前回の続き。 

 (前回) 神は永遠の存在者 … 「アルファでありオメガである」「主は生きておられる」 御霊の火、風、水

 

【今回のもくじ】

・ 人間の身体は聖霊の宮
・ 人間 = 土の器に、「命の息」が吹き込まれた存在
・ 神は人間が造った建造物には住まない
・ 神と共にある生き方 … その象徴としてのエルサレム神殿
・ それでは、現代人は何を基礎として生きるのか


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まず、聖書がいう「聖霊」について少々。

 

 ■ 聖霊 = 神の御霊、キリストの霊

 

聖霊/Holy Spirit」 と呼ばれている神霊は、

神の御霊/Spirit of God」 とか 「キリストの霊/Spirit of Christ(ローマ8:9)
と表現されることもあるが、いずれも同じ意味。
 
神道的にいえば、「全能神ヤハウェの顕現であるイエスの神霊」という感じかな。
細かい表現はどうあれ、とにかく「聖霊=神の御霊」と暗記してOK。
 
 ■ 聖霊がくだる、宿る
 
人に聖霊がくだるというのは、
儀式でトランス状態になった巫女が神憑り(かみがかり)になるとか、
薬草でトランス状態になったシャーマンに霊が憑く……
という事象とはまったく話が異なる。
 
聖霊は、トランス状態、酩酊、薬物服用、異常な精神状態とはまったく無縁
神の御霊は、そんな不自然なところには来ない。
しらふで、冷静で、落ち着いたところに御霊が声をかけ、宿る。
 
聖書に登場する預言者たちは、みなナチュラルで冷静だった。
トランス状態で神の言葉を受けとった預言者は一人もいない。
 
神霊の特徴 …… 静か、落ち着き、平安、ゆったり、自然体
悪霊の特徴 …… 騒々しい、落ち着きがない、不安、せかせか、不自然
 
そういうわけだから、テンション高く浮かれている時よりも、
孤独で沈んでいる時こそ、本当の神とゆっくり語るチャンスなのだ。(列王記上19章など)
 
■ 人間の身体は聖霊の宮
 
前回と重複するが、やはりまずこの聖書個所をおさえておきたい。

新約聖書の使徒パウロの書簡より。

 

 あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。

 

 ……あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、

 あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。

 

 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。

 だから、自分の体で神の栄光を現しなさい

 

 ――新約聖書 『コリント人の信徒への手紙一』 6章15、19,20節

 
聖霊がくだる条件は、イエスを救い主キリストとして信じること。
(キリスト教団体への参加は必須条件ではない)
 
キリスト(ギリシア語)=メシア(ヘブライ語)。原意「油注がれし者」。
神に対する罪(霊的負債)を赦して、神と人を和解させてくれる救い主のこと。
 
イエスは神の顕現(神の御子)たるキリストだと信じた人は、
イエスの言葉を神の言葉として聞き、心にとどめる。
 
この条件を満たした人に聖霊がくだり、その人の身体は聖霊の宮となる。
 
イエスは最後の晩餐の席で弟子たちに語っている。
 
 「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る
 わたしの父(神ヤハウェ)はその人を愛され、
 父とわたしはその人のところへ行き、一緒に住む。」
                    
 ――新約聖書 『ヨハネによる福音書』 14章23節
 
イエスの言葉を守る人のところに、ヤハウェとイエスが来て、
その人と一緒に住む……それはえらいこっちゃ、家を掃除しなければ!
 
ということで、御霊の家としての己を汚してはならない。
御霊を嘆かせるような言動、習慣は避けるべし。
聖霊が宿る自分自身を聖なるものとしなさい、という発想になる。
そこから、各種の道徳的言動がうまれる。
 
神の存在を抜きにした人間道徳・善行(ヒューマニズム)には意味がないのだ。
人間道徳を行って、神に善人と認めてもらったから聖霊が宿るのではなく、
神の言葉を信じて受け入れたから、聖霊が宿る。
 
