【今回のもくじ】

 

・ 神業で最も重要なものは……
・ 神業の重要度を誤解した弟子たち
・ お金で神業を習得しようとした魔術師
・ 特殊な霊能力は不要
・ 神の真意は、空腹の人にしか理解できないかも

 

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■ 神業で最も重要なものは……

 

新約聖書には4つの「福音書」がある。

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4書。

いずれもイエスの言行を伝えており、イエスが起こした数々の奇跡のほとんどは、

ヨハネ書以外の3書(共観福音書)に記されている。


イエスの奇跡はすべて神由来のもの。

人間的な念力・霊能力・テクニックによるのではなく、

神の業がイエスを通して現れたもの。

 

難病の治癒、5つのパンを5千人に分ける等、

どの神業も甲乙つけがたいことはもちろんなのだが、

それでもあえて神業(カミワザ)にランキングをつけるなら、その順位はどうなるだろう。

 

実はイエスの神業の重要度について、イエス自身が明かしている個所がある。

予備知識なしに福音書を読むと、「それのどこが神業なの?」と不思議に思えることが、

第一位の神業としてあげられている。

 

マタイ書で見てみよう。

イエスの回答内容に注意してほしい。

 

 ヨハネ(洗礼者ヨハネ)は牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。

 そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。

 

 「来たるべき方(救い主メシア)は、あなたでしょうか。

 それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」

 

 イエスはお答えになった。

 「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。

 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、

 重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、

 死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。

 わたしにつまずかない人は幸いである。」

                         

 ――『マタイによる福音書』 11章2-6節

 

イエスの回答内容(赤字部分)に、「あれ?」とひっかかる個所がある。

イエスが救い主メシア(キリスト)である証拠として、6つの神業をあげている。

 

(1) 目の見えない人は見え、

(2) 足の不自由な人は歩き、

(3) 重い皮膚病を患っている人は清くなり、

(4) 耳の聞こえない人は聞こえ、

(5) 死者は生き返り、

(6) 貧しい人は福音を告げ知らされている。

 

(1)~(5)は、人間にはできない超自然的なことで、

いかにも救世主メシアにふさわしい神業だと思える。

しかし、

 

 (6) 貧しい人は福音を告げ知らされている。

 

これはどうなんだ。

これは神業といえるのか?

もしそれが神業……神由来の恵みだったとしても、

盲人が見えるようになったとか、死者が生き返ったという奇跡よりは格下に思える。

 

にもかかわらず、イエスにとっては、

 (6) 貧しい人は福音を告げ知らされている。

これこそが最も重要な神業。

というか、イエスはそのために人間として地上に生まれてきている。

 

イエスはまず最初にたとえ話をしてから、最後に結論を語ることが多い。

重要なのはもちろん結論の部分。

 

そういうイエスの話し方のパターンからすると、

(1)~(5)の神業は、イエスにとっては前座のようなもので、

(6)が本命ということになる。

 

イエスの神業を分類するなら、

(1)~(5)の神業は、いずれも人間の肉体に作用する奇跡。

それに対して(6)は、人間の魂に作用する奇跡といえるかと思う。

 

(6) 貧しい人は福音を告げ知らされている。

 

イエスがいう「貧しい人」は、経済的貧乏人というよりは、

 

・心が満たされていない人

・心にぽっかり穴があいたような人

・いつもむなしい気持ちで生きている人

・魂が死にかけている人

 

と考えたらわかりやすいと思う。

衣食住が満たされていても、心が「貧しい人」は多くいる。

そのような「貧しい人」に福音を告げ知らせることが、イエスの最優先事項。

 

イエスが本格的に伝道活動を始めた時の第一声がこれだった。

 

 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、

 神の福音を宣べ伝えて、 

 「時は満ち、神の国は近づいた。

 悔い改めて福音を信じなさい」 と言われた。

                         

 ――『マルコによる福音書』 1章14、15節

 

イエスは「わたしがメシアだ、わたしが救世主だ」と自己宣伝をしたのではなかった。

「福音を信じなさい」と教えながら各地を巡回した。

 

福音」の定義は「良い知らせ、キリストの教え」なんだけど、

この定義は宗教臭いうえに、抽象的すぎて内容をイメージしづらいので、

ここでは福音を「神の真意」とか「神の本音」と意訳したらいいと思う。

 

物質的に貧しい人はもちろん、生活は豊かでも心が貧しい人に対して、

福音すなわち「神の真意」が語られる。

「神の真意」を知ることで、人間世界の何をもっても満たされない心が満たされる。

少なくとも、心を満たすものは神の言葉の中にしかないということがわかる。

 

だからイエスの山上の垂訓の冒頭がこれなんだと思う。

 

 心の貧しい人々は、幸いである、

 天の国はその人たちのものである。    

 

