前回の続き。 
 
【今回のもくじ】

・ エゴを延命する = 生命の樹から切り離される
・ 生命の樹(永遠の命)への道であるキリスト
・ 受けいれる(QBL・カバラ) / 信じる(AMN・アーメン)

 
■ エゴを延命する = 生命の樹から切り離される
 
当人に自覚がなかったとしても、心の底からの善意であったとしても、
真実の神に背く生き方をしているなら、それは「罪」である。
 
聖書でいう罪は、対人関係の罪ではなく、対神関係の罪
 
対神関係における罪のはじめは、アダムとエバの物語に書かれているとおり。
 
二人が神の言いつけを守らず、蛇に勧められるままに、
知恵の実を食べてしまったところからはじまる。
 
アダムとエバは、イチジクの葉で衣を作って、裸(エゴの罪)を隠そうとした。
神に不恰好な本性を見られたくないから、コソコソ物陰に隠れた。
 
 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、
 二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
 
 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。
 アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
 主なる神はアダムを呼ばれた。
 「どこにいるのか」
 
 彼は答えた。
 「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております
 わたしは裸ですから。」
                  
 ――『創世記』 3章7-10節
 
アダムとエバが知恵の実を食べてしまったことよりも、
知恵の実を食べたことを隠し、神から逃げたことの方が深刻な罪である。
 
アダムとエバは、
その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない(ヨハネ3:20)」人の元祖である
神に対して自分の言い開き(ヘブル4:12)ができない人でもある。
 
アダムとエバが何をしたのか、どこに隠れているのか、神には最初からバレバレ。
二人が素直に謝罪すれば、神はすぐに二人を救うことができた。
 
しかし二人は罪を隠して、神を避けることを選んだために、楽園追放となった。
 
 × 知恵の実を食べてしまった罰として、楽園を追放された。
 
 ○ 知恵の実を食べてしまった非を認めず、謝罪せず、他者のせいにして、
    自分を正当化した罪によって、神との同居が不可能になった。
 
エデンの園の中央には「生命の樹/永遠の命」がある。
 
楽園を追放されたアダムとエバは、エゴの延命には成功したが、
生命の樹からは完全に分離(divide)されてしまった。
 
 (神は)こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、
 エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。
                                
 ――『創世記』 3章24節 
 
ケルビムは天使のこと。
生命の樹を守る「剣の炎」は、「炎の剣」と訳されているバージョンもある。
「剣にも炎にも見える霊的存在」という意味かと思う。
 
剣は善悪を分離(divide)するし、炎は悪を焼き尽くして浄化する。
生命の樹を守っているのが剣であれ、炎であれ、
神を避ける道を選んだアダムとエバが、
神の剣と炎を突破して生命の樹に近づくことは不可能。
 
こうしてアダムとエバが生命の樹から分離されたとき、二人は永遠の命を失い、
 mortal/死すべき人 」となった。
 
 わたしにつながっていない人があれば、
 枝のように外に投げ捨てられて枯れる。
 そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
                       
  ――新約聖書 『ヨハネ福音書』 15章6節
 
mortal なアダムとエバの子孫……すべての人間も同じく、自力では生命の樹に近づけず、
「 man is mortal. /人間は必ず死ぬ」ということになった。
 
