■ 今回からポリシーを変えます。

 

最近は、キリスト教を信じる方からレスポンスをいただくことが増えました。

私としては、すでにキリスト信仰を持っている人は、

こういう元占い師の聖書ブログ記事など読まないだろうと思っていました。

 

しかし実際にふたを開けてみたら、

私が想定していた読者層(占い・スピリチュアルに関わっている人々)はほぼ無反応(笑)、

むしろ何らかのキリスト信仰をもっている人や、もともと聖書に関心があった人が、

私の聖書ブログを参考にしてくれているご様子です。

 

しかもキリスト信仰をお持ちの皆さんの文面を総合するに、

キリストの正しい福音が伝えられていない教会、団体がけっこうあるように感じます。

ご本人がそのことを自覚していないケースもあります。

 

これは私には想定外のことでした。

しかし私の想定外だからこそ、そこに神の意図と導きを感じます。

 

私のブログでは、キリスト教臭くなるのが嫌なので、

できるだけ「キリスト」という言葉を使わず、

「神様」、「イエス」、「救い主メシア」と表記するようにしてました。

 

しかし現実に、聖書とキリストを信じて神との交わりを深めたいと願っているのに、

様々な事情や、おかしな教会・教団のために、先に進めず戸惑っている方がいて。

そういう方が一人でも二人でも、このブログを見てくださっているのであれば……

キリスト教臭いのが嫌だという私の個人ポリシーは放棄して、

神の御子イエスキリストと十字架についても、

もっと正面からしっかりと取り上げ、語りたいと思います。

 

【 キリスト教の大前提 】

 

・ イエスが神の御子であることを認めている。

・ イエスの十字架の死の必然性と、復活の意義が説明できる。

・ 「使徒信条」を告白している。

 

これがない団体は、キリスト教ではなく、異端・カルトと呼ばれる団体です。

(詳細は今回記事の最後の方をご覧ください)


私は宗教教師ではないし、宗教勧誘をするつもりもないです。

でも、真の神ヤハウェ、御子イエスと聖書の内容については、

一人でも多くの人に知ってほしいし、

何より、神と自分との一対一の関係をしっかり築いてほしいと願っています。

日本人が一人一冊、MY聖書を持ってほしいとも思っています。

 

このブログの基本的なスタンスは、これまでと同じです。

あくまで私の言葉で、私自身の日常をとおしたエッセイ感覚で、

神と聖書と日ユ同祖論の記事を書いていくつもりです。

ただ、今までよりは、キリスト教寄りの内容が増えると思います。
できるだけ説明臭くならないように工夫しますが、
私の筆力が追いつかないところは大目にみてください。
 
※イエスキリストの純粋な福音を知りたい人、健全な教会を探している人には、
 『キリスト教放送局 FEBC』をお勧めします。
 
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【今回のもくじ】
 
・ 今回からポリシーを変えます。
・ 根本的に傷んでいるので、丸ごと取り換えましょう
・ 人の罪を清めて、神と和解させるイエス(キリスト)
・ イエスの十字架の死と復活を説明できない教会はカルトです

 

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■ 根本的に傷んでいるので、丸ごと取り換えましょう

 

先日、お風呂の水道設備を新調してもらいました。

 

蛇口などの連結部からじわーっと水漏れすることが続いてまして、

修理をお願いしたら、

設備全体が根本的に古くて傷んでいるので、

丸ごと取り換えた方がいいですね。

とのことでした。

 

うちは賃貸マンションですから、私の自己負担ゼロですから。

新調は大歓迎!!(・∀・)☆

水道屋さん、ありがとうございます。

 

神を受け入れて、心を変える、生き方を変えるというのも、

水道設備の交換と似ています。


神が、人の心根をごっそり新調してくれる。

自分の意志と努力で生き方を修正するのではないです。

修正、修理、修繕ではないんです。

古いものを破棄して完全に新生、生まれかわりです。

 

旧約聖書の預言書『エゼキエル書』に、

神が人の心を新調することについて語られています。

 

 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。

 わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。

 

 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。

 わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。

 

 また、わたしの霊をお前たちの中に置き、

 わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。 

 