 ――『マタイによる福音書』 5章3節

 

神の言葉は魔法の呪文ではないから、

言葉の真意を理解せずに復唱などしても、何の意味もないんだよね。

神の言葉の真意(福音)を理解して、受けいれて、

はじめて魂の救いとしての意味をなす。

 

神の言葉が、死にかけている魂をうるおす福音として、

心の貧しい人に受け入れられる→霊的な命を得ることが、

イエスにとっては第一位の神業だった。

 (参考) 生命の樹への道であるキリスト … 受けいれる(QBL・カバラ)/信じる(AMN・アーメン)

 

■ 神業の重要度を誤解した弟子たち

 

イエスの弟子たちも、やはりふつうの人間である。

どうしても、物理的に効果のある神業、超自然的な業に魅かれてしまう。

イエスは弟子たちの勘違いを、やんわりたしなめている。

 

 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。

 「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」 

 

 イエスは言われた。

 「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。 

 蛇やさそりを踏みつけ、

 敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた

 だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。 

 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。

 むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。

                               

 ――『ルカによる福音書』 10章17-20節

 

「イエスの名を使うと、悪霊さえもわたしに屈服する!」

ということで、弟子たちは舞い上がっていたか、

自分がスゴイ人間だという優越感を覚えたのかもしれない。

人間としては素直なリアクションだと思う。

 

神の真意(福音)を教えるという地味な作業より、

病気治しや悪霊払いの方がスゴイ神業と思ってしまう。

人間の価値観と、神の価値観のギャップが、こういうところに現れるんだろうね。

 

しかしイエスは悪霊が服従することを喜ぶなと、釘をさす。

そんなことよりも重要なのは、「あなたがたの名が天に記されていること」。

 

「天に名が記される」というのは、

宗教組織の会員名簿に名を連ねるという意味ではなく、

「神ヤハウェに受けいれられている=神の国に入れる」という意味。

 

たとえば病気治しということなら、とくに現代は医療技術が発達したおかげで、

神頼みなどしなくても、人間レベルの知恵と技術で対応できることが多くなっている。

今後も多くの治療法、特効薬がどんどん開発されていくのだと思う。

 

しかし「神に受けいれてもらう、神の国に入る」というのは、

人間側の努力では不可能なこと。

神に受け入れてもらうには罪をとりのぞく必要があり……

という詳細は、過去記事に何度も書いたからここでは省くけれど、

とにかく、人間的な努力・頑張り・善行は、人間世界では褒められるけれども、

神の受け入れ基準とはぜんぜん関係がない。

 (参考) 人類の罪を引き受けるカタシロ(形代)としてのイエス … 神の子羊、子羊の血

 

ある人間を、神が受け入れるか否か。

それを決める権利は、神の側にある。

人間が修行して不思議な奇跡を自力で起こせるようになったとしても、

神からすれば「それがどうした」ということにしかならない。

 

だから、イエスの弟子たちが、

イエスから権威を与えられて、悪霊払いや何やができたからといって、

それが神の前に正しいとか、死後に天国に行けるということにはならない。

 

イエスは弟子たちをたしなめた後、続けてこう語っている。

 

 そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。

 

 「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。

 これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、

 幼子のような者にお示しになりました。

 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。

 

 すべてのことは、父からわたしに任せられています。

 父のほかに、子(イエス)がどういう者であるかを知る者はなく、

 父がどういう方であるかを知る者は、

 子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」

                                 

 ――『ルカによる福音書』 10章21、22節

 

人間的に賢く、神学や経典に詳しくて、神の言葉を暗唱できる人であっても、

神の真意を理解して受け入れているということにはならない。

むしろ幼子のように無学で無力な人の方が、素直に神の真意に従うことができる。

 

バチカンはじめ、カトリック教会で定期的に少年虐待の醜聞があがってくるよね。

神の言葉を暗記しても、宗教儀式を正しく執り行っても、

神の真意を理解できていない人が少なくない証拠だと思う……

 

宗教嫌いで聖書など読んだことがなくても、

神の真意を受け入れてそのとおりに生きている人がいるなら、

神がその人を喜んでいるのは間違いない。

 

■ お金で神業を習得しようとした魔術師

 

イエスの復活・昇天後、イエスの弟子たちが本気で福音伝道を始める。

その際に、イエスのような病気治しなどの奇跡業もたくさん起こしている。

 

サマリア町でその現場を見た魔術師シモンなる人物は、

イエスの福音を信じて洗礼を受けたのだが……その一部始終が滑稽だ。

 

まず、魔術師シモンという人物について。

 

 ところで、この町に以前からシモンという人がいて、

 魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。 

 それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、

 「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目していた。 

 人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。 

 

 しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について

 福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。

 

 シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、
 すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。
                            
 ――『使徒行伝/使徒言行録』 8章9-13節

 

ここで気になるのは、魔術師シモンも、その周囲の人々も、

目に見える物理的な魔術・しるし・奇跡に心を奪われていたということ。

 

魔術師シモンが「偉大な神の力」と呼ばれていたのは、

彼が不思議な業をするからであって、彼の人格や智恵のゆえではない。

魂的には浅薄な俗物であっても、物理的に超自然なことができるだけで、

大衆からは「偉大な神の業」として注目される。

これは現代でもまったく同じ。

 

サマリアの人々が洗礼を受けた時は、

「神の国とイエス・キリストの名についての福音を信じ」たようだが、

その福音の内容を正しく受けとることができていたかは怪しそうだ。

 

魔術師シモンは、「いつもフィリポにつき従い」とあるから、

フィリポが語る福音メッセージをたくさん聞いていたはずなのに、

魔術師シモンの心をとらえたのは「すばらしいしるしと奇跡」の方だった。

 

さらに魔術師シモンは、エルサレムから来たイエスの直弟子ペテロとヨハネにも注目した。

 

 ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。 

 

 シモンは、使徒たちが手を置くことで、“霊”が与えられるのを見、

 金を持って来て、言った。

 

 「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、

 わたしにもその力を授けてください。

 

 すると、ペトロは言った。

 「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。

 神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。 

 お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。

 お前の心が神の前に正しくないからだ。 

 この悪事を悔い改め、主に祈れ。

 そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。 

 お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。」 

 

 シモンは答えた。

 「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」

                            

 ――『使徒行伝/使徒言行録』 8章17-24節

 

魔術師シモンは、福音の内容を聞いても理解できない人の典型だと思う。

目に見える奇跡業だけに注目し、自分も奇跡業の使い手になりたいと願う。

もちろんそれは神のためではない。

奇跡業を起こして、自分がちやほやされたいから。

 

自分の利益のために神業を利用するという発想もさることながら、

それをお金で買えると信じているところからしても、

魔術師シモンの霊的知恵の貧しさがよくわかる。

 

神のことも、奇跡の意義も理解していないから、

「神の賜物をお金でゲットできる」と思ってしまう。

 

でもこれは、魔術師シモンだけではないよね。

現代でも、霊能力開発系のスクールかワークか、

そういうものを主催する人、通っている人は皆同じだと思う。

 

霊能力を「開発する」という発想からしておかしい。

もしそういうところに関わっている人があるなら、

今すぐ辞めて、離れることを強くお勧めする。

 

■ 特殊な霊能力は不要

 

神の真意は必要な時に自然な手段で受けとることができる。

神は一人ひとりの個性を誰よりも理解しているのだから、

その人に合った方法・手段で個別に伝えてくれる。

 

個人的なひらめきとして受けとることもあるし、

電車の吊広告やら他者の会話という日常の中で受けとることもある。

わざわざ霊能力開発などする必要はまったくない。

 

先天的に霊的感覚が鋭いのであれば、それは神からの賜物として、正しく用いたらいい。

後天的に霊感、霊能力が欲しくて何かのワークか修行をするというのは、

それはぜったいに神意ではない、

魔術師シモンと同じく自分が注目される能力を手に入れたいだけ、

またはスピリチュアル娯楽にすぎない。

人間が求めるべきは、

物理次元で奇跡を起こせるサイキック能力、霊能力ではなく、

神の真意(福音)を正しく理解できる理解力だと思う。

 

神の言葉を正しく理解できる「霊的洞察力、咀嚼力、消化吸収力」などは、

人間の努力だけでは身につかない。

神の助けと導きがいる。

その導き手を聖書では「聖霊」等と表現している。

 (参考) 人間の身体は聖霊の宮 … 土の器に命の息を宿す者、神と共にある生き方、人間生活の基礎

 

神の霊(聖霊)によらない霊感は、その人を滅ぼしてしまう。

実際に、こういう人がいた。

幼少の頃からサイキック能力が強くて、周囲の大人にたくさん頼られたことがあるために、

その人はすっかり天狗になってしまい、いい年をした大人になった今は、

「私が正しい、私がすごい、私が一番、私は何でも知っている」という体で、

まったく人の話を聞かない天狗モンスターである。

先天的に鋭い霊感をもっていて、物理的に何か超自然なことができるのだとしても、

神の霊の宿らない人は、こうなってしまうのだ……

 

とにかく、神の真意を受けとることと、霊感・霊能力は関係ない。

神の真意を聞きいれる素直な心をもっているかが大事。

 

イエス自身も、数々の物理的な奇跡を起こす一方で、

病気治しをせがむ群衆から逃れて、ひとりきりで神に祈る時をつくっていた。

 

