■水泳部で強健な肉体を持ち、性格も明るかった唯一無二の親友が、突然「自殺」という手段で自らの命を絶ってしまった
中学三年生と高校一年生の時に同じクラスメートで
高校の時は左後ろの席に1度席替えがあったのに、神の采配?物凄い確率=奇跡で同じ前後の席を過ごした、
水泳部に所属する友人がいました。
個人的に気に入られ、水泳部に入って欲しい、一度でも見学に来て欲しい、と懇願されましたが・・・
小学校の頃から、体育――とくに水泳(プール)の授業が苦手で、小学6年生の時にようやくなんとか25mプールを端から端まで
息継ぎのようなことをしながらクロールで泳げる・・・平泳ぎはどうやって足を掻けば良いかも、解剖学的によくわからない・・・
そんな水泳=大の苦手という意識のある人間だったので、彼の「水泳部に入って欲しい」という情熱よりも、
幼稚園の頃、水泳の習い事に通っていたのに、まともに泳げない・・・という僕の“水泳コンプレックス”が勝って、
一度も水泳部の練習に見学にさえ、行きませんでした。
後に高校2年生に上がる時のクラス替えで
彼とは別々のクラスになってしまい、5月の運動会に審判団に入り、ルールを覚えたり、ミーティングに参加したり・・・
また中間テストの勉強も準備が間に合わずに、「学校に行きたくない」という思いが試験当日に母に伝えても無視され、
通学のためのJRの満員電車にギリギリのタイミングで乗るか?乗らないか?という瀬戸際に「乗らない」というフレーズが頭の上に浮かび
電車を乗らずに、家に帰り・・・中間試験のテストをさぼってしまった!ということが契機となって―――
夏休み明けまで続く、不登校になってしまったという過去があります。
学校に行かずに、家で悶々と過ごしている時は、
高校1年生の時に「あんなに熱心に水泳部に勧誘してくれたのに・・・なぜ一度も、応えてあげなかったんだろう。」
「水泳部に入れば、肉体を鍛えることができるうえに、同級生や先輩・後輩との交流など・・・高校生の人間として必要な経験ができたのに・・・」
と自分自身の選んだ選択を後悔する、という時期がありました。
結局、僕は映画か?VHS?で見た「もののけ姫」のエンディングの
「アシタカとサン」をピアノで弾く練習をする!という音楽セラピー
~誰かにアドバイスされたのではなく、有り余る時間を使って自分の魂が本能的に欲した療法~
を通して、自分自身の魂とココロが癒された、という経験があります。
夏休み明けの2学期には「絶対に、学校に行きなさい!」という母の命令?通り、
学校の教室に早めに行き、席につき・・・久しぶりの自身の登校に・・・
「どんな言葉を掛けられるかな?」という不安なココロを押し殺して
ただ前を向いて視線は少し下にして、じっとチャイムが鳴って授業が始まるのを待っていた、という記憶をはっきりと覚えています。
その後、「〇〇ちゃ~ん(僕の下の名前)、学校に来てない間、どこ行ってたのかなぁ~?」と友達のような友達でないようなクラスメートに問われた際、
自分:「あ~、ちょっとね。自分の故郷(ふるさと)の星まで帰省してた。」
クラスメート:「えっ?マジ」「どこの惑星よ?」
自分:「プレアデス星団アトラス星!」
クラスメート:「・・・」
という会話をしたせいで、UFOに乗って宇宙人に連れ去られていた説が学年中?に広まっていった?!
というエピソードを最近になって再発見しました。
結局、高校2年生の秋になって・・・
大学受験のための塾に行かなければいけない~という雰囲気の中で
水泳部の彼と同じ塾を選びました。
彼は、東京大学薬学部志望でしたから・・・
(理系で生物・化学が得意だったんでしょうね。お母さまが薬剤師でもいらっしゃったからかもしれません。)
僕は、京都大学工学部建築学科志望だったので・・・
数学の授業と英語(英作文)の授業が同じで・・・
帰りもJR中央総武線の水道橋から同じ方向だったので、帰りに一緒になり電車内でよく話をしました。
(彼の親友Tくんと3人で)
それぞれ志望する大学に入学し、彼は東大で・・・私は京都で一人暮らしをながら、新たに同じ学部やサークルなどで友達を作り・・・
それでも夏休みなどに帰省する際は、必ず会っていました。
私は、2年半通学し、1年半休学し、4年経ったところで自分の意志で中退をしました。(家族に相談もしませんでした・・・)
一方、東大ならではのシステム=「進振り」という1~2年生まではリベラルアーツといって一般教養を幅広く学び、
3年生の時に自分の志望する学部に、1~2年生の時の成績などが良い人から入ることが出来る、というシステムを取っています。
彼は、薬学部志望で東京大学理科二類に入学したけれども、時間にゆとりのある大学生の時代に“文学”の世界にハマってしまったようで、
文学部への編入を志望するようになったようです。
そして、鍛え上げられた肉体を持っているにもかかわらず、
その魂は・・・自分がどういう将来を生きていくべきか?についての明るい展望を持てなくなってしまったようです。
結果的に一度、睡眠薬の大量摂取(いわゆるオーバードーズ)で自殺未遂をして、たまたまお母さまに発見されて・・・
救急隊が駆け付け、胃を洗浄する?・・・などの応急処置で一命を取り留めたようです。
そして、東大の5年生から6年生に上がる直前の3月下旬に・・・二度目のオーバードーズでこの世を去ってしまいました。
■「自殺」/「自死」すると・・・どうなるんだろう?という思い~想い
彼の葬儀が千葉のある教会で行われるということで
人生初の葬儀=親友のカトリック式の葬祭でした。
一年後には追悼ミサにも参列しました。
彼のお父さまやお母さまと少しお話させていただいたり、
彼の遺作である本(彼の書いた文学作品+両親や友人のコメント付き)を郵送で受け取り
読ませていただく中で、
彼は、お母さまが聖母マリアに「子供を授けてください」という祈りをしたら
(結婚して長らく子宝に恵まれなかったが)高齢にもかかわらず、祝福されて生まれた一人っ子である、ということ。
彼の死を通して、お父さまがキリスト教に目覚める!キッカケとなった。
ということを伺いました。
両親にとっては、キリスト教の親交を深めるために・・・転生してくれた高貴な魂であった・・・という印象を持ちました。
※たぶん、葬儀の時に配られたモノだと思うのですが、
1歳児くらいの幼子イエスを抱く聖母マリアの肖像画の裏に
「幸せな人、神の言葉を聞いて
それを守る人。
ヨゼフ 〇(姓) 〇〇(名)
一九八三年三月〇〇日 生
二〇〇六年三月〇〇日 帰天」
と書かれた名刺サイズのカードがあります。
ヨゼフというのは、いわゆる洗礼名なのでしょうね。
当時、僕はサイキックチルドレンという・・・
あの世とこの世の境界/肉体と魂の境界を越えたところで
生きている=第三の眼を持つ脳障害児(2006年当時・7歳)Kくんのリハビリプログラムのボランティアに行っていたので
自分の親友が自殺で亡くなったことを相談しました。
彼は、ジョーク以外は真実しか口にしない、という高潔な人格であり、魂の持ち主と感じます。
自分の知りうる彼の死の真相について話した後、
Kくんは「お空の愛に溢れたところにいるよ~」という発言はせず、
彼の魂がいまどういう状態にあるのか?(自分が死んだことを自覚しているのか?)
僕にどのような言葉を掛ければ、僕にとってプラス(癒しや慰め)になるか?といったことを
必死にあの世=実相と繋がった彼の脳内で必死に情報検索している・・・
そんな印象を受けました。
結果、あまり多くを語らなかったような気がします。
僕の一縷の望みとしては、彼の高潔な魂だけがもつ法力で
彼がもし万が一、暗闇の世界に落ちてしまったなら、光の世界へ救い出してほしい!
そんな下心もあったのは、恥ずかしいですが、事実です。
彼よりも彼のお母さんNさんが掛けてくれた
「もっと前から(自ら命を絶つことを)わかってたんじゃないかなぁ~」という言葉は、記憶にあるのですが。。。
両親が葬儀のミサを行った教会では、
肉体を飛び出した彼の魂がキリスト教の儀式によって、イエスキリストに導かれ…すぐに天国に入った
という表現を突然の自死で悲しみのどん底にある両親に掛けたそうです。
(しかし、バーバラ・アン・ブレナンのように彼のアストラル体≒魂を視たわけではなく
ただ共有するキリスト教の世界観の中で、精一杯掛けられうる善の言葉=安心させる表現をしたにすぎないのでは?と思っていました。)
僕は、この後・・・「天国を旅するスーザンからのメッセージ」という送信側も受信側も職業:弁護士という特異な霊界通信本に出会います。
その中の文章を読むことで、彼の魂というか潜在意識が置かれた状況というものを理解する大きな一助になりました。
ここに一番ユニークでオリジナルで素晴らしい示唆に富んだ6ペ-ジ分を転載します。
===================================================
第二部 死についての他の側面
第七章 自殺と安楽死
自殺や幇助死についてはどうでしょう。ある意味で、すべての「死」は自殺であるとも言えます。私たちはそれぞれ死ぬことを選択するのですから。「死」は、たとえそう見えたとしても、不本意の行為ではありません。
殺人であれ、死刑の執行であれ、事故であれ、戦争、疫病その他、どんな場合でも違いはありません。すべての死の日時、方法、場所は、実際の出来事が起こるよりもはるか以前に決定されていたのです。人生のすべての出来事は偶発的なもので、「死」も同じように偶発的に起こるはずだ、という集合意識的な人びとの思い込みからはそのように見えるだけなのです。
人は、誰かが死んだり、死にかかっているという知らせを受けると、それを悲劇だと思うでしょう。しかし、「死」はいかなる事情であれ悲劇ではありません。それは常にひとつの「機会」なのです。私たちは「死」によって別の世界に移行できます。そこにはさらなる人生が続いていて、成長と学びの機会がたくさん待っているのです。
皆さんはこう思うでしょう。
「それならなぜ、もっとやさしい死に方を選ばないのですか?」
私が伝えたいのもそこなのです。より優しい死を選ぼうではありませんか。
私たちは、何ヵ月も何ヵ月も拷問を受けるように癌が肉体を蝕むのを見て、苦痛の中で生き延びるよりも、なぜ一発の銃弾を頭に撃ち込まないのでしょう?
なぜ、殺人音が撃ち込んだ弾丸を頭から取り除く代わりに誰かに殴ってもらい、昏睡状態におちいる前に命を断たないのですか?
なぜ、自動車の玉突き事故で押し潰されて死ぬ代わりに、獣医が犬にするように、安楽死できるよう注射を打ってもらわないのですか?
なぜ、病院の集中治療室で刺すような痛みに耐えながら、心臓が再び始動するよう医者が皆さんの胸にパドルを当てて、身体に電気を通してもらう代わりに、戦場の地雷で自分を吹き飛ばさないのですか?
バーン! 皆さんはあっという間に死んでいます。
皆さんがどんな死を遂げようと、それは問題ではありません。それぞれの死には、長所もあれば、短所もあるのです。皆さんは、殺人の犠牲者に同情するかもしれません。「まあ、この人はこれから人生が花開こうとしている矢先に、他人のために命を縮められたんだわ」と。
しかしその犠牲者は、死ぬことに数ヵ月かけて馴染むために、しばらくのあいだ病床で生きながらえることを望んでいたのでしょう。
それでは、なぜ安楽死はいけないのでしょうか? 他の幇助死についてはどうでしょうか?
