分け与えた等。
直弟子の前では、水の上を歩いたり、嵐を一喝して凪に変えることもしている。

しかしここで注目したいのは、個々の奇跡の内容よりも、奇跡を目撃した人々の反応である。

2000年前にイエスと出会い、奇跡を目撃した人々を、3種類に分けることができる。

(1) イエスを神の子と信じて従った人々

(2) イエスが神の子であることに半信半疑の民衆

(3) イエスを背神者として排除した宗教エリートたち(パリサイ人、律法学者、サドカイ人など)

(番外) 神の子イエスの正体を見抜き、逃げていった悪霊たち

生けるカガミ(鏡・神我見)であるイエスに近づくと、

・嫌でも己の真の姿(無力な罪人である人間)をはっきりと自覚させられる。
・イエスが生ける御神体、神の子であることを認めるしかなくなる。

カガミ(神我見)によって真相を見せつけられたときに、人はどんなリアクションをするのか。

『ルカによる福音書』5章17-26節 を見てみよう。

 ある日のこと、イエスが教えておられると、
 ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。
 この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。

 主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。

 すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、
 家の中に入れてイエスの前に置こうとした。
 しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、
 屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。
 イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。

 ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。
 「神を冒涜するこの男は何者だ。
 ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。

 イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。
 「何を心の中で考えているのか。
 『あなたの罪は赦された』と言うのと、
 『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
 人の子(イエス)が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」

 そして、中風の人に、
 「わたしはあなたに言う。
 起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。
 
 その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、
 寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。

 人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。
 そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。

この場面には、重病人、イエスに好意的な民衆、そして宗教エリートたちがいる。

イエスは人間的なヒーリングパワーによってではなく、
「主の力が働いて」病人を癒していたとある。

イエスは中風の人に対して、彼らの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言っている。

聖書世界で、罪とは、神に背くことをさす。
人間基準の罪とはまったく異なる。
この場面での重病は、神に対する罪の象徴である。

イエスが見た「彼らの信仰」とは、
イエスなら罪を清める権威がある=生ける神と信じて中風の人を連れてきたことをさす。
霊的には、神から離れていた人が、己の罪を認めて神のもとへ戻ってきたという意味になる。

 ここでイエスが中風の人にかけた言葉は、
人よ、あなたはわたしが神から遣わされた者であることを信じた信仰のゆえに、
 あなたが神に対して犯した罪は赦された
」という意味である。

宗教エリートはその言葉に反発する。

神に対して犯した罪をゆるす権利があるのは、神のみであって、
人間がしゃしゃりでて神の代わりに人をゆるすことなど不可能だから。

宗教エリートがイエスの言葉に反発した、その理屈は正しい。

人間どうしでも、Aさんに対する罪を、無関係のBさんが勝手に赦すということはできない。
しかも無関係のBさんに「赦す」と言われたところで、赦された実感はゼロである。
何の解決にもならない。

人間どうしのトラブルですらこうなのだから、まして神に対する罪を、
人間がしゃしゃり出て、神に代わって勝手に赦すということはできない。
だから人間イエスに対しては、「神を冒涜するこの男は、いったい何者だ」ということになる。

イエスも宗教エリートの理屈に賛成している。
だから、こう言っている。

人の子が、地上で罪をゆるす権威を持っていることを、あなたがたに知らせよう」

そして、彼らの目の前で、中風の人を一瞬で完治させてしまった。
イエスに癒してもらった人は、「神をあがめながら」帰っていった。

中風が治ったのは、神によって罪が赦されたことの象徴である。

その一部始終を見ていた群衆は、驚嘆し、「神をあがめ、畏れに満たされ」たとある。

この重病人は、己の病(神に対する罪)が人間には除去不可能なものであり、
己も周囲の人も、重病(罪)の前に人間が無力であることをよく知っていた。

だから、人間には除去不可能な病(罪)を癒したイエスは人間ではなく、
神の権威をもった存在=生ける御神体であることを、身をもって実感し、信じることができた。

重病をわずらっていたわけではない人々も、
その奇跡を目の当たりにしてしまったならば、
己が罪にとらわれる一方の無力な人間であることと、
イエスが生ける御神体であることを認めるしかないのである。
(罪を除去できない人間 → 重病人を治すような奇跡は起こせない。)

しかし宗教エリートたちは、これ以外の奇跡を直接・間接に見聞きしても、
素直にイエスを信じることはしなかった。
イエスというカガミ(神我見)に映った己の無力さを認めたくなかったのである。

