【今回のもくじ】
・ 事実をありのままに見る心地よさ
・ 畏れるべきもの、恐れるべきでないもの
・ 計画は捨てるためにある
・ 実力以上のことができてしまう恐ろしさ
・ 錯覚を吹き飛ばす神の息
・ 神のモノサシを基準とする
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■ 事実をありのままに見る心地よさ
少し前に、数学のテストで0点を取る夢を見た。
目が覚めて、この夢はどういう意味かと数秒考えて。
その意味がわかったとたんに、おかしくて笑ってしまった。
そして、心がぽかぽかあたたかくなった。
旧約時代の預言者も、睡眠中に神の声を聞くことがあったみたい。
こういうエレミヤの気持ちが、少しわかった気がした。
ここで、わたしは目覚めて、見回した。
それはわたしにとって、楽しい眠りであった。
――旧約聖書 『エレミヤ書』 31章26節
私が0点の答案を受け取った、数学のテスト内容は、
立体図形に関するものだった。
立体の展開図、切断面の形、光を当てたときの影の形、容積など……
現実に、私は数学が苦手で、空間認識力が弱い。
とくに物体の大きさを目測するのがヘタ。
(人の身長や、用紙サイズのB5とA4を見分けることができない)
しかしこの夢は、そういうスケールの小さいことをいっているのではなかった。
立体というのは、縦・横・奥行からなる三次元世界のシンボル。
三次元世界は、肉体をもって生きる人間世界のことでもある。
立体に関する諸問題のテストが0点だというのは、
この物理世界での、私の人間的な計算、目算、予測は、根本的にぜんぶ間違ってる
ってメッセージなんだな。
この三次元世界において、
「これは直線だ、これは曲線だ」
「この展開図(計画)を組み立てれば、こういう形(結果)になるはずだ!」
と私が認識している内容は、神から見れば、ぜんぶ0点。
ふふ、0点。
清々しいじゃないか。
いくつかの医学部入試では、不正な得点操作があったみたいだけれど。
神は不正な加点も減点もしない。
神は公正な裁き主(採点者)だから。
神が0点と採点したら、0点なんだよ。
この夢のメッセージが、私にはとてもうれしくて、
まさしく福音(良い知らせ)だと思った。
だって、三次元世界の諸事象の認識力が0点ってことは、
私が抱えている不安や恐れもまた、まったく的外れで、0点 ってことだから。
私が抱えている不安の正体は、これなんだな。
目の前のことですら、見えているようで見えていない。
目のつけどころが間違っている、ピントがずれている。
全体が見えていないから、判断が狂って滑稽な一人相撲をとったりする。
まして現実生活では、他者とその背後にある諸事情が複雑にからんでくるわけだから、
私がそういうものをすべて知ることは不可能。
そんな状態で、「これをこうすると、こうなるであろう……」と計算をしても、
最初の前提が間違っているのだから、計算結果が0点なのは当たり前だよね。
■ 畏れるべきもの、恐れるべきでないもの
イエスを十字架刑にしたユダヤ宗教エリートも、
的外れな不安ベースの計算間違いにはまりこんでいた。
祭司長たちや律法学者たちは、
イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。
彼らは民衆を恐れていた のである。
――新約聖書 『ルカによる福音書』 22章2節
宗教者ならば、神を第一に畏れるべきはずなのに、
彼らは神を畏れないで、民衆を恐れた。
宗教エリートたちは、恐れを抱くべき対象を間違えた。
フォーカスすべき対象を間違えているから、
その後の計画、計算、結果、すべてが狂う。
2000年前のユダヤ宗教エリートたちは、
自分の計算能力を過信して、イエスが指摘した計算間違いを認めなかった。
彼らの傲慢な計算間違いが、イエスの処刑・復活から2000年たった今ですら、
ユダヤ人差別を正当化する根拠となってしまっている。
しかしあらためて考えてみると、私も古代の宗教者と同じく、
私の悩み、不安の99%は、「他者の目が気になる」というところにあるなと思った。
ようするに、
人の顔色が気になる、
人の機嫌を損ねたくない、
人から誤解されたくない、
人から悪者だと思われたくない……
どれもこれも、神から見ればまったく的外れな悩み、0点の悩みだ。
的外れな悩み方をしたあげく、不安に負けて、
他者の目を基準にしてしまった瞬間に、
