前回の続き 生けるカガミ(鏡・神我見)としてのイエス … エゴの悪意を反射するカガミ

 
■神の子イエスの歩みを神道的に読み解くと、少なくとも二つの側面が見えてくる。

【1】 歩く御神体、生けるカガミ(鏡・神我見)としてのイエス

  →人の悪意を反射するカガミ、真実を映して罪を自覚させるカガミ。
   罪を自覚した魂を赦し、神の道へ立ち返らせる神。

【2】 人の罪を取り除くいけにえの子羊、カタシロ(形代)としてのイエス

  →人の罪を引き受けるカタシロ、罪人の身代わりとなって処刑されるカタシロ。
   イエスは、イエスを神の子と信じた人の罪滅ぼしのカタシロとして死ぬが、
   イエス自身は無罪の神霊であるがゆえに死なない→復活する。
    
今回は【2】について。

イエスが神の子羊だとか、罪人の身代わりになって十字架に掛けられた云々のことは、
キリスト教の要なのだが、日本文化とかけはなれているためたいへん理解しづらい。

ここでは、イエスの十字架の死と復活、それがどうして人間の罪のゆるしにつながるのか等、

・神道のカタシロ(形代)との対比
・罪を清める古代ユダヤの習慣
・関連する聖書個所

を取り上げながら、みていきたい。

■が、その前に。

そもそもイエスは実在したのか? 十字架ストーリーは後世の創作ではないか?

この件について確認を。

イエスがユダヤ宗教エリート議会の不正な裁判を経て、十字架につけられる経緯は、
新約聖書の四福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)すべてで詳しく説明されている。

しかしその経緯説明の細かい部分は、福音書ごとに異なっている
だからイエスの存在や十字架云々のことは作り話だという批判もあるが、私はそうは思わない。

ほんの少しでも、ものを書く作業をしたことがある人なら、わかる。
四福音書の記述内容が異なるのは、現場の目撃者が複数いたためだと思う。

・記者がどの目撃者に取材し、どの目撃証言を採用するかによって、
 現場レポートの内容が異なってしまう。

・しかも人間の記憶はいい加減で、自分にインパクトのある部分しか覚えていないから、
 現場に居合わせた者どうしの証言内容が食い違うことは珍しくない。

・それに加えて、記者の個性、想定している読者層、伝えたいテーマの相違がある。

だから四福音書の内容が完全一致していないのは、それが作り話だからではなく、
むしろ福音書が伝えている内容が、複数の人間に目撃された事実だったという証拠だと思う。

以下、福音書の内容が史実であるという前提で、話を進めていく。

*********

■『ルカ福音書』では、十字架に掛けられたイエスと周囲の人々のやりとりをこう記している。

 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれていった。
 されこうべ(頭蓋骨)と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。
 犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。

 そのとき、イエスは言われた。
 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。

 ……民衆は立って見つめていた。
 議員たちも、あざ笑って言った。
 「他人を救ったのだ。
 もし神からのメシア(救い主)で、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

 ――『ルカによる福音書』 23章32-35節


数々の奇跡を起こしたイエスは、事前に十字架刑を避けようと思えば避けることができた。
十字架につけられた所から降りることもできたが、そうしなかった。
それだと、神霊イエスが人間として地上に生まれてきた目的が達成できなくなるから。

イエスの目的は、地上の人間を霊的に救うこと。
霊的な救いとは、神に対してまっすぐナオ(直)の状態になることで、永遠の命をえること。
永遠の命は肉体の不老不死ではなく、魂が神に直結しているゆえに滅びないというイメージ。

しかし人間が神に対してまっすぐナオ(直)になるためには、
これまで神に背いて、人間的なエゴに従ってきた罪を取り除かなければならない。
(聖書世界の罪=神に従わないこと)

人間は、自力で罪を取り除くことができない。
前回 に少し説明したように、神に対する罪をゆるすことができるのは神だけである。

神はあわれみ深い神であるゆえに、すべての人の罪をゆるしたいと願っている。
しかし正義の神でもあるゆえに、無条件に人の罪をゆるすことができない。
(もしそんなことをすれば、神は不公正の神になってしまう)

罪にケガされている状態の人間=神の恵みを受け取れない人間の魂は滅びてしまう。

そこで神は、どうにかして人々をツミケガレから清めて、滅びの定めから救うため、
神と等しい存在である神霊を人間イエスとして地上に送る。

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく
 御子によって世が救われるためである。
 御子を信じる者は裁かれない