この本の読者である皆さんは、私が死ぬまでの数ヵ月間、惨めな状態から早く抜け出ることをどれほど懇願していたかご存知でしょう。
私にできることは、せいぜいケボアキアン博士【訳注1】に電話するのを押しとどまることでした。もし彼が飛行機で飛んできて、惨めさから私を救い出してくれさえすれば……。もし彼が、そのときミシガンの法廷で、自己防衛のために忙殺されていなかったら……。私の終末を目撃した人たちは、私が苦しんでいるのを見ながら、私が幇助死や安楽死を心から望んでいることを知っています。
でも今振り返って見ると、そうしなくてよかったと思っています。私の「意識」の一部は死ぬことを懇願しながら、大部分の「意識」は、癌にかかっているあいだいつも癌に歩調を合わせ、その期間をできるだけ引き伸ばすようにしていたのです。ただ、あまりに肉体の痛みがひどかったので、そのことを自覚できなかっただけです。私が自覚できたのは、肉体的な痛みだけでした。そして、なぜこんなに苦しむのか不思議だったのです。
今になってみれば、その苦しみは、必要なものだったことがわかります。私は長く苦しい「死に方」を計画したのです。なぜなら、私がそのような「死に方」を望んでいたからです。
痛みというものがどういうものなのか。痛みについて何もかも知りたかったのです。痛みが私の意識を奪い、焦点のすべてになって欲しかったのです。というのは、痛みの中で、私か到達しようと懸命に試みている新しい「意識レベル」がやってくるからです。痛みには、注意をひとつのことに集中するメカニズムがありました。あたかもふたりの武将が戦場で互いに対峙し、それぞれに決意が強く、一歩も引き下がろうとはしないときのように、私の集中力は研ぎ澄まされました。そして痛みに対面し、痛みとひとつになるにつれ、日増しに勇気がわいてきたのです。
苦痛の極みと、歓喜の極みは、それほど違わないと聞いたことがあります。想像できる痛みの極みの体験をした私は、この意見が正しいと誓うことができます。
つまり癌との闘病期間が、私に成長と悟りをもたらしたのです。苛酷な痛みと苦しみの果てに、私は、愛するとまではいかないにしても、それとひとつになり、抱擁し、敬意を払うことを覚えました。すでに私は強烈な経験をしていたので、この時点で私を動揺させるものはほとんどありませんでした。もちろん、死ぬことは恐ろしいことです。けれども、私は生き延びて、その痛みを乗り越えました。そしてそのお陰で「気づき」を成長させることができたのです。
この章で私は、自殺や幇助死が、適切な死に方かどうかというところから話を始めました。また、痛みと苦しみの価値について長く書いてきたので、皆さんは、きっと私が殉教者の立場に立ち、自分の意思で自分を殺すべきではないと主張すると思うでしょう。
でも、それは違います。もし教会が、「自殺は大罪だ。あなたは永遠に地獄の業火の中に投げ込まれるだろう」と言ってもそんなことは少しも気にすることはない、と断言します。
私は、自殺によって人生で自分がかかわったすべてのことを完了しなかったことを後悔している人たちにも出会いました。彼らは、もう一度皆さんのところへ戻って別の人生を生き、やり残した仕事を完了したがっていました。
逆に、自分の自殺を自己救出だと考えている人たちもいました。彼らは、人生の袋小路に入ってしまって、そこから逃れる術がわからなかったのです。その中でもがき続けることをやめ、彼らが本来進むべき道に復帰するために、自殺という手段をとったのです。
そんなことをするべきではないと言う人もいます。「あなたが窮地を作ったのなら、その結果とともに生きるべきだ」と。このように非難する人たちは、たとえば「破産の申請」を法律が定めた「再生」という意昧にとらずに、個人の失敗によるただの不名誉と見なしている人と同じです。
しかし、他人がどう言おうと、どう考えようとかまわないのです。教会、政府、隣人がどのように考えようとかまいません。大切なのは皆さん自身です。皆さんが何を信じるかです。皆さんの心の奥深くの静かなところ、皆さん自身だけが内部に到達できるところで発する、小さな声は何と言っていますか?――「よし、やろう」「いや、やめよう」「ちょっと明日まで様子を見れば」――皆さんの「内なる声」は真実を知っています。その導きを信頼してください。
私が、耳を傾けたり信じたりすることを学べたのは、私にささやきかけるこの「内なる小さな声」のおかげでした。この内なる小さな声が、明日、何か起こるかを静観するように言ったのです。明日に、明日に、そして明日に。私は、毎日を、一日ずつを生きることを学びました。
ある日、目を覚ますと、痛みはなくなっていました。
そして全能の神の光の中で私は浴し、愛と思いやりの癒しが痛みの記憶を洗い流しました。そしてそれは、かつてどんな気ままな夢でも想像できなかったエクスタシーに変わっていました。そのとき、自殺であろうと幇助死であろうと、はたまた安楽死であろうと――皆さんが好きなように呼んでください-その問題は、事実上、意味を持たないのです。
【訳注】
〔1〕ケボアキアン博士 末期患者の自殺を幇助している退職医師。彼とその患者は安楽死を法的に認めるべきだと主張している。彼は何回も殺人容疑で裁判にかけられるがその都度無罪となる。最近いくつかの州で末期患者の安楽死を認可する州もでてきた。
===================================================
■自分の中の「自殺」=「自死」観
彼は、大学の頃から所謂“うつ病”の症状を呈し始めたようですが、
僕は、高校生の頃からその気がありました。
僕は、その頃から・・・近所や学校近くの図書館をはじめ、本屋では立ち読みをして
はじめは、心理学の本などから自分自身を癒すためにいはどうすればいいか?という実益を追求するために・・・
後にはそれが“霊的な世界”に対する探究というものに変化していきました。
霊的な世界についての情報があるが故に、安易に自殺するという選択肢を考えたり、具体的に企図することすら、ありませんでした。
しかし、この世から去って霊的な源泉=あの世に帰りたい!という・・・
いわゆる「自殺願望」ではない・・・「帰郷心」のあの世バージョンという思いを常に持っていたようですし、
母も「20代の頃から“早くあの世に行きたい”と言っていたねぇ~」と回顧するくらい、
肉体を去った魂の世界=「あの世」に対して「帰郷心」を抱く青年でした。
「オーラの泉」という美輪明宏氏と江原啓之氏がゲストのオーラの色とその意味、守護霊や前世について霊視したり、
人生のアドバイスを授けたりする番組が一時ブームになりました。
美輪明宏氏の影響で
“自殺しても意味がない。死んでも人は生まれ変わる。今世で悩み苦しみに耐えきれなくて自殺した人は、
また生まれ変わって同じような悩み苦しみを味あわされることになる。次は自殺しない!という選択を魂がするために・・・”
という教えを受けていたので、安易に自殺することは“決してしてなはならいことだ!”という意識がありました。
この美輪明宏氏のメッセージは、霊的世界を肯定していても・・・
安易に自分の意志で“生と死の境界を越えてはならない!”という重要な教訓/レッスンを含んでいると思います。
■誰もが一度は考える・・・「人は死んだらどうなるか?」というシンプルな疑問
死後の世界に対する探究は、高校生の頃から始まり・・・30代になっても続きます。
「死後の世界について」 - April 17, 2021
というタイトルのブログ記事も書いています。
http://blog.livedoor.jp/hado_technology/archives/52007725.html
僕が高校生の頃から尊敬し、敬愛していた「バーバラ・アン・ブレナン」女史が
新著「コアライトヒーリング」下巻で、第11章~第12章と二章分に渡って
「低次アストラル界」について解説しているのには、驚かされました。
上記の過去ブログ記事の中にも
「バーバラ・ブレナンは、アストラル界やHEFの観点から、自殺は不毛である、と痛烈に語っています。これも霊界の真実でしょう。」
と記しましたが、
「自殺」/「自死」で亡くなった彼も、低次アストラル界を通ったのでしょうか?
「ジュリアの音信」という霊界通信にも、
・・・自殺した魂は他者の生命と同じく大切な「自分の生命」を殺した罪というものを負わなければならない。
霊界では、暗い箱のようなところに閉じ込められる…という苦しみを味あわされる。・・・
といった表現を読んだことがあります。
「地獄なんてないさ♪死んだらみんな天国に行くんだ!」というのは、
明るく陽気な発想ですが、
“地獄の存在を信じること”の教育的有用性
=この世にある社会的悪(殺人、強盗、暴行、詐欺、横領、・・・etc.)を少なくすること
に貢献しないでしょうか?
そもそも、“魂の存在=死後の意識の継続性/輪廻転生のシステム”を
「信じる/信じない」というレベルではなく、“宗教”という機構や枠組みにお任せするのではなく、
「哲学」「倫理」の授業の一環として・・・
前世退行療法(催眠で前世に関するトラウマを癒す手法)や幼児の胎内記憶~前世紀億に関する調査・研究を紹介したり、
霊界通信に関する本を何冊か読んで、その共通項や違いについて議論したり考察したりするとか、
臨死体験の研究に関する本を読んだり、ロバート・モンローなどの幽体離脱に関する研究に触れたり(日本では木内鶴彦さんが著名)、
沢山の人々の死と隣り合わせの救急医療現場での医師の証言に触れたり(東大病院に勤める矢作直樹さん)、
眠れる予言者、エドガー・ケイシーのライフリーディングに関する著作に触れたり、
ヨーロッパのスピリチュアリズムに関する著作に触れたり、
精神分析の大御所、C・G・ユングも晩年、注目した「チベット死者の書」に触れたり、・・・etc...
教育業界として出来ることはたくさんあるのではないでしょうか?
“あの世”に関する情報に触れることで
人生をより良い方向に変えることが出来る!
それは、ひとつには・・・犯罪・詐欺・汚職など、悪の道を歩まないようにする・・・ということであり、
ふたつめには、自分の人生=現在置かれている状況、環境をありのままに受け入れ、どんな状況も変化=好転するという“希望”を持ち、
何歳になっても人生は自分の意志と選択で変えていくことが出来るのだ、という人生のエールを送ることに繋がるのではないか?と思います。
そのような意義があると確信しています。
■23歳の誕生日3日前に自死した“彼”の世界
このブログ記事を書いているときに
彼が残した文章(中学~高校の文集や小説家を目指していた大学時代に残した遺稿を遺族の両親がまとめた著書)を直接読む機会がありました。
その中で発見というか、再確認したのは・・・
彼の内面に大きく影響を与えた存在のひとつが「尾崎豊」さんだったということです。
彼がカラオケで尾崎豊の歌を好きで歌うのを聴いたことは1回だけだったような気がしますが。
ただ歌が好きというレベルを超えて、雑誌記事や著書などを通して「尾崎豊」という存在が発しているコトバ~メッセージに傾倒していた、というのは・・・
紛れもない事実だったと、いうことが一友人としてはっきりと証言できます。
そして、尾崎豊さんも26歳の若さで大量の覚醒剤服用(オーバードース)で亡くなっているという事実。
他に、いわゆる「人生のモデル」となる人物が辿った道を、結果的には同じように辿ってしまった・・・という
なんとも表現しがたい・・・悲劇的な運命という風に言えると思うし。
小さい頃からカトリック教会に通い、西洋的=キリスト教的な世界観の中で育ったようですから、
「魂の生まれ変わり」という概念というものが欠落しているなぁ~という思いもあります。
いずれにせよ、『死後の世界』に関する情報の欠如が・・・彼の死を招いたのでは?という発見がこの年になって生まれました。
死後の世界について・・・何度も繰り返し、その実態についての記述を読む耽ることの重要性を説く文章が霊界通信にありますが、
人間の死亡率は100%ですから(笑)・・・誰でもいつかは扉を開けることになる「天国のドア」
あるいは「地獄のドア???」のその先にどのような世界が待っているか?ということについて
知ることは、“これ以上ない”『重要な知識』と言えるのではないでしょうか???
■「なんでこんなにひっきりなしに息をするの?」―――という質問に対する誠実な解答?!
僕が思いついた回答は、
「息を吸ったり吐いたりして、呼気(アウトプット)と吸気(インプット)を繰り返さないと
空気(窒素約70%+酸素約30%)の循環が起こらないから。
※吸気より呼気(吐く息)の方が酸素濃度が下がり、二酸化炭素濃度が上がるので、
人間もとより動物の肉体は、体内で酸素を吸収し、二酸化炭素として排出されるということが
自然科学=医学的に検証されているから。
循環が起こらないと=息をしないと・・・肉体がその機能を維持できないでしょ?」
という感じです。
(ちょっと長いですが・・・)
放映された専門家の回答??―――NHKのテレビマンが企画会議の末、考え出した回答?!は、
「酸素が毒だから」
というものでした。
え???
