遅ればせながら、あけましておめでとうございますm(_ _)m

本年もよろしくお願いします。

 

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■ 自分の心に響いたことしか語れない

 

たしか映画『エデンの東』で、

主演のジェームズ・ディーンにこんなセリフがあったように思います。

 

 どうして兄さん自身も信じていないことを、

 ボクに信じさせようとするんだ!

 

ホントこれ。

自分自身が納得していない話をしても、相手には何も伝わらないですね。

何を語るにしても、自分の心に響いたことしか語れないですね。

 

なのでこのブログも、ひきつづき、神様と聖書のことをメインに、

私の実感ベースで綴る自己満足ブログとして続けたいと思います。

あくまで私自身が経験したこと、感じたこと、考えたこと、納得したことなどを。

 

聖書については、人気漫画のネタバレ考察ブログみたいな感じで、

私なりの聖書感想と実感を、これからも楽しくつづっていきたいです。

……神の御旨にかなっていればですが。

 

あ、『エデンの東』を観たのは20年以上前なので、

映画の内容はぜんっぜん覚えていません。

ジェームズ・ディーンのセリフだけがずっと印象に残っているのですが、

それすら細部は記憶違いがあるかもしれません。

新年早々いい加減なことをいってるけど、まあいいや、へっへ( ̄∀ ̄)

 

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■ 寝食時間は、聖なる安息時間

 

元旦の夜に、神様からお年玉をいただきました。

ずっと神様に尋ねていたことの答えが、やっと受け取れたのです。

ここ数年、ずっと体調不良が続いていて、まともな社会生活ができていない件について。

 

 寝食時間を聖としなさい。

 それが習慣づくまで わたしはこの手をゆるめない。

 次の仕事も与えない。


ああ、なるほど。そういうことか。

主よ、それはたいへん良いことです。

ぜひそうしてください。

 

私の悪い癖。

 

× 寝食時間がムダな時間に思えてしまう。

 

× 自分の持ち時間を増やすために、寝食時間を削る。

 

× 寝食は手早く済ませて、もっと有意義なことをしなければと焦ってしまう。

 

× 食事の時間になっても作業(ブログ更新も含む)を中断することができなくて、

 ずるずる何時間も続けてしまい、食事を抜いてしまう。

 

× 食事に集中しないで、「ながら食べ」をしてしまう。

 

これがけっこう身体に悪いなあという自覚は前々からありました。

それでもなかなか改善できないのは、私にケジメがないのと、

「一日一生」という言葉に縛られ過ぎているせいだと思います。

 (参考) メメント・モリ(死を想え)/カルペ・ディエム(今日の花を摘め)

 

食事時間と、睡眠時間は、短くて済むならその方がいいと思っていて。

あくまで、私の健康という、私の都合でしか食事や睡眠を考えていませんでした。

 

とんでもない思い違いでした。

 

 7日に一度の安息日を聖とするように、

 毎日の寝食時間も聖としなさい。

 

どんな善事よりも、寝食時間を優先して守りなさいと。

それも、私の健康のためではなく、神のためにそうしなさいと。

なぜなら、人間の身体は聖霊が宿る神殿だから。

 (参考) 人間の身体は聖霊の宮 … 土の器に命の息を宿す者、神と共にある生き方、人間生活の基礎

 

 あなたがたは、自分の身体がキリストの身体の一部だとは知らないのか。

 

 ……あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、

 あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。

 

 あなたがたは、代価(イエスの犠牲を払って買い取られたのです。

 だから、自分の身体で神の栄光を現しなさい。

 

 ――新約聖書 『コリント人への第一の手紙』 6章15、19,20節

 

身体を大切にする第一目的は、神のため。

私の命を潤してくれる神のために、自分の体を健やかに保つ義務がある。

 

これまで私が健康を求めていたのは、

ようするに私が人並みに仕事をして稼いで楽しく遊び暮らしたいから……

それでは神の御心にかなっていないわな。

 

