■今回の結論は、↑ようするにこういうこと。 これを念頭において、以下の内容を読み進めていただければと思う。

■聖書を読んだことがなくても、聖書が嫌いな人でも、
求めよ、さらば与えられん」いうフレーズはたいていの人が知っていると思う。
自己啓発、スピリチュアル系の人々にも好んで使われているフレーズだという印象がある。

「求めよ、さらば与えられん」は、
新約聖書のマタイ書とルカ書で、イエスの説教の一部として登場する。

しかし実際のところ、求めたのに与えられないことも少なくない。

求めているのに与えられない理由について、
私が知る限り、聖書内には少なくとも6つの理由が見つかる。

■【求めても与えられない理由】

【1】 求める相手を間違えている (求める相手は神のみ)

【2】 豚に真珠

【3】 神と人間の価値観の相違

【4】 求める動機がゲス

【5】 時期尚早 (求める動機と内容は正しい)

【6】 サタン(ヨコシマ・邪)の妨害


今回は、上記の内容について、
関連する聖書個所を順に取り上げながら見ていきたい。

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■ 【求めても与えられない理由 1】
 求める相手を間違えている(求める相手は神のみ)

まず、「求めよ、さらば与えられん」の個所を確認してみよう。
マタイ書・ルカ書ともに、だいたい同じような内容になっている。

 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。
 捜せ、そうすれば、見いだすであろう。
 門をたたけ、そうすれば、開けてもらえるであろう。
 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者は開けてもらえるからである。

 あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。
 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。

 このように、あなたがたは悪い者であっても、
 自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、
 天にいますあなたがたの父はなおさら、
 求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。

 ――『マタイによる福音書』 7章7-11節


これは、神の子イエスが語っているのだから、
願い求める相手すなわち「天にいますあなたがたの父」は、もちろん神(ヤハウェ)である。

この大前提を無視しているなら、求めても与えられないのは当然だ。

さらに、『ヨハネによる福音書』では、最後の晩餐の場面でこう語られている。

 わたし(イエス)の名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。
 父(ヤハウェ)が子によって栄光をお受けになるためである。
 何事でもわたし(イエス)の名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。
 (ヨハネ書14章13,14節)

 あなたがたがわたし(イエス)につながっており、
 わたしの言葉があなたにとどまっているならば、
 なんでも望むものを求めるがよい。
 そうすれば、与えられるであろう。
  (ヨハネ書15章7節)


求めよ、さらば与えられん。
しかしそのためには、神の子イエスにつながっており、
なおかつイエスの言葉(真意)を心にとどめている状態でなければならない……
けっこうシビアだな。

なんにせよ、願い求める相手は神のみなのだ。

モーセの十戒の冒頭:
 「あなたはわたしの他に、なにものをも神としてはならない」(出エジプト20:3)

神とは、天地万物の創造神のこと。唯一の真の神のこと。

諸々の霊的存在(天使、聖母マリア、聖人何某、諸神話の神々など)のことではない。
もちろん、人間の権力者、親、隣人、あるいは宗教の教祖・代表者なども神ではない。

神に何かを求めた結果として、他者を通して願いが叶えられることはある。
しかし神を抜きにして、いきなり他者(人間)に何かを求めているならば、
その求めが満たされないのは当たり前ということになる。

「求めよ、さらば与えられん」を期待するなら、
何をおいてもまず最初に神に対して求めるのが大前提。

 あなたがたの天の父は、
 これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
 
 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
 そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

 だから、明日のことまで思い悩むな。
 明日のことは明日自らが思い悩む。
 その日の苦労は、その日だけで十分である。

 ――『マタイによる福音書』 6章32-34節


■また、本当の神ではなく、「神と呼ばれているもの」に求めている場合も同じ。

無神論の人はしばしば、神のことを「人間の想像の産物」「人間の発明品」と定義する。

たしかに、人間の想像の産物を「神」と名付けたところで、それは本当の神ではないから、
何の助けにも支えにもならない、虚しい偶像にすぎない。
この意味で、無神論者のいうことはきわめて正しい。

「人間が想像した神」に何を求めたところで、与えられないのは当たり前。
人間が想像した神ではなく、「人間を創造した神」に求めなければならない。

人間の潜在意識、集合意識など、「○○意識」と名のつくものを神とするのも間違っている。
そういう人は、聖書で語られている神の定義を間違えている

神は人間と地続きの存在ではない。
天と地が同じ空間に同居しながらも、完全に性質を異にしているように、
創造主である神と、被造物の人間もまた、完全にその性質を異にする。
神は人間の外部の存在である。