神の言葉を信じて聖霊が宿った人なら、聖霊にうながされて、
おのずから最善の選択(世間受けする選択ではなく)をするようになるはずだ。
 
日本の神社の御神体は鏡。
なぜ御神体が鏡なのかについては諸説あるが、一説に、
御神体の鏡に映った参拝者こそが、神霊を宿す神社だと自覚するため」だという。
いい考え方だと思う。
やはり「身体は聖霊の宮」なのだ。
 
■ 人間 = 土の器に、「命の息」が吹き込まれた存在
 
 ■ 命の息
 
神は、人間をどういうものとして造られたのか。
旧約聖書『創世記』はこう記している。
 
・ 神は御自分にかたどって人を創造された
 神にかたどって創造された。
 男と女に創造された。
                      
 ――『創世記』 1章27節
 
・ 主なる神は、土(アダマ)の塵で、人(アダム)を形づくり、
 その鼻に命の息を吹きいれられた。
 人はこうして生きる者となった。 
                      
 ――『創世記』 2章7節
 
土で造ったアダムに神が吹きいれた「命の息」が、神の御霊である。
 
前回に紹介したとおり、聖霊は「風」にたとえられることもあり、
風の縁語である「息」も聖霊のシンボルである。
 
「人間」と「生物」の違いは、神の「命の息」の有無といっていい。
肉体を生かす息と、霊的に生かす息は別物なのだ。
 
預言書の『エゼキエル書』37章は、ホネホネロック……
「枯れた骨」と「息」に対して預言すると、人々が生きかえったという不思議な場面がある。
 
 「……枯れた骨よ、主の言葉を聞け。
 これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる
 
  見よ、わたしはお前たちの中に霊(息)を吹き込む
  すると、お前たちは生き返る
  わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊(息)を吹き込む。
  すると、お前たちは生き返る。
  そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」
 
 わたし(エゼキエル)は命じられたように預言した。
 わたしが預言していると、音がした。
 見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。
 わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、
 皮膚がその上をすっかり覆った。
 しかし、その中に霊(息)はなかった
 
 主はわたしに言われた。
 「霊(息)に預言せよ
 人の子よ、預言して霊(息)に言いなさい。
 主なる神はこう言われる。
 
 霊(息)よ、四方から吹き来たれ。
 霊(息)よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。
 そうすれば彼らは生き返る。」
 
 わたしは命じられたように預言した。
 すると、霊(息)が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った
 彼らは非常に大きな集団となった。
                       
 ――旧約聖書『エゼキエル書』 37章4-10節
 
口語訳聖書では「息」と訳しているが、新共同訳は「霊」と訳している。
「息」は「霊」のシンボルだから、どちらに訳しても間違いではないだろうが、
英訳では「breath/息」……やはり新共同訳でも「息」と訳してほしかった。
(新共同訳はわかりやすいが、しばしば翻訳センスがいまいちだ)
 
ともかく、枯れた骨の周りに肉や筋が付き、肉体として再生しても、
神の「息/霊」がなければ生きていることにはならない。
 
「息」が入った人々は、「生き返って自分の足で立った」という。
自分の足で立つ = 自立する、自由意志をもって生きること。
神の息(神霊)によって生かされている人は、生きているがゆえに自由意志がある。
神の息が抜けると、枯れた骨になるか、動物的本能に生かされるだけの肉塊になってしまう。
 
 ■ 土の器
 
では、人体を形づくっているという「土の塵」は何を意味するのか。
 
昔の私は、創世記のアダム創造の個所を、荒唐無稽な神話だと馬鹿にしていたが、
今は、科学的にも正しい話だと感心している。
 
物理的な人体は、極小の元素の集まり……つまり「宇宙の星屑」でできている
 
宇宙が生まれて間もない頃は、水素とヘリウムぐらいしかなかったが、
やがて宇宙に星が生まれ、星の内部で水素が燃えて核融合反応→重い元素が生成。
最後に星が爆発して、さらに重い元素が生成され、宇宙空間にばらまかれる。
人体は、そうして生まれた元素でできている。
……と、JAXAがキッズ向けサイトで説明している(宇宙のギモン
 