その他者が私を支配する神になり、私はその奴隷になってしまう。
たとえば人の顔色の奴隷になると、
心にもなく媚びる、お世辞をいう、社交辞令をぬりかさねる、
そしてどんどん自分の本心から離れていってしまう、
生気が失せてゆく……そして心が死ぬ。
それを聖書世界では罪という。
だからイエスの使徒パウロはこう忠告しているわけだな。
あなたがたは、身代金(イエスの犠牲)を払って買い取られたのです。
人の奴隷となってはいけません。
――新約聖書 『コリント人への第一の手紙』 7章23節
身分制度の話ではなく、生き方の基準としての話。
畏れるべき神を畏れ、神の奴隷でいなさい。
恐れるべきでない人を恐れてはならない、人の奴隷になってはならないと。
イエスも言う。
友人であるあなたがた に言っておく。
体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない 。
だれを恐れるべきか 、教えよう。
それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方 だ。
そうだ。言っておくが、 この方を恐れなさい。
――新約聖書 『ルカによる福音書』 12章4、5節
地獄は怖いぞと脅しているのではない。
人には手が出せない霊的領域の隅々にまで、神の手と目は届く。
人の魂を自在に処することができる神を畏れよ という話。
イエスは人の支配者ではなく、友人として、忠告してくれている。
イエスが嫌いで、イエスの話など聞きたくない、受け入れられないという人もいる。
そういう人は当時もいたし、今もいる。
そしてイエスは、それはそれでOKだと言っている。
人の子(イエス)の悪口を言う者は皆赦される。
しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。
――『ルカによる福音書』 12章10節
イエスの悪口を言うのはかまわない。
しかし神の働き(聖霊)を認めない者は許されないというわけ。
本当に神を畏れている者ならば、
預言者をとおして語られている神の言葉をうけいれるはずだ。
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。
天が地を高く超えているように
わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。
――旧約聖書 『イザヤ書』 55章8、9節
神の言葉を神の言葉としてうけいれていれば、
人間的な計算の限界も危うさも、
身をもって自覚できる機会がいくらでもあるはず。
イエスを妬んだ宗教エリートたちも、イエスをどんなに嫌ったとしても、
神ヤハウェを心から畏れていたなら、
イエスを不当な宗教裁判にかけることはできなかったはず……
■ 計画は捨てるためにある
私が0点の答案を返却されたのは、
「オマエの認識力は0点だからダメだ、
これから努力して100点取れるようになりなさい」
というメッセージではない。
根本的に、人間は、神の視点に立つことができない。
人間の身で、この世の全体を把握することは不可能。
どんなに努力しても0点だという己が分をわきまえて、神に頼れ ということ。
だから、私の思惑と、神の導きが噛みあわない場合は、
私の計画を捨てるのが正解。
私がこのブログを書く際も、
事前にこう書こうというおおざっぱな計画はある。
しかし実際に書き始めると、たいてい別の方向に筆が進んで、
思いがけない聖書個所を思い出したりして、
当初の計画とはぜんぜん違うところに着地することが多い。
そしてその方が、私の当初計画などより、はるかに良い内容になる。
最初の数歩を踏み出すきっかけとして、
自分で良しと思った目標を目指すのはOK。
しかし途中で、 神の導きによって、当初の計画とは異なる道を示されたなら、
その時点で自分の計画は捨てて、神の導きに従う。
即決できないなら、神に声を掛けられた所でいったんストップして考えてもいい。
『セルフセラピーカード』のイラストでは、真の目的地がはっきり見えているけれど、
実際には、真の目的地がまだまだ水平線の向こうにあって、
人間には先が見えないことも多いのだから、不安になるのも当然だ。
神の導きに従うと、当初の計画で成功できる可能性をあえて手放して、
失敗リスクを背負う場面も出てくる。
周囲の人からは理解されないで、反対される、非難されることもある。
神もそういう人間の弱さは十二分にわかっている。
