■先月末頃から、このアメブロにログインする度に、
「私はロボットではありません」のチェックを要求されるようになった。
(私がブラウザ設定を厳しくして、cookie保存してないからだと思う。)
アメブロのログイン仕様が変わったのだとわかっていても、
ログインのたびに、「私はロボットではありません」と確認されると、ドキッとしてしまう。
「私は、ロボットじゃないよね……?」
と、ちょっと心配になってしまう。
ログイン画面で、かんたんな画像選択テストを毎回やらされて、
アメブロには私がロボットでないことを認めてもらっているけどね。
人間とロボットの違いって何なんだろうかと、ログインのたびに考えてしまう。
画像認識ができれば人間で、それができなければロボット?
ブログの不正ログインを防ぐ程度のことなら、そういう判別の仕方で十分かもしれない。
でも、いまの人間界を見るならば……
「私はロボットではありません」と、胸を張って宣言できる人が、いったいどれだけいるだろう……
私がログインの度にドキッとしてしまうのは、
そこに神からの問いかけを感じてしまうからだと思う。
「いまのおまえはロボットになっていないか? 大丈夫か?
自信をもって、「私はロボットではありません」のチェックを入れられる状態か?」
■私は、人間とロボットの違いは、自由意志の有無だと思っている。
「私はこうしたい」という意思があるか否か。
自由意志をもって、ある時はイエス、ある時はノーの判断をする。
「誰々に命じられたから仕方なくやりました」というのは、ロボットの始まり。
「こういう時はこうするものだから、こうしなければならない」という思考停止は、
かなりロボット化が進行している兆候。
ブラック企業に洗脳されている社畜などは、もはや生体ロボットといっていい。
生体ロボットは、肉体は生きていても、霊が死んでいる。
生ける屍だ。
「誰々に命じられたことを自分なりに検討した結果、
私の意思でそれに従うことにしました」というなら、それは人間だ。
第三者の圧力や外部のやむなき事情がきっかけだったとしても、
最終的に、自分の自由意志によってそれを選択したのであれば、ロボットではない。
■神は人間をどういうものとして創造したのか。
旧約聖書の創世記をみるなら、神が人間をロボットとして造ったのでないことは明らかだ。
天地創造の6日目にアダムとエバが造られる。
・神は御自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。
男と女に創造された。
(創世記 1章27節)
・主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、
その鼻に命の息を吹きいれられた。
人はこうして生きる者となった。
(2章7節)「神のかたち」がどういうものなのか……ビジュアル的な意味でのかたちではないだろう。
神は自ら思考し、意思をもち、意図したとおりに実行する。
神には自由意志と、独自の人格がある。
固有の人格があり、自由意志があるという性質において、
人は神と似たものに創造されたのだと思う。
神は、土で造ったアダムに「命の息を吹きいれられた」とある。
「命の息」というのは、土で造ったアダムロボットを動かす動力のことではない。
独自の人格と自由意志をもった霊的存在としての生命力のこと。
人間とロボットの違いは、「霊的な命の息」があるか否かといってもいい。
人間の肉体が息をしていて、筋骨隆々たくましかろうとも、生活のすべてが順調であっても、
霊的に死んでいるというケースはいくらでもある。
アダムとエバは、ほどなくして神に背き、禁断の実を食べて、
エデンの園を追放されることになるのだけれど。
それをキリスト教では原罪といっている。
神に背くことの何が罪なのか。
神の機嫌を損ねてしまうからか?――否。
神から離れることで、霊的な命の糧が得られなくなってしまう。
その結果、霊的に死んでしまう。
だから、神に背くことを罪といい、「罪の結果は死(ローマ6:23)」といっている。
神に背いて、神から離れた人間は、充電を拒否するスマホみたいなもの。
しばらくは内臓バッテリーのみで動けるにしても、
充電を拒否し続けていると、徐々に電力を失い、やがて電源が入らなくなってしまう。
あらゆる電子機器は、外部から充電してもらう必要がある。
