前回の続き。
 
【今回のもくじ】

・ 柔和なはずのキリストが喧嘩を売った?
・ ケジメをつけるキリスト
・ 神(divine)は、万事に境界線(divide)を定める
・ 「ハレ」と「ケガレ」は両立しない
・ 「慈悲」と「峻厳」は両立する
・ 他者との境界線(divide)を尊重せよ
・ ケジメ(divide)がなければ、すべてを失う
・ 二人の主人に仕えることはできない
・ 隠れキリシタンが明るみに出るとき

 
■ 柔和なはずのキリストが喧嘩を売った?
 
共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)では、子ロバに乗って入城したイエスは、
エルサレム神殿で「宮清め」と呼ばれる一騒動を起こす。
(ヨハネ福音書では、イエスの伝道初期の事件となっている)。
 
神聖でなければならないはずのエルサレム神殿が、
「強盗の巣」「商売の家」になってしまっていることに激怒し、
イエスが神殿内の商売人たちを強引に追い出してしまうのだ。
もちろんユダヤ宗教エリートたちの不興を買うが、そんなことはおかまいなし。
 
たいへん重要な個所なので、
『マタイ福音書』と『ヨハネ福音書』から、イエスの憤慨ぶりを見てみよう。
 
★ 【 マタイ福音書 21章12,13節 】
 
 それから、イエスは神殿の境内に入り、
 そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し
 両替人の台や、鳩を売る者の腰掛けを倒された
 そして言われた。
 
 「(聖書に) こう書いてある。
 『わたし (神) の家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』   (※イザヤ書56:7)
 ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしている。」
                          

★ 【 ヨハネ福音書 2章13-17節 】

 
 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。
 
 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、
 座って両替をしている者たちをご覧になった。
 
 イエスは縄で鞭 (むち) を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し
 鳩を売る者たちに言われた。
 
 「このような物はここから運び出せ。
 わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」
 
 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」
 と (聖書に) 書いてあるのを思い出した。
 
イエスは暴力はふるわない。
 
しかし縄で作ったムチをふりまわし、テーブルや椅子をひっくり返すという、
かなり激しいアクションでもって、義憤をあらわにしている。
神殿は「祈りの家」であるべきはずなのに、「強盗の巣」「商売の家」になってしまっていると。
 
これはイエスが不寛容だということではなく、
神聖という性質の純粋さゆえに、
罪やケガレとの同居が不可能ということを現していると思う。
 
■ ケジメをつけるキリスト

 

メシア(キリスト)はhumble……謙遜、柔和な存在だが、
謙遜・柔和とは、なんでも優しく包み込んであやふやにするという意味ではない。
 
メシアはdivine……神、神聖な存在であるゆえ、俗世のケガレとは同居できない。
水と油が分離するように、万事きっちり境界線を定めるケジメをつける
 
だから神の宮であり、「祈りの家」であるはずのエルサレム神殿が、
「商売の家」「強盗の巣」となっている状態を見過ごせない。
 
divine(ディヴァイン/神、神聖)
divide(ディヴァイド/分割、分離、議会の採決)
両者の語源は同じ。
 
神聖divine」 という言葉には、
聖別divide = 神聖でないものからの分離
という意味が内包されている。
 
厳しいようだが、神聖なものは、「清濁あわせ呑む」ということはしない
神はあれとこれとの境界線を定めて、きっちり区別する。
 
 あなたがたの言うことばは、
 『はい』 は 『はい』、 『いいえ』 は 『いいえ』 としなさい。
 それ以上のことは悪い者から出ているのです。
                           
 ――『マタイの福音書』 5章37節  ※新改訳2017
 
然りか否か、是か非か、清か濁か、0か100か、白か黒か。
その区別を曖昧にすることはできない。
ダメなものはダメだと、神の基準はこうだと、人々に示すのもメシアの役割。
 
■ 神(divine)は、万事に境界線(divide)を定める 
 
『創世記』の冒頭、1章1-10節まで、
神がひたすら「境界線を定める」という作業が続く。
 
天地創造の最初に「混沌/カオス」があったが、
神は混沌を混沌のまま放置せず、諸々の分離作業(divide)を始める。
 
光と闇、昼と夜、夕と朝、天と地、海と陸。
天地創造 = 天地分離。
 
植物、海洋生物、陸上動物……創造作業がひと段落する度に、
神はこれを見て、良しとされた」とある。(創世記 1章4、10、12、18、21、25節)
 
そして創造の6日目に人間を創造して、すべての創造作業が完了したところで、
 
 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。
 見よ、それはきわめて良かった。  (1章31節)
 
神は清濁ごちゃまぜのカオス状態を良しとはしないのだ。
すべてのものが整然として、あるべき状態、あるべき所にあることを良しとする。
神聖さ(divine)には、必ず峻厳なる分離(divide)がともなう。
 
