■ 福音書にも豚の大量死事件がある

 

昨年末頃から、豚コレラの影響で、たくさんの豚が殺処分されるニュースが続いてますね。

かわいそうと思ってしまいますが、殺処分しなかったとしても、

豚コレラで病死してしまう&感染拡大につながってしまうので、仕方のないことですね……

養豚業者さんと豚にとってはたいへん無念なことだと思います……

 

私はほぼ毎日豚肉をいただいています。

安全な食肉が安定供給されているのはあたりまえではない、

多くの人と技術の支えがその背後にあるのだと、あらためて思いました。

日ごとの糧をかんたんに得られることに、もっと感謝したいと思いました。

 (参考) 寝食時間は聖なる時間 … 命の基本をおろそかにしてはならない

 

新約聖書の共観福音書(マタイ、マルコ、ルカの三書)にも、

豚が大量死する事件が載っています。

原因は豚コレラではなく、イエスが人から追い出した悪霊です。

行き場を失った悪霊が豚に憑依し、その豚が次々に湖に飛びこんで溺死します。

 

この物語は共観福音書にだいたい同じ内容で載っていますが、

今回は、『マルコによる福音書』5章1-20節から、

このエピソードの一部始終をみていきたいと思います。

 

【今回のもくじ】

 

・ 墓場に住む社畜
・ 救い主キリストが、社畜の葛藤をひきおこす
・ 「レギオン/みんな」には「個」としての命がない
・ 人はレギオンでもなく、家畜でもなく
・ 人の魂が救われる → 霊的生態系が乱れる
・ レギオンに支配される社畜から、神に養われる羊に


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 【今回のポイント】  2019/02/25 追記

 

・ 「大勢の人」「みんな」という名無しの群衆 = レギオンという悪霊

 

・ 人間は、神から個別の名(個性、独立性)を与えられた存在である

 

・ 人の個性には神由来の命がある、人は神の似姿として造られた

 

・ 名無しのレギオンは家畜と同じで無個性、霊的に死んでいる

 

***************************

 

■ 墓場に住む社畜

 

この物語は、イエスと弟子たち一行が、

非ユダヤ人が暮らすゲラサ地方に来たところから始まります。

文末の丸括弧は節番号です。

 

 【マルコによる福音書 5章】

 

 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。 (1)

 

 イエスが舟から上がられるとすぐに、

 汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。 (2)

 

 この人は墓場を住まいとしており

 もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。 (3)
 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、

 だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。 (4)

 

 彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。 (5)

 

この人の状況を、ここに書かれているとおりに解することはできますが、

それではどうしても2000年前の他人事にしか思えないですね。

 

聖書の内容を、神様からの個人メッセージとして受け取りたい場合は、

自分にとってイメージしやすいシンボルにおきかえて考えるとわかりやすいです。

 

私のブログでは、模範解答を求めるのではなく、

この聖書個所をとおして、神様は現代の私たちに何を伝えようとしているのか

をいろいろ考えていきたいです。

 

なので今回は、「墓場に住む悪霊憑きの人」を、

現代日本の「ブラック企業に洗脳されている社畜」におきかえて考えてみることにします。

 

汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。 (2)

 ブラック企業に洗脳された社畜がやって来た。

 

この人は墓場を住まいとしており (3)

 この人はブラック企業を生活基盤としており。

 

鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかった (4)

 大病を患っても寝床を抜けだし、台風直撃で交通機関が停止しても出勤してしまい、

 だれも彼を止めることはできなかった。

 

・彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。 (5)

 彼は昼も夜も職場や街で営業電話をかけたり、

 仕事ノルマで自分を打ちたたいたりしていた。

   

いちばん深刻なのは、「石で自分を打ちたたいたりしていた。(5)」という点でしょうか。

人が正気を失ってしまうと、周囲の人の制止もなにも耳に入らず、

自己破壊的な行動がやめられなくなってしまいますね……

 

社畜でなくても、心の病によるお酒や薬物の中毒、リストカットなど、

自傷行為を続けてしまう事例は、少なくないと思います。

聖書の時代には、このようにして人の正気を失わせてしまうのは、

汚れた霊(悪霊)の仕業だと広く信じられていたようです。

 

