前回の続き。

 

 (前々回) あの日あの時あの場所で … 神の招き(calling)に従うのが天職(calling)

 (前回) 神の道(天職・calling)から中途脱落した場合 … 反省して神に立ち返ればOK 

 

前回のダビデ王とソロモン王の親子はともに、

身勝手な私欲に負けて神の道(天職・calling)から脱線してしまった。

 

今回は、私欲で脱線したケースではなく、

神の道がハードすぎてバーンアウトしてしまった場合について、

旧約聖書『列王記上』の預言者エリヤの物語をみていきたい。

 

【今回のもくじ】

 

・ 神の道は順風満帆ではない
・ ラスト・ストロー … 最後のひと藁、頑張りの限界
・ たくさん食べて、ゆっくり寝て、休養する
・ 休暇をとって、独りだけの静かな時をもつ
・ 「天職に熱心な自分」という偶像が砕かれた時

 

***************************

 

■ 神の道は順風満帆ではない

 

ソロモンの息子レハブアム王の時代に、イスラエル王国が南北に分裂した(BC922年)。

預言者エリヤは、分裂してから約60年後(BC860年頃)の、北イスラエル王国の人。

 

神ヤハウェに従うまじめなユダヤ人には、たいへん不遇な時代だった。

北王国のアハブ王は、非ユダヤ人の王妃イゼベルがもちこんだ異教の神を拝み、

異教の預言者たちを重んじていた。

神ヤハウェの預言者は次々と殺された。

 

そういうご時勢だったから、国王から指名手配されていたエリヤは、

公の場から身を隠して、サバイバル生活を続けていた。(列王記上17章)

 

神に従っていれば、すべてが順調に進む……というわけではない。

神に従うからこそ、世間との軋轢が生じ、ときには迫害される。

イエスが冤罪で十字架につけられたのもそのためだった。

 

 神に従ったあの人は失われた

 だれひとり心にかけなかった。

 神の慈しみに生きる人々が取り去られても

 気づく者はない。

 神に従ったあの人は、さいなまれて取り去られた。

 しかし、平和が訪れる。

 真実に歩む人は横たわって憩う。

 

 ――旧約聖書 『イザヤ書』 57章1、2節

 

物事がうまくいかない時に、因果応報だといって、

その原因を当人にばかり求めるのは誤りなのだ。

 

残念ながら人には逆境の原因がわからないが、

それも神の計画の一環として受け入れるなら、

神に信頼して、その改善を求め、あるいは耐え抜く力を得ることができる。

 

神にコミットできていなかった時の私は、

何かがうまくいかない原因がすべて自分自身にあるのではないかと思ってしまい、

どうにかその状況から救われたくて、

あれこれのスピリチュアル・自己啓発本、メソッド、ワークなどをフラフラしていた。

 

たとえば……

 

 × うまくかないのは……自分の波動が悪いから

 × 宇宙とシンクロできていないから

 × 宇宙にお願いする方法を知らないから

 × 引き寄せの法則を知らないから

 × 幸せの呪文を知らないから

 × ポジティブシンキングができていないから

 × 潜在意識のクリーニングができていないから

 × 成功イメージがうまくできていないから

 × 幼少期のトラウマが癒されていないから

 × 前世のカルマだから……云々

 

今となれば、なんとアホくさい。

追求すればするほど不安と迷いが深まってしまうだけだった。

こういうのは、どれもこれも間違いだから、すべて無視して大丈夫。

 

自己改善を趣味・娯楽として楽しんでいるならいいけど、そうではなく、

自分の人生について、本気で助けてほしいことがあるなら、

本物の神に助けを求めてコミットするしかない。

 (参考) アンカー(錨)は神の岩に降ろせ … 嵐にも揺るがぬものを土台とせよ。

 

これについては、たしかにイエスの言うとおりだった。

 

 イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、

 「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、

 あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。

 また真理を知るであろう。

 そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。

 