 ――『ヨハネによる福音書』 3章16-18節


ここで「神の独り子」と表現されているのが、
救い主メシア(ギリシア語でキリスト)であるイエスのこと。

なお、神とイエスの関係をして「父と子」というのは、霊的な比喩である。
ユダヤ人は父系社会なので、父と子という比喩が彼らにはわかりやすかったのである。

父がいるなら母もいるはずだ、処女マリアが母なのだ、だからマリアは無原罪だ等、
おかしな勘違いをしないように。
マリアは超重要人物には違いないが、あくまで一般的な人間である。

■旧約聖書では、人々を救うメシアの誕生が預言されている。
古代ユダヤ人は、メシア到来の預言が成就するのを楽しみに待っていた。

しかし実際にやってきたメシアが自分たちの想像と違っていた……
イエスが貧乏大工の息子であり、自分たちに都合のいい便利屋ではないとわかるや、
彼らはイエスを捨ててしまった。

もし人々が、イエスを神の子(メシア)であると信じ、
イエスの伝える福音を素直に信じて従っていたなら、それがベストだった。

イエスをメシアと信じて従うことを条件に、
神は人々の罪を過去にさかのぼって全部チャラにしてあげることができる
たぶん神はそれを期待していた。

しかしエリート階層はイエスを排除してエゴを守ることを優先し、
一般民衆はイエスの福音が伝えている霊的な救いを理解できなかった。

このままでは、神は人々に罪のゆるしを得させることができない。
でも、どうにか人々の罪を取り除いて、滅びの判決(裁き)から救いたいと思っている。

そこで別の方法を取らざるをえなくなる。

無罪のイエスが、人々の罪を肩代わりする生贄となって、神に赦しを乞うという方法。

ルカ書で、十字架につけられたイエスが言っている。

父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです。

これはどういう意味か。
人間への嫌味か、あるいは強がりか……もちろんそうではない。

「自分が何をしているのか知らない」人々は、
霊的に無知で無感覚であるゆえに、罪を罪と自覚することすらできなくなっている。
そうした霊的にどうしようもない状態の人間を、

わたし(イエス)が彼らの身代わりとなって、彼らのすべての罪を引き受けます。
 そしてわたし自身を神への生贄として捧げます。
 だからこのことを信じて受け入れた人々の罪を、
 どうかわたしに免じてゆるしてあげてください


と、神にとりなしをしているのである。

ここで生贄たるイエスが自分で自分を十字架から救って天に帰ってしまっては、
何のために地上に生まれて来たのか、まったくその意味がなくなってしまう。

しかも、イエスは仕方なしに十字架の道を選んだのでもない。

イエスの十字架の受難のことを英語でパッション・Passion という。
Passion は日常単語としては「情熱」という意味である。
イエスは人々を罪から救い出したいという情熱をもって、十字架の道を選んだのである。

■神に対して、「わたしに免じてゆるしてあげてください」と言うからには、
その「わたし」は、神に認められる立場の者であり、
なおかつ他者の罪を引き受けることができる器でなければならない。

神に対して罪のない者だけが、他者の罪の身代わりとなる資格を有している。
なぜなら、罪のある者は、すでに自分の器が己の罪であふれているために、
他者の罪を引き受けることができない。

しかし地上には、神に対して罪のない人間は一人もいない。
義人はいない、ひとりもいない」(ローマ書3:10)

そこでイエスは無罪の神の子でありながら、あるいは無罪の神の子であるがゆえに、
人々の罪を引き受け、罪もろとも滅ぼされるカタシロ(形代)として、
自らを差し出したのである。

全人類の罪を引き受けたカタシロとしてのイエスが処刑されて死ぬということは、
イエスが引き受けた全人類の罪が滅ぼされる=きよめられるという理屈になる。

■カタシロ(形代)は、神霊や人霊を宿すための器である。
日本の神社の厄払い儀式では、人のツミケガレを引き受けさせるカタシロとして、
ヒトカタ(人形)またはヒトカタシロ(人形代)と呼ばれる和紙を用いることがある。

ヒトカタの形と作法は神社ごとに差異があるが、基本的には、
白い和紙のヒトカタに自分の氏名などを書き、
それに息をふきかけたり、身体になでつけるなどして、
ヒトカタに自分の罪をなすりつける