■ 救い主キリストが、社畜の葛藤をひきおこす

 

続いて、墓場の社畜がイエスに出会う場面です。

 

 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、 (6)
 大声で叫んだ。

 「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」 (7)

 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。 (8)

 

 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、

 「名はレギオン。大勢だから」と言った。 (9)

 そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。 (10)

 

ここを注意深く読むと、社畜の行動と言葉のベクトルが、

まったく逆方向になっていることがわかります。

 

行動 … イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、 (6)

言葉 … 「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ (7)」

 

行動は雄弁なり。

ある人の言葉と行動が乖離している場合は、行動に本音があらわれますね。

 

社畜が本気で「イエスにかかわりたくない」と思っていたなら、

イエスに走り寄るのではなく、イエスから走り去ったはずです。

 

社畜の身体は、イエスを見るや、走り寄ってひれ伏した。

イエスに近づきたい、救ってほしい、イエスなら救ってくれるはずだという、

魂の本能的な行動だと思います。

 

社畜の口から出てくるのは、社畜の思考を占領している悪霊の言葉です。

いと高き神の子イエス、かまわないでくれ」。

口語訳では「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。

 

この悪霊は「イエスは神の御子だ」と信仰告白しているようでありますが(笑)

 (参考) 命の水源であるキリスト … 正統キリスト教と異端カルトの分水嶺

しかし「神の子イエスよ、かまわないでくれ、あなたとわたしは無関係だ」と、

イエスとの関わりを拒否していますから、やはり悪霊なんですね。

 

社畜の内面で、魂と悪霊の激しい闘いが起こっていたのでしょう。

彼の表層意識は汚れた霊に占領されていたけれども、

その心の奥、魂は悪霊に抵抗し、救いを求めていた。

イエスがやって来たことがきっかけで、社畜の内面の葛藤が、

ちぐはぐな言動として表に出たということでしょう。

 

■ 「レギオン/みんな」には「個」としての命がない

 

 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、

 「名はレギオン。大勢だから」と言った。 (9)

 そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。 (10)

 

イエスは社畜に人間としての名を尋ねたのに、社畜自身は何も答えず、

社畜にとりついた悪霊が返答をしています。

 

「レギオン、legion」は個人名ではありません。

当時のローマ帝国の「軍隊」という意味です。

そこから転じて「大勢の人、大群」という意味になります。

日本語の「みんな」という意味でとらえてもいいと思います。

 
現代英語で、レギオン(legion)にはこういう用例があるようです。

 

 One's name is legion.  ((文)) 同じような人は大勢いる 

 

(小学館 プログレッシブ英和中辞典(第4版))

 

レギオンは「大勢の人」という意味なので、

名前はレギオン = ワンオブゼム、同じような人は大勢いる

という、無個性の人をあらわすことになるのですね。

 

 

しかし神は人をレギオンとしては見ていないし、

その人の所属団体、肩書、役割などでもなく、

個の命を与えられた人間=神の似姿として見ています。

 (参考) 【サムエル記上16:7】人は外観を見、主は心を見る。… データを見ても人の実情は見えない

 (参考) 「私はロボットではありません」… 神は人間に個性と自由意志を与えた。

 

神は人を、その固有の名前で呼びます。

聖書の世界で、人間の名前は単なる識別タグではないんです。

一人ひとり、異なる名前を与えられているのは、一人ひとりが無二の存在だからです。
人間という種としては同一であっても、同じ個性の人は一人もいない。

聖書で「あなたの名を呼ぶ」という旨の表現が出てきたら、
それは「あなたを指名した、選んだ」という意味。

たとえば、預言者イザヤの書では、

 ヤコブよ、あなたを創造された主は、
 イスラエルよ、あなたを造られた主は、
 今、こう言われる。

 「恐れるな、わたしはあなたを贖(あがな)う。
 あなたはわたしのもの。
 わたしはあなたの名を呼ぶ。


 ――旧約聖書『イザヤ書』 43章1節


神が「あなたの名を呼ぶ」というのは、

単純に「○○さん」と人名を呼ぶという意味ではなく、
「神があなたを名指しで選んだ」という意味です。

 