だから、○○意識に求めたら、イメージングをしたら、マントラを唱えたら、おまじないをしたら、
つまり人間と地続きの何かによって願いを叶えて、思い通りになったというのは、
自己実現の枠内に閉じこもっているときにのみ通用する話。
それは閉じられた空間内で延々と汚水を循環させているだけか、
あるいはタコが自分の足を食べて満腹しているようなもので、たいへん危険な事だと思う。

人間は、自分あるいは他者の手足や排泄物を食べて生き続けることはできない。
(生物学的に、ある程度複雑な身体をもつ種が共食いをすると奇形・奇病が発生する……)

人間の身体を生かす太陽光・水・空気・食べ物(動植物)などはすべて、
人間という種の外部から、常に新鮮なものを供給されなければならない。

それと同じく、物質的な求めであれ、霊的な求めであれ、
必要なことは、人間(被造物)の外部(創造主)に求めなければはじまらない。


そうして人間の外部(創造主側)から与えられる恵みを、タカラ(宝・他カラ)ともいう。

神は最善のタカラを人間に与えたいと思っている。
それをイエスは、「父が子どもに良い贈り物をする」というたとえで表現している。

もし人間側が、神から与えられるタカラ(他から)ではなく、
自己充足できる範囲の何かを求めているなら、そういう求めは叶えられない方がありがたい。

その場合は、求めても与えられないという現実こそが、神の愛の現れだと思う。
魂を害することになる求めを退けるという形で、最善のことが叶えられているのである。

私は個人的には、求めても与えられないという形で、多く助けられてきたように思う……

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■ 【求めても与えられない理由 2】 豚に真珠

マタイ書では、「求めよ、さらば与えられん」の直前に、イエスは大事なことを語っている。
その部分も含めて、もう一度該当部分をみてみよう。

 聖なるものを犬にやるな。
 また真珠を豚に投げてやるな。
 おそらく彼らはそれらを足で踏みつけ、
 向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。

 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。
 捜せ、そうすれば、見いだすであろう。
 門をたたけ、そうすれば、開けてもらえるであろう。

 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者は開けてもらえるからである。

 あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。
 魚を求めるのに、蛇を与える者があろうか。

 このように、あなたがたは悪い者であっても、
 自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、
 天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。

 ――『マタイによる福音書』 7章6-11節


「豚に真珠」ということわざの出典がここ。
「求めよ、さらば与えられん」とセットになっている言葉なのだ……
犬と豚は、聖書世界ではケガレ・忌み嫌われるもの・愚か者の象徴。

神は人間にタカラ(宝・他カラ)を与えたいと思っているが、
そのタカラの価値を理解しない者に、むやみに何でも与えるようなことはしないということ。

憐れに思って、犬や豚のような存在に大切なタカラを与えようものなら、
相手はその価値を理解できずに足で踏みつけてしまうばかりか、
逆恨みをして噛みついてくることすらあるだろうと、イエスはけっこうキツイことを言っている。
実際、イエスは当時の宗教エリートに逆恨みされて、十字架刑で殺されてしまった。

そういうわけで、求めても与えられないのは、
残念ながら、豚が真珠を求めているような状態……分不相応だからかもしれない。

ただしこの個所は、あくまで己自身についてのみ適用することが望ましい。
他者に対して、「あなたのは犬や豚のようなものだから願いが叶えられないのだ」
などというべきでないと思う。

イエスの直弟子たちですら、己が求めている内容の真意を理解しないまま、
トンチンカンな事をイエスに願い出てやんわり退けられたことがある。

 ……ヤコブとヨハネとがイエスのもとにきて言った、
 「先生、わたしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」。

 イエスは彼らに
 「何をしてほしいと、願うのか」 と言われた。

 すると彼らは言った、
 「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください。」

 イエスは言われた、
 「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない……」

 ――『マルコによる福音書』 10章35-38節


マタイ書では、彼らの母親がそう願ったことになっているが、結果は同じ。
彼らの願いは明らかにエゴだから、退けられている。

しかし彼らほど露骨なエゴではなくても、人間には道徳的に善いことと見えても、
神から見れば、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない
と嘆息されるようなことを求めてしまうことは、誰にでもありうると思う。

そういう場合は、やはりその求めが与えられない、叶えられないのが最善。

ルカ書では、十字架に付けられたイエスが、神にこう求めている。
父よ、彼らをおゆるしください。何をしているのか、わからずにいるのです
(詳細 人類の罪を引き受けるカタシロ(形代)としてのイエス … 神の子羊、子羊の血

