「聖書の悪用(3)」からの続き。今回は【3】について。

 

【1】 それは本当に神のための献金集めなのか
 
【2】 「もしキリストが現代に生きていたなら……」 
   ↑キリストは今リアルタイムに生きている神霊のはずだが? (黙示録1章8節)
 
【3】 キリストがロバに乗ることの意味 (ゼカリヤ書9章9節)
 
【今回のもくじ】

・ 子ロバに乗るイエス …… 十字架刑の5日前
・ イエスが子ロバを選んだ理由
・ ジーザス・クライスト・スーパースター?
・ メシアは物質界のスーパースターではない
・ 救い主メシアの栄光とは?
 
***************************
 
 
CNNの記事によると、すでに3機の自家用ジェット機を所有しているこの宣教師は、
4機目のジェット機(約59億円)を信者におねだりする理由をこう述べている。
 
・「プライベートジェットがあればキリストに文字通りの意味で近づける
 
・「もしキリストが現代に生きていたなら、
 間違ってもロバに乗って布教するなどということはないはずだ
 
これを妄言だと却下するのはかんたんだが、
せっかくの面白ネタなので、有効活用させていただこう。
 
まず「イエスが子ロバに乗った」という聖書個所を確認してから、
イエスが子ロバを選んだ理由などを見ていきたいと思う。
 
■ 子ロバに乗るイエス …… 十字架刑の5日前
 
新約聖書の最初の4書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)を「福音書」という。
イエスと弟子たちの言行録である。
四福音書の内容は、共通している個所もあれば、そうでない個所もある。
 
しかし、イエスが十字架刑になる5日前に、
子ロバに乗ってエルサレムに入城したという出来事は、
どの福音書でも取り上げられている。
 
ヨハネ福音書では、たまたまその辺にいた子ロバをつかまえたかのように書かれているが、
共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)では、わざわざイエスが隣村に弟子をつかわし、
その日のために子ロバを用意させたことになっている。
 
重要かつ有名な個所なので、『マルコ福音書』から、少し長めに引用する。
 
 一行がエルサレムに近づいて、
 オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにささしかかったとき、
 イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。
 
 「向こうの村へ行きなさい。
 村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。
 それをほどいて、連れて来なさい。
 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、
 『主がお入り用なのです。すぐにここにお返しになります』と言いなさい。」
 
 二人は、出かけていくと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、
 それをほどいた。
 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。
 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
 
 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、
 その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった
 
 多くの人が自分の服を道に敷き、
 また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。
 そして、前を行く者も、後に従う者も叫んだ。
 
 「ホサナ。
 主の名によって来られる方に、祝福があるように。
 我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。
 いと高き所にホサナ。」
 
 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、
 辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、
 十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。
                          
 ――『マルコによる福音書』 11章1-11節
 
このときのイエスは超有名人。
 
ユダヤ宗教エリートたちがイエス暗殺計画を練っている一方で、
数々の奇跡を見聞きしていた民衆たちは、イエスを大歓迎した。
 
エルサレムに入城した時点でのイエスは、スーパースター扱いだった。
大預言者の再来、あるいは本当に救い主メシア(キリスト)かもしれないと考える人もいた。
 
だからイエスも、当時の身分ある人がそうしたように、カッコイイ馬に乗って、
我こそは神から遣わされたメシア(キリスト)だと宣伝しながら登場してもよかった。

カッコイイ馬は、現代風に言えば、59億円の自家用ジェット機ということになろうか。

 
しかしイエスは当代の常識・期待を無視して、
カッコイイ馬ではなく、誰も乗ったことのない子ロバを選んだ。
 
■ イエスが子ロバを選んだ理由
 
福音書には、イエスがわざわざ子ロバを選んだ理由が書かれている。
 
 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 「シオンの娘に告げよ。
 『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
 柔和な方で、ろばに乗り
 荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
                       
 ――『マタイによる福音書』 21章5節
 
これは旧約聖書『ゼカリヤ書』の9章9節の引用。
ユダヤ人が待望している救い主メシア(キリスト)について預言した個所である。
イエスが子ロバを選んだのは、ゼカリヤ書にそう預言されていたからだという。
 
