■私は日本の神道のことを、「古代ユダヤ教のヤマト派」とみている。
 
古代ユダヤ教がどこかの時点でヤマト(日本)にもちこまれ、
ヤマトにもともとあった原始アニミズム(自然崇拝)や、祖霊崇拝と習合しながら、
ヤマトの気候風土に合わせた発展をとげたのが神道だと思っている。

そういうわけで、ユダヤ教と神道には、似ている点が多くある。
神像を造らない、ツミカゲレを祓い清める熱心さと作法、神社の構造などがそう。

その一方で、残念ながら、神道はユダヤ教の根幹部分を失伝(隠ぺい?)してしまっている。

ゆえに、日本人の気質は骨無しクラゲのごとく、時流にふらふらと流されるだけのものとなり、
長いものに巻かれておけばいいという腑抜けを量産し続けているのではないかと思う。

■古代ユダヤ教と比べて、神道には重大な欠陥が3つある。

1 万物創造の神、唯一神という概念を失伝している。

2 ツミ・カゲレを祓い清める真の目的を失伝している、間違えている。

3 祝詞(祈祷)とコトダマ(言霊)はあるが、人間の霊性を生かすミコトバ(身言葉)がない。

今回はこの3つを順にみていく。

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【神道の欠陥】
1 万物創造の神、唯一の神という概念を失伝している。

これは 神のまにまに … カンナガラ(惟神)とインシャーアッラーの違い。  の記事でも少し書いた。

モーセ十戒(3300年ほど前)の3番目にこうある。

 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
 主は、御名をみだりに唱える者を、罰しないではおかないであろう。


 ――旧約聖書『出エジプト記』 20章7節

それでおそらく、古代ユダヤ人は神ヤハウェ(YHWH)の名を口に出すことを畏れて、
ヤハウェのことを「大いなる神」「天に坐す神」「地を治める神」「海の神」「山の神」など、
別の表現(美名)で呼んだ。

しかし世代を下るごとに、伝言ゲームと同じく、ヤハウェの名を忌む理由も目的も失伝してしまう。

唯一神を表現する無数の美名が、あたかも別個の独立神であるかのように勘違いされる

そこにヤマト民族従来の祖霊信仰や、自然霊信仰もごっちゃになって、
八百万の神ということになってしまったのではないかと、私は思っている。

■この勘違いは、古代ユダヤ人が日本に到達するよりもはるかに前から存在している、
根深いものでもある。

モーセが紅海を割って古代ユダヤ人たちを連れ出し、40年の荒野の旅の末に、
約束の地(現代のイスラエル・パレスチナ)にたどりついた。

しかし新天地のユダヤ人は、周辺民族の多神教・偶像崇拝にあっさりと染められていく。
そして真の神無き暗黒時代が続き、ユダヤ人は没落する。

その後にダビデ王、ソロモン王という傑物が登場するも、
ソロモン王は晩年に多神教の偶像崇拝にハマりこみ、
ソロモン王の後継者の世に、ユダヤ人の国は南北に分裂する。

紀元前721年に北王国が異民族に滅ぼされる。
紀元前586年に南王国も滅ぼされる。
それから約2500年間、1948年に現代イスラエルが独立するまで、ユダヤ人の国は興らなかった。
(↑現代のイスラエル国がエルサレムを首都としたがる理由の一つがこれ)

ヤハウェに背いた亡国ユダヤ人が長い旅路の末に日本にたどりついたのだから、
神道は当初から唯一神ヤハウェの存在が希薄で、多神教的だったということもあると思う。

とはいえ、古代ユダヤ人も一枚岩ではなく、神へ返れと警告する預言者に従う少数派もいた。
正統なヤハウェ一神教を保持している一族と、ちゃらんぽらんな一族があっただろう。

神道では、ユダヤのちゃらんぽらん派が優勢だったのか、
唯一神の実体が失われ、神の陰影をがんばって祀るということになってしまっている。

■数々の神名もはたらきも、唯一神の側面(ペルソナ)の一つである。

神はある場面では厳しく、ある場面では慈悲深く、様々な顔を見せる。
万物創造神なのだから、それは海の神であり、山の神でもあり、生活用品の神でもあり……
このゆえに、「○○之神」という表現は無限に生みだせる。

イスラム教にも、唯一神アッラーを表す美名が99あるという。
しかし99柱の神がいるとは誰も思っていない。
99の美名はあくまで唯一神アッラーを讃えるための表現にすぎない。
 (参考:アッラーフの99の美名