 ――新約聖書 『ヨハネによる福音書』 8章31、32節

 

神にコミットすることで、もっともらしい迷信から解放されて、本当に心身が軽くなる。
 (参考) 見えているのに、見えていない。… 人を錯覚から解放して、真実に導く神

 

預言者エリヤは、さすがにそこのところはよく心得ていた。

四面楚歌、異教に鞍替えした同胞や権力者に迫害されながらも、

神ヤハウェにコミットし続けていた。

 

■ ラスト・ストロー … 最後のひと藁、頑張りの限界

 

エリヤは神に導かれるままに、辺境や異国でサバイバル生活を続けていたが、

やがてのぞんだ神の声(calling)に従い、北王国アハブ王の面前に出て、

異教バアルの預言者450人と対決する。

エリヤの神が勝利し、エリヤはバアルの預言者を皆殺しにする。(列王記上18章)

 

しかしそこがエリヤの心身の限界だったようだ。

その後、孤軍奮闘してきたエリヤの心が、とうとう折れてしまう。

エリヤは王妃イゼベルの脅迫に負けて、北王国から逃亡する。

 

 アハブは、エリヤの行ったすべての事、

 預言者を剣で皆殺しにした次第をすべてイゼベルに告げた。

 

 イゼベルは、エリヤに使者を送ってこう言わせた。

 「わたしが明日のこの時刻までに、

 あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、

 神々が幾重にもわたしを罰してくださるように。」

 

 それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた。

 

 ――『列王記上』 19章1-3節

 

王妃イゼベルの伝言内容はようするに、

「神にかけて、今から24時間以内におまえを殺す」ということ。

 

それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた」とある。

エリヤはこれまでもずっと命を狙われてきたのだから、

いまさらこんな脅迫に屈するのかな?とも思えるけど。

 

エリヤも人間だし、長年そういう状態が続いていたことで、

心身が摩耗しきっていたということなんだろうね……

 

イゼベルの脅迫は、エリヤのラスト・ストロー(last straw/最後のひと藁)だった。

限界まで荷物を負っているラクダに、たった1本の藁を載せただけでも倒れてしまう。

誰にでも、そういうラスト・ストローを迎える瞬間があると思う。

それまで積もり積もったネガティブな感情のダムが、

たった一滴の水で決壊してしまうようなこと。

 

預言者エリヤは神に従い続け、数々の奇跡も起こし、

「神の人」と呼ばれるほどの大人物だったが、無敵のスーパーマンではなかった。

 

イゼベルの脅迫を恐れ、エリヤの天職、預言者の道から逃げる。

 

■ たくさん食べて、ゆっくり寝て、休養する

 

エリヤは、南王国の南端ベエル・シェバまで逃げた。

 

 それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた。

 ユダのベエル・シェバに来て、自分の従者をそこに残し、

 彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。

 

 彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、

 自分の命が絶えるのを願って言った。

 「主よ、もう十分です。

 わたしの命を取ってください。

 わたしは先祖にまさる者ではありません。」

 

 彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。

 御使いが彼に触れて言った。

 「起きて食べよ。

 

 見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、

 エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。

 

 ――『列王記上』 19章3-6節

 

従者と別れて、エリヤは一人で荒野の奥へ進んだとある。

そこで神に、もう死にたいと弱音を吐く。

 

エリヤは心がバーンアウトして、預言者という天職の道から外れてしまったが、

それでも神ヤハウェを畏れる信仰に背かなかったのはさすがだ。

「主よ、もう十分です」と、あくまで神ヤハウェに対して訴えている。

 

エリヤは自分の身の安全を確保したいなら、神ヤハウェを離れて、

イスラエル国王に降参して、当世流行していた異教崇拝に与すればよかった。

しかしエリヤはその道は断固拒否した。


エリヤは「もう死にたい」と神に祈っている途中で、横になって眠ってしまっている。

そのエリヤに天使が遣わされて、暖かい食事が与えられた。

空腹で疲れたまま寝落ちするのはよくないから、

眠るのであれば、ちゃんと身体に栄養のあるものを食べてからという配慮かと思う。

 