だから自分の計画と神の導き、
どちらを選ぶかは、個人の自由意志に委ねられている。
旧約聖書には、神の導きに従って、
人生航路をギュイーンと曲げた人がしばしば登場する。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のいずれにおいても人気の人物、
アブラハムという人が、たぶんその元祖だと思う。
主はアブラムに言われた。
「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、 わたしが示す地に行きなさい。 」
……アブラムは、 主の言葉に従って旅立った。
――旧約聖書 『創世記』 12章1、5節
しかし旅立ったはいいが、
アブハラム(アブラム)はしばしば人間的不安に負けてしまう。
アブラハムも、数学のテストで0点を取るタイプだったのだろう。
神に尋ねず、自分の人間的計算で事を進めて失敗することが数回。
それでも神は、アブラハムを義とした。
完璧な信仰でなくても、失敗するたびに反省して神に立ち返ればOKということ。
神はアブラハムの失敗のフォローもしてくれている。
『ヘブライ人への手紙』の著者は、アブラハムをこう評している。
信仰によって、アブラハムは、
自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、
これに服従し、 行き先も知らずに出発した のです。
……アブラハムは、 神が設計者であり建設者である 堅固な土台 を持つ都を
待望していたからです。
――『ヘブライ人への手紙』 11章8、10節
アブラハムの場合は、「行先も知らずに出発した 」のは無謀ではなかった。
■ 実力以上のことができてしまう恐ろしさ
よく考えてみたら、私のこれまでの歩みも、
アブラハム的な進み方なんだよな。
ある日とつぜん 、予想外のこと に興味をひかれる。
「何で私がこれをするの?」と自分で首をかしげながらも、そうせずにはいられない。
そういう時にやったことって、
実力以上のことができてしまう 。
「できてしまう」のは、自分にはコントロール不能ってことだから、危険なことでもある。
それを自分の実力と勘違いしてしまうのが危険だ。
実は「神と聖書と日ユ同祖論」のテーマで、こういうブログ記事を書くこと自体、
すでに私のキャパを超えている。
だから自分で書いておきながら、自分で書いた内容に教えられてしまうことも多い。
自画自賛ということではないよ。
ともかく、「実力以上のことができてしまった 」ときには、
意識的に、自分の頭を低くすることにしている。
それは明らかに私の中から出てきたものではない、
私を超える存在から出てきたものだから。
イエスの一番弟子ペテロが、イエスに出会ったときのエピソードで。
異常な大漁に、ペテロがビビってしまう場面がある。
これを見たシモン・ペトロは、 イエスの足もとにひれ伏して、
「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」 と言った。
とれた魚に、シモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。
――新約聖書 『ルカによる福音書』 5章8、9節
ペテロはとっさにイエスの足元にひれ伏した。
自分の実力以上のことができてしまうと、
「おかしい、気持ち悪い、ヤバイ、怖い」と感じるんだよね。
私もブログを書きながら、そう感じる。
でも、おそろしいんだけれど、不快な恐怖ではない。
たぶん、この「おかしい、ヤバい」って感覚が、「神への畏れ」なんだと思う。
「神を畏れよ」と命令したって、神のおそろしさはぜったいに伝わらない。
各自が実感するしかないことだと思う。
■ 錯覚を吹き飛ばす神の息
外部から送り込まれてくるアイデア、神の息吹を、インスピレーションともいう。
inspiration …… 吸気、息を吸うこと。
転じて、「霊感を受けること」「心を奮い立たせること」。
主なる神は、土(アダマ) の塵で、人(アダム) を形づくり、
その鼻に 命の息を吹きいれ られた。
人はこうして生きる者となった。
命の息は、誕生の際に1回だけ吹き込まれるのではない。
呼吸のたびに、心が生きている限り、その都度、
神から新鮮な息=インスピレーションが吹き込まれている。
三次元テストが0点の私にとって、インスピレーションを無視して、