神は週に一日、安息日を定められた。

安息日は神聖な日だから、仕事・私事は休まなければならない。

人間は休みなしで働いてはいけない。

 

7日ごとの安息日と同じく、一日の中にも、神聖な安息時間がある。

私の場合は、食事と夜の睡眠が聖なる安息時間だというわけ。

 

ちなみに安息日の詳細はこう。

モーセ十戒の第4戒。

 

 安息日を心に留め、これを聖別せよ。
 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、

 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、

 いかなる仕事もしてはならない。

 

 あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、

 あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。

 

 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、

 七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。

 

 ――旧約聖書 『出エジプト記』 20章8-11節

 

そして安息日は自分だけでなく、

周囲の人がリフレッシュするためにも必須だと語られている。

 

 あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、

 七日目には、仕事をやめねばならない。

 それは、あなたの牛やろばが休み、

 女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。

 

 ―― 『出エジプト記』 23章12節

 

ともかく、神のために、そして私や私と関わりのある人たちのためにも、

安息時間が来たなら、そこで私事は中断すること。

一気に仕上げようとする癖を捨てること。

「キリがいいところまでやってから……」は禁句に。

 

寝食時間を聖とする習慣が根付くまで、

神の手はゆるまない = 私の体調は低空飛行が続く。

 

それでけっこうです。

そうしてください。

そうでもしてもらわないと、私の頑固な悪癖は去らないでしょう。

 

さっそく、正月の2日から、アラームをセットして、

食事時間をきっちり守ることをはじめました。

 

まだ一週間もたっていませんが……

落ち着いて食事の支度をして、食べることで、

「食後にも時間はたっぷりあるから大丈夫」

という心の余裕ができたように感じます。

 

食事時間を削ったり後倒しすることが、

かえって時間が足りない感を増幅させていたのですね……

 

■ 「主の祈り」と食事

 

預言者エリヤが挫折して死を願ったとき、

神がエリヤに与えたのは食事、睡眠、長期休暇。

寝食は命の基本というメッセージなんだと思ってます。

 (参考) 天職(calling)がハード過ぎて挫折した場合 … 休暇をとって、神の静かな声を聞こう。

 

人はパンのみに生くるにあらず」(マタイ4:4)

という有名なイエスの言葉があるけど、

それは物質至上主義をいましめているのであって、

日々の食事などどうでもいいという意味ではないよね。

 

ちなみにイエスの言葉は申命記の引用。

 

 主はあなたを苦しめ、飢えさせ、

 あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。

 

 人はパンだけで生きるのではなく、

 人は主の口から出るすべての言葉によって生きることを

 あなたに知らせるためであった。

 

 ――旧約聖書 『申命記』 8章3節

 

人はパンだけで生きるのではない……「パンが不要」って言ってるんじゃない。

 

「生きるためにはパンが必要だが、パンだけでないよ。

 パンを与えてくれる神、神の言葉が命を生かすんだよ」

と言っているんですね。

 

キリスト教のメジャーな祈祷に、「主の祈り」があります。

イエスが弟子たちに教えた祈りとして、福音書に記されています。

私も毎朝祈ります。

 

「主の祈り」の中に、食事についての一節があります。

 

 【 主の祈り 】

 

 天にまします われらの父よ

 

 御名が あがめられますように

 

 御国が 来ますように

 

 御心が天でおこなわれるように

  地でもおこなわれますように

 

 わたしたちの日ごとの糧を

  今日もお与えください

 

 わたしたちの負い目をおゆるしください

  わたしたちも わたしたちに負い目のある人たちをゆるしました

 

 わたしたちをこころみにあわせないで

  悪からお救いください

 

 国と 力と 栄えとは 

  とこしえにあなたのものだからです 

 

 アーメン

 

で、毎朝、「日ごとの糧をお与えください」と祈って、

祈った通りに毎日与えてくれているにもかかわらず、

私は自己都合で、それを粗末にしたり間引いたり……ほぼ毎日、当然のように。

 

