ヒロシマ、ナガサキ、敗戦、お盆……

毎年このシーズンになると、今を生きることについて意識する機会が激増しますね。

 

ちょうど一年前に書いた記事を読み返していました。

→ メメント・モリ(死を想え)/カルペ・ディエム(今日の花を摘め)

 

・ Memento mori  (メメント・モリ、死を想え) 

・ Carpe diem quam minimum credula postero

   (カルペ・ディエム、今日の花を摘め……明日のことを信用しすぎないように)

 

どちらのラテン語も言わんとすることは同じ。

ようするに「今を生きよ」ということですね。

 

この2つの格言について、あらためて考える機会がいろいろあり、

おかげで私なりに答えが出てすっきりいたしました。

今回は、そのあたりのことを中心に書いていきます。

 

【今回のもくじ】

 

・ 死を意識しすぎて、今日の花(命)が見えなくなる

・ 自分で考えない人には、神の声が届かない

・ 草は枯れ、花はしぼむが…… (イザヤ40章)

・ 一輪の花(命) > ソロモンの栄華(無生物) (マタイ6章)

 

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■ 死を意識しすぎて、今日の花(命)が見えなくなる

 

メメント・モリ(死を想え)という言葉の目的は、

必ず訪れる「死」というタイムリミットを意識することで、

今という命の時が、いかに貴重で大切なものかを自覚すること。

より深く豊かに「今を生きる」ために、「死」を意識するのが目的。

 

カルペ・ディエム(今日の花を摘め)も同じ。

明日や1年後の花のことを想うのではなく、

いま咲いている花(命)に心を向けて生きる = 今を生きるということです。

 

ところが私の場合、メメント・モリを意識しすぎているせいで、

かえって今を生きることができなくなっていると気が付きました。

 

メメント・モリ、人はいつか必ず死ぬのだから、

いま与えられている時間を有意義に使わねば!……という焦燥感が増すばかりで。

カルペ・ディエム(今日の花を摘む)どころか、

目の前の花に気づく余裕すらないほど、いつも何かに追われているような状態。

これでは本末転倒ですね。

 
メメント・モリという考え方はすばらしいのだけれど、

私にとっては逆効果になってしまうみたいだから、

メメント・モリという視点はアンインストールすることにしました。

 

そのかわり、カルペ・ディエム。

今日の花を愛でよう。

明日の花の心配をしたり、将来の花を皮算用しないように。

 

奇しくも、私が今ハマっているタカキツヨシさんのSF漫画『HEART GEAR』の

最新話(第10話/盤上の駒 ←無料で読めます たぶんコミック2巻に収録されます)でも、

メメント・モリ/カルペ・ディエムというテーマが組み込まれていました。

こういう個人的なシンクロがあると、テンションが上がりますね(^^♪

 

【少年ジャンプ+】 HEART GEAR  タカキツヨシ

↑第一話、二話が無料で読めます。未読の方はぜひ☆

 

第10話で、「メメント・モリ」が口癖のサイコパスなキャラと、

一輪の花を命の象徴として注目している職人キャラが出てくるんです。

その対比がなんかちょうど、私の心模様とシンクロしている気がしまして。

私の心模様を漫画化してくれたような不思議な感じです。

 

さらに第10話のタイトル「盤上の駒」は、ルーン文字ならペオース(パース)なので、

私はその辺も勝手に加味して読んでしまいました。

ペオース(パース)は、人間にはコントロール不能な神の領域を表します。

「すべてを自分の思い通りにコントロールしたい」というエゴを手放せというルーンです。

私がルーン魔女活動をやめる決心をつけてくれたルーンでもあります。

 (参考) その日時は誰も知らない … エゴの世界が崩壊する日/私がルーン魔女活動をやめた理由

 

第10話では、思考停止の群衆レギオン問題も出てきます。

名無しの群衆レギオンをマインドコントロールする「神気取り」の親玉が登場します。

この親玉は、「すべて自分の思い通り」にしたがるエゴの象徴ですね、きっと。

 (参考) 【マルコ5章】レギオン(みんな)という悪霊からの解放 … 人に飼われる社畜は、神に養われる羊に

 (参考) 【マタイ27章】 選択には責任が伴う … 裏切り者のユダより悪質な群衆(レギオン)

 

さらには、神気取りの親玉に対して、「目を覚ませ」と挑む男装の麗人も出てきます。

麗人が剣の名手で、鎧のデザインが六枚翼の天使(セラフィム)っぽいのも個人的にツボ。

たしかに神は、神の言葉という諸刃の剣でもって、エゴに斬りこんでくる。

 (参考) 剣と分裂(divide)をもたらすキリスト … 守るべき境界線と、壊すべき境界線

 

作者さんのツイートでは、『HEART GEAR』は寓話として読むといっそう楽しいよ……

とおっしゃってますし、私もそう思います。

何気ない背景にもいろんなシンボルが埋め込まれています、マニアックな細かさです。

 

https://twitter.com/takatsuyo320/status/1158764081999777793

 

ともかく、メメント・モリを意識しすぎると、キチガイキャラになってしまうからヤバイ(; ・`д・´)