それと同じく、人間は、神から霊的な糧を供給してもらう必要がある。
酸素と水と食料と……それだけでは、生命体としては生きられても、霊的には死んでしまう。
ただの生体ロボットになってしまう。
食べて飲んでウンコするだけの一生で終わる。
■聖書は、人間の名前に強いこだわりをもっている。
一人ひとり、異なる名前を与えられているのは、一人ひとりが無二の存在だから。
人間という種としては同一であっても、同じ個性の人は一人もいない。
人間はロボットではないのだ。
聖書で「あなたの名を呼ぶ」という旨の表現が出てきたら、
それは「あなたを指名した、選んだ」という意味である。
たとえば、預言者イザヤの書では、
ヤコブよ、あなたを創造された主は
イスラエルよ、あなたを造られた主は
今、こう言われる。
「恐れるな、わたしはあなたを贖(あがな)う。
あなたはわたしのもの。
わたしはあなたの名を呼ぶ。」
――旧約聖書『イザヤ書』 43章1節
神が「あなたの名を呼ぶ」というのは、
単純に「○○さん」と人名を呼ぶという意味ではなく、
「神があなたを名指しで選んで神のものとした」という意味になる。
「あなたはわたしのもの」とは、ラブソングの歌詞みたいに聞こえるが、
実際に、神は被造物である人を愛しているのだから、
預言者が伝える神の言葉は、ラブソングといっていいかもしれない。
神が人間を呼ぶのは、人間を神の奴隷ロボットとして使役するためではない。
人間が神とのつながりを回復できるように……
霊的な命の糧の供給がスムーズになって、霊的な息を吹き返すことができるようになるため。
イエス・キリストは自身のことを、「霊的な糧」として自己紹介している。
「わたしが命のパンである。
わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、
わたしを信じる者は決して渇くことがない。
……わたしは、天から降って来た生きたパンである。
このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。
わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
――新約聖書 『ヨハネによる福音書』 6章35、51節
イエスを食べるというのは、もちろん人肉食のことではなく、
神の御子であるイエスの言葉=霊的な糧を受けとり、咀嚼し、消化吸収することである。
それによって霊的に生かされる。
「人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」 (マタイ福音書4:4)
神の言葉が、人間の霊的な糧である。
人間が霊的な糧を得るには、神から離れている状態=「罪の状態」を解消しなければならない。
だって、神に近づかないと、神の言葉が聴こえないでしょ(物理的聴覚は無関係)。
神から離れていたら、神の言葉が聴こえない、受けとれない。
神から遠く離れてしまった人間の、霊的な命を救うために、
神霊イエスが人間として2000年前のパレスチナに生まれてきた。
(詳細 人類の罪を引き受けるカタシロ(形代)としてのイエス … 神の子羊、子羊の血 )
もし神が奴隷ロボットを欲したなら、
最初から人間を神の似姿に造ったりはしなかったはずだし、
自由意志を与えたりもしなかったはずだ。
神が人間をロボット化したいならば、わざわざ神霊イエスを人間界に降す必要もない。
イエスが理不尽な十字架にかかってでも人間の罪を救うようなことはしないだろう。
■イエスは、旧約聖書で預言されてきた救い主メシア(ギリシア語でキリスト)として、
2000年前にその救いを達成した。
にもかかわらず、人間の世界がいつまでたっても平和にならないのは、
神が人間の自由意志を尊重して、
人間の自由意志によって神に立ち返ることを気長に待っているからだと思う。
神は人間に対してあまりに忍耐強く、寛容すぎるという点で、残酷なのだと思う。
神が人間界に強制介入して、平和な世界を造ることはかんたんだろう。
でも、神はそんなやり方で人間の自由意志を取り上げることを望んでいないと思う。
神が人間から自由意志を取り上げて、神の命令どおりにしか動かないロボットにしてしまえば、
世界平和は一日にして実現する。