■なお、罪の軽重と、病の軽重は無関係である。
重罪人だから重病や不幸に見舞われるということではないので要注意。
イエスはいわゆる因果応報、カルマの法則を否定している。

 さて、イエスは通りすがりに、
 生まれつき目の見えない人を見かけられた。

 弟子たちがイエスに尋ねた。
 「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。 本人ですか。それとも、両親ですか。」

 イエスはお答えになった。
 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。
 神の業がこの人に現れるためである。……」

 ……こう言ってから、イエスは地面に唾をし、
 唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。

 そして、「シロアム……の池に行って洗いなさい」と言われた。
 そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。

 ――『ヨハネによる福音書』 9章1-4、6、7節


イエスの弟子の質問内容は、現代日本でもよく問われることだと思う。

「この人がこういう不幸に遭うのはどうしてですか。
 本人の罪ですか、親の罪ですか、先祖の罪ですか、前世の罪ですか……云々」

それで罪(カルマ)を解消するための代償行為(補償行為・ペナルティー)として、
宗教儀式、金品奉納、神社仏閣のはしご、
スピリチュアル系セッション、ワーク、自己啓発、ポジティブシンキング等、
様々なところを渡り歩いて、どうにかその罪を解消しようとすることになる。

イエスは、理不尽な不幸の理由を、罪のせい(自業自得)にはしていない。
神の業がその不幸を通して現されるためだと言っている。
なので、罪を解消するための自力での各種代償行為は不要かつ無意味である。

理不尽な不幸、自力では解決不能な状況は、この盲人のように、
ただ神に信頼して解決してもらうしかない。
その過程で、その人はただ不幸から解放されるだけでなく、真の神を知る。

魂的には、五体満足で自分の思いどおりに生きることよりも、
何らかの苦難や不幸をとおして真の神を知ることが、価値あることとされる。

ともかくも、生まれつきの盲人は見えるようになって、帰っていった。
めでたしめでたし。

しかしここで、また宗教エリートが難癖をつけてくる。
安息日に盲人の目を開けたのが律法違反だったから。
 
宗教エリートは、五体満足、家柄も貴く、学歴があり、経済的にも豊かである。
モーセ時代に神から授けられた律法もきっちり字面どおりに守り通している。
それゆえ、彼らは天狗になっていた。

目の前で現された奇跡を認めて、イエスを神の人と信じるよりも、
「信仰深い自分、安息日をきっちり守っている素晴らしい自分」
を崇めることに執着した。
こういう宗教エリートたちには、真の神がわからない。

人間の自意識・エゴは、己の無力な真相に抵抗する。
己のプライドを守る言い訳をし、真実を否定する。
それを聖書ではサタン(悪魔)と表現することもある。

宗教エリートたちは、イエスが安息日を守らなかったというだけの理由で、
盲人の目がひらいた奇跡が神由来であることを否定した。

つまらないエゴを守ることに執着すると、
「安息日に病を癒すのは律法違反だから、イエスの奇跡は神業ではない」
というアホくさいことを平気で言いだすようになる。
しかもそのアホくささを自覚できなくなってしまうという悪循環にはまる。

宗教エリートは、イエスというカガミ(神我見)に映った己の無力さから、目を背けた。

己の醜さを鏡のせいにするのか?
というセリフが、アニメ映画『イノセンス』(<攻殻機動隊)にあったと記憶している。

(『セルフ・セラピーカード』チャック・スペザーノ)

宗教エリートは、まさしく、
己の醜さをイエスというカガミ(神我見)のせいにした人々である。
後にイノセンス(無罪)のイエスを、十字架刑にするのもこの人々である。
 

エゴは自分こそが全知全能の神であると思っている。

エゴの願いを叶えてくれる手下としての神、エゴよりも弱小な神なら喜んで認めるが、
エゴの見栄とプライドを破壊する神はぜったいに認めない。

ここでイエスの奇跡を認めることは、
イエスが真の神に遣わされてきた存在だと公言することと同じ。
宗教エリートがこういう奇跡を起こせないのは、己が罪人だと告白するのと同じ。
それを認めると、宗教エリートの面目は丸つぶれ。
エゴは駆逐され、滅ぼされるしかない。

一方、生まれつきの盲人は、もともと社会の最底辺で生きてきた。
そのような人には、固執すべきエゴも見栄もプライドもない。
だからイエスによって現された神の業に喜び、イエスを神から来た人だと素直に認められた。

魂的には、物質的に豊かな宗教エリートよりも、
真の神を知った盲人の方が恵まれている。

宗教エリートは、己の醜さに耐えられず、イエスというカガミ(神我見)から目を背けたが、
この盲人はイエスによって目を開かれ、ぜひとも御神体のカガミ(神我見)を見たいと願った。

   イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。
 そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。
 彼は答えて言った。
 「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」 」

 イエスは言われた。
 「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」

 彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。
 「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。
 こうして、見えない者は見えるようになり、
 見える者は見えないようになる。」  (ヨハネ9:35-39)
 
開かれたばかりの目で、生ける御神体を見る。
この人は、宗教施設からは追い出されたが、真の神と出会えた。
それにまさる幸せはない。

目が見えるようになったから幸せなのではなく、真の神と出会えたから幸せなのである。
目が見えるようになったのが救いではなく、
真の神を信じて従う人生の道が開かれたことが救いなのである。

■その他にも、ことあるごとに宗教エリートはイエスに難癖をつけては
墓穴を掘るということをくり返す。
しまいには、イエスを逆恨みして、どうにか殺してしまおうと画策する。

では、イエスの奇跡を目撃・体験した民衆はどうだったかというと、これもいまいち頼りない。

大半の人は、イエスの奇跡を、現世利益の恵みとしてしか受けとることができなかった。
病気直しをしてくれる便利屋としか思っていなかった。

 夜が明けると、イエスは寂しい所へ出て行かれたが、
 群衆が捜しまわって、みもとに集まり、
 自分たちから離れて行かれないようにと、引きとめた。

 しかしイエスは、
 「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない
 自分はそのために遣わされたのである。」 と言われた。

 そして、ユダヤの諸会堂で教を説かれた。 (ルカ4:42-44)


イエスは、奇跡を通して慈善事業をするためにやってきたのではない。
奇跡は、イエスが生ける御神体であることを人々に証明する手段でしかない。

イエスの目的は、神の言葉(福音)によって、人々の罪を悔い改めさせ、
神を信じる人の罪が赦されて救われる=永遠の命を得るという恵みを与えることである。

 罪の支払う報酬は死である。
 しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである(ローマ6:23)


しかし当時の民衆は、こういう霊的な救いの必要性を認識していなかったか、
現世利益を叶えて安楽な生活をすることだけで頭がいっぱいだったのか。
イエスが霊的な本質を語ってもその真意がわからず、

 弟子たちの多くの者は、これを聞いて言った。
 「これは、ひどい言葉だ。 だれがそんなことを聞いておられようか」

 ……それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。

 ――『ヨハネによる福音書』 6章60,66節


ということになった。

このようにしてイエスから離れていった人々は、
カガミ(神我見)に映った己の姿を見ることはできても、
それが霊的にどういう状態なのかを、正しく理解することができなかったのである。

生ける御神体であるイエスには、このように見えていた。

 群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをご覧になって、
 彼らを深くあわれまれた。  (マタイ9:36)


カガミ(神我見)から目を背けた宗教エリートは、カガミに映った己の霊的惨めさを理解した。
それゆえ、イエスを拒絶した。

民衆は、カガミ(神我見)に映る己を否定したわけではないが……
現世利益を追い求めて、霊的に死にかけている己の状況を、自覚できなかった。

■イエスが霊的に本気で語れば語るほど、
宗教エリートの憎悪はつのり、現世利益を期待する民衆は離れていった。

いわゆる12使徒をはじめ少数の人々はそれでもイエスを離れなかったが、
最期には12使徒だったイスカリオテのユダがイエスを裏切る。
イエスは宗教エリートに逮捕され、不当な裁判によって死刑とされる。

宗教エリートがみじめな気分になるのは、
イエスというカガミ(神我見)に映し出される己の醜さに耐えられないから。
だったら、カガミをぶっ壊してしまえばいいということで、イエスは十字架につけられることになる。

ちなみに十字架刑はユダヤ人の処刑方法ではない。
当時のイスラエル地域を支配していたローマ帝国の処刑方法である。
ユダヤ人は、ローマ帝国の被支配民だった。

ユダヤの民衆はイエスを、ローマ帝国からユダヤを独立させてくれる救世主だと期待した。
しかしイエスは政治家ではない。
魂の救いのために来たのである。
それがユダヤの民衆には理解されなかった。

宗教エリートは無知な民衆を扇動し、
ローマ帝国の総督ポンテオ・ピラトをもうまく利用して、
どうにかこうにかイエスを十字架につけることに成功した。

十字架上で、イエスは息絶えた。
ユダヤ宗教エリートの大勝利。

であるかに見えたが、そうはならなかった。

神社で祀られている、人間のお手製の鏡は、いちど壊してしまえばそれっきりである。

しかしイエスは生ける御神体である。
肉体という神殿を壊されても三日目に蘇ると、イエスは事前に予告していた。

 「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」
 
 ……イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。
 それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、
 弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、
 聖書とイエスのこの言葉とを信じた。