私は足元の花を愛でる余裕をもって生きたい、カルペ・ディエムがいいと、心から思いました。

 

そういや、『HEART GEAR』の第一話 walk this way の最初の方で、

廃墟を探検中のヒロインが足元の花を観察している一コマがありました。

 


 

廃墟の荒れ具合に目を向けるんじゃなくて、足元で生きている花に目を向ける、

それがカルペ・ディエムですね。

 

『HEART GEAR』の第一話では、ヒロインが小さな花を観察している場面のすぐ後で、

すてきなドラム缶ロボットとの出会いがあります。

で、一話の最後にはドラム缶からイケメンが出てくるわけですが。

 

メメント・モリ(死を想え)を意識しすぎると、心に余裕がなくなって、

足元の花も、すてきなドラム缶も見過ごしてしまいそうだから、

やっぱりカルペ・ディエム(今日の花を摘め/今を生きる)の生き方がいいですね。

 

廃墟にいても、荒れ野にいても、

足元の小さな花に気づける余裕があれば、ちゃんと私の魂は生きている、大丈夫。

魂が生きていれば、すてきなドラム缶を拾えることもあるかもしれません(^^♪

 


■ 自分で考えない人には、神の声が届かない

 

漫画と同じく、聖書もやはり寓話・たとえ話・シンボルメッセージとして読むものだと思います。

 

聖書の内容を、自分事に置きかえて考える、現代文化に置きかえて考える……

そうやって精神的な翻訳をしながら読まないと、聖書が神の言葉として機能しない。

ふつうに読んでてもぜんぜん面白くない、頭にも心にも響かない。

 

聖書を字義通りにしか理解しない人を、「原理主義/ファンダメンタリズム」といいます。

「原理主義」はあくまで思想分類上の話なので、テロなどの暴力行為とは無関係です。

ただ、思想においてはどうしても頑迷で極端、過激化が避けられないですね。

原理主義は、マニュアル思考の権化といってもいいと思います。

 

原理主義におちいると、聖書から神のメッセージを正しく汲み取ることはできないです。

原理主義は、「自分で考える」というプロセスを放棄した霊的怠慢の産物だと思います。

 (参考) キリスト教原理主義(聖書鵜呑み派)と、エルサレムの騒動について。

 

なんのために神様は人間に自由意志と、思考能力を与えてくれたのか。

ちゃんと自分で考えて選択するためでしょ。

自分で考えて選択することをしないなら、それは人間じゃなくて、ただの生体ロボットでしょ。

 (参考) 「私はロボットではありません」… 神は人間に個性と自由意志を与えた。

 

与えらえたコマンド(命令)だけをこなしていればいいロボットと違って、

人間は自分で考える過程で、迷う、悩む、立ち止まる、引き返す、失敗する……

いろんな感情もわいてきます、ラクではないです。

だから逐一、神に相談する(祈る)。

それをくり返すことで神との距離がどんどん縮まっていきます。

 

そうやって平素から自分で考える習慣が身についていれば、

聖書でも漫画でも映画でも、あるいは日常の些細な出来事からでも、

それを通して語られている神の声(導き、御心)に気づくことができます。

 

でも、自分で考えるのが面倒だから他者の言いなりでいいやと、ラクをしてしまうと、

本気で神に頼る機会もなく、神との接点がなくなってしまいますから、

あっという間に群衆レギオンに飲みこまれて霊的な命を失うでしょう……

 

人間ならば、重要なことはちゃんと自分で考えて決めたい。

自己決定権を神以外の第三者に渡してはいけない。

同様に、他者の自己決定権を奪うようなこともしてはいけない。

 (参考) 人間ならば、自分で考えて決めよう。

 

今月になって、メメント・モリに心を向けるのをやめて、

カルペ・ディエムに心を向けようと決めたのは、私です。

私の内外でいろいろなことがあって、私なりにいろいろ考えた結果、

今はそれが最善の選択だと、気持ちよくそう思えます。

外部から強要されたのではなく、自分で考えて納得して決めることができたときは、

心が晴れ晴れしますね、ハレルヤです。

 

 

■ 草は枯れ、花はしぼむが…… (イザヤ40章)

 

聖書の世界では、気候が厳しくて植物が少ないためか、

「花」に注目している箇所はあまり多くないです。

「種」や「実」に注目している箇所はたくさんありますが。

花より団子ですかね(笑)

 

例外として、旧約聖書のラブぽえむ『雅歌』には花の描写がたくさん出てきますが……

私はぷわぷわしたポエムが苦手なんで、『雅歌』も苦手なんで、スルーします(-_-;)

 

聖書で「花」といえば、私はイザヤ書40章と、イエスの山上の説教、

この2か所しか思いつきません。

どちらも有名かつカッコイイ箇所です。

まずイザヤ書40章から見てみます。

 

 呼びかけよ、と声は言う。

 わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。

 

 肉なる者は皆、草に等しい。

 永らえても、すべては野の花のようなもの。
 草は枯れ、花はしぼむ。

 主の風が吹きつけたのだ。

 この民は草に等しい。
 草は枯れ、花はしぼむが

 わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

 ……目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。

 それらを数えて、引き出された方

 それぞれの名を呼ばれる方

 力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない。  (26)