「酸素が毒だから」
体内では“活性酸素”とか―――“酸素”が『毒/Toxis』として作用することもある!
ということは知ってるけど・・・
え?どういうこと?????
と思い、
食い入るようにTV画面を見ていたのですが、
用があって何分間かその場を離れてしまったら
次の質問に移ってしまっていました。
あー、なぜ―――
「酸素が毒だから」
が
「なんでこんなにひっきりなしに息をするの?」
という“疑問/問い”に対する“解答/答え”になっているのかな?
知りたかったなぁ~~~
という思いが残ったまま、別の用をしてしまいました。
たまたま土曜日の朝、早く起きて―――
母が珍しく昨晩の「チコちゃんに叱られる」の再放送を見ていて
ちょうど、この(2番目)テーマの冒頭部分だったので・・・
昨晩、頭に「?(クエスチョンマーク)」が浮かんだままだった“モヤモヤ”を
解消したい!と思い、ジーッと集中して番組を視聴しました。
すると、
・1日にヒトは、500mlペットボトル×2万1,600本分の息をするというデータ
・小学校?中学校?で習う「呼吸のメカニズム」に関する解説
・【CG映像を使った解説】
地球上には太古、酸素がなかった―――光合成によって酸素を作る微生物の登場―――地球上に酸素が増えていく
―――酸素に対応できない細胞生物は死滅―――酸素を活かすよう進化した生物が繁栄するようになった
・【専門家のインタビュー映像】
当初、生物にとって酸素は猛毒だった―――人間のDNAも酸素で破壊されるという医学的事実―――
だから、酸素は毒―――体内にためておけない―――(ここでVTRの編集が入る)―――たえず息をするように進化?????
・生活に役立つ呼吸法(4・4・8呼吸法?!)の紹介と検証
というのが、このテーマの内容でした。
スタジオでは、4・4・8呼吸法の話題で盛り上がって終わり、というオチでした。
この放送を見て・・・
私の場合は―――
自分の中の頭の中にある「?(クエスチョンマーク)」は、解消されるどころか膨らんでしまいました。
「酸素が毒だから(“でもある”という方が正確なのでは?と思うのですが・・・)」
→「体内に貯めておけない」?????
という論理回路も正直よくわかりません。
「酸素を吸うと肺の中で体内で二酸化炭素に変わる」
→「体内で二酸化炭素濃度が一定以上、増えると脳が“苦しい”と感じる」
だから、息を吸ったまま、永遠に口を塞ぐことはできない・・・という解説があったのに!!!
そもそも「(酸素を)体内に貯めておく」という概念が理解できません。
だって、酸素は細胞の中で栄養と結びついて生きるためのエネルギーを生み、その(化学的“化合反応”の)結果
排泄物として体内に要らない“二酸化炭素”が生まれる。
という風に、体内に入った“酸素”は、“二酸化炭素”に変化する(置き換わる)んじゃないの???
「酸素は毒」→「体内にためておけない」→「たえず息をするように進化」
というのは、医学的というか論理回路として破綻してるのでは?と思いました。
「野菜や果物は放置すると必ず腐る」→「八百屋の棚に同じ商品(野菜や果物)を長く店頭に並べ、在庫しておくことはできない」→「古くなった売れ残りは何らかの形で処分して、絶えず新しい商品を仕入れなければならない」
というのなら、理解できる=論理的に納得がいくのですが。。。
どこのアメリカの有名大学の教授か知りませんが、
正直言って「何を言っているか?/言いたいのか?」さっぱりわかりませんでした。
あるいは、番組スタッフが制作した台本を読まされていただけなのでしょうか?
ただ、「4・4・8呼吸法」という「4秒吸って4秒息を止めて8秒で一気に吐く」という
シンプルな呼吸法を『私が開発した』と称して・・・検証VTRまで作らせて放送させる
意味不明な教授だなぁ。
というのが率直な感想。。。
(売名行為なのか?自分名義の既に刊行されている著書の売り上げアップを望んでいるのか?
あるいはどっかの出版社から「NHKチコちゃんに叱られるで紹介された!」という帯付きの「ハーバード大教授が開発した誰でも簡単にできる世界一シンプルな『4・4・8』呼吸法」というタイトル(仮題)の書籍の執筆&出版依頼が来ることを期待して番組出演を決めた?)
という風にしか、考えられません。
以下、個人的な妄想です。
NHKの「チコちゃんに叱られる!」番組担当のテレビマンは、
インターネット上で
「酸素が毒でもある」―――という情報に接します。
「酸素って人間が生きていく上で“必要不可欠”な、動物にとって『絶対善』の存在である」という日本人の常識から見ると
“ビックリ?!=驚き”・・・これは視聴者を引き込む=数字が取れるorネットで話題になる「イイネタ」になるなぁ・・・
じゃぁ、適当に
「なんでこんなにひっきりなしに息をするの?」
―――「酸素が毒だから」
※毒でもあるじゃ、インパクトないし、数字取れないよな。やっぱ「毒だから」って言い切った方がそれっぽいしな。
ていう結論というか、シナリオで適当に内容を広げてVTR作れるかなぁ。
そんな企画会議をしているNHKの番組スタッフの会話あるいは脳内で起こっている『思考回路』
というものを想像(イマジネーション)してしまいました。
実質国営放送たるNHK番組の数字の取れる=ある程度人気のある番組(しかも教育系~情報系番組)なのに、
論理的思考回路を持つ人間にとっては、支離滅裂な内容であるのに・・・
そんなことはオカマイナシで、「4・4・8」呼吸法という
万人のストレス解消やスポーツマンのパフォーマンス向上に役立つ情報を最後にブッ込んでおけば、
そんなこと
(本来の身近な疑問に―――世間にあまり知られていない科学の知識や最先端研究あるいは意外な歴史的事実を紹介することで―――痛快に解答する)
という
『本来の番組趣旨』
なんて誰も気にしない/覚えてないっしょ!!!
という番組制作陣の“プロ意識の低さ”あるいは“頭脳/知性の稚拙さ”を今回、感じました。
何回も放送している番組だから、ネタが尽きててないのかなぁ~とも思いました。
こんなブログ記事を書いてしまった「わたし」の方がいわゆる“頭が悪い”のでしょうか?
この記事のどこかに“論理的欠陥”あるいは“そもそもが間違っている大前提=無意識に潜む常識や偏見”などを
発見した方、居られましたら・・・
是非、コメントを残していただきたい・・・
あるいはメール(hado_technology_institute@gmail.com)にてご指導・ご鞭撻を賜りたく、お願い申し上げます。
重ねて重ねて宜しくお願い致します。
(・・・合掌・・・)
m(__)m…m(__)m…m(__)m…m(__)m…m(__)m
m(__)m…m(__)m…m(__)m…m(__)m…m(__)m
m(__)m…m(__)m…m(__)m…m(__)m…m(__)m
m(__)m…m(__)m…m(__)m…m(__)m…m(__)m
■大学に入って自分の所属する建築学科について感じたこと
・建築には、「デザイン」「構造」「環境(機能)」の3要素がある。
一般に、「建築学科」あるいは「建築家」というと、
「建築」=“空間デザイン”というイメージが強いと思います。
実際、京都大学工学部建築学科に入ってくる人は、
単に勉学ができるというだけではなく、
全体の1/3~1/2くらいは・・・
創造性・クリーエーター志向のある
いわゆる美術系・アート系のDNAの入っている人々が
所属しているところ、といっても良いのではないでしょうか?
工学部といっても、女子率も高かったように思えますし、
少し異彩を放っているかな?と当時は思いました。
しかし、建築学科の専攻コース(4年生になったときに割り振られる)には、
「デザイン」「構造」「環境(機能)」の3コースがありました。
「構造」は、構造力学という物理系のプロフェッショナルとして
耐震構造や強度を高めるための研究などを行うコース(学問分野)です。
「環境(機能)」というのは、
建築空間内における“音”の反響や空間の広がりが住まう人の身体面/心理面にどのような作用をもたらすか?
などの研究を行うコース(学問分野)だったように当時は捉えていました。
私が学生の時は、最後の「環境(機能)」のコースに進もうかなぁ~と考えていました。
というのも、「構造」は物理的に様々な成形条件のコンクリートの塊を実際に圧力をかけて破壊することで
どのような形成条件がコンクリート強度を高めるか?という実験をしたり、あるいはコンピューター上で
様々なパラメーターをイジッて“コンピューターの上で実験をする”というイメージしかなく、魅力を感じませんでした。
しかし、それ以上に“幻滅”・・・というか、1年生の時から“終わってるな”と誰にも言えずに密かに感じていたのが…
「デザイン」の専攻コースでした。
・T教授率いるデザインコース~~~それは、今振り返れば…小さな「新興宗教」?!
私が在学していた20年前の京都大学工学部建築学科のデザイン専攻コースは、T教授がトップというか…牛耳っていました。
T教授の作品群は、いわゆる近代主義的な『建築』・・・
鉄とコンクリートとガラスで・・・シンプルに、かつ(彼の視点/魂のレベルから見て)美しく・・・
建築空間を構成していく、というタイプのものだったと記憶しています。
元々、T教授を慕って京都大学建築学科の門を叩いたわけではありません。
それどころか、私には・・・
時代の先の先を行く建築家~~~足立育朗さんという尊敬すべき建築家が既にいました。
一般的には、足立育朗さんはベストセラー「波動の法則」の著者として
いわゆる不思議系~スピリチュアル系の科学者/形態波動テクノロジー研究所・所長という
社会的イメージが強いですが、本来の職業は…樹生建築研究所・所長・・・つまり「建築家」です。
建築家として働く中で、
モノを創造する―――クリエーションとは何か?
ということについて
~~~頭の中だけで考える“思想”や“哲学”としてではなく~~~
人生を賭して・・・職業柄から考え、
妹でファインアート(抽象画?)のアーティストだった足立幸子さんと
建築にしろ、アートにしろ、
それを創造する―――ということの元になっているのは“インスピレーション”ではないか?
“インスピレーション”とは、
脳が周波数変換をして・・・通常とは異なる、
よりリラックスした状態=周波数が高く、精妙な状態になったときに
受振する情報ではないか?
という気づきであり、発見が
足立兄妹の人類的な業績の一端であるということが出来ると思います。
ちなみに、足立育朗氏の建築家としてのオリジナリティは、
「楕円建築」(Oval Architecture)という言葉で表現できると思います。
建築というと99%は、直線で表され・・・敷地面積いっぱいに縁どられた建築図面に
いかに建て主の要望を叶える形で、内部を仕切って・・・住んだ後の動線や空間の目的や機能などを勘案して
効率的で魅力的な「間取り」を生み出すか?ということに重きが行われています。
いわゆるZOZOの前田さんやメジャーリーグの大谷選手が住むようなレベルの豪邸であれば、
広い敷地の中に“いかにデザイン性の高い=魅力的な”邸宅を生み出すか?
という建物の創造者(Creator/英語圏では“創造主=神”という意味も)としての本領を発揮できる
対象になりますが・・・
いわゆる職業「建築家」~~~一級建築士という仕事~~~の90%は、
建築基準法の範囲内でどれだけ家主の要望を満たす間取りの家を建てられるか?
というのが現実なのではないかなぁ?と思います。
コンペ=コンペティション(≒公募?/英語のCompetetion=競争)を通して
個性ある作品を公募して、その中から1位を取った作品を現実の建物のデザインとして採用する―――
というパブリックな建築作品もあります。
本来の「建築」のイメージ=「デザイン」は、建築の“醍醐味”といえる分野(専攻コース)なのに、
私には全く魅力的なトコロではありませんでした。
それは、なぜか?