神に祈る = 神の御心をたずね、神に聞き従うこと。

 

イエスにとっては、物理的な奇跡業で人々をサポートすることよりも、

まず自分がしっかり神の真意を確認して、神に従うことが優先だった。

神の真意を理解し、受けとり、自分の血肉とするのが最上の神業なのだ。

 (参考) 「求めよ、さらば与えられん」が実現しない6つの理由/他にも理由はあるだろうけど。

 

イエスが復活・昇天した後は、聖霊という形で今もリアルタイムに各人に語りかけている。

神の真意(福音)を聞くのに、特殊な霊能力もお金もいらない。

福音を聞きたいというニーズのある魂に、いつでも無料で語られている。

 

「このスピリチュアルワークの参加者だけに、特別なメッセージが降りてきました」

という類のものは、人間を人間として生かしてくれている真の神とは無関係。

 

万物を創造した神はすべての人に、常に無料で、本音で語っている。

キリスト教会の日曜礼拝説教も、聖職者の個人講演をしているのではなく、

神の言葉を聴衆に伝える手段の一つということになっている。

だからまともな教会なら、「神はすべての人に語りかけている」ということで、

教会員でなくても誰でも自由に礼拝参加してOKだし、

礼拝入場料は無料、献金は任意になっているはずだ。

(毎週の日曜礼拝が会員限定とか、入場料必須であれば、それはまともな教会ではない)

 

■ 神の真意は、空腹の人にしか理解できないかも

 

残念ながら、神が真意を語っていても、

人間がそれを聞きたがらないということはよくある。

神の真意を都合よく曲解して、正しく聞こうとしない場合も少なくない。

私もよく気を付けたいと思う。

  (参考) 神の声(啓示)をどう解釈するのか?

 

神の声を聞くのに必要なのは、霊的能力ではなくて、

神の真意を知りたいと渇望する心だと思う。

その渇望をキリスト教用語で「魂の飢え渇き」と呼ぶようだが、呼び名はどうでもいい。

 

神の真意は食べ物と同じ。

美味しいものを美味しいと感じるために、学力や霊力や修行は必要ない。

霊的に空腹な人、霊的に干からびそうになっている人なら、

本能的に神の言葉を美味しく感じられるはずだから。

 

 イエスは言われた。

 「わたしが命のパンである。

 わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく

 わたしを信じる者は決して渇くことがない。 」

                         

 ――『ヨハネによる福音書』 6章35節

 

神の真意を興味本位でちょっと知りたいという程度の人は、あまり霊的食欲がないから、

神の言葉もそんなに美味しくは感じられないかもしれない。

むしろマズくて吐き出してしまうかもしれない。

実際、旧約聖書の時代からイエスの時代に至るまで、

多くのユダヤ人がしょっちゅう神の言葉を粗末にして、背いてきた。

 

でも、真理に渇望している人は、神の真意を伝える言葉が魂の糧として、

美味しく感じられるはず。

預言者エレミヤは何度も鬱状態におちいっているが、

そのたびに神の言葉を糧として立ち直っている。

 

 あなたの御言葉が見いだされたとき、

 わたしはそれをむさぼり食べました。

 あなたの御言葉は、わたしのものとなり

 わたしの心は喜び躍りました。        

 

 ――旧約聖書 『エレミヤ書』 15章16節

    

現世的なことで満足している人=お腹いっぱいの人には、神の言葉は届きづらい。

霊的に空腹な「貧しい人」にこそ、神の言葉はよく響く。

 

旧約聖書の預言書『イザヤ書』でも、

神の言葉を食べ物にたとえた個所がある。

 

 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。

 銀を持たない者も来るがよい。

 穀物を求めて、食べよ。

 来て、銀を払うことなく穀物を求め

 価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。

 

 なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い

 飢えを満たさぬもののために労するのか。

 

 わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。

 あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。

 

 耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。

 聞き従って、魂に命を得よ。

 

 わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。

 ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。

                           

 ――旧約聖書 『イザヤ書』 55章1-3節

 

過食、衝動買い、アルコール依存、物品コレクション……

魂の空腹をモノで満たそうとしても、無理なんだよね。

「糧にならぬもののために銀を払い」、財布も心も痩せ劣ってしまう。

 

私の脳が欲しがっているモノではなく、魂が求めているものを自覚して、

神が与えてくれているものの真意をちゃんと受け取れるようになりたいと思う。

そして、私が神におかしなものを求めている時は、それを却下してくれるようにも願う。

 

 

 

※ 記事中の聖句引用元/日本聖書協会『新共同訳聖書』または『口語訳聖書』
 
※ イエスキリストの純粋な福音を知りたい人には
  『キリスト教放送局 FEBC』をお勧めします。
 
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