なお、ヤハウェとアッラーという別の神がいるわけではない。
同じ唯一神を、ヘブライ語でヤハウェといい、アラビア語でアッラーという。
現代アラビア語訳の聖書(NAV)では、ヤハウェはアッラーと訳されている。
ちなみに「神の子イエス」は、「アッラーの息子ヤスア」と訳されている。

イスラム教は唯一神アッラーを見失うことはなかったが、
神道は、数多の美名がさし示している神、真の神を見失い、美名だけが残ってしまった。

ゆえに、神頼みをしようにも、安心してアンカーできる唯一神が欠けているゆえに、
神をたずねて三千里とばかりに、方々の神社をはしごして保険を掛ける(願を掛ける)ことになる。

ヤマト人は、神なる存在を感じ、敬う気持ちは強いと思う。
基本的に、神様が好きな民族なのだと思う。
しかし神道が抱える諸々の欠点のゆえに、弱々しい曖昧な信仰しか育たない。

そこで、こういう考え方が出てくる。

神頼みをするのは現実逃避だ、己の努力で道を開くべきだ
神を信じるのは単なる気休めだ、迷信だ

たしかに、骨無しクラゲのごとき神道には、全身全霊で信頼して頼むということができない。
そんなものに対してナオ(直)にはなれない。
骨が無いのだから、ナオ(直)になるべきポイントも定められない。

まともな人なら、八百万神という漠然としたものに頼るよりも、
自力でなんとかしようという自力本願=神から離れるマガ(曲)になっていくのは当然だ。

しかし自力本願というマガ(曲)の行きつく先は、弱肉強食の世界である。
太平洋戦争末期の特攻作戦などは、自力本願のマガ(曲・禍)の極み。
唯一神を見失うと、こういうことになってしまう。

■霊的に敏感な古代人は、早い段階で、
八百万神の実体である唯一神が不在であることを気持ち悪く思ったに違いない。
さりとて、唯一神の伝承が失伝している状況では、その気持ち悪さの正体にたどりつけない。

だから本来は祭司であるはずの天皇を、現人神(あらひとがみ)として祀り上げ、
アンカーポイントを確保しようとしたのではないかと思う。

しかし、天皇は神にお仕えする祭司であって、神ではない。
バチカンのローマ法王のようなものだ。

ローマ法王が現人神ではないのと同じく、
天皇を現人神とするのも、モーセ十戒の1番目と2番目に背くことであり、マガ(曲)である。

 わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したものである。

 あなたはわたしの他に、なにものをも神としてはならない。(1)

 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。(2)
 上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの、
 どんな形をも造ってはならない。

 それにひれ伏してはならない。
 それに仕えてはならない。

 あなたの神、主であるわたしは、熱情の神(ねたむ神)であるから、
 わたしを憎む者(背く者)には、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼす。
 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、恵みを施して、幾千代に至るであろう。」

 ――『出エジプト記』 20章2-6節


(1)神以外の人、霊、モノを神としてはならないということが十戒の筆頭にあがっている。

天皇を現人神としたのは完全な間違いだった。
天皇から人間宣言(1946年)を引き出すために、日本は大きな犠牲を払うことになった……

(2)神像を造るなということなら、たしかに神道はこれを守り通りしている。
日本に仏教が入ってきて、仏像が氾濫してもなお、神道は神像を造らなかった。
これはすばらしいことだと思う。

しかし、神像を造るなというのは、木像や石像のことだけをいっているのではなく、
神になりかわって人間を支配するもの全般のことをいっている。

神をさしおいて、天皇、貴族、権力者などに優先して従うならば、彼らは神像ということになる。
地位、名誉、財産、過去の自慢話なども、人心がこれを最優先とするならば、やはり神像になる。

古代人が天皇を現人神にしたのは、政争の都合もあるだろうけど、
やはり唯一神を失伝してしまった穴をどうにかして埋めたいという魂的な欲求を、
現人神という神像で満たそうとしたからではないかと思う。

今は天皇が現人神だとは誰も思っていない。
これはたいへん喜ばしいことだ。

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【神道の欠陥】
2 ツミ・ケガレを祓い清める真の目的を失伝している。間違えている。