イエスが墓場の社畜にわざわざ名を尋ねたのは、

社畜に本来の名前=神から与えられた個性を思い出させるためかもしれません。

 

■ 人はレギオンでもなく、家畜でもなく

 

 ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。 (11)
 汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。 (12)

 

 イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。

 すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、

 湖の中で次々とおぼれ死んだ。  (13)

 

 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。

 人々は何が起こったのかと見に来た。 (14)

 

レギオンと名乗った悪霊は、

神の子イエスにはぜったいに勝てないことを知っていました。

 

神の子イエスは人の魂に命を与えて生かします。

人の魂が命を得る = 神に愛される個としての人生を回復すると同時に、

名無しのレギオンは消滅してしまいます。

「個」と「みんな」は同居できないのです。

 

悪霊はイエスに命乞いをします。

豚の大群に乗り移らせてほしいと。

イエスはなぜかそれを許可します。

ユダヤ社会では、豚は汚れた生き物のシンボルですから、

汚れた霊の居場所にふさわしいということかもしれませんが、

私にはよくわからないので、この件はスルーします。

 

その代わり、豚が次々に異常行動で自滅した件について、

社畜と家畜の対比で考えてみたいと思います。

 

ここ(ゲラサ地方)にいた豚は野良豚ではなく、

非ユダヤ人の養豚農家が飼っていた、家畜としての豚です。

 

社畜と家畜の共通点は、

 

 ・人に飼われている

 ・個性がない、自由意志がない、自己決定権がない

 ・生きるも死ぬも飼い主の都合次第

 

といったところですね。

生物としての命はあっても、霊的な命がない状態です。

 

ここで登場した家畜の豚は、

漫然と他者に従って、なんとなく生きているだけの人

におきかえることができます。

 

家畜の豚は、社畜ほど過酷な状況にはないものの、

やはりレギオン……個としての自分を見失っている、忘れている状態。

とくに悩みもなく、生活も仕事もたいしたトラブルなく平和に生きているけど、

霊的には死んでいる状態の人。

 

ぼんやりと生きている家畜は隙だらけですから、

かんたんにレギオンその他の汚れた霊が入り込んでしまいます。

他者からコントロールされやすいわけですね。

 

ゲラサの二千匹の豚は、集団で湖にとびこむという自滅行動をとってしまいました。

豚の1匹ずつが独自の意志をもって湖にとびこんだとは思えません。

考えなしに周りに同調した結果、湖で溺死してしまったという感じだと思います。

 

この場面で、私は世界のお国柄ジョークを思い出します。

うろ覚えですが……

 

 船が沈みそうになったので、乗客を海に飛び込ませることになった。

 しぶる乗客に、船長はこう話して、海に飛び込ませた。

 

 アメリカ人には 「海に飛び込めば、ヒーローになれますよ」

 イギリス人には 「海に飛び込むのが、ジェントルマンのマナーですよ」

 ドイツ人には  「海に飛び込むことが、法律で定められていますよ」

 イタリア人には 「海に飛び込めば、女にモテますよ」

 日本人には  「みんなが海に飛び込んでいますよ

 

次々と溺死したという家畜の豚は、いかにも日本人的だと思えます。

「みんなが海に飛び込んでいますよ」という言葉に誘導されて、

あるいは実際に海へ飛び込む人たち(=レギオン!)を見て、

自分も遅れをとらじとレギオンに従い、自滅してしまう。

 

聖書の世界では、神に従わないことを「罪」といい、

神に従わない人は「罪人」と呼ばれます。

どれだけ人間として善良な性格であっても、

神に従わないで、人に従う生き方をしていれば、それは「罪」であり「罪人」です。

「罪人」は、ゲラサの墓場の社畜や、集団自決した豚の運命をたどってしまうことになる……

 