「私は正しい」という自分のエゴを守って、生命の樹(永遠の命)とのつながりを失う。
それが原罪……原罪は、人類共通の自己弁護本能といってもいいと思う。
 
アダムとエバの長男カインも、両親と同じパターンの罪をおかす。
 
 カインは弟アベルに言った。
 「さあ、野原へ行こう」

 彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。

 主はカインに言われた、
 「弟アベルは、どこにいますか」。

 カインは答えた、
 「
知りません。わたしが弟の番人でしょうか」
                      
  ――旧約聖書『創世記』 4章8,9節
 
カインは弟のアベル殺しを神に隠したことで、その地から追放された。
 
■ 生命の樹(永遠の命)への道であるキリスト
 
神を避け、イチジクの葉でエゴを隠している状態を、
聖書では「罪の奴隷」と呼んでいる。
 
神は、罪の奴隷となっている人々を原罪(エゴの本能)から解放して、
ふたたび永遠の命を得させるために、メシア(キリスト)であるイエスを地上に贈った。
 
メシアに偽りの平和(イチジクの葉)を切り捨ててもらうことこそが、魂の救いである。
 
偽りの平和は、イチジクの葉で裸を隠しているのと同じで、安らぎがない。
安らぎがないから、コソコソ隠れるか、真の神以外のあらゆるものに頼ろうとする。
 
しかしメシアという神剣に切られた者の本性(エゴ)は、
もうイチジクの葉(人間的小細工)ではごまかせない。
 
そこで己の真相を認めて、神に立ち返るなら、神はその人を裸のまま放置しないで、
神が作った皮の衣(メシアの比喩)を着せてくれる(創世記3章21節)
 
メシアの剣に切られて、罪から分離された者(divide)は、
神聖(divine)な者として、神(the Divine Being)の前に堂々と立つことができる。
そこに生命の樹(永遠の命)もある。
 
生命の樹といえば魔術的カバラ(ユダヤ神秘主義)を連想する人も多いと思うが、
カバラ研究をするのは、神の庭に忍び込んで柿泥棒をするのと同じ
それはぜったいに成功しないから、今すぐやめた方がいい。
 
カバラ(QBL)はヘブライ語で「受け入れる」という意味だそうだ。
ヘブライ語の親戚のアラビア語でも同じく、「QBL」は「受け入れる」という意味だ。
 
生命の樹の実(永遠の命)がほしいなら、
素直に神の言葉を受け入れ(QBL、神に立ち返るだけでいい。
そうすれば、神からじきじきに、生命の樹の実(永遠の命)を与えてもらえる。
それがカバラ(QBL)の全てだと思う。
 
 
『ヨハネ福音書』は、イエスの言葉が永遠の命(生命の樹)につながる道であることを、
様々な表現でくりかえし強調している。
 
 はっきり言っておく。 (まことに、まことに、あなたがに言う。)
 わたし(イエス)の言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方(神)信じる者は、
 永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
                                  
 ――『ヨハネ福音書』 5章24節
 
またイエスは、最後の晩餐(十字架刑の前夜)で、イスカリオテのユダが退出した後、
この有名な言葉を直弟子たちに語った。
 
 わたしは道であり、真理であり、である。
 わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
                            
 ――『ヨハネ福音書』 14章6節
 
イエスは、人が神のもとへ帰るための「道であり、真理であり、命である」。
イエスを通れば、生命の樹を守っているケルビムや剣・炎もわけなく越えられる。
つまり永遠の命を得られるという。

 

イエスはまた、神と人を、「ぶどうの木と枝」の関係にもたとえている。
 
 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。
 人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、
 その人は豊かに実を結ぶ。
 わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
                        
 ――『ヨハネ福音書』 15章5節
 
イエスにつながることで、人は豊かに実を結ぶ……
生命の樹につながって永遠の命を得られるということ。
 
イエスが言う「わたしにつながって……」は、
英語では「abide in me/わたしにとどまって……」である。
接着剤で表面どうしをくっつけるようにしてイエスにつながる(コネクト/connect
という意味ではない。
 
abide(アバイド) … とどまる、居残る、すなおに受けいれる(≒ QBL・カバラ)
 
「聖霊が人間の身体に宿る」というときの「宿る」も、英訳は abide。
 
イエスが言う、
人がわたしにつながって( abide )おり、
 わたしもその人につながって( abide )おれば……」は、
イエスの神霊(聖霊)と一心同体になるという意味で受け取ってよいと思う。
 
ぶどうの木と枝のたとえ話に続けて、ヨハネ15章7節で、イエスはこう語る。
英語訳(NRSV版)と併記してみる……動詞「abide」に注目してほしい。
 
 あなたがたが、わたしにつながっており、
     If you abide in me,
 
 わたしの言葉が、あなたがたの内にいつもあるならば、
     and my words abide in you,
 
 望むものを何でも願いなさい。
      ask for whatever you wish,
 
 そうすればかなえられる。
      and it will be done for you.
 