そりゃー、神様も怒るよね。

というか、悲しまれるよね。

 

私はそれを大したことではないと思っていたけど、食事は命の基本なのだから。

命の基本だから、「主の祈り」でも毎日の食事のことを祈っているのに。

 

私はなんと恩知らずなことを、自覚もなしに、神様にしていたものかと。

こういうのを「罪」というのですね。

この正月になって、ようやく自覚することができました。

 

聖書で「罪」というのは、もっぱら神様に対する罪のことです。

神様の御心に背いて、生き方がマガっている状態のこと。

  (参考) 何に対して素直であるべきなのか。ナオ(直)とマガ(曲、禍)。

 

イエスは宗教エリートをこう非難してますが……

 

 ものの見えない案内人、

 あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。

 

 ――新約聖書 『マタイによる福音書』 23章24節

 

私は……塩分と食品添加物はめっちゃ気にするくせに、

食事という行為そのものを粗末にしてしまっている。

小事に神経質で、大事をおろそかにするのは、古代宗教者とまったく同じ。

なにより、そうすることで神の恵みをふみにじってしまっているのがいかん。

 

食事は神事。

そう心得て、これが私の基本習慣として根付くまで、

私に次の道が開かれないことを願います。

 

もし今の状態で私が健康になってしまったら、

私はまたすぐに神様の恩を忘れて、

自分のやりたいことを好き勝手にやっちゃうと思います。

 

■ 聖なるお鍋☆

 

預言者ゼカリヤの書は、こういうユニークな預言で終わっています。

 

 その日には、馬の鈴にも、「主に聖別されたもの」と銘が打たれ、

 主の神殿のも祭壇の前の鉢のようになる。

 

 エルサレムとユダの鍋もすべて万軍の主に聖別されたものとなり

 いけにえをささげようとする者は皆やって来て、それを取り、それで肉を煮る。

 その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる。

 

 ――旧約聖書 『ゼカリヤ書』 14章20、21節

 

お鍋! お鍋! おいしいね!(*´∇`*)

その日……神が地上に現れる「主の日」に、

一般家庭のお鍋ですらも主に聖別されて、聖なるお鍋になるんだって☆

 

お鍋だけ? フライパンは? ヤカンは?

 

ここでいう「鍋」は、調理用具全般のシンボルと考えたらいいです。

あるいはさらに拡大解釈して、日用品全般のシンボルと読んでもいいと思います。

 

とにかく、神がやって来たならば、お鍋に代表されるような日用品も、

すべて聖なる神具となるのです。

 

私たちが聖書を個人メッセージとして受けとる場合は、

「主の日」を壮大な宗教テーマとして考えなくても、

日常的に神と共にある生活をすべて「主の日」とみなしていいと思います。

 

預言者ゼカリヤを通して語られている「その日」は、

今、地上にいるすべての人のための「その日」なのだと思います。

 

日常生活で神を第一としているなら、

神から与えられているすべてのものは「聖なる○○」ということになります。

聖なるお鍋、聖なる靴下、聖なるカーテン……

 

本来、「聖なる○○」は、神殿や祭壇の祭具だけをさしていました。

 

しかし、地上の人が神の子イエスと出会い、

神との関係を直(ナオ)に回復してもらったなら、

人間の身体こそが神霊を宿す神殿となるわけです。

 

そうなると、日常的に物を物として大切にする世界から、

物を神からの恵みとして大切にする世界に移ったことになります。

 

物が無いと不安だから、モッタイナイからといって無為に物を溜め込むのではなく、

神からのいただきものとして物を大切にするからこそ、

役目を終えた物は感謝して手放せるし、

必要な物とそうでない物を選別することができるようになります。

 

近年、「若者の○○離れ」といわれているのは、とても良い傾向ですね。

モノ(物)よりもコト(事・体験)にお金を使う傾向もあるそうで。
これも良いことですね。

 