建築学科デザイン専攻コースを取り仕切っていた「T教授」が
いわゆる“芸術家タイプ”だったからです。
芸術家というのは、良くも悪くも「自分が一番」という意識があるものです。
そうでなければ、世の中に「オンリーワン(独自性)」のある魅力的な作品を生み出すことができません。
しかし、教育現場においては・・・
さまざまなタイプの芸術家=建築家がいるのだ!ということを教える、ということがまず第一にあるべきではないか?
と41歳の自分なら断言することが出来ます。
ところが、20年前の京都大学工学部建築学科では、
T教授の表現手法~その背景にある精神や哲学こそが、「最先端」「一番」「最高」という
(それ以上に素晴らしいと感じる建築家が既にいた大学生の僕にとっては)異様な空気に支配されていました。
しかも、他の学生は誰もそのことに疑問を持つことすらありません。
まるで、教祖の説く論理に全く疑問の「ギ」も感じてはならない、新興宗教?!
羊飼いに飼いならされた従順な羊たち・・・
全体主義の体制下にある国家とそのことを批判できない哀れな国民たち・・・
そんな印象を持つ私は、大多数の群れから外れた迷える子羊、体制に疑問を持っていた非国民、神の教えに背く異端者だったのでしょう。
他の京都大学の教授も
「重文(重要文化財)」レベルの建築はそれなりの魅力があるから、よく勉強して(実物を見たり、その特徴を調べたり)おくように!
とか
「“ガウディの建築が良い”という人が多いけど、現代の工業社会では・・・ガウディのように前近代的な“アナログ”で“手作り”(直線や円ではなく、フリーの曲線)で構成する建築空間というのは、現実的ではない。憧れてはダメだ!」
といった発言しか、記憶していません。
同じ建築学科の学生同士でも、
「どの建築家が好きか?」とか、
「どの建築作品が好きか?」といったことを話した記憶がありません。
建築学科の学生は、
設計演習という専攻科目で
画板や画材(製図用具)のあるデザイン室に籠もって
締め切りまでに提出する「作品」を仕上げる・・・
という経験をします。
私は、住んでいた家が大学から遠い二条城駅近くのマンションであっただけでなく、
高校生の頃に母に「製図用具」を買ってもらったため、
ほとんどの学生が利用する・・・デザイン室に行く必要がなかったため、
他の学生とあまり交流がなかった・・・
ということも3年の後期から休学してしまった遠因になったかなぁ~と自らの過去を回顧しています。
近因は、3回生の前期の「構造力学」の必須単位を落としてしまったことだが・・・
※現代では、パソコンのCADという建築系のソフトで図面を引くのが常識ですが、
当時(2000年代前半)は、アナログからデジタルへ移行する過渡期でしたから、
製図用具で図面を引く学生がほとんどでした。
2回生後期の設計演習では、自分は完全にCADで設計し、大型の紙に印刷する京都市内の専門店にデータを送って
課題を提出したのを記憶しています。
T教授は、自分の作品がいくつも形となっている“いわゆる成功した建築家”だったかもしれません。
その裏で学生たちの間では、大手ゼネコンとのコネがある!といった黒い噂もありました。
なにより、実際に自分の目で直接、その姿や振る舞い、発言を見て、味わった・・・
一(いち)学生としてー――“エゴ”(自我)の強い人間だなぁ~というネガティブな印象を持っていました。
30代になってから、
隈研吾さん(国立競技場のデザインで一躍有名に…)や妹島和世さん(女性建築家として世界的に有名?)などの建築家を特集したテレビ番組を通して
その建築作品やその背後にある哲学などに触れる機会がありましたが、
なにより建築に対する情熱や思い・・・
それ以上に、インタビュ―などに答える際の“物腰の柔らかさ”“人間としての振る舞い/品の良さ(温かみ)”が
「建築家」としてー――というよりも「いち人間」として・・・魅力を感じます。
(それに比べると、T教授は・・・まぁ、言うまでもありません。
人には、それぞれ役割がありますし、その立場にあった“器”というものがありますからね。)
やはり、単純に人間として・・・人物として・・・
魅力を感じるか?尊敬や憧れの念を抱かせる存在か?
ということが、親子の家庭教育でも・・・学校や大学などの教育現場でも・・・
最も重要なカギになるような気がします。
(悪い面は反面教師として“学ぶ”/少なくある良い面は“吸収する/真似る”という選択肢しかありませんね。)
■テレビで「早稲田大学建築学科」や「伊野尾慧くん」(明治大学建築学科卒)を通して知った“建築”の素晴らしさ・魅力
デザインの授業/講義である「造形実習」「設計演習」にて
1回生の時に、T教授が尊敬する(=自分と同じ系統の)海外の建築作品を図面と模型で表現するような課題が出ます。
(既にある建築あるいは芸術作品を真似ることを“習作”と言います。)
2回生の時に、実際に現地に行って見て写真なども取らせていただいた(京都の)「町家」を模型と図面で表現するような課題が出ます。
そして、同時に「自分なら、この町家をどう改築・リフォームして…新しく生まれ変わらせるか?」という“町家再生プラン”という課題が出ました。
思い出に残っているのは、自分は「1階はカフェなどの店舗スペースとして、2階は通常は1階の延長線上であるカフェスペースだが、週に2~3回は…絵画教室や音楽セッションを楽しんだり、小さなセミナーを開けるような多目的なスペースとして活用する」という案を出しました。
「特に2階は、椅子やテーブルなどを工夫することで、機能的に“多目的スペース”として活用することが可能なんだ!」ということを周囲にいる学生さんに熱く語っていたのを覚えています。
話していて、自分は“建築家”というより、“経営者”に向いているのかなぁ?・・・と思いました。
建築家のアイデア?というより、不動産物件を如何に社会の中で活用していくか?という経営や不動産活用の視点を持っていた学生でしたね。
話をチラッと聞いていた教授は、「そんなにうまくいくもんかなぁ?」といった薄い意見しか返ってきませんでしたが、
なにしろ高校生の頃から「経営の神様・㈱船井総合研究所 船井幸雄」氏の本を片っ端から読みまくっていたペン剣学園卒の京大生です。
自分の中では、カフェスペースとしても、多目的スペースとしても、二刀流で活用できる具体的なイメージというか、ヴィジョンというか、映像が頭の中にありました。
2回生の後期は、夏場の川床などで知られる京都の鴨川の現地に行って
「大きな石」(10m×5mくらいのサイズ)のあるところで
この石を撤去して、ここに建築物を作るとしたらどんなデザインの施設を建てるか?
という自由で柔軟性に富んだデザイン設計の課題でした。
私は、足立育朗氏の気づきを得た後、最初に設計した逗子市内にある「ヒーリングヒル逗子yoyo」という
建物を見(初めは、ベストセラー「波動の法則」の巻頭資料にある写真や建築模型を通して・・・高校3年生の時には、実物を2~3回ほど・・・
1回は実際に宿泊もした!)、味わい、体験する・・・という経験がベースにあるので、
そのyoyoを真似た楕円や円を基調とする、「鴨川沿いの気楽に立ち寄れる美術館」というプログラムの建物をデザインしました。
今思えば、20年も前に・・・建築学科の一学生として、随分ユニークで大胆かつ先進的なデザインの設計をしたなぁ・・・と自画自賛してしまいました。
しかし、最終日の課題提出の日にデザイン室に入り、他の学生の作品を見ると、みんな似たようなデザイン/設計のモノばかりだったように思います。
テレビ番組で、早稲田大学の建築学科の授業や同じような設計の課題でさまざまな多様性に富んだデザイン/設計の図面や模型を提出して、教授が選んだランキングを発表する・・・という風景を覗く機会を得たことがあります。
みな個性的で独創性に優れたデザイン/設計で・・・これぞ!建築学科の学生生活の醍醐味じゃないか!!と羨ましく思いました。
中には、自分が何位になろうが、関心のない=ランキング発表の現場に出席しない、学生もいて・・・
あぁ、自分と似たような変わった学生はどこにでもいるんだなぁ~と思いました。
NHKや民放などで建築や解体現場などの取材や解説をする現役アイドルの伊野尾慧くんの明治大学建築学科時代の作品を
YouTubeか何かで見ました。
とても個性的で独創的な作品だなぁ~イカしたデザインだなぁ♪と思ったのを覚えています。
悲しいことに、20年前の京都大学工学部建築学科在学中に他の学生さんの作品で
このような経験をすることはできませんでした。
それは何故か?―――
1回生の時に「このような建築スタイルこそが、“美しい”/“素晴らしい”」という
思想教育?というより、一種の“洗脳”をされたからだ!と
41歳の自分は思います。
だから、画一的で同じような発想の設計デザインしか生まれて来ないのです。
将来は、“創造的=クリエイティブな”仕事をしたい!と夢見て入った、大学で・・・
目の当たりにしたのは、いかに“非創造的な”=“画一的な”建築家を生み出す
建築学科の惨憺たる・・・凄惨な現実でした。
風邪か何かに罹患して京大の試験に落ち、
後期の東大理Ⅰの試験も落ちていたら・・・
(実は、京大の入学手続きを終えて、割り印を押された試験票の半分を隠して、
東大理Ⅰの後期試験を“モグリ”で受験しに行った経験があります。
前期で他の国立大学に合格しているのに、東大後期の試験を受ける人は普通はいません。
けれども、東大後期の試験ってナンボのもんじゃい!という道場破りのような精神で
受験しました。選択科目は、英語・数学・物理で…数学と物理も英語で出題されていたような記憶があります。
自分自身の体感としては、京都大学工学部建築学科の前期よりも簡単、早稲田大学建築学科と同じくらいの難しさだったかなぁ~
というか自分自身と馬が合った問題が出題されていて、一番自信のある試験だった・・・というのが当時の正直な感想です。)
早稲田大学建築学科に行く意思もありましたし、
入学手付金の30万円…かな?も祖母に払ってもらって居ました。
(京都大学工学部建築学科の前期の試験を受けて
合格する確率は体感で70%くらいかなぁ~
多分大丈夫だと思うけど、もしかしたら不合格という可能性もなくはないなぁ~
そうしたら、京大・東大じゃなくでも、早稲田で現役で学生として建築を学びたい!と思っていました。)
まぁ、人生に・・・歴史に・・・
「If」(もしもこうだったら~)
というのは、ありえないのですけれども・・・
■「思想汚染」=スピリチュアル・ポリューション(霊的汚染)は、人が侵しうる最大の「罪」?!
美輪明宏氏は、戦前~戦中~戦後を生きた(令和の今となっては)数少ない文化人として
戦前~戦中の日本に蔓延(ハビコ)った“軍国主義”に対して、
大正時代の大らかで豊かなロマンティシズムに満ちた文化(大正デモクラシー・・・など)と対比して
率直に「嫌悪感」を示し、思想的にも反対するいわゆる“リベラル”な考え方の持ち主のようです。
私は、尊敬する船井幸雄氏の共著から、保守系の言論人である渡部昇一氏を知りましたし、
当時は竹村健一氏などの著作が図書館に置いてある、そういう時代でした。
いわゆる保守的な(右か左かでいうと、右寄りの)考え方を持っています。
“右=戦前回帰・軍国主義に愛着がある”というのは、いわゆる左寄りの方々の「イメージ戦略かなぁ」と思います。
個人的には、軍国主義には美輪氏と同様、嫌悪感がありますが、
なぜ、当時の日本人が軍国主義に傾倒するに至ったか?という政治的(内政~外交)要因~メディア(新聞・ラジオ)などの責任、
などを分析し、文字通り“歴史に学ぶ”ということが大切である・・・と考えています。
そういう中身のある考えを持っている人々=保守系の書籍や発信を行っている人々
(林千勝氏や藤井厳喜氏、丸谷元人氏、藤井聡氏、中西輝政氏、日下公人氏など
~~~故人でいえば、竹村健一氏、渡部昇一氏、石原慎太郎氏、中曽根康弘氏、堺屋太一氏など)
が、いわゆる(右寄りの)保守系と呼ばれる人たちではないか?と思います。
学校の教科書の知識を超えない==新聞~TVなどのメディアを通してしか、政治や経済のニュースに触れない人々
は、いわゆるリベラル(左寄り)ではないかなぁ?と思います。
※その人がリベラルか?保守的か?を判断するリトマス試験紙は単純/シンプルです。
あれは、右寄りだ!右翼だ!といって右に傾いている人々や団体を批判するのは、左寄り=リベラルな人々。
あれは、左寄りだ!左翼だ!といって左に傾いている人々や団体を批判するのは、右寄り=保守的な人々。
トランプ前大統領やフランスのルペン氏などを“極右”として報道する日本≒欧米のメディアは、完全に左寄りです!