 ――旧約聖書 『エゼキエル書』 36章25-27節

 

ここでの主語はすべて神です。

人間の努力で自分を清め、自分の体から石の心を取りのぞく……のではない。

それは不可能。

人の魂の根元を新調できるのは、人の造り主である神だけ。

 

わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く

 わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える

 

石の心というのは、神を受け入れていない状態の心。

固く、冷たく、命のない心。

神はそういう石の心を取りのぞいて、あたたかい血のかよう肉の心を与えてくださる。

これが「新しい心」であり「新しい霊」。

 

人間の心が成長して新しくなるのではなく、神に心を取り換えてもらうのです。

 

わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。

 わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。

 

ユダヤ教でも神道でも、「水」は罪・ケガレを祓い清める重要アイテムです。

聖書の「水」は聖霊(神霊)のシンボルです。

神が振りかけるという「清い水」は、物理的な水ではなく、聖霊のことです。

 

イエスが聖霊を「水」にたとえて語っている個所がいくつかあります。 

 

 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。

 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、

 その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 

 イエスは、ご自分を信じる者が受けようとしている御霊について言われたのである。

 イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、

 御霊がまだ降っていなかったからである。

 

 ――新約聖書 『ヨハネによる福音書』 7章37-39節

 

イエスが言う「生きた水」は神ヤハウェを水源とする聖霊のこと。

人間は、神という水道の蛇口のようなものです。

 

うちのお風呂場は、水道設備をごっそり新調しましたが、水源は以前と同じです。

あいかわらず神戸市水道局さんのお世話になっています。

 

しかし神に心を交換してもらった人は、

心の水道設備だけでなく、水源も変わります。

 

新しい心が、神という水源と直結しているから、

その人から生きた水が流れ出ることになります。

それが「永遠の命」をえている状態です。

 

神を水源とする命の水道契約を結ぶには、神と人間、双方の合意が必要です。

 (参考) 「私はロボットではありません」… 神は人間に個性と自由意志を与えた。


人間の努力だけでも、表面的な水道設備の新調はできるかもしれません。

しかしうちのお風呂のように、水道設備を新しくしても、

水源が元のまま(人間本位のエゴ)ならば、

その人の生き方も悩みも、何も変わらないままです。

 

キリスト教を信じた人は「洗礼/バプテスマ」を受けます。

一般的に、イエスをキリストだと信じて洗礼を受けることが、

神との契約成立ということになっています。

 

「バプテスマ」というギリシア語の意味は、「水に浸ること」、

神の中に己をドボンと沈めてしまうことです。

 

正直に申しますと、私自身は某プロテスタント教会で洗礼を受けています。

真の神ヤハウェ、御子イエスにコミットした生き方をしたいと心底望んでいて、

もう後戻りはしないという覚悟をしっかり決めたかったからです。

 

しかし儀式としての洗礼は、表面的な水道設備の交換のようなものです。

神を信じなくても、口先だけで信仰告白して、洗礼を受けるのはかんたんですから。

 

心の内実を知っているのは神だけです。

神との関係においては、人間世界で洗礼を受けたとかそういう証明はいらないです。

重要なのはあくまで、

魂の水源である神に、実際に心をひたして生きたいと心底願っているかどうかです。

 

■ 人の罪を清めて、神と和解させるイエス(キリスト)

 

魂の水源を神とする=魂に永遠の命をえるには、神にそう頼むしかないです。

 (参考) 生命の樹への道であるキリスト … 受けいれる(QBL・カバラ)/信じる(AMN・アーメン)

 

『エゼキエル書』にいう、

「神が清い水を注ぎ、石の心を取りのぞいて、新しい心と新しい霊を与える」というのは、

神に人の罪を清めてもらって、神と和解させてもらうこと」と同じだと思っていいです。

神の御子イエスが、地上に人として降誕したのは、そのためです。

 

 

聖書世界の「罪」は、神に対する罪のことです。

世間的にどんな善人であっても、

神を土台としない生き方をしているなら、それは「罪人」ということになります。

聖書用語の「罪、罪人」は、そういう専門用語なのだと割り切ってください。

 