神は宇宙の星屑(土の塵)で人を造った。
人間もまた、宇宙の星屑で様々なものを造ることができる。
科学技術が進歩して、原子レベルのものをも扱えるようになった。
 
しかし、「命の息」。
神霊である命の息は、神からしか出てこない。
人間の技術で「命の息」をつくり出すことはできない。
 
星屑である「土」「土の塵」には命が無い
人間は、命無き「土」をこねまわして、様々に加工することはできるが、
「土」で造ったものに命を与えることだけは、人間にはぜったいに不可能。
 
使徒パウロは、『第二コリント』4章で、人間のことを「土の器」と表現している。

 

 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。

 

 この並外れて偉大な力が神のものであって、
 私たちから出たものでないことが明らかになるために。
 
 ――新約聖書 『コリント人への第二の手紙』 4章7節
 
からっぽの土の器に、聖霊が納まってくれている。
土の器である人間は無能力だが、聖霊が宿ることで、神の働きができるようになる
土の器である人間がすごいとか偉いというわけではない。
聖霊の働きを、人間の自力だと勘違いして神に背くことが続けば、聖霊は去ってゆく……
 
聖霊が去ると、肉体は生かされていたとしても、霊的には死んでしまう。
ただの生き物になってしまう。
しかし悔い改めて、神に立ち帰る決心をすれば、再び聖霊が与えられる。
 
『エゼキエル書』で、神はこう語っている。
 
 わたしは生きている、と主なる神は言われる。
 わたしは悪人が死ぬのを喜ばない
 むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。
 立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。
 イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。
 
 ――旧約聖書 『エゼキエル書』 33章11節
 
人間には自由意志が与えられているゆえに、
神から離れる選択もできるが、再び立ち帰って、聖霊の宮として生きる選択もできる。
 
■ 神は人間が造った建造物には住まない
 
古代ユダヤ人はエルサレムに神殿を建てた。
現代ユダヤ人も、エルサレムに相当な執着をもっているようだ。
 
エルサレム神殿を「神の家」「主の家」と呼んでいる聖書個所もある。
しかし人間の手による建造物に神が住むわけではない
 
 主はこう言われる。
 
 天はわたしの王座、地はわが足台。
 あなたたちはどこに、わたしのために神殿を建てうるか。
 何がわたしの安息の場となりうるか。
 これらはすべて、わたしの手が造り、
 これらはすべて、それゆえに存在すると、主は言われる。
 
 わたしが顧みるのは
 苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。
 
 ――旧約聖書 『イザヤ書』 66章1、2節
 
しいていうなら、大空が天井、大地が床だと。
地上の一角に人間が立てた建造物は、神が住むにはあまりに小さく貧相だ。
 
それでも神が地上に住むとしたら、あくまで、神ご自身が創造した人間の内に――
己が土の塵でできた者であると自覚して、無力さに苦しみ、自我(プライド)が砕かれ、
神の言葉を畏れる人間のうちに住む。
 
それならエルサレム神殿のような、神のための建造物は不要かというと、そうでもない。
 
■ 神と共にある生き方 … その象徴としてのエルサレム神殿
 
前々回にもとりあげたが、預言者ハガイの書をもう一度見てみよう。
神殿と人間の関係について、重要なことが語られている。
 
『ハガイ書』は2章で完結する短い預言書。紀元前520年頃の話。
ハガイと同時代を共に生きた『エズラ記』、『ゼカリヤ書』とも連動している。
 
ユダヤ人王国が滅亡してから約70年後、
バビロンに捕囚されていたユダヤ人が解放され、多くの人がエルサレムに帰ってきた。
そこで人々は、まず人間生活の再建&安定をはかろうとしたが、うまくいかない
 
この件について、神はハガイを通してこう語る。
BC520年(?)6月1日付の預言。
 
 「万軍の主はこう言われる。
 この民は、『まだ、主の神殿を再建する時は来ていない』と言っている。 
 
 ……今、お前たちは、この神殿を廃墟のままにしておきながら
 自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか。
 
 ……山に登り、木を切り出して神殿を建てよ
 わたしはそれを喜び、栄光を受けると主は言われる。
 
 ――旧約聖書 『ハガイ書』 1章2、4、8節
 
どうして神は、エルサレム神殿という建造物にこだわっているのか。
神殿という建造物は、いわば贅沢品。
そういうものは後回しにして、まずは人間生活を安定させるのは当たり前ではないか?
 