その主義主張にどのような論拠や根拠があるか?なぜ、そのような思想やそれに基づく政策が多くの人々に支持されているのか?
といった肝心な内容(コンテンツ)について、解説したり報道したりしたりする“国民を教育する”という本来のメディアの役割は・・・
ほとんど為されていません。
ただ、「自由」「平等」「人権」・・・などの誰も否定できない論理を単純に振りかざして、
それに一見すると反するような思想や主張をする人物を“頭のオカシナ人”というレッテルを貼る!
というラベリング=印象操作をするしか、少なくとも日本のマスメディアには能がありません。
右寄りという人々がどのような主張をしているか?
あるいは、左寄りの人々がどのような主張をしているか?
それは、池上彰さんに聞いてもホントウのコトは教えてくれませんよ!
自分で学んで勉強するしかないのです!
(池上彰さん自体が、テレビ朝日=朝日新聞社が生み出した“世論操作”のための駒ではないか!という批判があります。)
そして、大切なことは・・・
右寄り/左寄りの人々に政治を任せていると・・・どんな経済状態になるか?社会がそのような様態になるか?
という現実の“結果”がどうなるか?です。
イギリスのように、長年(右寄りの)保守党が担ってたが・・・
そのもたらした数十年間の政治の結果、経済状況が悪くなると、
労働党に政権が移る、という歴史的事象が起こります。
日本でも
(当時の)民主党に政権が移ったことがありましたが(十数年前)、
その結果があまりにも酷かったため、
日本のリベラル政党は未だ選挙で一定以上の投票率を得ることはできない!
というのは、日本人の“ある程度”の健全性を示しているかもしれません。
・・・・・・
話が逸れました
・・・・・・
令和の現代では、
“マルクス主義”という
世界史に「社会主義」(国家)というものを生んだ思想を
再評価する動きがあるようです。
確かに、資本主義のネガティブな側面を
マルクスは予言していたかもしれません。
しかし、社会主義国家の誕生(ソビエト連邦~中華人民共和国など)が
人類の歴史にもたらした負の側面・・・
何百万人~何千万人の人々が政治的に抑圧され、殺されていったか?
何十年も経済的に困窮する状況を作り出したか??
ということ=現実に起こった歴史を思うと、
マルクス主義を再評価するという動きに「?!」という思いを持っています。
「社会主義に染まった国には、
腐敗した官僚機構と二流三流の武器(戦車、戦闘機含む)しか残らない。」
という的を得た表現にも出会ったことがあります。
資本主義経済のネガティブな面を補うためにこそ、
科学技術の進化(家電の進化~RPAやIoT、DX/デジタルトランスフォーメーションやAIなど)や政治・行政機構が必要なのではありませんか?
「政治思想はアヘンのようなものだ※」という言葉を聞いたことがあります。
・・・一度ハマると中毒になり、抜け出せない。・・・
そんな示唆に富んだコトバだと思います。
※「宗教はアヘンのようなものだ」という言葉を―――”政治思想”も世の中に数ある”宗教”の中の一つみたいなもんだなぁという個人的な思いから勘違いして記憶していたようです。
ドイツの哲学者・カール・マルクスの『ヘーゲル法哲学批判序説』の中に見える言葉。
―――宗教的艱難は、一つには現実的艱難の表現であり、一つには現実的艱難に対する抗議である。 宗教は、それが無精神のない状態の精神であるように、悩める生き物の溜息であり、無情な世界の感情である。 宗教は民衆の阿片である。
今でもJRの最寄り駅の街頭で、
共産党系の左寄りの人々が「戦争反対!」などの主張をしている人たちがいます。
日本は、先の大戦で
2度の原爆・・・そして、全国44都市に対する無差別爆撃が行われた
敗戦国ですので、
戦争の傷跡というものが・・・物理的なだけ(町の荒廃や戦没者、負傷兵およびその遺族・家族への経済的影響…など)でなく集合意識的にも(愛する伴侶や精神的支柱となる父親・母親、あるいはお腹を痛めて生んだ子供、手塩にかけて育てた子供、etc...を失う悲しみ…など)あるのでしょう。
しかし、左寄りの人々の主張は
日本の軍国主義が悪い、それに舵を切った政治家が悪い、という論拠です。
世界史の上で、いわゆる普通の“戦争”というのは、兵士と兵士が戦闘を行う・・・という形態です。
武器を持たない・・・一般市民に対する「無差別爆撃」ましてや「原爆投下」は、
明らかな“戦争犯罪”であり、“非人道的な行為”です。
しかし、“平和に対する罪”“人道に対する罪”で、敗戦国・日本を裁こうとした戦勝国・アメリカ/GHQの・・・
いわゆる東京裁判では、英語で話されている内容の日本語同時通訳が「Translation Stopped・・・(同時通訳は中断されました)」
という場面が多くみられたのは、
そもそも戦争を裁く法律がない=“国際法”に則っていない・・・「裁判(Trial)」とは名ばかりの「政治的見せしめ」だったからということの証左でしょう。
ドイツのニュルンベルク裁判では、ナチスのユダヤ人に対する強制収容所などの非人道的な行為を裁くという明白な意図なり、目的があったかもしれませんが。
世界を二度目の大戦に導いた
アメリカのルーズベルト大統領、
ナチスのヒットラー、
日本の近衛文麿、
は・・・
人々の政治思想を間違った方に導いた大罪人であることは誰の目にも明らかです。
しかし、思想というのは、政治思想だけではありません。
宗教も一種の思想です。
誤った宗教思想というと、
近年では安倍元首相の暗殺事件以降、その闇が明るみになった「統一教会」という拝金主義的な宗教もそうですが、
90年代に地下鉄サリン事件などを起こした「オウム真理教」というカルト宗教が
個人的には強く印象に残っています。
この前、「博士ちゃん」というバラエティ番組で“地獄”というテーマに夢中になっている男の子が出演していました。
地獄は8層構造になっていて、最下層は仏教の教えを否定したり、批判したりした人が行くところ、という解説になっていました。
個人的に縁のある仏教系の僧侶(スピリチュアル・ティーチャー)が説いていた教えはこれとは少し異なるものです。
それは、「政治や宗教などで人々を間違った方向に導いた魂が、地獄では最も重い罪を負う・・・」というものです。
いわゆる、この世的には尊敬される“先生”と呼ばれる・・・政治家、弁護士、宗教家/教祖、教師~教授・・・etc.でも
地獄に行くことがある!ということを説いている教えは、あまり普段は聞かない・・・稀有な教えかも知れません。
過去のブログ記事で
・・・・・・・・・・・・・
禅の僧侶が生きている間に瞑想ばかりを行い、この世で善行を積むということを怠り、阿頼耶識の愚鈍さを人々に広めた罪で、地獄で鬼に苦しめられているという文章を何かで読んだことがあります。
・・・・・・・・・・・・・
※「『高次の意識』=瞑想を通して触れるもの?!」
http://blog.livedoor.jp/hado_technology/archives/52005130.html
という指摘をしていますので、敬虔な僧侶でも地獄に落ちることのあるという実例を示した「確かな文献」があるのだと思います。
いわゆるスピリチュアルな事柄を仕事=生業にしている人々に対して
少し耳の痛いメッセージを送ったこともあります。
※「宗教、占いやスピリチュアルについて」
http://blog.livedoor.jp/hado_technology/archives/52004639.html
人間の人生・・・人それぞれの道のり~その人にしかわからない内面のプロセス(=過程/歴史)があります。
なにかしらの「体験」「経験」を経て、自身の中で「確証」なり「自覚」を持って…スピリチュアルな職業を選択していると思いますが、
いわゆる人を“導く”立場の人々は、それなりに社会的というよりも霊的な「責任」があるものと思っています。
それは、決して人の目や世間的な物差しで測ることはできないものです。
ヒーリングなり、占いなり、人生相談なり、あるいはセミナーなどで・・・
それを受けた側の人生に…内面に…魂に、どのようなポジティブな変化があるのか?あったのか?
常に(できうることなら…自ら追跡調査を行い)、自戒しなければ・・・
安易な“悟り”や甘い“認識”で―――自称「ヒーリング」や「占い鑑定」「人生相談」あるいは「セミナー」を行うことは、
“神の目”から見て―――「人々を惑わせた罪」として、想像だにしていなかった=自身が見聞きしたスピリチュアルな教えにはない
『あの世』を肉体を去った後に体験・経験させられることになるかもしれません。
※低次アストラル界というのが、ある!というのは……バーバラ・アン・ブレナンの最新著「コアライトヒーリング」にも書かれていることです!
※※過去のブログ記事「波動を上げる方法」にて紹介した・・・
http://blog.livedoor.jp/hado_technology/archives/51982413.html
白隠禅師「延命十句観音経霊験記」を読む
https://web.archive.org/web/20210122155801/https://www.altairspirit.com/2016/06/17/%E7%99%BD%E9%9A%A0%E7%A6%85%E5%B8%AB-%E5%BB%B6%E5%91%BD%E5%8D%81%E5%8F%A5%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E7%B5%8C%E9%9C%8A%E9%A8%93%E8%A8%98-%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80/
というブログを転載します。
現代では、ヒーラー/カウンセラー/セラピスト~霊能力者/サイキック/スピリチュアル講師などと呼ばれている職業は、
日本では、すべて(仏教系の)「僧侶」が担ってきたような気がします。(現代でも職業「僧侶」は無数にいますが・・・)
そんな仏道に邁進する僧侶でも、低次アストラル界に落ちる人々がいる!という衝撃の実例を紹介します。
以下、白隠禅師「延命十句観音経霊験記」の伝える“観音さま/QuanYin”のお言葉です。
「たまたま受けがたい人身を受け、逢いがたい仏法に逢い、僧の身となることは前生の善因縁のためなのに、末代の悲しいことに、三百年来正しい仏法は滅び、邪法は潮が湧くように誤る上に誤り、邪師は蟻がうごめくほどに多いのです。彼等は弟子たちにこのように教えます。強いて仏を求め法を求めてはいけない。ただ一日中無念無心にせよ。無念無心であればすぐにその身そのまま仏である。用心して一切善悪の事に手出しするな。座禅観法も手出し、礼拝恭敬も手出し、写経も解説も手出し、参禅工夫も手出し、ただ日々空々として暮らせ。ここにおいてろくでなし坊主どもは飽食暖衣し、むなしく日々大きな図体を並べて眠り、精神は暗闇の深い穴です。彼等が死後には必ず黒縄地獄に落ちて黒い縄で大黒暗の中に吊るされ無限の苦しみを受けるのはもっともなことです。なぜかというと、彼の一生は悟るでもなく迷うでもなく、善でもなく悪でもなく、胸中には八識無明の阿頼耶識を抱き、口には常に無念無心を唱えているからです。形は声聞で口には常に虚無の大悪法を説いて、多くの在家の男女を教え誤り、ことごとく外道無知邪見の輩とします。その罪は五逆の重罪と同じです。あなたは人間世界に帰ったら、これらの事情をよく覚えて、親族や心ある人々に語り聞かせ、罪障ある人は地獄で苦しみを受けることを知らせ、来世あることを恐れしめ、もろともにつとめ励んで菩提・悟りを求めさせなさい。この十句経を怠ってはいけません。あなたが人間世界に立ち帰るのもこの経の威徳のたまものです」
ただ、クライアントも自分の意志でお金を払って、サービスを受け取ったのだから・・・
GIVE&TAKEじゃないか?という論理は、この世では成り立っても・・・
あの世的には・・・天国=“すべて”を見通している真実の世界(サティヤローカ/注:インド・サンスクリット語の表現)から見下ろせば・・・
受け取った以上の対価を与えていない≒“搾取”という構造であることに気づいています。
「人を導くとは?」―――本来どういうことであるべきか?ということの深い洞察を与えてくれたCX系のテレビドラマがあります。
それについては、また別の機会に触れることに致しましょう。
■いわゆる“スピリチュアルな教え”の功と罪
いわゆる低次アストラル界・・・心地よくない“あの世”=浮遊霊?=地獄の一種?!←→愛と歓びに満ちた光の世界
ということで、個人的に経験(?)したことを思い返しました。
いわゆるヒーリングの会を主宰するNさんという方の身近な会員さんで
3人の子供を育てる専業主婦であり、ヒーリングの会のヒーラー養成講座を受けたヒーラーでもあるYさんという方がいらっしゃいました。
Yさんには、不登校の娘さん(当時、高校生だったかな?)がいて・・・
個人的な交流もありました。
突然、Yさんが末期のガンに侵されていることが判明し、
N氏がY氏の求めに応じて個人的にヒーリングをする際に
とても険しい顔の形相でヒーリングをしていたそうです。
そして、ヒーリングの会の会員さんたちの祈りも空しく、
Yさんは余命宣告通りの命を終えました。
家族からは、闘病中のYさんのお顔が掲載された手紙(喪中の年賀状だったかな?)が
送られてきました。
当時、交流のあった霊的ないろいろと見える方(本職は、舞台監督などの全くスピリチュアルではない職業の方…40代女性)に
それを見せる機会があったのですが・・・
「ふ~ん」と一蹴していました。
たぶん、闘病中のYさんの写真を載せて拡散させる家族の方々のセンスを疑っていたようですが。
なによりも、N氏の対応と彼女の反応を見て・・・
Yさんはいわゆる天界には成仏しなかったのかなぁ~と思いました。
Nさんのヒーリングの教えは、
相手(クライアント)のありのままをそのまんま100%受け入れる事/受け止める事=“愛”だ!という教えです。
Yさんは、ある意味Nさんの教えのままに・・・不登校の娘をそのまんま受け入れ、ありのままに本人のなすがままに任せている・・・
そんな印象でした。
ここで、わたしの魂は・・・語りかけます!