墓場にいた社畜も、本来は、温和ないい人ではないかと思います。

いい人だから、周りとの協調を大事にして、自分のことより相手のことを優先して、

ノーと言いたい本心を抑えてイエスと答え、仕事ノルマをこなし続けているうちに、

いつのまにか「みんな」というレギオンに人生を乗っ取られ破滅してしまう……

 

だからそうならないために、「罪人」を救って魂に命を得させるために、

イエスは救い主メシア(キリスト)として、2000年前のパレスチナに降誕し、

今も一人ひとりに「目を覚ませ」と語っているわけですね。

 

使徒パウロが語っているのが、まさにこのことです。

 

● 罪が支払う報酬は死です。

 しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。

 

 ――新約聖書 『ローマの信徒への手紙』 6章23節

 

性格が善良だ、日々に善行を行っているから大丈夫……そういう話ではないです。

「いい人」でも、神に従わない「罪人」の状態であれば、魂が死ぬよと言っているのです。

 

また、イエスを救い主メシア(キリスト)と信じて、魂の命を得た人には、

パウロはこう語ります。

 

● あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。

 人の奴隷となってはいけません。

 

 ――新約聖書 『コリントの信徒への手紙一』 7章23節

 

「身代金」とは、イエスの十字架の死のことです。

 (参考) 人類の罪を引き受けるカタシロ(形代)としてのイエス … 神の子羊、子羊の血

 (参考) 命の水源であるキリスト … 正統キリスト教と異端カルトの分水嶺 

 

イエスを信じて、すべての「罪」をひきとってもらったことで救われた人は、

その人自身もまた「神の子」とされます。

神の子なのだから、人の奴隷となるのではなく、神に従って生きることになります。

人に雇われて働くのはOK、レギオンに従うのはNG。

生き方の基準の話です。

 

■ 人の魂が救われる → 霊的生態系が乱れる

 

豚が大量死した後、墓場の社畜とレギオンのエピソードは、こういう結末を迎えます。

 

 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。

 人々は何が起こったのかと見に来た。 (14)

 彼らはイエスのところに来ると、

 レギオンに取りつかれていた人が服を着、

 正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。 (15)

 

 成り行きを見ていた人たちは、

 悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。 (16)

 

 そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。 (17)

 

 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。 (18)
 イエスはそれを許さないで、こう言われた。

 「自分の家に帰りなさい。

 そして身内の人に、主があなたを憐れみ、

 あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」 (19)

 

 その人は立ち去り、

 イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。

 人々は皆驚いた。 (20)

 

ハッピーだけどビター、ちょっと引っ掛かりのある終わり方ですね。

 

レギオンから解放された社畜は正気に戻りました。

人間としての命を回復できたのです。

めでたしめでたし。

 

しかし周囲の反応は……

 

・レギオンに取りつかれていた人が服を着、

 正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。 (15)

 

豚の異常行動と大量死よりも、

社畜が正気になったことの方が恐ろしかったみたいですね。

 

目の前で大きな奇跡が起こると、

「すごい」「うれしい」よりも、「怖い」という気持ちがまさってしまうことはあります。

「ヤバイ」という表現でもいいと思います。

 

イエスの一番弟子ペテロが、イエスと出会ったときもそうでした。

プロ漁師のペテロが、イエスの指示通りに網をおろすと、異常な大漁になった。

それでペテロたちは恐れて、イエスの足元にひれ伏し、

主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ書5:8)

と口走ってます。

 (参考) とりあえずの一歩に軍配が上がる … すばらしい返事よりも、実際の行動を。

 

墓場の社畜に取りついていたレギオンも、

いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。(7)」と、

イエスを避けたがっていました。

 

自分の常識の範疇を越えた何かが迫って来ると……怖いんです。

自分が慣れ親しんでいる世界を壊されてしまう予感がするわけです。

それはエゴにとっては「死」です。

 

・そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。 (17)

 

ゲラサ地方の人々は、社畜が正気になった話を喜ぶよりも怖がりました。

 

物語として読むと、なんだか後味が悪いですが、

人間ドラマとしては、とてもリアルなオチですね。

実際、人間の現場って、こういうこともけっこうあるんじゃないかと思います。

 