ヨハネ福音書の15章前半は、英語聖書では「abide」という動詞の連射が続く。
私の手元の日本語聖書では、「つながる」「内にいつもある」「とどまる」と、
その都度異なる日本語で訳されているため、
abide/とどまる」 の迫力がぜんぜん伝わらなくて、残念だ。
 
とにかくイエスが語っているのは、abide、abide、abide、abide、abide……
「わたしにとどまっていなさい、すなおに受け入れなさい(QBL・カバラ)」ということ。
そうすれば永遠の命を得られる、望みはかなえられると。
 
■ 受けいれる(QBL・カバラ) / 信じる(AMN・アーメン)
 
しかし人間のエゴはこう言う。
 
「神に従うのは嫌だ。
 わたしの人生はわたしのものだ。
 今の生き方を今後も維持したい。
 なおかつ永遠の命がほしい。
 だからどうにかして、神を操り、わたしの意向に従わせよう。」
 
その欲望を満たしたければ、神の園に忍び込んで、生命の樹の実を盗むしかない。
そこでごちゃごちゃ複雑怪奇なカバラ理論その他の神秘研究の虜になってしまう。
人間がいくらそういう研究をしたところで、神から柿泥棒をすることは不可能なのに。
 
神の道は子どもでもわかるシンプルなもの。
複雑な理論・メソッドはいらない。
 
イエスはこう語る。
 
・ イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。
 弟子たちは、これを見て叱った。
 しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。 
 
 「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。
 神の国はこのような者たちのものである。
 はっきり言っておく。 (まことに、まことに、あなたがたに言う。)
 子供のように神の国を受け入れる(QBL)でなければ、
 決してそこに入ることはできない。」
                   
 ――『ルカ福音書』 18章15-17節
 
・ 「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。
 これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、
 幼子のような者にお示しになりました。
                       
 ――『マタイ福音書』 11章25節
 
永遠の命がほしいなら、
神の言葉を、子どものように素直にそのまま受け入れ(QBL
信じる(AMNだけでよいと、イエスは各所で語っている。
 
神秘主義としてのカバラ(QBL)が何を目指しているかは知らないが、
神秘研究や数字パズルによって、神の真意を解き明かそうとするのは、邪道。
それらは、神の真意とはぜんぜん関係がない。
 
神に関するカバラ(QBL)は、子どもにも理解できる日常のこと。
 
それゆえイエスは、神の国が「知恵ある者や賢い者には隠」されている一方で、
「子どものように神の国を受けいれる(QBL)人」に開かれていると語っている。
 

受け入れる(QBL)人は、信じる(AMN)人でもある。

「イエスの言葉は受けいれる。でも信じない」というのはあり得ない。
 
キリスト教徒がよく「アーメン」というのは、
ヘブライ語「AMN」を翻訳しないで、原音のまま発音したもの。
「本当に、まことにそうです、信じます」等の意味。
 
ちなみに、日ユ同祖論(日本人の祖先は古代ユダヤ人説)の一説にいう。
日本の天津神(アマツカミ)の神名、「天之〇〇神」。
冠詞の「/アマ、アメ、アマノ」は、
ヘブライ語の「AMN/アーメン、真実」のことだそうだ。
たとえば「天照大御神」なら、「アメン(真実)照らす大御神」という意味になる。
 
 ・ 天津神/アマツカミ …… AMN なる神、真実の神YHWH
 
 ・ 地祇、国津神/クニツカミ … 人間社会の指導者、お上(オカミ)を神格化したもの
 
 
話を戻そう。
 
私はヘブライ語がわからないから、ヘブライ語の親戚のアラビア語で考えるのだけど、
アラビア語の「QBL/受け入れる」「AMN/信じる」は初級レベルの日常単語だ。
けっして特殊な魔術用語ではない。
 
アラビア語訳の聖書では、QBLAMNという動詞・派生語がしょっちゅう使われている。
たとえば、「神の国でいちばん偉い人」について、イエスはこう語る。
 
 弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。
 イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、
 御自分のそばに立たせて、言われた。
 