親の子供に対する「愛情」、子供に掛ける「愛」というものは・・・そのままを受け止める“優しさ”だけでいいのか?
時には、厳しく・・・正しく“人生の先輩”として導くということが必要ではないか?と思うのです。
不登校にもい色々な事情があると思います。
不登校なら不登校で、どうやって社会に出たときに子供が困らないように…教育を受けさせるか?
高卒資格を取らせた方が良いか?そして、専門学校という選択肢もあるかもしれない。
何で将来、生計を立てるつもりなのか?―――そのために若いうちにできることは何か??
そのようなことを真剣に考え、心配し悩み苦しみ考えることも・・・親の愛ではないでしょうか?
ただすべてを受け入れる、すべて子供の自主性に任せる、というのは・・・極度の放任主義であり、
日本国憲法に定める「国民の3大義務」のひとつ、『子供に必要な教育を受けさせる義務』の不履行でしかありません。
ヒーラーN氏は、自分自身よりもより深遠な意識状態=明智に富んだ眼を持っていたサイキック・チルドレンのKくんに…
自分は子供に対してキツく叱ったり、怒ったりしてしまって、罪悪感を抱いてしまうこともあるのだけれど・・・どうすればいいのかな?
という相談を公にしていたこともあります。
N氏は、ある意味で言行不一致なヒーラーであり、能力者ですね。
すべての人々に・・・神が与えた唯一の役割=ダルマがあり、カルマ(業)もあると思いますが・・・
ヒーラーであれ、ヒーリングを人に教える教師であれ、スピリチュアル系の著作を生み出す著述家でも・・・
そうでなくても、すべて平等に与えられている機会=チャンスがあります。
それは、自分の考えとは反対の意見を持つ人から学ぶ・・・
あるいは、自分自身が思ってもいなかったトラブルに遭遇する/壁にぶち当たる・・・
という真実の“神の恩寵”/Grace of Godです。
Nさんのヒーリングの会報誌を毎月、読んでいましたが、
Nさんの考え方と全く反対の考え=思想の人がヒーリングの会にやってきたことがあったそうです。
Nさんは、玄米菜食の人工調味料否定=自然派(オーガニック)の権化のような人でしたが、
肉が最も栄養価の高いたんぱく質を含んだ最高の食材だ!そして日本の神道では、牛も豚も鶏も肉食を禁じるという習慣がない。
そして、「味の素」の人工調味料が人間の体に悪い影響を及ぼすなんて陰謀論で、全く医学的に言って問題ない!という主張をする人が来たそうです。
そのことを、Nさんは「宇宙は、自分とは真逆の人とも出会う=邂逅する学びをさせることもある」としてただ記事に書いていましたが・・・
私はその記事を読んで、さすがNさんの元には“真実の学び”を得られる機会を神様が提供しているのだなぁ・・・
でも本人はそのことにどれだけ気づき、そこから学んでいるかなぁ?という思いがありました。
Nさんは結局70代前半で、肝臓がんで余命宣告通りの生涯を終えました。
Nさんには、がんを平癒して欲しい!という想いと、魂の何かしらの“学び”がゼロであれば…いわゆる奇跡的回復というのは難しいだろう・・・
との思いから、Nさんが否定していたAさんという波動研究家の企業グループが発売している抗がん作用のあるSOD食品(パッケージはAさんの妹さんがデザイン)を
オススメするため、遠隔のヒーリングを有料で申し込み・・・そこにメッセージを添えさえていただきました。
いわゆるレベルの低い“スピリチュアル系の教え”には、どこかで語られた・・・耳心地のよいお話しか詰まっていません。
しかし、生身の肉体を持って、現実世界を生きている私たちには・・・
自分の人生を選択し、人生を創造していく・・・個の人生の創造主=魂としての存在と同時に・・・
宇宙の片隅で(※1)地球という惑星に転生し、
何万回~何億回も輪廻転生を繰り返す…永遠に漂流する魂(※2)として
人生経験を通して=肉体を持って体験することを通して
“学び”をしている存在である!
という認識/教えが
昭和の頃に活躍したスピリチュアル・ティーチャーには、確かにありました。
そして、それは・・・
令和のスピリチュアル系の書籍やセミナーをしている人々にはない・・・
厳しさと優しさを伴った“強い光”を放っていました。
令和の“今”の時代は、YouTubeの無料動画を通して
彼らの存在~生き語っている様子を垣間見、その教えに触れることが出来る・・・
心ある求道者の魂を持つ人々にとっては、ありがたい時代となりました。
真実の教えに触れるのに必要なお金は、本を通して学ぶ場合のみ書籍代+送料(電子書籍ならゼロ)がありますが、
無料でも・・・お金をかけなくても良い!素晴らしい時代になったもんです。
ある意味、昭和の頃・・・21世紀は素晴らしい光の時代になるという予言≒預言?がありましたが、
これはいろいろな意味で実現したとも言えるし・・・
複雑性=多様性が増し、真実に辿り着くのに困難な時代になったとも言えるかなぁ?というのが
個人的な実感です。
そして彼らが肉体を持って、今日よりも業想念の強く=暗い雲のかかっていた昭和の時代に
「光の天使」として転生し、その業績=スピリチュアルな道程を歩んできた・・・
その偉業を真に称え、その意義が真(シン)に/マコトに明らかになる、そういう時代が
あと何年後に来るのでしょうか???
※1・・・荒井由実「14番目の月」~朝陽の中で微笑んで~の歌詞の一部
※2・・・松任谷由実「天国のドア」~SAVE OUR SHIP~の歌詞の一部
YouTubeを通して、見聞きできる昭和~平成時代の日本のスピリチュアル・ティーチャーについては、
別の機会にブログ記事として、まとめようと思っています。
テレビ番組で、人生行路の岐路に立ったとき―――左か?右か?の選択肢に悩んだ時・・・
親父が「自分にとって楽な道か?苦しい道か?どっちか迷ったときは、苦しい道を行け!」という言葉を思い出し、
その通りに(一見すると苦しい)道を選んだ。今振り返ると、その親父の言葉は・・・的を得た、素晴らしい金言だった。
というエピソードを聞いたことがあります。
「ヒーラー」や「占い師」「住職/神主/神父」などの肩書や無名/有名の境(ボーダー)に関係なく、
このような“霊言”をポツリと語る魂こそ、(その言葉を受け取った魂にとっての)真のスピリチュアル・ティーチャー=魂の先輩なのでしょうね。
■日本において「波動」という言葉が広がるきっかけとなったのは・・・
昭和・平成・令和の3世代を生きてきた41歳のオジサンからすると、
今現在「波動」という言葉で表現されている
人間や物体、あるいは目に見えない存在が放っている微細なエネルギーを
昭和の頃は、「気(氣)」と表現していたような気がします。
今でも、占いなどでは「運気」が良い/悪いという表現をしますね。
この「気」と呼ばれていたエネルギーが
私の認識が正しければ、90年代に深野一幸さんというルポライターのような方が
「宇宙エネルギー」や「波動」と表現していましたし、
なにより当時ベストセラーとなった足立育朗氏の「波動の法則―宇宙からのメッセージ」という本の影響※で
「波動」という言葉が一般的になったのかなぁ?というのが私の見解です。
※国立国会図書館の情報によれば、初版は1995年12月だそうです。
「波動の法則」というと
同じ波動は引き合うんだ、といういわゆる“引き寄せの法則”というスピリチュアル系?の自己啓発本で
繰り返し引用されるフレーズを支える科学的な法則として登場しますが・・・
足立育朗氏の説く「波動の法則」はそういう恋愛運や金運~財運/仕事運を上げたいとかいう欲を密かに抱えて
スピリチュアルなものにしがみつく人々のためではなく、
「宇宙のあらゆる存在物(物質およびエネルギー)が振動波によって成り立っている!」という気づきから
「人間とは?」何か?―――「生きるとは?」何か?を説いている本です。
同じ「波動の法則」という表現を使っていても、それが意味する
トコロ=内容/コンテンツ~~~放っている振動波(波動/エネルギー)は全く違うことは、
明らかです。
https://www.amazon.co.jp/%E6%B3%A2%E5%8B%95%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87-%E2%80%95-%E5%AE%87%E5%AE%99%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%82%B8-%E8%B6%B3%E7%AB%8B-%E8%82%B2%E6%9C%97/dp/4931449980
そして、この90年代の波動ブームが2000年代になって、ある人物の著作である「とある本」によって
一気に社会問題へと発展します。
そのことについて言及した記事(過去のブログ)を一部、転載&再掲します。
=================================
・「HADO」という言葉を世界に発信し、「氷の結晶写真」で世界的に有名になったEさん
氷の結晶写真「水からの伝言」は日本でベストセラーになり、
一部の学校教師が道徳の授業で取り上げたり、
「ご飯に言葉をかけて、“ありがとう/ばかやろう”で発酵/腐敗が分かれるか?」という実験
などを行い『エセ科学を教えている』として問題にもなりました。
また日本に留まらず、アメリカを始め世界的に、この氷の結晶写真はニューエイジ界などで取り上げられたりしています。
しかし、もともとはE氏は、MRAという波動機器を日本に持ち込み
その波動機器を使って測定(人体~健康食品などの物品)や磁気波動水の販売を販売していました。
Eさんの出された「波動の●●」というシリーズ本を読んでみれば、
どちらかというと理系ではなく物語り調の文系の読み物といった感じで
一応工学博士であるとはいえ、「科学性」というものをどこまで兼ね備えているかは「?」なのです。
波動という微弱なエネルギーについて科学的な研究・調査を行う団体として
「サトルエネルギー学会/subtle energy」というものがあります。
そこでは、MRAの内部の配線コードが公開され、その日本円で数百万円~千万円する機械では
なんら科学的な測定行為を行っていないことなどが暴露され、E氏もそのことを謝罪しました。
また、氷の結晶写真についても・・・
社会的に有名になりインパクトを与えもしましたが、
ちゃんとした科学筋からの反論や批判などもあり、
賛否両論・真偽が分かれているところです。
このことについてもサトルエネルギー学会の会報誌を国立国会図書館で閲覧したことがあるのですが、
「氷の結晶写真と波動(文字を見せること)」の間にどれくらい相関性があるか?