願いが叶えられないからといって、人間的な我力で強引に願いを叶えようとすると、
そうとは知らずにイエスを十字架につけるようなことをやらかしてしまうことになる。

願いを叶えることに執着すると、ろくなことにならない。
願いの内容にエラーが含まれていることも少なくないのだから。

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■ 【求めても与えられない理由 3】
 神と人間の価値観の相違

ルカ書では、豚に真珠という厳しいことは言っていない。
むしろ、なりふりかまわず真剣に求めなさいと勧めている。

しかしもちろん、なりふりかまわず求めたら何でも与えられるとは言っていない。

ルカ書では、神に求めた結果与えられるものについての結論が、
マタイ書よりも具体的かつ限定的になっている。

【マタイ書 7:11】
 このように、あなたがたは悪い者であっても、
 自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、
 天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。

【ルカ書 11:13】
 このように、あなたがたは悪い者であっても、
 自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、
 天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか。


マタイ書では「良いもの」と抽象的に書かれている個所が、ルカ書では「聖霊」となっている。
神が人間に与えたい最善のタカラ(宝・他カラ)は、聖霊(神霊)だというわけだ。

聖霊(神霊)は、人霊とはまったく異なる霊である。
将棋でたとえれば、人霊と聖霊は、別々の駒である。

将棋なら、低位の駒が一定条件を満たすと裏返って金将になれる(=成金)。
しかし聖霊を受けるというのは、人霊という駒が努力して神霊に成るという意味ではない

聖霊は最初から人霊とはまったく別の駒なのだから、
聖霊を受けたければ、神から与えてもらう以外にそれを得る方法がない。
まさしく「他から」いただくしかないタカラ(宝)なのである。

しかしてルカ書では、「求めよ、さらば与えられん」という言葉は、
最善の宝である聖霊を神に求めよ、さらば与えられん」という意味になる。

聖霊を受ければ、神人合一の状態になり、「神の願い=私の願い」となるから、
求めるものは何でも与えられるということ。

ただし聖霊を受けるには、己のエゴを完全追放する必要がある。
聖霊とエゴは同居できない……

「神の聖霊を与えてください」と願うのは、
「私のエゴを殺してください」という願いとイコールである。
そして神は喜んでその願いを叶えてくださる。

だから、今の自分にそこそこ満足していて、
これからも自分の思い通りの人生を歩み続けたい人は、
神の聖霊をくださいなどとは願わない方がいい……人生が終わるから(笑)
(参考 その日時は誰も知らない … エゴの世界が崩壊する日/私がルーン魔女活動をやめた理由

■とまあ、聖霊云々の神学的なことは別にしても、
なにが本当の幸せであるかという点で、神と人間(エゴ)の価値観が大きく異なっているため、
どうしても人間的には「求めても与えられない」と見えてしまうことがある。

神に真剣に求めれば求めるほど、エゴの思い通りにはいかなくなる。
神がはたらいてくれている時には、必ずそういうパラドックスが生じる。

善なる動機で善なることを願っているつもりであるにもかかわらず、願いが叶わない時には、
「すでに神から与えられているタカラの価値がわかっていないだけ」
という可能性を検討してみても損はないと思う。

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■ 【求めても与えられない理由 4】 求める動機がゲス

 求めても与えられないのは、
 快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。

 ――新約聖書『ヤコブの手紙』 4章3節


正論ストライク。
解説は不要だと思う。

この手紙を書いたとされているヤコブは十二使徒のヤコブではなく、
イエスの弟ヤコブ(ただし諸説ありまくり)。

この他にも、ヤコブ書はいちいち痛快で面白いことが書いてあるのでお勧め。

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■ 【求めても与えられない理由 5】
 時期尚早 (求める動機と内容は正しい)


神のベストタイミングと、人間のベストタイミングが異なるということ。

人間の思い通りのタイミングで叶わないのは、神に願いが却下されたからではない。
まだその時期が到来していないだけである。

しかし頭ではそうだとわかっていてもなお、
神の最善タイミングが、人間には遅すぎると見えることが少なくないんだけどね……

旧約時代の預言書『ハバクク書』は、不法と非道がはびこる世の悲惨を、
ハバククが必死で神に訴える所から始まる。

個人レベルでも、理不尽にふりかかってきた悲惨を神に訴えたことがある人は、
ハバククの叫びに共感できるはず。

 主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに
 いつまで、あなたは聞いて下さらないのか。
 
 わたしが、あなたに「不法」と訴えているのに
 あなたは助けてくださらない。

 どうして、あなたはわたしに災いを見させ
 労苦に目を留めさせられるのか。
 暴虐と不法がわたしの前にあり
 争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。