 ――『ヨハネによる福音書』 2章19、21節


鏡が光を反射するように、生けるカガミ(神我見)のイエスは、人の悪意を反射する。

墓に葬られて三日目に、イエスは復活する。
これによって、宗教エリートのエゴに、特大ブーメランが突き刺さることになる。

破壊したはずのカガミ(神我見)が復活する。
死人に口なしとはならなかった。
カガミ(神我見)に映された宗教エリートの罪と不正は誰の目にも明らかになってしまった。

宗教エリートに扇動されて、イエスを十字架につけろと騒いでいた烏合の衆にも、
それぞれがイエスに投げつけた悪意のブーメランが返ってくる。

イエスを見捨てて逃げてしまった情けない直弟子たちにも、
良心の呵責、己のふがいなさ、無力さ等のブーメランが突き刺さる。

復活したイエスが一人ひとりを指さして、
「おまえは俺を十字架につけただろう」と責めたのではない。

イエスがカガミであるがゆえに、イエスに投げつけられた悪意が、
投げつけた当人にそのまま反射されてしまったのである。

■ここで二つの道がある。

(A) ブーメランが突き刺さって粉々に砕けたエゴの罪を認め、神に赦しを乞う。

(B) ブーメランが突き刺さってもなお、瀕死のエゴを守ることに固執して、神に背く。


前者を選べば、その人は神に赦される。

 そのとが(咎)がゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。

 ……わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった
 わたしは言った、「わたしのとが(咎)を主に告白しよう」と。

 その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。

 ――旧約聖書『詩編』 32編1,5節


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 あなたはいけにえを好まれません。
 たといわたしが燔祭をささげても、あなたは喜ばれないでしょう。

 神の受け入れられるいけにえは砕けた魂です
 神よ、あなたは砕けた悔いた心を、かろしめられません。

 ――『詩編』 51編16,17節

ここでの生贄は、神に対して犯した罪を償うものである。

生ける御神体であるイエスに投げつけたブーメランが返ってきて、エゴが砕かれる。
己の罪深さのゆえに粉々に砕かれたエゴが、神に赦しを乞うための生贄となる。

悔いて砕けたエゴを生贄として神にささげた以上は、二度とそのエゴは復活しない。
エゴは永遠に滅びる。エゴは死ぬ。

それは己のエゴに従う生き方と決別して、神に従う生き方を選ぶということである。

イエスを神と信じて、己の罪を悔い改める。
たったそれだけのことで、これまでのすべての罪が神に赦してもらえるのは、
罪の償いとしてはあまりに軽すぎると思える。
しかしそれが神の愛であり恵みである。

↓イエスを神の子と信じて、エゴの罪を認めた人は、この恩恵にあずかれる。

・エゴの奴隷となっていた古い自分が、イエスと共に十字架につけられて死ぬ。
・そして神に赦され、神に従う新しい自分として、イエスと共に復活する

このゆえに、イエスは人を救う救世主メシア(=キリスト)なのである。
(キリスト教が十字架をシンボルとしているのは、たぶんこのため)

イエスに関すること、ことに十字架~復活のことは、
2000年前の歴史の一コマとしてではなく、霊的シンボルとして読み解くとよい。

そうすると、これらの歴史とはまったく無関係の現代日本人であっても、
霊的に、一人ひとりがイエスと出会うことになる。

神と自分の一対一の関係において、カガミ(神我見)であるイエスを前にすることができる。

はたして自分はイエスを十字架につけた側なのか、半信半疑の烏合の衆か、
自分は神に従っていると自負しながら肝心なときに神を裏切るような者なのか……

イエスを前にして、何をどうするかは、各人の自由意志に委ねられている。

■イエスの復活後、心底悔いて、エゴに死んだペテロ(イエスの一番弟子)は、
エルサレムの人々にこう語っている。

 「さて、兄弟たちよ、あなたがたは知らずにあのような事をしたのであり、
 あなたがたの指導者たちとても同様であったことは、わたしにわかっている。

 神はあらゆる預言者の口をとおして、キリストの受難を予告しておられたが、
 それをこのように成就なさったのである。

 だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために
 悔い改めて本心に立ちかえりなさい

 ……神がまずあなたがたのために、その僕(イエス)を立てて、おつかわしになったのは、
 あなたがたひとりびとりを、悪から立ちかえらせて、祝福にあずからせるためなのである。」