福音書の引用ではちょっと不完全なので、
『ゼカリヤ書』9章の当該箇所を直接見てみよう。
 
 娘シオンよ、大いに踊れ。
 娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
 見よ、あなたの王が来る。
 彼は神に従い、勝利を与えられた者
 高ぶることなく、ろばに乗って来る
 雌ろばの子であるろばに乗って。 
 
 わたしはエフライムから戦車を
 エルサレムから軍馬を断つ。
 戦いの弓は断たれ
 諸国の民に平和が告げられる
 彼の支配は海から海へ
 大河から地の果てにまで及ぶ。 
                   
 ――旧約聖書 『ゼカリヤ書』 9章9、10節
 
エルサレムに「あなたの王」が来ると預言されている。
「王」とは身分制度上の王様のことではなく、
神から油注がれし者 = メシア(キリスト) のこと。
 
ゼカリヤ預言のメシアは、こういうキャラクターである。
 
 ・ 神に従い
 ・ 神に勝利を与えられた者
 ・ 高ぶることなく、柔和な方で
 ・ 子ロバに乗って来る
 ・ 戦争が終わり、諸国の民に平和が告げられ
 ・ 彼の支配は世界の果てまで及ぶ
 
メシアの特徴は、「高ぶることなく、柔和な方」。
愛想がよい八方美人のヤサ男という意味ではない。
英訳だと「humble謙虚、質素、身分が低い」。
 
神の子イエスは、ゼカリヤ書で預言されたメシアであるゆえに、
「我こそがユダヤ人の王だ、我に従え」と高ぶることなく(humble)、
大工の息子という低い身分(humble)、
質素な庶民生活(humble)、
十字架刑にいたるまでとことん神ヤハウェに従う謙虚さ(humble)でもって、
ぜんぜんカッコよくない子ロバに乗って、
エルサレムのユダヤ人たちのもとへやって来なければならなかった。
 
ゼカリヤ書の預言通りに行動(子ロバに乗ってエルサレムに入城)することで、
預言が成就した → イエスがメシアだと、ユダヤ人たちにもわかる。
間違っても、信者に買わせた59億円の自家用ジェット機でやって来たりはしないのだ。
 
■なお、ゼカリヤ書に限らず、旧約聖書のメシア預言の内容はすべて、
イエスについての預言ということになる。
イエス自身がそう語っている。
 
 あなたたちは聖書(旧約聖書)の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。
 ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ
                                
 ――『ヨハネによる福音書』 5章39節
 
旧約聖書中のメシア預言は、ゼカリヤ書以外にもたくさんたくさんあるが、
今回の主要テーマである「humbleなメシア/謙虚、質素、身分が低い
という点にしぼるなら、イザヤ書53章が随一かと思う。
53章で「彼」と書かれているのがメシア。
 
 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
 この人は主の前に育った
 見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない
 
 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている
 彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた
 
 ……わたしたちは羊の群れ
 道を誤り、それぞれの方角に向かっていった。
 そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた
 
 苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった
 屠り場に引かれる子羊のように
 毛を刈る者の前に物を言わない羊のように
 彼は口を開かなかった。
 
 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた
 彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
 わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
 命ある者の地から断たれたことを。
                      
 ――旧約聖書 『イザヤ書』53章2、3、6-8節
 
メシアは主の前に育ったが、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
しかも軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている……
 
メシアは、民衆が理想とするようなスーパースターとしては預言されていない。
輝かしい王宮で生まれ育った世間知らずのお坊ちゃんではなく、
馬小屋で生まれて、みずから多くの痛みを負い、病を知り、軽蔑される貧しい者であり、
最後には捕らえられ、処刑される。
 
メシアとはそういう存在だから、カッコイイ馬で登場してちやほやされるのではなく、
ゼカリヤ書にあるとおり、子ロバに乗って軽蔑される道を選ぶ。
 
ちなみに預言者ゼカリヤは、前回に紹介した預言者ハガイの同僚。
 
ユダヤ人がバビロン捕囚から解放され、破壊されたエルサレム神殿再建が始まった、
そういう時代を生きた預言者ゼカリヤが、はるか未来(約500年後)に、
エルサレム神殿にやって来るメシアについて預言をしたのである。
ゼカリヤ書8章でもたいへん重要なことが語られているが、今回は省略。
 
■ ジーザス・クライスト・スーパースター?
 