 律法は無力となり
 正義はいつまでも示されない。
 神に逆らう者が正しい人を取り囲む。
 たとえ、正義が示されても曲げられてしまう。

 ――『ハバクク書』 1章2-4節


この時代、ユダヤ人の国(南王国)の内政は腐敗しており、
外部からはバビロニアに激しく攻められ、国家滅亡の淵にあった。

こういう悲惨な状況を、どうして神はただ黙って見ているだけなのか?
無辜の人々が殺されているのに、どうして神は助けてくれないのか?

今の時代にもそのまま流用できる訴えだと思う。

これに対して、神からの回答がハバククに示されるのだが……
人間的には、すぐには納得しかねるような回答である。

 主はわたし(ハバクク)に答えて、言われた。

 「幻(ビジョン)を書き記せ。
 走りながらでも読めるように
 板の上にはっきりと記せ。

 定められた時のために
 もう一つの幻があるからだ。
 それは終わりの時に向かって急ぐ
 人を欺くことはない。

 たとえ、遅くなっても、待っておれ。 (もしおそければ待っておれ/口語訳)
 それは必ず来る、遅れることはない。

 見よ、高慢な者を。
 彼の心は正しくありえない。
 しかし、神に従う人は信仰によって生きる

 ――『ハバクク書』 2章2-4節


「たとえ遅くなっても待っておれ……神に従う人は信仰によって生きる」

いや、待っておれとか言われたってねえ……
とくに生命にかかわる緊急事態には、そんな悠長に待ってられないこともあるじゃないか。

人間が思うベストタイミングと、神のベストタイミングは異なる。
それはわかっている。
それでも納得しきれないことはある。

しかし、「定められた時のために、もう一つの幻がある」……
すなわち、もう一段階、人間ハバククの知らないところで神がなすべきことがあるというのだ。

そしてそれは、「終わりの時に向かって急ぐ」のだから、
神が何もしないでのんびりしているというわけではない。
むしろ現在進行形で、神はその計画を急いで実行している最中なのである。
ただし、その内容は人間ハバクク側にはわからない。

神はいちいち全部の計画を人間に知らせたりはしない。
ともかく、神がなすべきことをなすまでは、
待っておれ、必ず来る、遅れることはない」というのが神の答えである。

神の目には、全地の全容が見えている。
人間の目には、どんなに視野を広げても、局地的なことしか見えない。

ならば、人間的に思い通りのタイミングで解決がもたらされなくても、
神の最善が成ることを信頼して忍耐するしかない。

アラビア語でいう「イン・シャーア・ッラー」……「神の御旨が成りますように」と、
神に積極的に信頼して、神に委ねることが求められる。
これがユダヤ教・キリスト教・イスラム教の特徴でもある。
人間ではどうにもならないから、諦めて投げやりになるのとはぜんぜん違う。
(参考 神のまにまに … カンナガラ(惟神)とインシャーアッラーの違い。

人間側のテクニックではいかんともしがたい、神の領域を認めること。
これはルーン文字でいうところのペオース(パース)……
神にすべてを委ねる(サレンダー・降参する)ということが求められる。
(エゴは神の領域をけっして認めず、すべてを自分でコントロールしようとする)

ハバククへの回答で、「走りながらでも読めるように、神のビジョンをはっきり記せ」とある。
現代風にイメージするなら、高速道路のでっかい看板かな。
あるいは書籍で、その部分だけフォントを特大にするというイメージでもいいと思う。

高速で走っている車からでもはっきり読めるようなでっかい字で、

もし遅ければ待っておれ。
それは必ず来る。
遅れることはない。


という神の言葉を書いておけと、神はハバククに指示しているのだ。
たしかに特大フォントはインパクトがあるな。

ともかく、願い求めている動機も内容も正しくて、
神にもちゃんとそれが聞かれているのに、それがすぐに叶わない場合もある。

そんなときには、人間の我力、チカラワザで強引に何かをしてはいけない。
そんなことをしたら、かえって神の邪魔となり、解決を遅らせてしまうことになる。

 お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。
 安らかに信頼していることにこそ力がある。
 
 ――旧約聖書『イザヤ書』 30章15節


速く、速く、速く、速く……と結果を焦るのは、人間の病癖の一つだろうね。
気が急いていては、できることもできなくなってしまう。

自分の思い通りのタイミングにこだわるのはやめたほうがラクだね。

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■ 【求めても与えられない理由 6】
 サタン(ヨコシマ・邪)の妨害