ダビデとソロモンが私欲に負けて神の道を外れた時は、神は彼らを叱責した。

しかしエリヤのように、神の道で疲労困憊して挫折した人に対しては、

神は叱らないし、責めもしない。

 

神はブラック経営者ではないから。

安息日を聖とせよ、安息日に働く者は死刑という律法を授けるほどに、

人間の休養を大切にするのが神だ。

だから神は、休養が必要な人には、休養を与える。

 

エリヤのように心が折れる時は、まちがいなく身体も疲れている。

 

身体の疲れがたまっていると、気力が萎えてしまうのは当然のことで。

生物メカニズムとして、人間の体調が悪いときには思考もネガティブになり、

活動意欲が落ちるようにできているそうだ。

体調不良なのに心が元気だと、無理してガソゴソ動き回ってしまって、

身体がしっかり回復できなくて困るから。

鬱で動けなくなる理由も、そこにあるそうだ。


神は根性論を嫌う。

自分の根性で苦難と闘いながらがんばり続けるのは、天職の道ではない。

神に頼らず、根性でなんとかしようとするから、バーンアウトして鬱になってしまう。

 

愚痴も弱音も、神に対してあらいざらい訴えていい。

たとえば旧約聖書の『詩編』は、美しい祈りの詞ということになっているが、

実際に読んでみるならば、神への弱音と愚痴が相当な分量をしめている。

神に逆らうアイツをぶっコロしてくださいという恨み節すらも散見される。

神への祈りは、綺麗ごとでなくていいのだ。

 

天職を「神から与えられた使命」だと定義するならば、

エリヤのように天職の道がハードすぎて対応できない時には、

それを神に訴えて、神に助けを求めるのが正解。

だって、その天職を与えたのは神なんだから。

自分の力でがんばって神に従い、天職をまっとうするものではない。

 

エリヤは、そこの判断は間違えなかった。

死にたいという本音を、正直に神ヤハウェに告白している。

人間相手にはそういう本音は言えなかっただろうけど、

神と二人きりのところでなら、正直にうちあける。

 

エリヤはまず身体の疲れを取るために、そこで食べて、寝た。

疲れている時は、ごちゃごちゃ考えないで、ゆっくり寝るのが最優先。

 

■ 休暇をとって、独りだけの静かな時をもつ

 

神からの差し入れを食べて、一眠りしたエリヤに、再び天使が訪れる。

 

 主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、

 「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。

 エリヤは起きて食べ、飲んだ。

 

 その食べ物に力づけられた彼は、

 四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。

 

 ――『列王記上』 19章7、8節

 

これ以降の場面は、シンボル的に解釈すると、

神のメッセージを自分事として受け取れると思う。

 

旧約聖書も、新約聖書も、古代ユダヤ人の歴史書として読むとつまらないが、

霊的シンボルとして読めば、そこに神からの個人的メッセージを見いだせる。

 

ひとまずここでは、こう読んでみる。

 

 ・この旅は … エリヤの心の旅路、弱い自分をさらけだして神と向き合うこと

 

 ・あなたには耐えがたい … エリヤの自力だけでは耐えがたい

 

 ・起きて食べ、飲んだ … 神の恵み・言葉を受けとり、自分のものとした

 

 ・四十日四十夜 … それなりの長い日数、心で感じるカイロス時間としての四十日

 

 ・歩き続け … 神と向き合い続け

 

 ・神の山ホレブ(シナイ山)に着いた … 預言者としての原点にたちもどる

 