■ 「ハレ」と「ケガレ」は両立しない
 
divine/神聖」は、日本語の「ハレ/晴れ」のイメージで考えてもよいと思う。
 
空が曇っていたり、霧や煤煙でにごっていたら、「ハレ/晴れ」とは言わないよね。
空が曇っていない、煤煙のにごりもない、澄みきった青空を「ハレ/晴れ」と言うね。
「神聖」も同じく、一点のくもりもない「ハレ/晴れ」だとイメージしていい。
 
エルサレム神殿は、神に祈りを捧げるための神聖な空間。
俗社会から分離された、神聖なる「祈りの家」。
ハレル・ヤー(主を讃えよ)という祈りの声が響く、ハレの空間でなければならない。
 
神殿内で商売をしてしまうと、そこは俗社会(ケまたはケガレ)の一部となってしまう。
神聖な祈りの空間ではなくなってしまう。
ハレの場ではなく、ケガレの場となってしまう。
 
「祈りの家/ハレ」と「強盗の巣、商売の家/ケガレ」を兼ねることはできない。
メシアであるイエスはもちろん前者を選ぶ。
だから、神殿を強盗の巣(ケガレ)としてしまっている要素を排除した。
そうすることで、エルサレム神殿のケガレを清めた。
ケガレを清めると、晴々とする……ハレになる。
 
イエスは純粋(ハレ・神聖)ゆえに、
濁った人々(ケガレ・罪人)から逆恨みされてしまうメシアである。
 
■ 「慈悲」と「峻厳」は両立する
 
それでもイエスの宮清め事件については、こう思う人があるかもしれない。
 
「メシアは謙遜で、高ぶらない、柔和な人のはずではないか?
 いくら神のためとはいえ、神殿の境内で派手に暴れて、
 わざわざユダヤ人たちを怒らせるような言動をするのはいかがなものか?」
 
人を不機嫌にするのは、傲慢でも罪でもない。
人の機嫌を優先して、悪を放置することが罪である。
 
神に対して従順であるか否かが、イエスの行動基準。
人々の習俗に対して従順か否かではない。
 
だからイエスは、何でも受け入れてしまうイエスマンではありえない。
だれが不機嫌になろうと、逆恨みされようと、「否は否」という厳しさをもっている。
口で言っても聞かないような相手には、行動で示さなければならないこともある。
 
スピリチュアル業界では、イエス・キリストは聖母マリアの付属物であり、
愛と慈悲深さオンリーの存在であるかのように扱われている。
そういうイエス像は間違っている。
イエスはマリアの付属物ではないし、慈悲深いだけの甘ったるい存在でもない。
 
イエスは男性として顕現していることからしても、父性、男性性が強い存在である。
父神ヤハウェと同様、基本的に厳しい。
イエスは甘い砂糖ではなく、ケガレを清める塩なのだ。
 
なんでもかんでも「あなたはそのままでいいんだよ」などと受け入れて許してしまうのは、
自己保身の事なかれ主義、あるいは人気取りのための偽善であって、
けっして「慈悲」、神愛(アガペー)ではない。
 
「清濁あわせ呑む」という態度は、人間受けはいいかもしれないが、
魂が滅びゆく相手を見殺しにしているわけだから、残酷だ。
アル中患者の飲酒を放置しているのとかわりない。
 
否は否、ダメなものはダメ、違うものは違うと、はっきり示すこと。
曖昧に放置せず、divide(峻別)を示すことは、慈悲の現れ。
divideはけっして融通がきかない石頭の業ではない。
 
■ 他者との境界線(divide)を尊重せよ
 
ただし、物事を厳しくdivideするのは、あくまで自分の主権の範囲内でのこと。
神と自分との関係においてのこと。
 
イエスはメシアであり、最後の審判での裁き主だったからこそ、
エルサレム神殿での宮清めができた。
 
イエス以外の人間が、イエスにかわって裁き主となることはできない。
異教徒の寺院で爆弾テロをするのは神の御心ではない。
異端者を焼き殺すのも神の御心ではない。
 
相手から頼まれたのでないかぎり、他者との境界線(divide)をのりこえて、
相手の領域にズカズカと踏み込んではいけない。
 
 あなたの神、主があなたに与えて得させられる土地で、
 すなわちあなたが受け継ぐ嗣業の土地で、
 最初の人々が定めたあなたの隣人との地境を動かしてはならない
                           
 ――旧約聖書 『申命記』 19章14節など
 
旧約聖書では、「先祖の地境を動かすな」という規定が何度も出てくる。
不動産だけの話でなく、各人のプライベート領域の境界線(バウンダリー)として読むとよい。
 
公私の境界線を動かしてはならない。
隣人のプライベート領域に侵入して、自分の正しさをおしつけてはならない。
仲良くすることと、図々しい境界侵犯を混同してはならない。
 