イエスのエルサレム入城後、イスカリオテのユダがイエスを裏切る。
裏切りの理由として、一説に、イエスの子ロバ演出にガッカリしたためだという。
 
イエスが神業をどんどん発揮して、ユダヤ人のカッコイイ王様になると期待していたのに、
イエスは派手な奇跡を行うことなく、貧乏人の病気直しなどをちょこちょこやってみたり、
宗教エリートの神経を逆撫でしたり、格好悪い子ロバに乗ったりするわで、
とにかくユダが理想とした「メシアであるはずのイエス先生」にガッカリした。
だからユダは、「自分の理想のメシア像」に合致しないイエスを捨てたのだという。
 
しかし、イスカリオテのユダが抱いたであろう理想のメシア(キリスト)像は、
ユダだけのオリジナルな発想ではないはずだ。
 
イエスのエルサレム入城を大歓迎した民衆も、その5日後には手のひらを返し、
ユダヤ宗教エリートに扇動されて、イエスを十字架につけてしまう。
 
「人類の救い主キリストは、華やかなスーパースターであってほしい」
 
当時~現代にいたるまで多くの人が、そのように想像し、期待すると思う。
不必要にゴージャス過ぎる大聖堂を建てるのも、そうした気持ちの表れだと思う。
 
もしキリストが現代に生きていたなら、
 間違ってもロバに乗って布教するなどということはないはずだ
という宣教師の発言に共感する人も、きっと少なくないのだろうと思う。
(59億円の自家用ジェット機に賛同するかは別として)
 
「神から遣わされたメシアは、こういう人であってほしい」という期待はやがて、
「メシアは、こういう人であるべきだ」という理想像への執着につながる。
 
理想像への執着は、相手の実相を無視して理想のスーパースターにまつり上げるという、
偶像崇拝(アイドル崇拝)となってしまう。
古代ユダヤ人王国が滅亡したのは、生ける神ヤハウェを無視して、
人々が好き勝手な偶像崇拝におぼれた結果である。
 
偶像崇拝は、自分自身を理想のアイドルとしてまつりあげてしまうこともある。
「自分こそがメシアとなって人々を助けてあげよう」という、
メシア・コンプレックスはその典型。
 
メシア・コンプレックスは別名「救世主願望」、「さげまん」、「ダメンズメーカー」。
「自分が救世主になって褒められたい」という自己満足のために、
助けてあげたい対象者(自分の言いなりになってくれそうな人)への過小評価、
過干渉、過保護、束縛、独善おしつけをくりかえし、
相手の自立心を奪ってダメンズ(ダメ人間)にしてしまうのが特徴。
 
しかしイエスは、メシア・コンプレックスに憑かれた人ではなく、本物のメシアだった。
本物のメシアだから、イエス個人の名声は求めず、世間の不評を買って処刑されてでも
神の御旨に従うことを最優先にしている。
 
イエスが救い主メシア(キリスト)ならば、子ロバなどではなく、
カッコイイ馬に乗るべきだというのは、人間的な発想。
 
神は、人間の期待に媚びることはしない。
メシアは、理想のスーパースターを演じたりはしない。
 
神の御旨は、人間目線の考え方とはまったく異なる。
 
 わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、
 わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。
 
 天が地よりも高いように、
 わが道は、あなたがたの道よりも高く、
 わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。
                           
 ――旧約聖書 『イザヤ書』 55章8、9節
 
■ メシアは物質界のスーパースターではない
 
もしイエスが、皆が豊かに暮らせる世界などを実現するつもりだったならば、
最初からエルサレムの中心地で派手な奇跡をばんばん起こして、
まず権力者たちを驚かせ、味方につけ、ユダヤ人王国再興の道を突っ走ればよかった。
 