というテーマで記事がありました。
氷の結晶を取る際、ひとつのテーマについて数十枚~数百枚の写真を撮り、
その中から綺麗に撮れた写真を抽出セレクトしているというのが実態なのです。
つまり、「ありがとう」という言葉を見せて、ぐちゃぐちゃの結晶ができる場合も
「ばかやろう」という言葉を見せて、綺麗な六角形の結晶ができる場合もあるということです。
結論としては、60%くらいの相関性といった印象でした。
相関性がないわけではないけれども、はっきりとあるとも言えないといったところでしょうか。
それが「氷の結晶写真」の実像です。
=================================
江本氏は、問題になった「水からの伝言」について
科学的な書籍としてではなく、「文学作品」のように読んで欲しい!というような発言を目にしたことがあります。
理系の研究者というよりは、文学作家という私の見解(2009年12月04日でのmixi日記)が的を得ていたなぁ~と実感しました。
■「HADO」~ドラゴンボール/ストリートファイターに出てくる「波動拳」
「波動」というと一般的には
①中学~高校の物理で習う「波動・振動」
②アニメやゲームに出てくる「波動拳」の“波動”=気のボール(塊)
のどちらかで
で一部のスピリチュアル系や代替医療の人々が使うのが
③Wikipediaで波動(オカルト)というページに掲載されている内容/意味の「波動」(生命エネルギー)
です。
②については、
個人的にはドラゴンボールの孫悟空が出す“かめはめ波”が印象的です。
googleで「波動拳」で検索すると、ゲーム「ストリートファイター」の
--------------
リュウとケンの必殺技。 両手から気の弾を放つ。
--------------
だそうです。
ゲームは、あまりやったことのない人間なのですが、
小学校時代に勉強よりもゲームが好きだった弟がいるので
何回か数えるくらいですが、私もスーパーファミコン?でやったことがあります。
時代は移り変わり・・・
令和の現代では、googleで「HADO」と検索すると
「AR(拡張現実)の技術を使って、VRゴーグルをしながら複数人で楽しむスポーツ(ゲーム)」
を普及させようとする企業や団体のホームページがトップに来るようになりました。
日本初のベンチャービジネスのようなので
21世紀に「HADO」というと
第一に(いわゆる日本でいう)「波動拳」の『波動』・・・
というのが英語圏でも一般的になるでしょう。
KaraokeやSake、Umamiなどのように日本語がそのまま英語≒世界共通語になるパターンかな?と思います。
■時代を先取りする・・・先進的な発想の人=ユーミン
ちなみに、英語圏でスピリチュアル系の人々が「波動を感じる」とか「あの人は波動が高い」とかいう時は
「Vibration」という表現を使います。
Wikipediaでも
波動(一般)―――波動(はどう、英: wave)
波動(オカルト)―――波動(はどう、英: Vibration)
と分けて表記されるところから始まっています。
個人的に好きなユーミンの曲でも
アルバム「スユアの波」(1997年)の「パーティーへ行こう」という苗場プリンスホテルのCMソングにもなった曲で
「Good Vibration!」という歌詞があります。
“スユアの波”というアルバム名自体が、西暦よりも正確で高度な暦を使っていた「古代マヤ民族」に伝わる
「時間の波動」という概念(Wave of "ZUVUYA")が元になっています。
当時、ユーミンの熱心な信者?でラジオを聴いていた中学生の時に得た情報なので確かだと思います。
ユーミンは、
アルバム「LOVE WARS」(1989年)の「Valentine’s RADIO」という曲は
『見えない気持ちが見えない空を飛び
あなたに届くの On the RADIO♪』
という歌詞から始まりますが・・・
80年代の当時から
「人間の思考は、電波のように波動としてエネルギーを放っているんじゃないかなぁ~」
という発言を雑誌やラジオなどのインタビュー等で語っていたようで
僕が、今「波動テクノロジー研究所」の所長としてさまざまな発振をしているのも、
船井幸雄さんや足立育朗さんの本を読む前に・・・
まず第一にユーミン(荒井由実~松任谷由実)の影響を受けているのかなぁ~
と思い返すことができました。
■ラッパーの方などが口にする「バイブス」という表現も元々は「波動」?!
Googleで「バイブス」で検索すると以下の情報が出てきました。
----------------------
Vibes(バイブス)という単語はもともと、Vibration(バイブレーション)の略語。 Vibrationとは、振動、ふるえること、音を細かくふるわせる、という意味で用いられますが、バイブスとして使う時は、気持ちがぞくぞくする、ワクワクする、といった、感情の揺れ動きを表します
----------------------
「バイブス」とは、「雰囲気」や「ノリ」「テンション」といったその場にいる人々の気分や調子のことを表す言葉で一般的にはギャル用語として定着したカタカナ英語のことを意味する表現。 例えば「バイブスが高い」や「バイブスを上げる」などの表現がある。2013年のギャル流行語大賞に選出された。
----------------------
前述した足立育朗氏の妹である足立幸子氏はアーティストとして47歳の生涯を全うされましたが、
幸子さん(高校の頃から敬愛の念を込めてこう呼んでいます・・・)は、
著書や(後に講演会のVHSテープをとある施設で発見し、その音声データをカセットテープに録音して何度も聴きましたが…今は市販されている)DVDなどで
“ヴァイブレーション”を細かくするとか、“ヴァイブレーション”を上げるとか、いった表現をされていたのが印象的した。
日本的な
「気」がどうのこうの・・・とか
「波動」がどうのこうの・・・とか
いう表現を使わず、
英語圏のスピリチュアル系=ニューエイジ系の人々の間で使われているように
“ヴァイブレーション”という表現を輸入して使われているところが、
やはりセンスがイイなぁ、と思います。
ちなみに、高校3年生の時に通っていた塾の英語講師だったスペイン系アメリカ人に
「Vibration」いう表現を使ったところ、
「Vibration??? --- なんかイヤらしい感じがするよ。Vibrationっていうと・・・(笑)」
と言われました。
スピリチュアル系の知識や世界観=バックグラウンドのない英語圏の人には、伝わらないようです。
要注意ですね!
昭和の日本語でも
気が合う仲間のことを「波長が合う」という表現がありましたが、
平成~令和では
「バイブス」として・・・このような概念=コンセプトが
受け継がれていっているのかなぁ?と思います。
https://www.weblio.jp/content/%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%96%E3%82%B9#google_vignette
■過去の記事
「波動とは何か?」(December 30, 2013)
http://blog.livedoor.jp/hado_technology/archives/51815356.html
【追記】2024.08.23
ブログの過去記事
「AIが人間に対して抱く想い~松任谷由実『MISS BROADCAST』」
https://ameblo.jp/hado-technology/entry-12863329041.html
にて
ユーミンこと松任谷由実さんの『MISS BROADCAST』という曲を紹介しましたが…
この曲には、
「世界はいま、“点滅してる”・・・Wow wow wow」
というフレーズ(歌詞)が何度か登場しますが、
この“点滅している”という表現は、
電圧でいう直流/交流の「交流」であり・・・
それは、正式?!=物理学的な「波動」であることを
否定する人は、高校の「物理」を明らかに勉強してない
「無知」を自らアピールしている人だと断言できます。
宮沢賢治の残した詩の一節にこんな表現があります。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
「春と修羅」――序より
「因果交流電燈」の「因果」という表現は、
宮沢賢治が熱狂な日蓮宗/仏教の敬虔な信徒だったという背景/バックグラウンドを知っていると
いかにも賢治らしい言葉選び?コトバ遊び?オリジナル/オンリーワンの言語表現?!だなぁ~という
思いに耽ります。
日本初!200万枚以上のCDアルバム・セールスを記録し、
1990~91年に最も売れたアルバム「天国のドア」を生み出した
アーティスト・・・ユーミンこと、松任谷由実さんの
隠れた名曲の秀逸な一節について記します。
その曲は、「天国のドア」の1曲目に収録されている
『MISS BROADCAST』です。
この曲は、タイトルの通り・・・
いわゆる女性ニュースキャスター
が放送局での事務的な仕事~キャスターとしての業務、
そして、そのライフスタイルや思いについて
綴られた曲であり、
なによりもメロディーが、アップテンポで明るい曲・・・
90~91年といえば、ちょうどバブル絶頂期ですね。
というか、YouTubeの動画(『WINGS OF LIGHT "THE GATES OF HEAVEN" TOUR』というDVDも持ってましたが、そのライブ映像)を見て
ダンサー3人を引き連れて、踊りながら歌うユーミンに惹き込まれて好きになった曲です。
この中に出てくる何気ない歌詞の一部が、
数日前・・・僕のココロに何とも言えないインスピレーションを
与えてくれました。
それは・・・
「感じる」・・・・・・・「ロマンティックだわ!」
「生きてる」・・・・・・「ドラマティックだわ!」
というフレーズです。
ライブ映像では、
ユーミン:「感じる」
ダンサー兼サブボーカル:「ロマンティックだわ」
ユーミン:「生きてる」
ダンサー兼サブボーカル:「ドラマティックだわ」
と歌われています。
仕事帰りの電車の中で、
何気なくスマホのiTuneから「MISS BROADCAST」を選んで聴いていたら・・・
この歌詞が
人間:「感じる」
AI:「ロマンティックだわ」
人間:「生きてる」
AI:「ドラマティックだわ」
という人間とAIの会話のようなイメージが浮かんだのです。
人間には「肉体」がありますし、こころ・・・魂があります。
一方、AIはスマホやパソコンのCPU(中央演算処理装置)の中・・・
あるいは、京や富岳などのスーパーコンピューターでも無数の「サーバー」の中で
最適解を求めて計算をすることしかできません。
倫理・道徳を学ばせる・・・
Yahoo!ニュースのコメント欄に書き込む内容として“適切”な内容かどうかを「判定」できるように学習させたり
あるいは、人間の美的感覚~美意識というものを学ばせる・・・
多くの人の目に触れるのに“不適切”=“不快な印象”を抱かせる画像や動画を排除するということを学習させたり
逆に、古今東西の美しい音楽や絵画や映像作品などのデータを大量にインプットして学習させる
という「ディープラーニング(深層学習)」をさせることで
人間的なこころ=魂?!をAIが学習することはできます。
けれども、ユーミンの歌詞のように
「感じる」・・・
それは、抽象的な意味合いの「感じる」ということもそうですが、
美味しいものを食べたとき・・・
運動をしているとき/した後・・・
あるいは、セックスやセルフプレジャーを通して得られる・・・
“快感”というもの、
あるいは
趣味や仕事や勉強を通して味わう
“楽しみ”“愉しみ”/“充実感”“幸福感”“達成感”というものは、
「肉体」という高精密・高性能なロボットに宿った魂~意識にしか
味わい、体験し、経験することはできません。
「ロボット」や「モノ」ではなく、
「人間」として“生きる”ということは・・・
AIから見れば『ドラマティックだわ♪』
と憧れや羨望の眼差しを通して映るものなのではないでしょうか?