人間レベルの判断(常識など)に頼ることがいちばんのリスクだ。
私はこういうシンプルな平面図にすら、かんたんにだまされてしまう(笑)。
だったら、もっと複雑かつ立体的な、この物理世界の諸事象についてはなおのこと、
自覚なしにだまされ続けていることも多くあるだろう。
そしてこれは私だけでないはずだ。
「自分には正しく見えている」
と主張するのは、無知のゆえだよね。
盲人の目をひらいたイエスに、宗教エリートがケチをつける場面がある。
イエスは言われた。
「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。
こうして、 見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。 」
イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、
「 我々も見えないということか 」と言った。
イエスは言われた。
「 見えなかったのであれば、罪はなかった であろう。
しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。
だから、あなたたちの罪は残る。」
――新約聖書 『ヨハネによる福音書』 9章39-41節
私の目は、錯視図をクリアに見ることができる。
でも、正確に見ることができない。
予備知識なしに錯視図を見せられたら、何度でもだまされる自信がある。
この意味で、私は「見えているけど、見えていない者 」なのだ。
商業デザイナーは、目の錯覚を計算に入れて、
わざと寸法の正しくない図形を描くこともあるそうだ。
「正しい寸法で描くと、歪んでいるように見えてしまう 」のだという……
商業デザインにおいては、人間の目に正しく見えることが重要なんだね。
しかしこの現実生活は、実寸でなりたっている。
神の目には、この世界がすべて実寸で見えている。
だから、私や他者の目にどう見えていようとも、人生の選択については、
神のインスピレーションに従うのがもっとも安全 なんだな。
人に聞き従うよりも、まず第一に神に聞き従うべきだと、
そういう基準さえしっかりもっていれば、
だまされずにすんだであろうことが山ほどある。
どうしてインスピレーションの方を無視してしまったのかと悔やまれる。
アマノジャクになる必要はないが、
ちょっとでもおかしいと感じることには、従うべきではないな。
■ 神のモノサシを基準とする
旧約聖書では、土地や建物の寸法を計測するという記述が何度も出てくる。
測り縄(定規ロープ)を手にした天使も、何度か登場する。
イエスの人間職業は大工だった。
神はどんだけ測量好きなんだ?
測量ってそんなに面白いの?
と不思議に思っていたけれど。
いざ、自分が数学テストで0点を取ってみたならば(笑)
測量天使の果たす役割がいかに大切か、よくわかった。
人間世界のモノサシは不正確だから、それを基準にしてはならない。
神の測り縄(モノサシ)を基準としなさい。
神が引いた設計図に従って、事を進めなさい。
そういうことを言いたいんだな。
主はわたしに与えられた分、わたしの杯。
主はわたしの運命を支える方。
測り縄 は麗しい地を示し、
わたしは輝かしい嗣業を受けました。
――旧約聖書 『詩編』 16編5、6節
イエスの家族について、一般にはイエスの母、
聖母マリアばかりがクローズアップされているが、
本当に注目するべきは、イエスの父ヨセフ……
父ヨセフがダビデの子孫、かつ大工だったことじゃなかろうか。
大工ヨセフの家を選んで生まれてきたイエス は、
寸分の狂いもない神のモノサシで、錯覚を錯覚だと指摘してくれる。
錯覚の虜になっている人々を解放し、神の宮(人間)を建て直してくれる救い主。
少なくとも、三次元認識テストが0点の私にとっては、
神の宮大工イエスに頼るのがもっとも安全で、無難なことだ。
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人間世界では0点の答案も、神様なら、きっと花マルをつけてくれるよね(^^♪
※ 記事中の聖句引用元/日本聖書協会『新共同訳聖書』または『口語訳聖書』
※ イエスキリストの純粋な福音を知りたい人には、
■ 「神と聖書と日ユ同祖論」 記事一覧&リンク →
こちら
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