ユダヤ教にも神道にも、罪・ケガレを清める儀式はありますし、

キリスト教の洗礼儀式もその一種だと思いますが、

いくら儀式をくりかえしても、そこに神の臨在がない限り、何の効果もありません。

表面的な儀式をゴージャスにして、人間がどれだけ魂を洗った気でいても、

神の前には相変わらず罪・ケガレが残ったままです。

 

しかも日本の神社では、「個人の開運・招福・厄除け」のために祓い清めをしています。
自分がキレイさっぱりして気持ちよくなるために、

神に頼んで祓い清めてもらうみたいな構図になっている。

 (参考) 神道の重大な欠陥 … 古代ユダヤ教の根幹を失伝し、骨無しクラゲと化す

 

それ、「清め」の目的を間違っています。

本来、罪・ケガレを清めるのは、神との関係を直(ナオ)に回復して、

永遠の命(神に直結していること)をえるためです。

 

人の罪・ケガレを清めることができるのは神だけです。

そのために、神の御子イエスが人として2000年前のイスラエルに降誕し、

十字架の死によって、人の罪を肩代わりしました。

その後の復活と昇天を経て、今は聖霊(神霊)によって一人ひとりに語りかけています。

 

そしてここが、数多あるキリスト教の正統派と、

異端カルトの分水嶺となるポイントでもあります。

 

・イエスが神の御子であることを認めているか。

・イエスの十字架の死の必然性と、復活の意義を認めているか。

 

詳細は後述しますが、それを全面的に認めて信仰告白している教会、教団ならば、

儀式、教義、方針の細かい違いはあっても、健全なキリスト教とみていいと思います。

 

イエスを神の御子(神霊)と認めないとか、十字架の死と復活を認めない、

そこをうやむやにする教会はキリスト教ではなく、

「キリスト教を名乗るカルト団体」ということになりますから、行かないでください。

(もしあなたの友人・知人がそういうところに出入りしているなら、止めてあげてください。)

 

たとえば、イエスは道徳教師ではないし、世直しヒーローでもないです。

ジーザス・クライスト・スーパースター!と持ち上げるのはカルトです。

 (参考) 子ロバに乗るキリスト … スーパースターじゃない、humble(謙虚、質素)な救い主メシア


イエスが救い主メシア(キリスト)と呼ばれるのは、

すばらしい善行や病気治しのパワーをもっているからではなく、

イエスが人の罪を完全に清めて(取りのぞいて)、

神との和解をえさせるための生贄(神への供え物)だからです。

 (参考) 人類の罪を引き受けるカタシロ(形代)としてのイエス … 神の子羊、子羊の血

 

人間は、神に対する罪を自力で取り除くことができません。

人間の善行、徳積み、戒律遵守などは、あくまで人間レベルの善行です。

神に対する罪をゆるすことができるのは神だけです。

 (参考) 生けるカガミ(鏡・神我見)としてのイエス … エゴの悪意を反射するカガミ

 

神はあわれみ深い神であるゆえに、すべての人の罪をゆるしたいと願っています。
しかし正義の神でもあるゆえに、無条件に人の罪をゆるすことができない。
(もしそんなことをすれば、神は不公正の神になってしまいます)

罪に染まっている状態の人間=神の恵みを受け取れない人間の魂は滅びてしまう。

そこで神は、どうにかして人々を罪・ケガレから清めて、滅びから救うため、
神と等しい存在である神霊を人間イエスとして地上に送ります。


 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
 
独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、
 御子によって世が救われるためである。
 
御子を信じる者は裁かれない。

 ――新約聖書 『ヨハネによる福音書』 3章16-18節

 

神はその独り子を、人間イエス(キリスト)として、地上に遣わされた。

 

ようするに、イエスの存在そのものが、神の愛と赦しの表現であり、契約書です。

イエスは、神から贈られた和解の契約書のイメージです。

 

イエスを神の御子と信じるということは、

神から贈られた和解の申出を受諾し、契約書にサインするというイメージです。

 

人はイエスを信じることで、神との和解が成立=神に対して無罪とされます(信仰義認)。

神の御子イエスに自分の罪をすべて引き受けてもらって(全てなすりつけて)