 ……若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが  (30)
 
主に望みをおく人は新たな力を得

 鷲のように翼を張って上る。

 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。  (31)

 

 ――旧約聖書 『イザヤ書』 40章6-8、26、30、31節

 

今回はカルペ・ディエム(今日の花を摘め)というテーマで抜粋してます。

本当はイザヤ40章全文を貼りたいのですが、長いので……

聖書をお持ちの方は、ぜひイザヤ40章全体を読んでみてください。

 

イザヤ40章の「草は枯れ、花はしぼむ」というフレーズだけを見ると、

諸行無常みたいな、仏教的な諦観とかぶってしまいます。

人間の一生を、命の短い草花にたとえる表現は、他の文化圏にもたくさんあるでしょう。

 

神道でも人を「青人草/あおひとくさ」と表現することがあります。

国民が草のように繁茂していく、

草の生命力にフォーカスしているポジティブな表現です。

 

ただ、青人草は「群れ」として人間をとらえていて、「個人」という視点が抜け落ちています。

神道では、一本一本の草には注目してくれない……

「群れ」としての青人草は繁栄したとしても、「個人」としての草はどうなのか?

残念ながら、神道にはその解決もゴールもなくぼんやりとしています……

 (参考) 神道の重大な欠陥 … 古代ユダヤ教の根幹を失伝し、骨無しクラゲと化す

 

しかし聖書には明確なゴールである「救い」があります。

草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」という救いです。

黄泉に沈んでいる霊的死人に、再び命を与えてくれる神の約束の言葉がある。

 

それぞれの名を呼ばれる方」(40:26)

= 神はわたしたち一人ひとりの名(固有の人格・個性)を呼び、

その呼び声を聞きいれた者を、死の床から復活させてくれる。

神は人間全体をまとめて「青人草」と呼んだりはしない。

一人ひとりの個性とタイミングに合わせて、固有の名を呼んでくれる。

(神の呼び声を無視することも可能だが、そうしている限りは霊的死人のまま)

 

そして神の呼び声を聞き入れた者は、

主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。」(40:31)

鷲のように翼を張って上るというのは、復活の象徴ですね。

 

人間は青草のようにはかないものなれど、

主なる神の呼び声を聞き、神に望みをおくならば、

再び神に愛された「神の子、個」としての命を受ける。

 

イエスがキリスト(救い主メシア)と呼ばれているのは、

イエスが神の子(神の具現)だというだけの理由ではないです。

イエスが十字架の死から復活したことで、

それまで口約束の段階だった神の言葉が人間界で現実化

=命の復活という旧約聖書の預言が成就したからですね。

 

そういうわけで、人はそんなにメメント・モリ(死を想え)にとらわれなくてもいい。

今日も明日も、時分の花を愛でながら、

カルペ・ディエム(今を生きる)の方がはるかに重要ですね。

 

■ 一輪の花(命)  > ソロモンの栄華(無生物)

 

新約聖書『マタイによる福音書』の、イエスの山上の説教で、

野の花とソロモンの栄華を引き合いにだしている箇所があります。

聖書に興味ない人にも広く知られている箇所だと思います。

 

 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。

 野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。

 働きもせず、紡ぎもしない。
 

 しかし、言っておく。

 栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、

 神はこのように装ってくださる。

 まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。

 

 だから、『何を食べようか』 『何を飲もうか』 『何を着ようか』 と言って、思い悩むな。
 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。

 あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。

 そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

 

 だから、明日のことまで思い悩むな。

 明日のことは明日自らが思い悩む。

 その日の苦労は、その日だけで十分である。

 

 ――新約聖書 『マタイによる福音書』 6章28-34節

 

今からちょうど3000年ほど前、

ダビデの息子ソロモン王の時代が、古代ユダヤ王国のピークでした。

ソロモンが晩年に堕落して神から離れて以降、

ユダヤ王国は滅亡へのカウントダウンを始めることになります。

 (参考) 神の道(天職・calling)から中途脱落した場合 … 反省して神に立ち返ればOK

 

しかし人間界の栄枯盛衰がどうあれ、野の花は変わらず咲き続ける。

国破れて山河在り

城春にして草木深し

時に感じては花にも涙をそそぎ……

 

野の花には、神から与えられた命があります。

野の花は生きています。

 

一方、ソロモンの栄華で象徴される物質的な地位、名誉、財産などは、無生物です。

無生物には命がない。

生きていない。

 

命ある花と、命なき栄華と、どちらに心を向けて生きるのか……

どんなときでも、野の花に心を向けられる余裕を持っておきたいと思います。

 

※今回の続き → 神に心を開く … 心が閉じていると、見ても見えず、聞いても聞こえず

 

 

 

※ 記事中の聖句引用元/日本聖書協会『新共同訳聖書』または『口語訳聖書』
 
※イエスキリストの純粋な福音を知りたい人には、
 『キリスト教放送局 FEBC』をお勧めします。
 
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