福音伝道開始前にイエスを誘惑した悪魔も、そうするように勧めている。
 
しかしイエスは悪魔の提案をすべて退けてから、伝道生活に入った。
重要な個所なので、省略しないで見てみよう。
 
 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、
 御霊に導かれて荒れ野に行かれた。
 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
 
 すると、誘惑する者(悪魔)が来て、イエスに言った。
 「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
 
 イエスはお答えになった。
 「『人はパンだけで生きるものではない。
 神の口から出る一つ一つの言葉で生きている。』 と書いてある。」  (※申命記8章3節)
 
 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。
 「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
 『神があなたのために天使たちに命じると、
 あなたの足が石に打ち当たることのないように、
 天使たちは手であなたを支える』 と書いてある。」     (※詩編91編11、12節)
 
 イエスは、
 「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある。」    (※申命記6章16節)
 と言われた。
 
 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、
 世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう。」と言った。
 
 すると、イエスは言われた。
 「退け、サタン。
 『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』 と書いてある。」   (※申命記6章13節)
 
 そこで、悪魔は離れ去った。
 すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
                          
 ――『マタイによる福音書』 4章1-11節 
 
悪魔はイエスに3つの提案をしている。
 
(1) あなたは神の子なんだろう?
   空腹なら、石をパンに変えて食べればいいじゃないか。
 
(2) エルサレム神殿の高所から飛び降りて、天使に助けさせれば、
   あなたが神の子だと皆が納得するはずだ。
 
(3) わたしを拝めば、世界のすべての国と繁栄をあなたに与えよう。
 
イエスを誘惑した悪魔は、悪いことを言っているわけではないように聞こえる。
とくに(1)は、むしろ良かれと思って、悪魔と同じ内容のアドバイスをする人も、
たくさんいるのではないかと思う。
 
(2)もまた、イエスが神の子であり、救い主メシアだと信じさせるパフォーマンスとしては、
かなり効果的だと思うし、宗教エリートたちも喜んでイエスに従うような気がする。
広告代理店なら、必ずそういう系の提案をすると思う。
 
(3)は前提が面白い。
「世のすべての国々とその繁栄」は、悪魔の手中にあるということが前提になっている。
だから悪魔は「わたしを拝めば、それらをすべて与えよう」と言えるのだ。
自分が持っていないものを「与えよう」とは言えないし、誘惑にもならない。
 
考えようによっては、(3)悪魔にひれ伏して世界のすべてを与えてもらい、
それから平和で豊かな人間社会を築いていくというやり方もある。
神の言葉を伝えて、一人ひとりの霊的救済と覚醒を待つというやり方では、
理想世界の実現に何万年かかるかわかったもんじゃない。
 
しかしメシアであるイエスは、神抜きの平和実現や、慈善事業を選ばない。
あくまで、神ヤハウェの御心に仕えることが最優先。
 
 「退け、サタン。
 『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』 と書いてある。」
 
ふつうの人間なら、こういう断り方をしない。
 
合理的に考えるなら、こういう結論になる。
 
「平和実現や、皆が豊かに不自由なく暮らせる世界は、まちがいなく善いものだ。
 神の御心でもあるはずだ。
 悪魔にひれ伏すことで、それが実現するなら、悪魔にひれ伏せばいいじゃないか。」
 
ここが、人間の思いと、神の思いが異なるところであり、
人間にはなかなか理解しがたいことなのだと思う。
 
人間的には、どんなに善いと見えること、人道的なことであっても、
それを実現するために神を捨てるのは本末転倒。
 
悪魔にひれ伏して、世界平和と全人類の繁栄が実現できたとしても、
それは動物園内の平和と繁栄のようなもの。
「神を知らない生き物」の楽園ができあがるだけ。
神の似姿として創られ、霊性をもつ人間としては死んでいる
 