モノ(物)では心の飢えを満たせないことに気づいたから、
コト(事・体験)を求める人が増えたってことだと思います。
 
でも、コト(事)で心の虚しさを埋めるこころみにも、
じきに限界が来ると私は予言できます。
 
預言者アモスの書で、こう語られています。
 
 見よ、その日が来ればと
 主なる神は言われる。
 
 わたしは大地に飢えを送る。
 それはパンに飢えることでもなく
 水に渇くことでもなく
 主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。
 
 人々は海から海へと巡り
 北から東へとよろめき歩いて
 主の言葉を探し求めるが
 見いだすことはできない。
 
 ――旧約聖書 『アモス書』 8章11、12節
 
地球のあちこちを飛び回り、各地で様々な出会いやレア体験を重ねたとしても、
そういった地上に属するコト(事・体験)では、心の虚しさが埋められない。
それを実感してしまったとき、
その人は本気で神のコト(言)を求めて、神と聖書に向かうでしょう。
 
■ 魂の飢えを満たす食べ物

 

魂の飢えを満たしてくれる食べ物……
命のパンと水であるイエスキリスト、聖書の御言葉。
 
イエスは5つのパンを5千人に分けた奇跡の後、
そのパンで満腹した人々にこう語っています。
 
 朽ちる食べ物のためではなく、
 いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。
 これこそ、人の子(イエス)があなたがたに与える食べ物である。
 
 ……わたしが命のパンである。
 わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、
 わたしを信じる者は決して渇くことがない。
 
 ――新約聖書 『ヨハネによる福音書』 6章27、35節
 
地上のパンだけで満足するのではなく、
神が与えてくれている命のパン(=イエス=神の言葉)を求めなさいと。
 
さいわい、マルティン・ルターが宗教改革をしてくれたおかげで、
現代は各国語で聖書が読めます。
 
日本語聖書は安価で買えますし、無料聖書アプリもあるみたいですね。
魂の飢饉で苦しい人は、当人さえその気になれば、
いつでも気軽に聖書を入手して、神の言葉にふれることができます。
これは本当に大きな恵みだと思います。
 
その気のない人に、神や聖書を押しつけるのは間違いだと思います。
そういうことをすると、『エデンの東』のジェームズ・ディーンみたいに、
「どうしてあなた自身も信じていないことを、わたしに押しつけるんだ!」
という反発をうみ、聖書への嫌悪を植えつけるだけに終わるでしょう。
 
■ 命のパンを聖書から得る
 
あるキリスト信徒がこぼしていました。
教会に何十年と通っているが、
聖書の御言葉や恵みについて、お互いに語り合う時間がほとんどなくて寂しい、
奉仕活動の業務連絡の会話だけで終わってしまうと。
 
また別の信徒は、最初に洗礼を受けた教会は奉仕活動が忙しすぎて疲れるから、
落ち着いて聖書の話ができる教会を探すために、
あちこちの日曜礼拝に参列しているとのことでした。
その後どうなったかは知らないですが、
その人に合う教会に導かれていればよいのですが……(主よ、ぜひそうでありますように)
 
命のパンであるイエスキリストを人々に分かち合うはずのキリスト教会内ですら、
各種業務に忙殺されて御言葉の飢饉が続いている
のだとすれば、それはキリストの教会じゃなくて、教会という名の社交場ですね。
そういう機能不全の教会は、少子高齢化の流れに負けて淘汰されると思います。
 
しかし、数多あるキリスト教会の興亡がどうあれ、
聖書=神の言葉はけっして滅びず、変わらず、時代にも左右されないです。
魂の飢饉で苦しいなら、「神様助けてください」と心で祈って、
直接に聖書を読むのがいちばん確実で安全だと思います。
 
 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。
 
 ――新約聖書 『マタイによる福音書』 24章35節、『マルコ書』13:31、『ルカ書』21:33
 
ひとまず私は、寝食時間を聖とする習慣がしっかり根づくよう、
食事時間が来たら聖書をおいて、
聖なる食卓に向かうことを優先しようと思います。
 
 
 
 
 
 
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