求めている動機と内容が正しく、神もそれを与えたいと願っているにも関わらず、
余計な邪魔が入ってくるパターン。

神と人間の間に割りこんで邪魔をする霊的存在を、聖書世界ではサタン(悪魔)という。
(詳細 ヨコシマ(邪・横縞)とオロチ(蛇・愚血) … アダムとエバは何を間違えたのか

預言書の『ダニエル書』に、サタンが天使を妨害したという興味深い話が記されている。
天使はこう語っている。

 ダニエルよ、恐れるには及ばない。

 あなたが悟ろうと心をこめ、あなたの神の前に身を悩ました
 その初めの日から、あなたの言葉は、すでに聞かれたので、
 わたしは、あなたのゆえに来たのです。

 ペルシャの国の君(サタン)が、二十一日の間わたしの前に立ちふさがったが、
 天使の長のひとりであるミカエルが来て、わたしを助けたので、
 わたしは、彼をペルシャの君と共に、そこに残しておき、

 末の日に、あなたの民に臨まんとする事を、
 あなたに悟らせるために来たのです。
 この幻は、なお来たるべき日にかかわるものです。

 ――『ダニエル書』 10章12-14節


ダニエルの祈りはすぐに神に聞かれたのだが、
神のメッセンジャー天使が途中でサタンに妨害されて、
21日間足止めをくってしまったのだという。

しかし天使長のひとりミカエルが助っ人に来て、サタンとの闘いを引き受けてくれたので、
メッセンジャー天使はそこを後にしてダニエルのもとに来ることができたそうだ。

どうも霊界ではサタン陣営の横やりがしょっちゅう入ってくるらしい。
このメッセンジャー天使は、ダニエルのもとで用を済ませたら、
再びサタンとの闘いに戻ると語っている(ダニエル10:20)。
天使はあちこち駆け回らなければならず、忙しいようだ。

この場合、人間にできることは、諦めずに神に信頼して求め続けることのみである。

ダニエルのように、願ってから叶えられるまでにタイムラグが生じることも少なくない。

そのタイムラグの原因が、前項ハバククのように、神の意図的なものなのか、
サタンの妨害によるのかは、人間側にはどちらでもよいことだと思う。
どちらにしても、神に信頼して忍耐強く待つことが求められる。

神からの返答がなくて不安になっている間にも、天使サイドでは、
「今すぐ行くから、人間よ、そこで待っておれ! だああー! サタンがうぜえ!」
などと叫びながら、サタン陣営と剣を交えつつ全速力でこちらに向かっている途中かもしれない。

ここで人間側が諦めて、神への願いを取り下げてしまうと、
あるいは神を信頼しきれなくて背を向けてしまうと、神も天使もガッカリしてしまうだろう。

そうやって人間と神を引き離すのがサタンの第一目的である。
サタン側は、天使にボコボコにされて敗れてもいいのだ。
とにかく人間が神の前から去ってくれれば、それがサタン陣営の勝利なのである。

だから、真の神とつながるチャンネルを変えてはいけない。
神に対してナオ(直)でなければならない。
そのチャンネルは一つだけ。

たとえサタンの電波妨害があっても、神サイドでじきにそれを除去してくれるから、
それまで「チャンネルはそのままで! Stay tune , Stay with us!」なのである。

チャンネルを変えてしまうと、真の神とはぜんぜん別のものにつながってしまうことになる。
神とお付き合いを続けたいならば、途中でつまらないCMや電波障害が割り込んできても、
忍耐強く神と共にあるチャンネルにとどまることが大事。

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■【求めても与えられない理由】

【1】 求める相手を間違えている (求める相手は神のみ)

【2】 豚に真珠

【3】 神と人間の価値観の相違

【4】 求める動機がゲス

【5】 時期尚早 (求める動機と内容は正しい)

【6】 サタン(ヨコシマ・邪)の妨害


以上のことをふまえた上で、↓どちらが自分に合っているか、検討してみるとよいと思う。





※ 記事中の聖句引用元/日本聖書協会『新共同訳聖書』または『口語訳聖書』

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 『キリスト教放送局 FEBC 』をお勧めします。
 
 
■ 「神と聖書と日ユ同祖論」 記事一覧&リンク →こちら

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