イエスを十字架刑に追いやった人々は、変化の恐怖に耐えられなかった人々です。

これまでに何度か書きましたが、キリストがやって来ると、嵐と混乱が起こります。

キリストは人間に都合の良い魔法使いではありません。

 (参考) 剣と分裂(divide)をもたらすキリスト … 守るべき境界線と、壊すべき境界線

 (参考) ベツレヘムの星事件 … 紀元前(Before Christ)から、神と共にある新時代へ

 

イエスはゲラサの人々には何も言わず、さっさと舟で引き返します。

イエスは最初から、この社畜だけを救うつもりでゲラサに来たのかもしれません。

それでは他の人は……まだ心の準備不足、時期尚早だと判断したのかも。

 

それに、イエスがその地方から去っても、イエスに救われた人はそこに残るわけです。

たった一人でも救われた人をそこに置くだけで、(マタイ書では二人になってますが)

大小の影響がその地方に及ぶことを、イエスは見越していたのかなと思います。

 

これは小説&映画の『桐島、部活やめるってよ』の構成とも似てると思います。

 (参考) ……で、何のためにこれをやってるんだっけ??(´・ω・`)

桐島君が部活をやめるという、ただそれだけの個人的な出来事が、

ドミノ倒しのように校内の生徒に影響してゆき、

生徒間のパワーバランス(スクールカースト)をもじわじわ変えていくストーリーです。

各人に生じた微妙な変化が、思いもよらぬところにまで影響して、

生態系が乱れていきます。

 

イエスがゲラサ地方をあっさり去ったのは、

「あの人、社畜やめたってよ」という

福音ドミノの最初の札を倒すことができたからだと思います。

 

レギオンから解放された人は、ブラック企業に飼われる社畜ではなくなりました。

神の子イエスに救われた者として、新しい使命を与えられています。

 

自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、

 あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。 (19)

 

イエスに会う前は「墓場を住まいとしており(3)」という状態でしたが、

イエスに会った後は「自分の家に帰り(19)」ということになりました。

福音書には、しばしばこういう対比が出てきて面白いです。

この人の「自分の家」とは、本来この人が居るべきところですね。

 

 その人は立ち去り、

 イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。

 人々は皆驚いた。 (20)

 

イエスは「身内の人に……知らせなさい」と命じたのに、

この人は身内の範囲を超えて、「ことごとくデカポリス地方に言い広め始めた」とあります。

言い広めずにはいられなかったのでしょうね。
 
■ レギオンに支配される社畜から、神に養われる羊に
 
最後に『詩篇』23篇を紹介させてください。
 
神と人の関係は、聖書では牧者と羊の関係にたとえられることが多いです。
イエスも自身を「良い羊飼い」にたとえた話をしています。(ヨハネ福音書10章)
ダビデ王が作ったとされる『詩篇』23篇は、その代表作だと思います。
 
 主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
 主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
 主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
 
 たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。
 あなたがわたしと共におられるからです。
 あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
 
 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。
 わたしの杯はあふれます。
 
 わたしの生きているかぎりは
 必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。
 わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。
 
 ――旧約聖書 『詩篇』23篇1-6節 (口語訳)
 
社畜も家畜も、その飼い主は人です。
人に従っていると、最後にはみぎわ(水際)から落ちて溺死してしまいます。
 
しかし主という牧者は、
いこいのみぎわ(水際)に伴われる。
 
ゲラサの墓場に住んでいた人の身に起こったことは、
詩篇23篇のとおりだなと思います。
この人は、「みんな」というレギオンに支配される墓場から、
魂を生きかえらせ……正しい道に導かれ」、
とこしえに主の宮に住む」者とされたわけですね。
 

 「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、

 あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。 (マルコ5:19)

 

人が住むべきところは、墓場ではなく、自分の家=主の宮なのです。
 
 
次回に続く。
 

 

※ 記事中の聖句引用元/日本聖書協会『新共同訳聖書』または『口語訳聖書』
 
※ イエスキリストの純粋な福音を知りたい人には、
 『キリスト教放送局 FEBC』をお勧めします。
 
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