しかし1章で神に叱られた人々は、その3週間後の6月24日には、
エルサレム神殿の再建に取りかかることにした。
 
 主が、……すべての霊を奮い立たせられたので、彼らは出て行き、
 彼らの神、万軍の主の神殿を建てる作業に取りかかった。
                                    
 ――『ハガイ書』1章14節
 
神は、荒廃したエルサレムで落ち込んでいる人々に、
「オマエはそれでも神の民か! 根性を出せ!」と迫ったのではない。
神が人々の「霊を奮い立たせ」ることで、神殿再建のヤル気を出させている。
神が何かを命じる時は、それを成すための気力も与えてくれるのだ。
 
ハガイ書2章の冒頭で、神がエルサレム神殿再建にこだわる理由が明らかになる。
再建作業開始から一か月後、7月21日付の預言。
 
 「お前たち、残った者のうち、
 誰が、昔の栄光のときのこの神殿を見たか。
 今、お前たちが見ている様は何か。
 目に映るのは無に等しいものではないか。
 
 今こそ、ゼルバベルよ、勇気を出せと、主は言われる。
 大祭司ヨツァダクの子ヨシュアよ、勇気を出せ
 国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる。
 
 ……ここに、お前たちがエジプトを出たとき、
 わたしがお前たちと結んだ契約がある。
 
 わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。/新共同訳
 (→わたしの霊が、あなたがたのうちに宿っている。/口語訳
 恐れてはならない。
                
 ――『ハガイ書』 2章3-5節
 
神はまず「勇気を出せ」と、人々を励ましている。
 
先祖たちの罪が積もり積もって、ユダヤ人王国が滅ぼされ、エルサレム神殿も破壊された。
周辺の異民族からは、「ユダヤ人は神に見捨てられた呪われた民」とバカにされていたし、
ユダヤ人たちもそう考えて落ち込んでいた。
 
しかし神は、出エジプトから続く神とユダヤ人との契約は今も有効だと告げる。
 
・ わたしの霊は、お前たちの中にとどまっている。 (新共同訳)
 
・ わたしの霊が、あなたがたのうちに宿っている。 (口語訳)
 
神の御霊は、これから再建するエルサレム神殿に住むのではない。
神殿を建てようと奮い立った一人ひとりの「中にとどまっている、宿っている」のだ。
 
だったらなおさら、エルサレム神殿を建てる必要はないのでは?
人間が聖霊の神殿ってことでいいんじゃないの?
 
たしかに神は、「住居」としては、エルサレム神殿という地上の建造物を必要とはしない。
しかしエルサレム神殿は、神が人と共に生きているというシンボルなのだ。
 
神殿は、神を信じる人が集まって、神を礼拝し、祈り、お祭りをする所
神殿が神殿として機能しているのは、人々の生活の中に神がいるという証拠。
神と人が離れたなら、神殿の維持、礼拝、お祈り、お祭り……いずれも廃れる。
 
エルサレム神殿が壊れたままだということは、
神人関係が壊れたままだということになる。
バビロンから帰還したユダヤ人の中に、生きている神がいないということになる。
 
ボロボロになってしまった人間生活を再建したければ、
まず第一に、神との関係を再建しなければならない
 
神が共にいてくれてはじめて、人間生活の諸々が回復し、整えられてゆく。
神と共にある生き方(神殿再建)を後回しにしている限り、
人間生活の再建はできない。
 
人々の生活、人生の中心に、再び神の居場所を作る必要がある
人々が、神と共にある日々を送れるようにしたい。
 
そのためには、人間の心に響く何かが必要だ。
 
皆が心を一つにして、
壊れた神殿(神人関係が壊れている)というシンボルを除去して、
神殿を再建する(神人関係を再建する)という作業を始めることで、
人々のうちに、いつも神のことを思う心=神が定住できる居場所が生まれる。
 