メシアは物理世界の王様として人々を導き、幸せにするための救い主ではない。
現世利益的な願いを叶えてくれる魔法使いではない。
 
メシアは、人々の罪(神からの離反)を贖って、人々を罪から解放するための救い主。
神から離れて霊的に死んでいる人々を、「神の似姿」へと回復させるための救い主。
 
人々が罪から解放される = 人々が神に直結できる。
 
人々が罪から解放されることで、各自が神霊を宿す器となれる。
直接に神と交わり、神と共に生きることが可能になる。
そうなれば、おのずと平和になるし、物資の偏在も奪い合いもなくなる。
 
メシアであるイエスはそのために、人々の罪を一手に引き受け、
神にも人にも見捨てられて十字架刑になるという苦難に遭い、
死者の中から復活するという栄光を受けた。
 
■ 救い主メシアの栄光とは?
 
イエスの直弟子たちは、イエスが救い主メシアであることには気がついていた。
しかし「メシアの栄光」を、華やかなスーパースター的なものだと勘違いしていた。
イスカリオテのユダだけでなく、他の直弟子たちも、メシアへの理解が足りなかった。
 
イエスは「栄光」を勘違いしている直弟子たちに、こう言い諭している。
 
 ……あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
 
 人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、
 また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。
                            
 ――『マルコによる福音書』 10章43-45節
 
メシアの栄光は、「多くの人の身代金として、自分の命を捧げること」だという。
 
イエスの命を身代金として捧げることで、罪の奴隷となっている人々を、神の元へ買い戻す。
みずから犠牲(神へのいけにえ)となり、十字架につけられ、墓に葬られたイエスを、
神ヤハウェが死者の中から復活させ、天に上げてくれる……それがメシアの栄光。
人間が想像するスーパースター的な栄光とはまったく異なる。
 
また、人間的な栄光のむなしさについて、『ヨハネ福音書』のイエスはこうも語っている。
 
■ わたしは、人からの誉れは受けない。
 ……互いに相手(人間)からの誉れは受けるのに
 唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、
 どうして(神を)信じることができようか。    (5章41、44節)
 
■ わたしの教えは、自分の教えではなく、
 わたしをお遣わしになった方(神ヤハウェ)の教えである。
 
 この方の御心を行おうとする者は、
 わたしの教えが神から出たものか、
 わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。
 
 自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める
 しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、
 その人には不義がない。   (7章16-18節)
 
■ わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、
 わたしの栄光はむなしい。
 わたしに栄光を与えてくださるのは、わたしの父(神ヤハウェ)であって、
 あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。  (8章54節)
 
イエス自身がスーパースターとなって、世間から称賛されるのは、むなしい栄光。
イエスが求めているのは、イエスへの称賛ではなく、
自分をメシアとして地上に遣わした神が称賛されること。
 
 わたしは自分では何もできない。
 ただ、父から聞くままに裁く。
 わたしの裁きは正しい。
 わたしは自分の意志ではなく、
 わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。
                             
 ――『ヨハネによる福音書』 5章30節
 
× 「わたしはすばらしい、わたしは何でもできる、わたしを崇めよ」
○ 「わたしを遣わした神はすばらしい、神は何でもできる、神を崇めよ」
 
ともかく、メシアは世間によろこばれる華やかなスーパースターではないのだ。
すべての栄光を神に帰し、神の御心を行い、
子ロバで入城する謙虚な王がメシア(キリスト)である。
 
 
 
 
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■ 次回予定↑
 

共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)では、子ロバに乗って入城したイエスは、

エルサレム神殿で「宮清め」と呼ばれる一騒動を起こす。
(ヨハネ福音書では、イエスの伝道初期の事件となっている)。
 

今回は、「humble/謙虚、質素、身分が低い」という視点からイエスを見てみたが、

次回は、宮清め事件を軸として、「divine/聖別、峻別、分離」という視点から、

イエスの言動を追ってみる予定。

 


※ 記事中の聖句引用元/日本聖書協会『新共同訳聖書』または『口語訳聖書』

 

※イエスキリストの純粋な福音を知りたい人には、
 『キリスト教放送局 FEBC 』をお勧めします。
 
■ 「神と聖書と日ユ同祖論」 記事一覧&リンク →こちら
 
 

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