エリヤ一人だけで、神の道、天職を歩み続けるのは耐えがたいことだから、

神が与えたパン(神の言葉など)をしっかり食べてから、

長期休暇をとって、世間の喧騒から離れて、じっくり神と向き合うようにと。

リラックス目的で闇雲に瞑想するのではなくて、神ヤハウェにピントをしぼる。

 

神の山ホレブは、モーセの十戒と律法が授けられたシナイ山のこと。

ユダヤ教の原点といってもいい。

 

何日もかけて神と向き合い、心と向き合い、神の山ホレブに着いたエリヤは、

自分が預言者の使命を引きうけたのはいったい何のためだったか等、

原点をふりかえりながら、いろいろ自問したのではないかと思う。

 

エリヤはもともと神の導きで単独サバイバルしていることが多かったのだから、

今さらここで神に向き合うというのは奇妙な感じがするけど。

命を狙われ、心の弱さを隠しながらサバイバルしていた時には、

本音で神に向き合うことができていなかったのかもしれないね……

 

■ 「天職に熱心な自分」という偶像が砕かれた時

 

神の山ホレブに着いたエリヤは、洞窟にひきこもる。

神の問いかけと、エリヤの回答が噛みあっていないことに注意。

 

 エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。

 見よ、そのとき、主の言葉があった。

 「エリヤよ、ここで何をしているのか。

 

 エリヤは答えた。

 「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。

 ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、

 祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。

 わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」

 

  ――『列王記上』 19章9、10節

 

エリヤが何をしているのか、神にはわかりきっている。

「エリヤよ、ここで何をしているのか」とあえて尋ねているのは、

エリヤ自身の心の整理のためだと思う。

 

他者から尋ねられてはじめて、自分の想いを言葉に変換できることがある。

漠然とした想いを言葉に変換することで、自分の心を客観的に見ることができる。

「ああ、自分はそういう風に考えていたのか」と、意外な発見をすることも少なくない。

 

エリヤは「ここで何をしているのか」という問いに、まともな答えを出せていない。

 

わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。

 

ようするに、「私は難を避けるために逃げ回っています」とか、

主の助けを求めて、こうして独りで苦しんでいます」ということなんだよね。

しかしエリヤはそういう自分の弱さは口にせず、

自己弁護っぽいことを回答してしまっている。

 

わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。

 

たしかにエリヤは情熱の人で、エリヤ物語には「火」のシンボルがついてまわる。

「オレに惚れると火傷するぜ」というセリフが似合いそうな人だ。

 

しかしエリヤの個人的情熱だけでは、度重なる困難に耐えられず、燃え尽きてしまった。

エリヤの情熱の火は、消えてしまった。

だから「もう十分です、わたしの命を取ってください」ということになった。

 

エリヤ自身の神への情熱が、預言者というハードな天職をこなす原動力だったようだ。

これは信仰熱心ですばらしいことに思えるが、

厳しい見方をすれば、エリヤは神ヤハウェに仕えているのではなく、

「神に情熱を傾けている自分」という理想像(偶像)に仕えていたことになる。

 

自分の情熱を支えとし、それを誇りにもしていたであろうエリヤは、

ご自慢の情熱が消えてしまった今の自分の姿を、

まだ正視することができなかったのだろう。

だから「ここで何をしているのか」という問いに、素直に回答できない。

 

ピントのずれた回答をするエリヤに、神はこう続ける。

 

 主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。

 

 見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。

 主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。

 しかし、風の中に主はおられなかった。

 風の後に地震が起こった。

 しかし、地震の中にも主はおられなかった。

 地震の後に火が起こった。

 しかし、火の中にも主はおられなかった。

 

 火の後に、静かにささやく声が聞こえた。

 それを聞くと、エリヤは外套(がいとう)で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。

 

 そのとき、声はエリヤにこう告げた。

 「エリヤよ、ここで何をしているのか。」

 

 エリヤは答えた。

 「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。

 ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、

 祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。

 わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」

 

 主はエリヤに言われた。

 「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。

 ……シャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。

 ……しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す

 これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」

 