ツミ(罪)を祓い清める作法と、その熱心さは、ユダヤ教と神道の類似点の一つである。

両者の清め作法の違いはたいした問題ではない。
中東と日本では気候風土がぜんぜん異なるのだから、所変われば品変わるのは当然。
本質さえ見失わなければそれでよいと思う。

しかし神道は、祓い清めの目的をも失伝してしまっている。 

神道のメジャーな祝詞である天津祝詞(アマツノリト)、大祓詞(オオハラヘノコトバ)はともに、
諸々のツミ・ケガレを祓い清めてくださいと、熱心に神に祈る定型祈祷文である。

しかし、そもそも何のためにツミケガレを祓い清めるのか。
その目的が不明瞭なのである。

神社神道では、「個人の開運・招福・厄除け」のために祓い清めをしている。
自分がキレイさっぱりして気持ちよくなるため、自分自身のための祓い清めになっている。

人間的な願いを叶えてもらうため、あるいは不運を祓ってもらうため、
人間が我意を通して思いどおりに生きるハッピーライフのために、
ツミケガレを祓い清めるという構造になってしまっている。

神との関係においては、人間的な我意、エゴこそが、ツミ(罪)である。
神に対してマガ(曲)となり、ツミをおかす原因は、このエゴである。

本来ならこのエゴを祓い清めなければならないのに、
神社神道はむしろ参拝者のエゴを保護する儀式として祓い清めを行っている。


神道好きの人は、個人的に天津祝詞を奏上する習慣があるかもしれない。
私もそうしていたことがある。
開運できる、神のご加護があるというから、実際に試してみたのだ。
(私は自分で試して納得したことしか受け入れられないのだ)

がんばって天津祝詞を暗記して、3回奏上を真剣にやってみた結果……
何のためにそんなに熱心に、諸々のツミケガレを祓いたまへ清めたまへと、
天津神国津神八百万神たちに奏上しなければならないのかが、わからなくなった。

目的がわからないので、私には何のありがたみもなく、一か月ほどでやめてしまった。
私は無意味な儀式・形式のたぐいが大嫌いだ。

そもそも、私にあらわれる霊的存在は、最初からこうした祝詞にはまったく無感心だった。
神は私の性格をよくわかっているから、何事もあえて止めることはせずに、
私にやりたいだけやらせて、無意味さを実感させるという教育方法を取っているように思える。

で、神道では、祓い清めの目的が不明瞭なため、あるいは目的を間違えているために、
下手をするとかえって我意のツミケガレが増幅しかねないような有様である。
汚れた雑巾で掃除をすると、余計に汚れが広がってしまうのに似ている。

古代ユダヤ教では、ツミケガレを祓い清める目的ははっきりしている。

 あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、
 あなたがたも聖でなければならない
 (旧約聖書『レビ記』 19章2節)

聖書用語の「聖」とは、ツミケガレがない清らかな状態のこと。
神に対して完全にナオ(直)であること、神の道に完全一致した生き方であること。
キリスト教関連の日本語文書では、「聖潔、聖め」と書いて「キヨメ」と読ませることがある。

ツミカゲレを負ったままでは、それはマガ(曲・禍)だから、神の前に出られない。
神にナオ(直)でなければ、恵みを受け取れなくなってしまう、死んでしまう。
だからツミケガレを祓い清めて、神の前に清い者にならんとするのである。

このことは、多彩な表現で、旧約聖書にしつこく何度も書かれている。
たとえば、

 ゆえにあなたがたは、自らを聖別し、聖なる者とならなければならない。
 わたしはあなたがたの神、主である。

 あなたがたはわたしの定めを守って、これを行わなければならない。
 わたしはあなたがたを聖別する主である。
 
 ――『レビ記』 20章7、8節


神は「あなたがたを聖別する主である」といっている。
神に聖別されるということは、ツミケガレを負ったままの人は滅ぼされてしまうということである。
神が聖別した神具に触れただけでも滅ぼされてしまう。

だから古代ユダヤ人は、神に教示された諸々の律法にもとづいてツミケガレを祓い清める。
それはもう必死で清めるし、神の律法も必死で守ろうとする……文字通りに「必死」なのだ。