自分の代わりにイエスが十字架刑になってくれたから、人は無罪にされます。

だからイエスは救い主メシア(キリスト)と呼ばれます。

 

イエスが十字架刑になったのは、宗教エリートの画策によるものですが、

霊的には、イエスを信じた人々の罪をイエスがすべてひきうけて、

信者の代わりに処刑されたという構図になります。

 

これは人間にとって、非常に割のいい和解契約です。

人間がすることは、イエスを神の御子と信じて従うだけ。

 

本来なら人間が各々の罪(魂の負債・カルマ)に応じて、負の報いを受け、

際限なき霊的負債の返済(不幸・徳積み・戒律厳守等)で

苦しみ続けなければならないところを、

イエスがすべて引きうけて解放してくれる契約です。

 

イエスの十字架の死で、イエスを信じた人の罪が清められます。

そしてイエスは復活します。

イエスの死によって罪を清められた人は、

神という水源(永遠の命)に直結されましたから、

イエスの復活と共に、その人の魂も復活します(復旧ではなく新生)。

イエスはそういう意味での救い主メシア(キリスト)です。

 

この復活は、一つは今の現世生活での生き方(生きる目的)が新しくなることであり、

もう一つは死後の復活のことをいいます。

死後の復活が具体的にどういう様なのかは誰にもわからないので、私も話題にしません。

私は私にわかることだけを話します。

 

 主よ、わたしの心は驕っていません。

 わたしの目は高くを見ていません。

 大き過ぎることを

 わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。

 

 ――旧約聖書 『詩篇』 131編1節

 

ここは使徒パウロの言葉を借りましょう。

バプテスマ(洗礼)とキリストの十字架について、

霊的にどういう意味があるのかを説明しています。

 

 あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、

 つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、

 洗礼によって、キリストと共に葬られ、

 また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、

 キリストと共に復活させられたのです。

 

 肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、

 神はキリストと共に生かしてくださったのです。

 

 神は、わたしたちの一切の罪を赦し、

 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、

 これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました

 

 ――新約聖書 『コロサイの信徒への手紙』 2章11-14節

 

↑この聖書個所も、キリスト教の正統派と、異端カルトを見分けるチェックポイントです。

十字架の霊的意義を説明できないキリスト教というのはありえません。

 

ともかく、何億回生まれ変わっても返済しきれない罪(カルマ)があったとしても、

イエスがすべての罪を返済してくれた=身代わりに十字架刑になってくれたので、

イエスを信じた人は、もう霊的借金取りに追われなくて済みます。

自力ではどうしても抜け出せない負のループから解脱できます。


私にとってはこれがいちばん大きな救いでした。

自分の過去生の全容がわからない以上、

いつ、どの過去生のカルマが返ってきて、どんな不幸な目にあうかわからないと、

私はいつも脅えながら生きていましたし、

そのカルマと恐怖を取りのぞきたくて、スピリチュアル依存になっていましたから。

 

キリスト教は魂の前世や輪廻を否定する宗教だといわれています。

私も以前はそう思っていましたが、今はちょっと異なる見方をしています。

キリスト教は前世や輪廻を否定するというよりは、無関心といった方が正しいです。

 

イエスを救い主メシア(キリスト)として受け入れた者にとっては、

前世や輪廻などどうでもいい些末事になります。

そんなことより、今の自分が神と正しい関係にあるかが重要です。

 

輪廻転生と、永遠の命はぜんぜん話が違います。

魂の水源が神につながっていない状態(罪人の状態)で何億回転生しても、

それは永遠の命とはいわない、生ける屍がゾンビ再生してるにすぎない。

 

 わたしはあなたの行いを知っている。

 あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。

 目を覚ませ。

 

 ――新約聖書 『ヨハネの黙示録』 3章1,2節

 

イエスが魂の負債をすべて引き受けてくれたおかげで、

神の前に無罪(義なる者)とされ、魂に命をえられたならば、

もはや前世の因縁やカルマなどに注目する意味も価値もないのです。

 

昨日までの自分がどうあれ、重要なのは、今これから神と共にどう在るかです。

 

■ イエスの十字架の死と復活を説明できない教会はカルトです

 

このブログを読んでくれている人の中には、

これからキリスト教会に行ってみたいと思う人もいると思います。

 

私は積極的な宗教勧誘はしませんが、

もし私のブログ記事がきっかけで、キリスト教会に行ってみようかな?