 ――『使徒行伝』 3章17-19、26節、

イエスを神の子と認めず、十字架につけた罪……神の愛に背いた罪をぬぐい去るために、
悔い改めて本心に立ち返れと言っている。

換言すれば、神の前に己の罪を認めて悔い改めるだけで、神から赦されるということ。

実は人間心理としては、もっと重い代償行為・ペナルティーが伴う方が受け入れやすい。
神の愛によって一方的に赦されるというのは、
エゴにとってはたいへん居心地が悪いので、逃げたくなる。


神の愛を素直に感謝して、罪を反省・謝罪して罪の赦しをえるよりは、
自分を苦しめる代償行為によって罪を埋め合わせる方が、心理的にはラクである。

しかも代償行為をがんばることによって、
「わたしはこれだけがんばって苦しんだのだから、神はわたしを赦してくれて当然だ」と、
赦しを当然の権利として、上から目線で請求できるかのような気分になる。
代償行為を重ねることで、己のエゴが、神よりも上位に立つのである。

これはもちろん神に背く罪である。
罪を赦してもらうつもりでやっている代償行為が、かえって神に背く罪となる。
神の愛を無視している。

代償行為は、罪悪感を感じている側が自発的に自分にペナルティーを課して、
それによって相手に対する罪悪感を帳消しにしようとするひとりよがりの自助努力である。

しかし神は人間に、そういう無意味な代償行為をいっさい求めていない。
むしろそういうことをやめてほしいと思っている。
一方的な神の愛=イエスを地上に遣わした真意を受けいれてほしいと思っているだけだ。

ようするに代償行為にはまる人は、自分のエゴを守ることしか考えていない。
己の罪、弱点、劣等感etcを素直に認めることができない。
神の前に、己の罪を認めて頭を下げるよりは、代償行為をがんばって、
「わたしはこれだけの苦行によって罪を清めました」と自慢することを選ぶ。

煩雑な宗教儀式、苦行、修行にこだわるのも、神に対する代償行為の一種である。

神の赦しの条件があまりにかんたんすぎて、神の愛が受けいれられない人は、
無意味な代償行為をもって、自分の正しさを主張するというエゴの道をつきすすむことになる。

宗教エリートたちは、その罪を赦される道が開かれているにもかかわらず、それを拒否。
悪意のブーメランが突き刺さって、エゴの罪が暴露されてもなお、エゴに固執する。

当時の宗教エリートのように、現世的にうまくいっている人ほど、
自分に自信があり、エゴが頑強だから、神に背きつづける期間が長い。
神に頭を下げることができない。
神の赦しと恵みを受けいれられない。
これは魂的にはたいへん不幸なことである。

そうした事態から、人の魂を救うために、神から現世的不幸が与えられることがある。
それは神罰ではなく、それによってエゴの無力さを自覚させて、エゴを粉砕し、
エゴの支配から魂を解き放つための恵みである。

カガミ(神我見)に映った自分がひどい状態ならば、そこから目をそらさないで、
神との関係をナオ(直)に戻したいと、神様に願うとよい。
そういう願いならば、神は必ず聞いて助けてくれる。


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今回はここまで。

【1】 歩く御神体、生けるカガミ(鏡・神我見)としてのイエス

  →人の悪意を反射するカガミ、真実を映して罪を自覚させるカガミ。
   罪を自覚した魂を赦し、神の道へ立ち返らせる神。

【2】 人の罪を取り除くいけにえの子羊、カタシロ(形代)としてのイエス

  →人の罪を引き受けるカタシロ、罪人の身代わりとなって処刑されるカタシロ。
   イエスは、イエスを神の子と信じた人の罪滅ぼしのカタシロとして死ぬが、
   イエス自身は無罪の神霊であるがゆえに死なない→復活する。

次回は【2】について。

 → 人類の罪を引き受けるカタシロ(形代)としてのイエス … 神の子羊、子羊の血



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映画『復活 risen』は、イエスが処刑された直後から復活・昇天までの出来事をメインにしている。
この部分をメインにした映画は珍しいんじゃないかな。

福音書の記述をベースに、ローマ人目線でストーリーが進む。
イエスの復活がよくわからないと思う人は、この映画を見てみるといいかも。




※ 記事中の聖句引用元/日本聖書協会『新共同訳聖書』または『口語訳聖書』

※イエスキリストの純粋な福音を知りたい人には、
 『キリスト教放送局 FEBC 』をお勧めします。
 
 
■ 「神と聖書と日ユ同祖論」 記事一覧&リンク →こちら

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