この意味で、古代ユダヤ人にとって、エルサレム神殿の再建が必要だった。
 
■ それでは、現代人は何を基礎として生きるのか
 
現代人も、神殿という建造物を要するかどうかは別として、
神という心のよりどころ(基礎)が必要なのは間違いない。
本能的にそれを知っているからこそ、
宗教心が無い人でも、あちらこちらの神社パワースポットを巡るのだと思う。
 
神に頼るのは心の弱い愚か者だという人も、
自己啓発ワークやビジネスセミナーをはしごしたり、成功本を読みあさったりする。
SNSでいろんな人脈を作ろうとする。
しかもそれを自慢する。
 
でもそれ、神に頼るかわりに、
この世の成功メソッドや人脈等に頼っているだけで。
結局、自分一人では不安で生きていけないから、
安心して自分が頼れる基礎地盤が必要ってことでしょ。
どっちにしても、心が弱い無力な人間だということにはかわりがない。
 
(1) 人間の人脈、成功メソッド、霊的ワーク、自分の努力・能力等にぶらさがるか、
(2) 天地万物を創造した神にぶらさがるか。
 
私は、(1)に多くの時間とお金と労力を費やし、関連書籍を読みあさり、
アドバイスは素直に受け入れ、ひとつひとつのことを真面目に実験した結果……
ことごとく効果が出ないか、裏目に出るかして、ようするにぜんぶ失敗した。
 
その結果、(2)の方がだんぜん賢くてラクな選択であり、
そもそもそれ以外の正解はないという結論にいたった。
 
家電製品のように次々と更新されていく成功メソッドや、
どこかの霊能者の都合で現れたり引っ込んだりする宇宙人や古代神などは、
人生の基礎にはなりえないし、不要。
真の神がその気になればかんたんにひっくり返されて潰れる。
 
各種霊的メソッドも、結局は聖書の劣化コピー&二番煎じ、三番煎じにすぎない
だったら最初から、各種霊的メソッドの源流である聖書と、
その著者である神につながっていればそれで十分じゃないか。(宗教参加は必須ではない)
 
私の個人的な結論を誰にも押しつけはしないけど、
(1)でうまくいかなくてウンザリしている人には、それらの虚しいことを全部やめて、
(2)「天地万物を創造した神にぶらさがる」という生き方にシフトすることをお勧めする。
 
主なる神にぶらさがる生き方は、聖書一冊あれば十分だから安上がりだし、シンプル。
しかも各種メソッドのような「流行」「ブーム」「時代遅れ」「期限切れ」もなく、
永久不変だから、安心して寄りかかれる。
 
聖書の翻訳バージョンは、今後も更新され続けるし、
聖書本文批評、写本研究が進むにつれて、細かい文言の修正も随時あるはずだ。
でも、神の言葉の本質は今後も変わらない。
 
 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。
 
 ――新約聖書 『マタイによる福音書』 24章35節、マルコ書13:31、ルカ書21:33
 
(1) 人間の人脈、成功メソッド、霊的ワーク、自分の努力・能力等にぶらさがるか、
(2) 天地万物を創造した神にぶらさがるか。
 
(1)で満足している人(それを趣味として楽しんでいる人)は、
このブログを読まないだろうから、私から言うべきことは何もない。
 
 
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身体と神殿の話はここまでにして、次回は本筋に戻ります。
 
【1】 それは本当に神のための献金集めなのか
 
【2】 「もしキリストが現代に生きていたなら……」 
   ↑キリストは今リアルタイムに生きている神霊のはずだが?(黙示録1章8節)
 
【3】 キリストがロバに乗ることの意味(ゼカリヤ書9章9節)
 
次回は【3】について。
 
 
※ 記事中の聖句引用元/日本聖書協会『新共同訳聖書』または『口語訳聖書』
 
※イエスキリストの純粋な福音を知りたい人には、
 『キリスト教放送局 FEBC 』をお勧めします。
■ 「神と聖書と日ユ同祖論」 記事一覧&リンク →こちら
 

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