罪をおかしたことに気づいたなら、すぐにその場で神にお詫びのお祈りを捧げる。

 御顔をわたしの罪から隠し、
 わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。

 神よ、わたしのために清い心をつくり
 わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。

 わたしを御前から捨てないでください。
 あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。

 ――旧約聖書『詩編』 51編9-11節

これはダビデ王が人妻バテシバを寝取った罪を、
預言者をとおして神から指摘された時の祈り。

当人が己の罪(神に背くこと)を自覚して、神にうちあけ、それを直すことが大事。
当事者に罪の自覚がなければ、祓い清めの儀式は無意味な行事になってしまう。

古代ユダヤ人は、ツミケガレを祓い清める目的をはっきりと自覚していた。
儀式のための儀式ということはしなかった。
(イエスの時代には形骸化していたが……)

神道は、祓い清めの作法と、その熱心さは受け継いだが、かんじんの目的を失っている。

だんじて、自分の開運招福厄除け……現世利益を叶えやすくするためではない。
たんなる気休め、プラシーボでもない。

現世利益を求めてマガ(曲)となり、そこから生じてしまったツミ・ケガレを清めて、
神に対するナオ(直)を回復するのである。


ご祭神の功徳、現世利益アピールがうるさい神社には行かない事をお勧めする。
それは真の神から人を引き離す、エゴ増幅装置でしかない。

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【神道の欠陥】
3 祝詞(祈祷)とコトダマ(言霊)はあるが、人間の霊性を生かすミコトバ(身言葉)がない。

まず、用語の定義から。     

・コトバ(言葉)

  (狭義)何らかの思想を具体的な言語で言い表したもの
  (広義)何らかの思想を具体的に表現したもの(言語表現にかぎらない/絵、音楽等)

・祝詞(祈祷)
  人間が神に奏上する祈りのコトバ。 ベクトルは 人間 → 神

・コトダマ(言霊)
  コトバ(音声、文章)そのものに宿るとされる霊力。あるいは魂。
  発信者の資質・意図とはまったく無関係に発動するものとされている。

・ミコトバ(身言葉)
  神から人間に与えられたコトバ。 神の御心を言語であらわしたもの。
  人間の霊性を養い育てるもの。   ベクトルは 神 → 人間
  
(身言葉の詳細 → 失望のどん底でイエスと出会った話 … ミコトバ(身言葉)の柱、命の水。

■ここではとくに、コトダマ(言霊)と、ミコトバ(身言葉)の違いに注意したい。

コトダマ(言霊)は、パワーはあるかもしれないが、人間の霊性を養うものではない。

コトダマが発言者の人格や意図に関わりなくそのパワーを発揮する?

それは「開けゴマ」と唱えれば扉が開くというだけのことではないか。
「アリガトウ」とぶつぶつ唱え続ければ気分が良くなるというだけのもの。
あるいは受験生に「すべる、転ぶ」と言えば不合格になるかもしれないというだけのもの。

そういうパワーのあるコトバ(というより呪文)は、ある場面では便利かもしれない。
エゴの願いを叶えるには役立つかもしれない。
しかし人間の霊性を養いはしないし、霊性を高め深めてくれるものでもない。

コトダマパワーですべてが思い通りになったとしても、霊性は痩せ衰えていく一方だ。
コトダマ(言霊)が、物理的に何らかの影響を及ぼすことがあったとしても、
人間の霊性はコトダマのパワーでは生きられない。

人間の霊性を生かすのは、神から出たミコトバ(身言葉)。
ミコトバの発信者は神である。
神から出たミコトバ(身言葉)のみが、人間の霊性を養うことができる。

神社で奏上される祝詞は神から出たミコトバ(身言葉)ではない。
祝詞は、人間側から神へ向けられた祈りのコトバ(言葉)である。
それはそれで清らかなコトバだとは思うが、コトバ(言葉)の発信者が人間である以上、
それは人間の霊性を養う神のミコトバ(身言葉)にはなり得ない。

古代の預言者は、神のミコトバ(身言葉)を代弁・代筆した。
預言者という人間の口から出たものではあるが、それは神のミコトバ(身言葉)である。

預言者は神のスポークスマンとして、神から預かったミコトバをそのまま発言している
だから預言者を通してあらわされたコトバは、神のミコトバである。

もし預言者が自分の個人的な思想を語っているなら、
それはもちろん神のミコトバではない。


■ここで私は、コトバ(言葉)を「何らかの思想を具体的な言語で言い表したもの」と定義した。

コトダマ(言霊)は言葉遣いにウェイトを置く。
発せられたコトバ(言葉)の音価(発音・文字)に意味があるとする。

だからコトダマ(言霊)は思想を要しない。
思想不要なので、意味不明の外国語や、無意味な音価の羅列からなる呪文でも、
ありがたいパワーがあるということになってしまう。