 ――『列王記上』 19章11-16、18節

 

神は「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と命じている。

洞穴に自分を隠さないで、主の前にさらけ出しなさいということだろうね。
 
その後、激しい風、地震、火、という派手な自然現象が続いて起こるが、
その中に主はいなかった……いかにも神が居そうな事象なのだけれど。
 
そのかわり、エリヤの心に、「静かにささやく声が聞こえた」。
神の声(calling)は、心の中に静かに聞こえてくるもの。
外部の出来事が気づきのきっかけとなった場合でも、
出来事そのものに意味があるわけではなくて。
その出来事について、心の中で「静かにささやく声」が、神のメッセージだよね。
 
エリヤは「静かにささやく声」を聞いて、洞窟から出てくる。
自分のみっともない姿を神にさらす勇気はまだなくて、
外套で顔を覆い」という状態ではあったけれど。
しかも「エリヤよ、ここで何をしているのか」という問いに、
さっきとまったく同じ回答をしてしまうけれど。
 
ただ、さっきと同じ言い訳がましい回答をしているものの、この時のエリヤは、
顔を外套で覆わないと神の前に出られない自分の惨めさを痛感したはずだ。
 
そして神の目には、エリヤのご自慢の情熱が消えて、
エリヤが惨めに自信を失った(心が砕かれた)ことで、
かえって預言者としての使命を任せやすくなったのだと思う。
 
神は、エリヤを叱りも励ましもしないで、
行け、あなたの来た道を引き返し……」と命じている。
預言者の道へ戻れということだね。
 
エリシャに油を注いで「あなたに代わる預言者とせよ」とも命じている。
つまりエリヤの弟子、後継者としなさいと。
 
きっと自分の情熱を支えとしていた時のエリヤは、
「一人だけ生き残った預言者」という看板を背負って、
最前線で神ヤハウェの言葉を伝える自分が好きだった。
その状態では、自分が一歩退いて後継者を育てるという使命はこなせなかっただろう。
 
でも、エリヤは心が燃え尽きて、自分の弱さを思い知ることで、
もはや自分の情熱を支えとはしなくなった。
 
エリヤにとっては苦い挫折体験だけれど、
神の目には、エリヤの天職を次のステップに進めるための好機だったはずだ。
この後、エリヤは神の言葉どおりに、エリシャを立派な預言者に育てあげた。
 
さらに神は、異教に屈しなかったイスラエル人を「七千人残す」と告げる。
七千人は「たくさんの人」という意味。
これによってエリヤは、
「一人だけ生き残ったイスラエルの預言者」という肩書をはく奪されたことになる。
エリヤはそれを残念だとは思わなかっただろう。
 
エリヤの最期は『列王記下2章』に詳しく伝えられている。
火の馬車に乗って、生きたまま天に昇っていった。
いったん挫折したものの、やはり神への情熱がエリヤの本質だったのだろうね。
 
■ まとめ
 
エリヤのように神の導きに従い、天職を正しくこなしていても、
妨害されたり、挫折したりすることはある。
そういう時は、自分好みのやり方で天職をこなすことにこだわらないで、
その都度、神に助けを求めるのが第一。
 
もし天職の重圧で心身がすりきれてしまったときは(できればそうなる前に)、
しばらく現場から離れて、たっぷり休養する時をもつのもOK。
たくさん食べて、たくさん寝て、一人で静かなときを過ごすのはサボりではない。
神と二人きりになる、大切な時。
 
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第一線で活躍するプレイヤーだったエリヤは、
挫折経験をとおして、後進を育てるコーチの道が開かれた。
天職(calling)の内容は日々あらたに更新される……
 
 
 
※ 記事中の聖句引用元/日本聖書協会『新共同訳聖書』または『口語訳聖書』 
 
※ イエスキリストの純粋な福音を知りたい人には、
 『キリスト教放送局 FEBC』をお勧めします。
 
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