とくに女性に多いと見えるが、
「この人に任せておくのは心配だから、わたしが正しいdivide(選択)をしてやろう」
という過干渉は慈悲ではない。
相手の自己決定権を横取りする強盗だと思っていい。
 
神は各人の自由意志を尊重して、各人に自主的に選ばせる。
優柔不断の人に対しては、忍耐強く待つ。
 
自分と相手の健全な線引き(divide)ができないのは、ケジメがないから。
ケジメなく、情に溺れて、自分の信仰にのぼせあがると、迷惑な狂信者になってしまう。
 
■ ケジメ(divide)がなければ、すべてを失う
 
イエス降誕より850年ほど前、旧約時代の預言者エリヤは、ユダヤ人に勧告した。
 
 「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか
 もし主が神であるなら、主に従え。
 もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」
 
 民はひと言も答えなかった。
                   
 ――旧約聖書 『列王記上』 18章21節
 
エリヤに勧告された民は、「ひと言も答えなかった」。
神ヤハウェと、偽神バアルを、きっちりdivide(区別)できなかった。
あるいは、区別したくなかった。
区別してしまうと、どちらかを捨てることになってしまうから。
彼らは両方とも保持しておきたかったのかもしれない。
 
しかし神に対する優柔不断は、万事にケジメがなく、だらしない生き方を意味する。
どっちつかずのまま数百年を過ごしたユダヤ人王国は、BC6世紀に滅亡する。
 
どっちつかずのままにしておくというのは、「両立させる」ではなく、
「どちらも選ばずに腐らせる」のと同じ。
 
どっちつかずの古代ユダヤ人王国は、内部の政治腐敗にケジメをつけられず、
外部からの侵攻を防ぐこともできず、国も富も神も失った。
霊的境界線を守らなかったために、すべてを失ったのだ。
 
区別しない、決断しないというのは、ケジメがない状態。
しかしdivine(聖)である神は、最後の審判というケジメをつける神である。
最後の審判をくだすのはイエス。
ミケランジェロの『最後の審判』のイエスは、峻厳な審判者である。
 
 
最後の審判で厳しいdivide(採決・裁き)をくだすことは、神の望みではない。
だからメシアであるイエスは、ケジメのない人に対して、
地上で生きている間に正しいdivide(選択)をするよう迫らずにはいられない。
 
人間が罪からのdivide(分離)を拒むなら、エルサレムでの宮清めのように、
少々あらっぽい手段を使ってでも、人間が正しいdivide(選択)ができるように導くだろう。

『マタイ福音書』の23章で、イエスが宗教エリートを激しく非難しているのも、

非難するのが目的ではなく、彼らの目を覚まさせるためだ。
 
私がルーン魔女活動をやめたのも、理由はいろいろあるが、
ようするに、旧約聖書の預言者たちの勧告を聞いて、「主に従おう」と決断した結果、
霊的ケジメをつけ、いろいろなものをdivide(分離)する流れになったということ。
 
ルーン魔女活動をやめたことで、対人利害を気にする必要がいっさいなくなった。
私の足元につけこんでくるような人等を一掃できて、スッキリした。
無難な社交辞令でごまかさないで、はっきり「ノー」が言えるようにもなってきた。
守るべき霊的ケジメ・境界線(divide)をだいぶ修復できてきたように思う。
 
■ 二人の主人に仕えることはできない
 
エルサレム神殿でのイエスのやり方は、その場にいたユダヤ人たちの不興を買った。
しかしイエスは、ユダヤ人の顔ではなく、神の顔を立てるために来たのである。
 
(A) 神に背く慣習に迎合して、人々の好意を得るか。
(B) 神の前に正しいことをして、人々から嫌われるか。
 
二つに一つ。
選ばなければならない。
divine(神聖)を基準としたdivide(採決)をしなければならない。
保留も両立も不可。
 
 だれも、二人の主人に仕えることはできない。
 一方を憎んで他方を愛するか、
 一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。
 あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
                            
 ――『マタイによる福音書』 6章24節
 
「人間は習慣の奴隷」だという。
換言すれば、「習慣は人間を支配する神」だということ。
 
長年の慣習はやがて神格化され、人々を支配する神となる。
その最たるものが宗教制度。
 
エルサレム神殿の境内で商売をすることも、おそらく長年の慣習だったと思う。
ほとんどのユダヤ人はその慣習に疑問を抱くことなく、
「慣習に忠実 = 神に忠実」 だと思って、その慣習に従っていただろう。
 