蛇口をひねれば水が出る、スイッチを押せば明かりがつく。
思想無きコトダマ(言霊)には、そうしたスイッチ以上の価値がない。

コトバ(言葉)は言葉の内容にウェイトを置く。
言葉遣いは、発信者の思想を表現する一手段でしかない。

コトバ(言葉)には明確な思想がある。
意味不明なコトバは、相手方にその思想が伝わらないから、コトバとしての用をなさない。

思想の内容はともかく、人でも神でも、そのコトバを発信する前段階として、
何らかの思想を相手方に伝えたいという意図がある。

伝えるべき思想が無ければコトバはうまれない。

コトバを受け取った者が、コトバの発信者の思想を理解してはじめて、
そのコトバが意味をもち、受け取り手に影響する。

人間的エゴの思想から出たコトバは、霊性を損ねるだけ、もしくは何の力もなく消えてゆく。

神から出たミコトバ(身言葉)は、受け手の霊性を生かし、養い、成長させる糧である。

言葉遣いのパワー(言霊)によって人間の霊性を生かすのではなく、
その言葉を発信した神の意図、思想、御心が、人間の霊性を生かす。

ユダヤ人は、大ボリュームのヘブライ語聖書(旧約聖書)を神のミコトバとして守り続け、
祭司や律法学者また預言者たちがそれを民衆に伝え続けた。

神道には、経典が無い。
ゆえに、伝えるべき神のミコトバ(身言葉)も無い……不自然だなと思う。

日本に入ってきた古代ユダヤ人は、ヘブライ語聖書を携えていなかったのだろうか……?
あるいは日本に来てから紛失して、語り部の口伝に頼っていたのだろうか……

神道がこれだけ古代ユダヤ教の慣習を引き継いでおきながら、
ミコトバ(身言葉)を伝える経典がまったく残されていないというのは、おかしなことだ。

……まあ、そういう歴史ミステリーはともかくとして。
それでも古代には、巫女などが神の憑代(ヨリシロ)となって、
神のミコトバを代弁していたのだろうと思う。

しかし唯一神ヤハウェを失伝し、ツミケガレを祓い清める目的も失伝した神道において、
憑代が語っていることが真の神から出たものかどうか、実に頼りない。

■現代の神社神道には、参拝者にまともな神のミコトバを与えるすべがない。
せいぜい、使い捨てのおみくじを引かせて、
一つ二つのワンポイントメッセージを与えることしかできない。
神社の小銭稼ぎマシーンでしかない。
参拝者はおみくじの吉凶を見て、ちょっと喜んだり落ち込んだりして、木に結びつけておしまい。

――神のミコトバが使い捨てなものか。

現代の神道には、生きている神のミコトバ(身言葉)がない。
神を慕う人の霊性を生かしてくれるものがない。
神にナオ(直)でありたいと願う人を、的確に導いてくれるミコトバがない。
周りの天地自然を見渡せば神を感じることができます的な、曖昧なことしか言えない。

しかし神は生きておられる。
神道が欠いているミコトバ(神の御心を言語で表したもの)を、
旧約聖書と新約聖書から得ることができる。

聖書を聖書とする各宗教にはいろいろ難点がありすぎるが、
だからといって、万物創造神や聖書の内容がクズだということにはならない。
そこは信用していい。

 もし、彼らのうちに不真実の者があったとしたら、
 彼らの不真実によって、神の真実は無になるであろうか。
 断じてそうではない。
 あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。

 ――新約聖書『ローマ人への手紙』 3章3、4節


聖書が各国語に翻訳されて、地球のほとんどどこでも入手できることは、神の恵みだと思う。

聖書に記されているミコトバの本質を、
日本の文化と感性にフィットする方法で伝えられる人が増えれば……
それこそ内村鑑三のような人が一定数起こされれば、
日本は天皇を祭司とする国として、本当の神の国として、霊的に立ち上がれると思っている。



■神社がご祭神の霊験を宣伝している時点で、今の神道はマガ(曲)だ。
温泉の効能みたいに、ご祭神の功徳を書き連ねている神道の霊的貧弱さが情けない。

余談になるが、実は私がはじめて日本の神と出会ったのは、
紅葉目的で訪れた神社で、ご祭神の効能書(?)に首をかしげたのがきっかけだった。

社殿の脇に、ずらずらと10~15個ぐらい、
思いつく限りの功徳を書き連ねました的な効能案内板が置いてあった。

私は心の中で思った。

「ほんまに、こんなに全部かなえてくれるんやろか?」

すぐに返事が返ってきた。

できるわけがなかろう

びっくりして、その声がした方を見ると、おお、イケメンな神様の幻が。

私の頭がおかしくなったのではないか?
これは私が勝手に想像した声とビジョンではないか?