そうして、自分の身代わりとなって罪を負ったヒトカタ=カタシロ(形代)を、
水に流すなりお焚きあげするなりして、カタシロもろとも、人の罪を滅ぼしてもらう

だからもちろん、カタシロは一回限りの使い捨てである。
カタシロのリサイクルというのはありえない。
耐水性、耐火性のカタシロというのもありえない。
そうでなければ、カタシロになすりつけた罪まで一緒にリサイクルされてしまう。

カタシロがカタシロたるべき条件がいくつかある。

・未使用、新品であること
・シミ、ヨゴレ、折れ、シワ、破れ等がいっさいないこと
・真っ白であること


最初から汚れているカタシロには、罪をなすりつけることができない。
カタシロはケガレのない無罪の器でなければならない。
未使用・新品・真っ白は無罪の象徴。

古代ユダヤ人も、神に対する罪をきよめるカタシロに、同じ条件を求めていた。

もっとも古代ユダヤ人の場合は、和紙のヒトカタではなく、
動物の生贄……とくにその血を、カタシロとして用いていたが。

その内容は、モーセに神が与えた律法(とくにレビ記)に詳しく記されている。
人間の罪滅ぼしをさせる生贄の動物は、何でもいいというわけではなく、
牛、ヤギ、羊など、種類は指定されている。
神道のヒトカタと同じく、生贄にはシミ、ヨゴレ、キズなどがあってはならないし、
毛色にばらつきがあってもならない。

ユダヤ人の罪を身代わりさせる生贄として、ユダヤ人がいちばん好んだのが、
純白の毛をもつ子羊である。

これはモーセ時代の過越(すぎこし)の儀式にさかのぼる。
モーセがイスラエルの民を引き連れて出エジプトをする直前の話。
日本の神社の赤鳥居の由来としても有力な個所である。

 子羊は傷のないもの……でなければならない。

 ……その血を取り
 子羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。 

 ……その夜わたし(神)はエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣との、
 すべてのういご(初子)を打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。
 わたしは主である。
 
 その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、
 わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう
 わたしがエジプトの国を撃つ時、
 災いが臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう

 ――旧約聖書『出エジプト記』 12章5、7、12、13節


神が指定する条件にかなう子羊の血を、門の周りに塗りつけることで、
滅びの裁きを免れる(過ぎ越す)ことができたゆえ、
神に捧げる生贄動物の中でも、子羊には特別な意味がある。

旧約聖書の預言書でも、ヨハネの黙示録でも、子羊という霊的象徴がよく用いられている。

たとえばイエスの生涯を預言しているイザヤ書53章。
「彼」がイエスのことである。

 彼が刺し貫かれたのは
 わたしたちの背きのためであり
 彼が打ち砕かれたのは
 わたしたちの咎のためであった。

 彼の受けた懲らしめによって
 わたしたちに平和が与えられ
 彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された。

 わたしたちは羊の群れ
 道を誤り、それぞれの方角に向かっていった。

 そのわたしたちの罪をすべて
 主は彼に負わせられた

 苦役を課せられて、かがみこみ
 彼は口を開かなかった。
 屠り場に引かれる子羊のように、
 毛を切る者の前にものを言わない羊のように
 彼は口を開かなかった。 (イザヤ53:5-7)

生贄動物としての子羊は、人々の罪をきよめて、神罰を回避(過越)させてくれた。
しかし人間の根本的な罪を帳消しにしてくれるわけではないから、
毎年の過越祭などで、生贄をささげる儀式を行って、マメに罪をきよめる必要があった。

一方、預言書で子羊とあるのは、人々の罪を根本から完全にきよめて、
神と和解させてくれる救い主(メシア)の象徴である。
イエスを「神の子羊」というのは、そのためである。