エルサレム神殿内の商売人も、それを黙認していた宗教エリートたちも、
「長年の慣習」という偽神(偶像)に仕える俗人だったとみていい。
 
メシアであるイエスはもちろん、人の慣習ではなく、生ける神に仕えることを選ぶ。

エルサレム神殿境内で暴れるというアクションでもって、

「長年の慣習」「先祖の伝統」という偽神を否定した。

 

生ける神ヤハウェをさしおいて、「自分たちに心地よい習慣」という神に仕える人々は、
エルサレム神殿に本物の神聖さをとりもどそうとしたイエスの宮清めが許せない。

 

民衆の前で恥をかかされた(と感じた)宗教エリートたちは、
イエスをネチネチ逆恨みしたあげく、十字架につけてしまう。
 
■ 隠れキリシタンが明るみに出るとき
 
長崎の潜伏キリシタン史跡が、先月末に、世界文化遺産に登録されたとのこと。
事情あって表に出てこられなかったキリシタンの隠れ家が、
今は文化遺産として、全世界にさらされることとなったわけだ。
 
『ヨハネ福音書』では、イエスの宮清め事件の後、
ニコデモというパリサイ人(宗教エリート)が、夜半にお忍びでイエスを訪ねてくる。
 
ニコデモはその後も隠れキリシタンとして、宗教エリートたちと共に行動していた。
イエスの宮清めに感化されても、これまでの生き方をdivide(分離)できなかった。
 
それでもニコデモはユダヤ律法を駆使して、
宗教裁判からイエスを守ろうとしたこともある。(ヨハネ7章50節)
しかし結局、イエスの十字架刑を回避することはできなかった。
 
イエスの処刑後、何の伏線もなしに、もう一人の隠れキリシタンが登場する。
アリマタヤのヨセフなる有力者が、十字架上で死んだイエスの遺体を引き取りに来る。
ヨセフについてはこう記されている。
 
・ アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、
 勇気を出してピラトのところへ行き、
 イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。
 この人も神の国を待ち望んでいたのである。
                              
 ――『マルコ福音書』 15章43節
 
・ その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて
 そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、
 イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。
 ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。 
 そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことがあるニコデモも
 没薬と沈香を混ぜた物を百リトラ(約32kg)ばかり持ってきた。
                             
 ――『ヨハネによる福音書』 19章38、39節

イエスの遺体を引きとりに来たヨセフとニコデモは、聖書には書かれていないが、
当時の隠れキリシタン仲間として、どこかで密会することがあったのかもしれない。
 
イエスは直弟子たちにこう言ったことがある。
 
 人々を恐れてはならない。
 
 覆われているもので現されないものはなく、
 隠されているもので知られずに済むものはないからである。
 
 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。
 耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。
                           
 ――『マタイ福音書』 10章26、27節
 
かつて夜の暗闇にまぎれてイエスを訪ねたニコデモも、
ユダヤ人を恐れていたアリマタヤのヨセフも、
イエスの生前にはこの教えを実行する勇気がなかった。
 
しかしイエスの十字架刑を阻止できなかった後悔からか、
彼らはイエスの遺体を引きとって葬るという行動によって、
「実はイエスをメシア(キリスト)だと信じていました」と公に宣言したことになる。
 
隠されていたものが、表に現れるのもdivide(分離)。
隠れキリシタンであることをやめるというdivide(選択)ができた時、
彼らは本当の意味でイエスの弟子となったのかもしれない。
 
ニコデモとヨセフのその後は不明だが、
きっと宗教エリートの世界には戻らなかっただろう。
イエスが死者の中から復活したように、
彼らも古い居場所(エゴの墓)から抜け出て、新しい生き方を始めただろうと思う。
 
 
 
***************************
 
■ 次回予定
 
(仮題) 平和ではなく剣をもたらすキリスト … エゴの本性を暴き、罪から分離する
 
divinedivideというテーマで、あと半分書き残したことがある。
というか、書いているうちに、
あらたに思い浮かんできたことがいろいろあるので、それを次回に書きたいと思う。
 
(次回) 剣と分裂(divide)をもたらすキリスト … 守るべき境界線と、壊すべき境界線
 
※ 記事中の聖句引用元/日本聖書協会『新共同訳聖書』または『口語訳聖書』
 
※イエスキリストの純粋な福音を知りたい人には、
 『キリスト教放送局 FEBC 』をお勧めします。
■ 「神と聖書と日ユ同祖論」 記事一覧&リンク →こちら
 

***************************

※このブログのコメントは承認制です。
ブログチェックのタイミングにより、
コメントの反映・返信が2,3日後になる場合もあります。
土日は休みです。


***************************

本ルーン魔女KAZのホームページ/著書一覧は こちら

本 無料WEBコミック雑誌てんてる …… KAZの著書の版元さんが運営しています☆
無料WEBコミック雑誌てんてる