 「わたしの名のためにこの子供を受け入れる(QBL)者は、
 わたしを受け入れる(QBL)のである。
 
 わたしを受け入れる(QBL)者は、
 わたしをお遣わしになった方(神)を受け入れる(QBL)のである。
 
 あなたがたの中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」
                       
 ――『ルカによる福音書』 9章46-48節
 
 
『ヨハネ福音書』の1章ではこう。
 
 言(イエス)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れ(QBL)なかった。
 しかし、言は、自分を受け入れた(QBL)人、
 その名を信じる(AMN)人々には神の子となる資格を与えた。  (ヨハネ1章11、12節)
 
ヨハネ6章ではイエスが群衆に語る。
 
 はっきり言っておく。 (まことに、まことに、あなたがたに言う。)
 信じる(AMN)者は永遠の命を得ている。
 わたしは命のパンである。   (6章47、48節)
 
しかしほとんどの人は、このイエスの話を霊的に受け入れ(QBL)られなかった。
そして……
 
 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。
 
 そこでイエスは十二人(の使徒)に、
 「あなたがたも離れて行きたいか」 と言われた。
 
 シモン・ペテロが答えた。
 「主よ、わたしたちはだれのところに行きましょうか。
 あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ(AMN)、また知っています。」 (6:66-69)
 
イエスの直弟子たちは、イエスが神の子であり、永遠の命であると信じて(AMN)いた。
 
しかしイスカリオテのユダはイエスを裏切る。
イエスが逮捕される際、ユダがイエスに「裏切りの接吻」をする。
アラビア語では「接吻」も「QBL・カッバラ」という。
 
古代中東文化の接吻は、恋愛表現というよりは、
相手を出迎えて(istQBL)、会って(Q-BL)、受けいれる(QBL)という
意思表示だったのだろうと思う。
 
ユダはイエスに「QBL」した。
イエスを受け入れた(QBL)ふりをして、裏切りの接吻(QBL)をした。
 
魔術カバラ(QBL)とか聖書の暗号とか、神秘研究によって永遠の命を得ようとするのは、
神を受け入れ(QBL)なかったユダと同じだと思う。
 
イエスはそういう輩を、神の国という牧場に侵入する強盗にたとえて、厳しく戒めている。
 
 はっきり言っておく。 (まことに、まことに、あなたがたに言う。)
 羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、
 盗人であり、強盗である。
 
 ……わたしは羊の門である。
 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。
 しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
 
 わたしは門である。
 わたしを通って入る者は救われる。
 その人は、門を出入りして牧草を見つける。
 
 盗人が来るのは、盗んだり、屠(ほふ)ったり、
 滅ぼしたりするためにほかならない。
 
 わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
 ……わたしは彼らに永遠の命を与える。
 彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。
                           
 ――『ヨハネ福音書』 10章1、7-10、28節
 
イエスは「羊の門」……神の国という牧場への唯一の入り口だということ。
その門あるいは道を通りたければ、
子供のように素直にイエスをメシアだとQBL(受け入れる)、AMN(信じる)だけでよい。
諸々の宗教戒律を守ることや、神秘研究等はまったく不要。
 
「イエスは要らない、永遠の命だけ欲しい」という場合は、
正門を避けて垣を乗りこえる強盗になるしかない……それはけっして成功しない。
天使に賄賂を贈って裏口入門させてもらうことも不可……神の国には正門しかない。
イエスを奉ずる宗教団体は避けていいが、イエスそのものを避けてはならない。
 
 
主を畏れる人はまっすぐ歩む。 主を侮る者は道を曲げる。
                                    
 ――旧約聖書 『箴言』 14章2節
 
 
※ 記事中の聖句引用元/日本聖書協会『新共同訳聖書』または『口語訳聖書』
 
※イエスキリストの純粋な福音を知りたい人には、
 『キリスト教放送局 FEBC 』をお勧めします。
■ 「神と聖書と日ユ同祖論」 記事一覧&リンク →こちら
 
 

***************************

※このブログのコメントは承認制です。
ブログチェックのタイミングにより、
コメントの反映・返信が2,3日後になる場合もあります。
土日は休みです。


***************************

本ルーン魔女KAZのホームページ/著書一覧は こちら

本 無料WEBコミック雑誌てんてる …… KAZの著書の版元さんが運営しています☆
無料WEBコミック雑誌てんてる