と思っている人があれば、まともで健全な教会を選んでほしいです。

キリスト教放送局FEBCの教会紹介がお勧めです)

 

キリスト教には多くの分派があり、おかしなカルト教団もあります。

どこの組織もみんな「うちは正統派」と主張しますから、

素人目にはどれが正しくて、どれがカルトなのか、さっぱりわかりませんね。

 

ここまでの内容をふまえたうえで、これを一つの目安としてみてください。

 

そのキリスト教会は、

イエスを神の御子と認めていますか?

十字架の死の必然性と、

復活の意義を説明できますか?

 

これができない教団、組織は、キリスト教ではありません。

いわゆる「キリスト教を名乗るカルト」です。

 

【 要注意! まともではないキリスト教会の例 】

 

・イエスを神の御子と認めない。

 善人の模範、預言者、すごいヒーラー、道徳教師、世直し屋として教えている。

 ( ※反キリストの警告 → 『第一ヨハネ』4章 )

 

・「イエスの十字架刑は神の失敗だった。」

 「イエスは死ぬべきではなかった。」

 「実はイエスは死んでいない、死んだように見せかけただけ。」

 「2000年前にイエスが失敗した世直しを、私たちがやり直す。」 ……などという。

 

・イエスの死と復活を否定する。

 (例)イエスは仮死状態から蘇生しただけだ。

 ( ※イエスの復活について → 『第一コリント』15章 )

 

・父なる神、御子なるイエス、聖霊の三位一体の神(三一の神)を認めない。

 

・教祖がキリストの生まれかわりだと主張する。

 ( ※偽キリストの警告 → 『マタイ福音書』24章 )

 

・キリストの福音を語ることよりも、

 悪霊払い、病気治し、信徒勧誘、現世利益獲得の祈祷会などに力をいれている。

 

上記の意味で、スピリチュアリズムもカルトということになりますね。

 

イエスを神の御子と認め、十字架の死の必然性と復活の意義を説明できて、

それを教義の中心に据えている教会なら、

カトリック、プロテスタント、ルーテル、改革派、聖公会……

どのキリスト教団でも大丈夫だと思います。

(不安な人は、キリスト教放送局FEBCの教会紹介を頼りましょう)

 

教会は人の集まりですから、未熟さゆえの機能不全やトラブルはあったとしても、

そういうトラブルがあること自体は異端やカルトではないです。

ただし、人間的な相性はありますから、どうしても教会の空気が合わないと感じたなら、

イエスによく祈って、自分に合った教会を求めてもいいです。

教会への忠義などよりも、神あなたとの絆を守ることが最優先です。

 

そしてまともなキリスト教会、教団なら、

「信仰告白」として「使徒信条」という定型文を定めているはずです。

私がウィキペディアで見た限りでは、

教派ごとに多少の文言の違いがありますが、告白内容はどれも同じです。

父なる神、御子イエス、聖霊の三位一体の神を告白しています。

「使徒信条」を明示していないキリスト教会もやはりカルトです。

 

 【 使徒信条の例 】

 

 使徒信条

 天地の創造主、全能の父である神を信じます。

 
父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
 主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
 ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、

 十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、
 三日目に死者のうちから復活し、

 天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、
 生者
(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。

 聖霊を信じ、
 聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、

 からだの復活、永遠のいのちを信じます。 

 

 アーメン。
  

 — 2004年2月18日/日本カトリック司教協議会認可   (<Wikipedia 使徒信条

 

神と自分との関係において、キリスト教会への所属はオプションですが、

もし行くのでしたら、以上のことに十二分に注意して教会を選んでください。


 

 

※ 記事中の聖句引用元/日本聖書協会『新共同訳聖書』または『口語訳聖書』

 

■ 「神と聖書と日ユ同祖論」 記事一覧&リンク →こちら
 
■ イエスキリストの純粋な福音を知りたい人、健全な教会を探している人には、
 『キリスト教放送局 FEBC』をお勧めします。
 

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