という不安を抱えつつ、それい以来私は神にいろいろ尋ね、神道を調べ始めた。
私は日本生まれの日本人だから、
聖書の神は、私にわかりやすいように、日本の神という形で私に現れてくれたのだろうと思った。

私は高校時代に聖書を読み始めたが、大学に入ったらもう全然読まなくなっていた。
聖書は耳慣れないカタカナの人名・地名ばかりでしんどいし、
10代の学生では人生経験も浅いから、聖書の内容もいまいち心に響かない。

神様についても、特別に何かを思うわけでもなく。

「神様は本当にいるんだなあ。
 私のことをいつも見ていて、すべてのことを知ってくれているんだなあ☆」

という幼稚園レベルの神観念しかもっていなかった。

しかし……預言者をとおして、神はこう語っている。

 わたしは、わたしを求めなかった者に問われることを喜び、
 わたしを尋ねなかった者に見いだされることを喜んだ。

 わたしは我が名を呼ばなかった国民に言った、
 「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と。

 よからぬ道に歩み、自分の思いに従う背ける民に、
 わたしはひねもす手を伸べて招いた。

 ――旧約聖書 『イザヤ書』 65章1節


この通りだと思う。

ぜんぜん熱心に求めていたわけでもない者に、とつぜん話しかけてくる神。
神社を紅葉スポットとしか思っていない不信仰者に、いきなりあらわれる神。
賽銭箱には5円玉しか入れないケチな者に、霊的知識の大盤振る舞いをしてくれる神。

当時の私は、神も聖書もよくわからないから、神への興味が失せてしまっていた。

そういう私にもわかりやすいように、聖書の神は、
こうして日本の神の姿をとってあらわれてくれたのだと、私は解釈した。

私好みのビジュアルで登場してくれた神は、私が喰いつきそうなものをよく知っている。
もしあの時に、仙人みたいな翁とか、古代ヤマト人のミズラ髪ファッションで登場されたなら、
私はあっさりそれを無視していたに違いない――そんなビジュアルの神に興味はない(笑)
(今はもう、ビジュアル的にはあらわれない……そうする必要がなくなったのだと思う)

神様(と私が思っている存在)から返ってくる答えは世間の常識とは異なっており、
しかし不思議な説得力があり、痛快でもあり、私の心には魅力的に響くものがあった。

せっかく神様があらわれてくれたのに、
日本神話の基本も知らないままでは神様に失礼だと思い、
古事記、日本書紀、万葉集……と読むようになった。

その過程で、学生時代には大嫌いだった古文にも親しむようになった。
古文がわからないと、神道もわからない……
日本の古語の魅力にはじめて気がついた。
これは大きなギフトだった。

■それ以来、霊的なことを直接・間接に見聞きする際、
私の頭がおかしいだけではないか、私のエゴが捏造したものではないかという不安は、
今に至るまで、通奏低音のようにずっと私の内に横たわっている。

でも、そういう不安を常に抱えているのは、とてもいいことだとも思っている。

「私は神に選ばれし者なのだ! 私は高級霊能力者だ! 私は霊的真理を知っている!」
などと舞い上がらずにすむから。

私は基本的に自信がないし、臆病なのだ。

だから自分の感覚を疑うし、霊的に受け取った内容は論理のふるいにかけて、
できるだけ一次情報を調べるという習慣がある。
身をもって体験して納得したことしか受けいれられない頑なさがある。
そのおかげで、命拾いしたと思っている。

何事も、鵜呑み盲信は危険なのだ。
かといって、頭から全否定するのもダメ。
納得いくまで調べるなり考えるなりしてから、是か非か判断すべきだと思っている。

だから私の書いていることも鵜呑みにしないでほしい。
ブログでは、体験的に今の私が真実だと確信していることをずっと書いているけど、
それが他者にも共通する真実かどうか、私には判断できない。





  


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