でも、そうして平和になった世界にいる人間は、自由意思も個性もないロボットだな。
刑務所の囚人は、名前ではなく番号で呼ばれるそうだ。
固有の名をもつ個人としてではなく、1番、2番、3番……と呼ばなければならないとのこと。
神が強制介入して、人間の精神か何かをいじって、人間界が平和になったとしても、
それはきっと、番号札で識別される人間が収容されている刑務所とかわらない。
そういう世界は、戦争はないかもしれないが、平和でもないよね。
そういう世界には、命の喜びが無い。死んだ世界だ。
神は人間を番号や記号では呼ばない。
固有の名前で呼ぶ。
神は人間を無個性のワンオブゼムとしては扱わないし、そうしたくないのだと思う。
にもかかわらず、人間側はみずから好んでロボット化してしまう。
神と一対一で向き合う関係を放棄することを、聖書では「罪」といい、
霊的な命を捨てた生体ロボットになることを意味する。
往々にして、神を拝する宗教は、信徒をロボットにしたがる。
どんな立派な大規模な宗教であっても、
人間が造った儀式・戒律・資格免許等に従うことを強要するのは、神から来たものではない。
こういう人々はにせ使徒、人をだます働き人であって、
キリストの使徒に偽装しているにすぎないからである。
しかし、驚くには及ばない。
サタンも光の天使に偽装するのだから。
だから、たといサタンの手下どもが、義の奉仕者のように偽装したとしても、不思議ではない。
彼らの最期は、そのしわざに合ったものとなろう。
――新約聖書 『コリント人への第二の手紙』 11章13-15節
イエスの死と復活から数十年もたたない間に、
偽キリスト教の害があったらしいことがうかがえる。
迫害されるよりも、似て非なる教えでかく乱される方が厄介かもしれない。
何かおかしいと感じることがあるなら、そこから距離を置いて、神に問いかけるのがいい。
「これは本当ですか? どういうことですか?」
と、自分が心底納得いくまで、とことん神を問い詰めるといい。
神は人間に問い詰められることを喜ぶ。
旧約聖書には神への問いかけ、クレーム、愚痴がたくさん収められている。
神に問いかけることで、いっそう神に近づくことになる。
神に問いかけ、考えることが、神の御旨を知ることにつながる。
そうすると、光の天使に偽装したサタンの類にだまされることはない。
■神は人間に自由意志を与えた。
いまだに人間の自由意志を尊重している。
神は人間に何も強要しない。
もちろん、間違いを示し、正しい道へ返れと促すことはあるが、強要ではない。
あくまで、人間の自発的な意思によって、神に立ち返ることを望み、待っている。
一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)は、契約宗教ともいわれる。
神と人間の関係は、契約関係である。
契約は、双方の合意によって成立する。
神からさしだされた契約書にサインするかどうかは、人間の自由意志に任されている。
契約書では味気ないと思うなら、婚姻届におきかえてイメージしてもいい。
むしろ婚姻届という方が適切かもしれない。
聖書で、神と人間の関係は、しばしば花婿(神)と花嫁(人間)にたとえられているから。
(参考 神の花嫁たる人間 … 出雲ヤハウェ垣に妻を籠め )
契約書あるいは婚姻届にサインする前には、その内容を気が済むまで確認していい。
ちゃんと納得したうえで、契約してほしい。
確認するために、どれだけ時間をかけてもかまわない。
神は、人間をロボットとしては造らなかった。
神の似姿として造られた人間が自発的に、創造主との契約に合意することを願っている。
霊的な命を生かす糧を、神からいただくか否か、各人の自由意志で決めていい。
「私はロボットではありません」
しかり、しかり。
ロボットになってはいけない。
神とつながるにしても、拒否するにしても、
神から与えられた自由意志によって、各自で考えて、結論を出すべし。
※ 記事中の聖句引用元/日本聖書協会『新共同訳聖書』または『口語訳聖書』
※イエスキリストの純粋な福音を知りたい人には、
『キリスト教放送局 FEBC
』をお勧めします。
■ 「神と聖書と日ユ同祖論」 記事一覧&リンク →こちら
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