現代日本人には、ぜんぜんピンとこない霊的シンボルだが、
以上の内容をふまえて、神の子羊とはそういうものだと思うしかない。

■ともかくイエスは、人々の罪を引き受ける神の子羊として、
十字架にかかる道を受けいれて、最期まで神に従い、処刑された。

十字架上で息絶えたイエスのわき腹を槍(ロンギヌスの槍)で突くと、
血と水が流れ出る(ヨハネ19:34)。

イエスから流れ出た血は、滅びの裁きを過越してくれる「子羊の血」であり、
『レビ記』で語られているように、
人の命の贖いをしてくれる命の血ということになる。

 生き物の命は血の中にあるからである。

 わたしが血をあなたたちに与えたのは、
 祭壇の上であなたたちの命の贖い(あがない=つぐない)の儀式をするためである。

 血はその中の命によって贖いをするのである。

 ――旧約聖書『レビ記』 17章11節


日本の古語では、「血・霊・命」のいずれも「チ」と読むことができる。

上記で神が語っているのは、
生き物のチ(血)にはチ(命)があるゆえに、
人間のチ(命)をも罪から贖う(償う)ことができるだけの価値があるということだろう。

ましてイエスは動物ではなく、神霊が人間となった存在である。

そのイエスが神の子羊(=罪を引き受けるカタシロ)として殺されたなら、
その血は、イエスが引き受けた全人類の罪をつぐなえるだけの霊的価値がある。

イエスというカタシロに罪を引き受けてもらった人間は、
イエスの死と、イエスの血(神の子羊の血)によって罪をきよめられる。

キリスト教が、「イエスの十字架は我らのため。イエスを信じた者は救われる」
といっているのは、このため。

イエスはわたしのカタシロとなって、わたしの罪をすべて引き受けてくれた。
わたしの罪のゆえに、無罪であるイエスが処刑された。
それによって、わたしの罪は完全にきよめられ、神の前に清い者(無罪)とされたということ。

こうして罪をゆるされた人は、神と和解できたことになる。
神との和解によって、滅びの裁きは撤回され、霊的に永遠の命にあずかることができる。
「神と和解せよ」というあの看板は、たぶんこのことをいっている(と思う)。



■では、イエスの復活の件はどうなるのか。

十字架につけられたイエスには、両極端な性質が同居していた。

(1) 全人類の罪を背負った究極の罪人(カタシロとしてのイエス)

(2) 完全無罪の神の子

和紙のヒトカタも、生贄動物も、一度滅ぼされてしまえばそれっきり。
それが自然死であれ、カタシロとして殺されたのであれ、二度とよみがえることはない。
二度とよみがえらないのがカタシロの条件でもある。

だから、(1)究極の罪人としてのイエスは十字架上で死んだ。
究極の罪人イエスと共に、イエスが引き受けた罪もすべて滅ぼされた。

復活したのは、(1)究極の罪人としてのイエスではなく、
(2)完全無罪の神の子としてのイエスである。

聖書世界では、「死」の定義を「神に対する罪の結果」としている。
換言すれば、「神に対して罪のない者は死なない=永遠の命がある」ということ。


イエスはカタシロとして全人類の罪を引き受けただけであって、
イエス自身は神の前に完全無罪であった。
完全無罪だからこそカタシロになりえたのである。

そういうわけで、黄泉は究極の罪人イエスを飲み込んで滅ぼす一方で、
完全無罪の神の子イエスは飲み込めないから、再び地上に吐き出さざるをえない。

かくして、神の子イエスが復活して墓から抜け出すということになる。

■キリスト教では、イエスの復活は、死からの生還ではなく勝利であり、
イエスを信じて肉体的な死を迎えた死者が復活するという希望の象徴でもあるようだ。

春分後のイースター(復活節)は、イエスの復活日を記念するための祭日である。
ゆで卵にペイントをほどこしてパーティーを楽しむだけの日ではない。

スーパーの食品売り場では、新年度シーズン、お花見シーズンとの抱き合わせで、
イースターパーティー(?)の華やかな特設売り場があったり、
イースター限定パッケージのお菓子が並んでいたりするが……

まあ、イースター仕様のにぎやかな売り場などを見る機会があれば、
クリスマスと同様に、本来は何の日なのか、少しは意識してみてほしい……





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余談。

メル・ギブソン監督の映画『パッション』は、イエスの受難を映画化したものである。
評価はけっこう高いようなのだが……私にとってはイマイチだった。
残虐なシーンが多い上に、間延びしていて退屈……2倍速で観るのがちょうどいい。
この映画の感想は、個人差が大きいようだ。

「イケメン過ぎるイエス」と宣伝されていた映画『サン・オブ・ゴッド』は、
四福音書エピソードをうまくつなぎ合わせていてわかりやすいし、
グロくもないので、安心してお勧めできる。





※ 記事中の聖句引用元/日本聖書協会『新共同訳聖書』または『口語訳聖書』


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以下追記 2022年12月16日

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