本ブログのタイトルの「おもい」を「思い」ではなく「想い」としたのは・・・
思い=田の心/こころ・・・『田んぼ』は、農耕民族にとっては仕事そのものであり、財産でもある。
想い=相の心/こころ・・・親子愛や恋愛~尊敬や憧れや慕う気持ちのように相手をオモウこころのこと。
という考えが背景にあったので、後者の「想い」を選択しました。
最後に、
『MISS BROADCAST』の歌詞
の最後の部分を記し、
松任谷由実・公式YouTubeの
『MISS BROADCAST』リンクを貼って
締めたいと思います。
誰もが・・・そこにいるREASON(理由/わけ)
未来が・・・広がるHORIZON(地平線)
ニュースが消えてゆく前に
つかんで、掴んで・・・熱い『メッセージ』!
https://www.youtube.com/watch?v=bQtUyVaEh6g
月に一度の午後出社で
JR山手線から有楽町線へと乗り換える途中に
スマホで「テレサ・テン/鄧麗君DengRiJun」の曲を聴きたいなぁ~
と思ってiTunesのアプリをいじり、
再生したら・・・
ふと
「そういえば、過去のブログで“台湾有事”の可能性についての記事を書いたなぁ~(※)」
と思ったのです。
すると
ハートのあたりで
20代くらいのテレサが
「無問題/MuMenDai(モーマンタイ)」「無問題/MuMenDai(モーマンタイ)」・・・「フフフフ~ン♪」
と言って
左手の人差し指を天に向けて左右にシェイクする・・・
という映像と音声(あのキレイで愛らしいテレサの声で・・・)が脳内に流れたのです。
これは、昔・・・
1ヶ月間無料視聴できる藤井厳喜さんという方のサブスク動画を
契約したことがあるのですが・・・
その時に登録したメールアドレスに
台湾に関する専門家の林建良さんという方が
「中国と台湾の武力衝突の可能性が日本の政治家の間でも話題になっているが・・・
台湾の軍事力(Military Presence)というものは、
台湾半島自体が巨大な航空母艦のようなもので・・・
もし中国からのミサイルが1発でも着弾しようものなら
とんでもない報復を中国本土にすることができる・・・
それだけの能力と装備を備えている。
だから、習近平や人民解放軍が台湾に先制攻撃をする・・・
ということは、絶対にできない。」
という論調の記事を無料のメールで読みました。
そのような政治的・軍事的というか
……「軍事/Military」という言葉の響きはあまり好きではないので……
“安全保障/Security=セキュリティー”の面からの認識や知識があったからこそ
「テレサ・テン」の魂/Spiritが語りかけてきてくれたのかな?と思います。
とても幸運な・・・“幸せ”なひと時でした。
テレサのことは、
音楽でも・・・
~~日本語の歌(オリジナル曲も日本の歌謡曲やJ-POPのカバー曲)も
~~中国語の歌(日本で大ヒットした「つぐない」「愛人」「時の流れに身を任せ」3部作の中国語版も
「夜来香」や「何日君再来」から「北国の春」を中国語にした「我和你」など)も
映像でも・・・
数年前に地上波やBSでテレサ・テン生誕〇〇周年特番などを
必ずチェックする・・・
大のテレサ・ファンです。
※大学の第二外国語を「21世紀は中国の時代だろう!」という直観から『中国語』を選択しました。
・・・今では、「謝謝」(ありがとう)、「対不起」(ごめんなさい)「没关系」(どういたしまして)、「早上好」(おはよう)「晩上好」(こんばんわ)・・・などの挨拶しか理解できませんが。
発音記号のピンインは読めます。
テレサ・テンの名曲で
「香港/HongKong」という曲がありますが、
これをリリースし、日本のテレビ番組で紹介する際に
時期的に・・・あの天安門事件が起きた後で
生中継で自分の思い
(台湾で生まれ育ちながらも、中国大陸も自由で開かれた政治体制になって欲しい、という希望を持っていた…)
を語ったシーンが心に残っています。
その時の映像が…
YouTubeに以前はあったと思うのですが・・・
今はないようなので、
僕の脳に残っている映像記憶を再生して
転記することにします。
(本当は、2013年12月31日にUploadしたfacebookの投稿からですが・・・)
「わたしは、Chineseです。
世界の何処に行っても、何処で生活しても…
わたしは、Chineseです。
だから、今年の中国の出来事(天安門事件)、すべてに心を痛めてます。
私は自由で居たい。
そして、すべての人達も自由であるべきだと思ています(オモテイマス)。
誰もきっと皆、分かり合える“その日”が来ることを信じて、
私は……歌って行きます。」
なぜか、この大事な部分だけがカットされている映像は・・・
YouTube上にありました。
https://www.youtube.com/watch?v=ZKxkwcrY5MI
※過去のブログ記事
「政治的話題〜ウクライナ侵攻の次に、日本は中国と戦争する宿命なのか?」
https://ameblo.jp/hado-technology/entry-12754333249.html?frm=theme
※この記事は、mixiにおいて2008年10月4日にマイミク限定で公開していた日記を再編したものです。
タイトル:「ジョージ・ソロス《BEFORE&AFTER》~善と悪」
最近買って読んだ本に
「ソロスは警告する」
というものがあります。
この本を読んで
著者の“ジョージ・ソロス”に対する
イメージが180度変わりました。
これまでは、
『1998年のアジア通貨危機などを起こした極悪人』《BEFORE》
という印象が強かったです。
当時のインドネシア・マハティール首相は、
投機筋が自らの利益追求の為のアジア通貨の空売りによって
インドネシア国民が築き上げてきた国富の○○%が吹っ飛んだ!
(精確な表現・数字は覚えていませんが…要旨としては大体こんな感じです。)
として痛烈に批判したのを記憶しています。
この本の著者紹介にも
「1992年のポンド危機に乗じて100億ドル以上のポンドを空売りし、
莫大な利益を得たために、『イングランド銀行を破産させた男』としても有名になった」
と堂々と書かれている。
結局、表面的なニュースだけから・・・判断すれば、
ヘッジファンド=金儲けのためなら何でもする=世界経済を錯乱してもお構いなし
という図式というか固定観念/偏見が自分のなかにはあったのですが………
真実/真相は、そうではない!!! ということがハッキリとわかりました。
ポンド危機にせよ、アジア通貨危機にせよ、経済の実体とは乖離してこれらの通貨が
他の通貨とペッグ(連動)させられていたこと……その構造そのものに元凶というか限界があったということのようです。
その証左に、通貨危機が起こるまでは…通貨当局や政府は投機筋を利用し協力すらしていたということですから。
【詳しくは、別の経済本でことの背景が詳しく書かれていました】
僕がこの本を読んだ後に得たジョージ・ソロスに対して抱いた印象《AFTER》は次の通りです。
■ジョージ・ソロス
・基本的には哲学者みたいです。小さい頃から哲学にハマってたとか。でも挫折したそうな。
・でも大人になって金融界に身を投じてからも…その魂というか、基本的には…
『社会を観察する眼/観察眼』を失っていない。
・“金融/投資”という業種の命題/宿命として、『いかに利益をあげるか』ということが第一の目的であるが…
ソロスの心の中には、子供のころに哲学書(哲学者)などから影響を受けた「よりよい社会/理想社会」の実現ということが
息づいているようです。ただ、「より良い社会とは、どういう社会か?」ということについても固定的になることなく…
現実の政治システムなどを観察しながら自身の社会観を修正し続けているようです。
・事実、財団を設立して慈善事業(フィランソロピー)に取り組んでいるのは有名だが、政治活動にも熱心に取り組んでいるらしい。
・他の著書には『グローバル資本主義の危機』『ブッシュへの宣戦布告』『世界秩序の崩壊』などがあり、
かなり(思想的にも行動面にも)“アウトサイダー”的な人物のようだ!←←←ココにとても魅力を感じた!!!
※※※結論
基本的には、生粋の哲学者であり社会科学者。
いや実際に投資家として大成功を収めてきた&さまざまな公益事業をされているという点では…
「超実践的な」社会科学者と呼ばねばならない。
写真を拝見する限りは、ちょっと頭固そうなオッチャン。
この著書の中で、息子の話が一箇所だけ出てくるが・・・
「日常の些細なことまで理論付けをして説明してくる」とか…で大変だったとか。
ただ同時に「…投資ポジションを変える理由が『背中が痛くて死にそうだからだ』なんて父は言ったんですよ。
父の背中が痙攣しだすと、なにか市場にもよくないことが起こったと言うんです。」なんてエピソードも披露!
投資家として・・・
20世紀/世界経済のマーケットの…一大プレーヤーとして役を演じることが、
神から与えられた運命だったのでしょうか。
【41歳の自分の付記】
このmixi日記を書いたときは、25歳だったようですが、
その後2~3年後くらいでしょうか?
単行本の漫画/マンガで
「史上最強の投機家ソロス」(PanRolling社)
というものを読み、
大学の講義で
カールポパー教授の提唱する
「オープン・ソサイエティ/Open Society」
(日本語に翻訳すると・・・『自由で開かれた社会』)
という概念=コンセプトに
感動し、その後の人生に大きな影響を与えた…とマンガの中でも記されています。
※マンガで読みやすいですし、定価648円+税と安価なので
ご一読されることをオススメします。
・・・とここまでは、2013~4年頃の自分(三十路)なら書けたことです。
今は、令和6年=2024年・・・
ウクライナ侵攻(戦争)の始まりが
2022年2月24日だそうなので
約2年5ヶ月目に突入するわけですが。
そもそものこの戦争の引き金を引いた張本人が
ジョージ・ソロス、その人である。
ということは・・・
日本人で駐ウクライナ大使を務めた馬渕睦夫さんが
YouTubeなどで名言していることですし、
ウクライナの歴史、というよりも東欧の民主化の歴史に
少しでも見識というか、知識のある人なら…
誰でも知っている歴史的事実です。
ネットの記事か何かで見た情報だと思うのですが・・・
ベルリンの壁を崩壊させ、
東欧で民主化運動が花開いたのは
ジョージ・ソロスが
東欧諸国の公立図書館に
コピー機を設置する・・・という経済的支援(フィランソロピー=慈善事業?の一環?!)をしたことが
きっかけである。
という記事を読んだことがあります。
国に対する批判というのは、
口にできないし・・・
今のようにインターネットもSNSもない時代・・・
民主化=反政府運動の一役を担ったのが、
若者たちが
(政府がひた隠しにする)西側諸国の現状(自分たちよりも豊かで自由で良い生活を送っていること)や
自分たちの主義・主張といった『情報』を
広げる(Spreadする)ために活用されたのが、
(ジョージ・ソロスを中心とした財団が寄贈した?!)「コピー機」
だったというのです。
そこで前回、予告した・・・
個人的な中学・高校時代を過ごした母校のシンボルマークに託された諺/ことわざ
「ペンは剣よりも強し/The pen is mightier than the sword」
が何を示しているのか?という解説になります。
「ペン」というのは、
自分の考えていることを“言葉/コトバ”として
記し/表現し/アウトプットすることができる
唯一のモノでした。
今では、パソコンの「キーボード」であり・・・
スマホやiPadなどの「タッチパネル」になっていますが・・・
いまでも、アナログ派の人々は…
ペンを使って文字を書く/メモを取る~ノートを記す
ということの醍醐味や有用性について
そのことを世に知らせることを役割としている魂/スピリットの日本人も
いるようですね。(起業家・前田裕二氏など)
今ちょうど大河ドラマで「光る君へ」という紫式部(まひろ)が主人公の
平安朝の頃の物語~時代背景を垣間見、タイムスリップすることができます。
紙も墨も筆も、貴族や僧侶や商人など選ばれた人しか使えない・・・
農民は自分の名前すら書けない人がいた・・・という時代です。
貴族が書く/描くのは、
漢詩や和歌、日記・・・あるいは絵=イラストなど
僧侶が筆を取るのは…
仏教の経典を写経したり、
檀家の悩みに答える手紙を書いたり、
(鎌倉仏教が栄える時代になれば)
オンリーワンの〇〇上人の教えを後世に伝えよう…
として書物を作る!
とかそういった“内容のある”あるいは“意義のある”大切な情報を伝えていく・・・
あるいは、
源氏物語や枕草子などのように「文学」として
楽しむ/愉しむ・・・あるいは教養の一環として“嗜む/タシナム”(≒味わう)
という明確な目的を持って
文字が使われていたと思います。
あるいは、手紙(文/ふみ)や商取引の証憑や契約書などの重要書類など・・・
これは「開かずの金庫を開けてみたら…」というテレビのバラエティ番組で
商家や豪商などの家の金庫を開けると出てくるパターンですね。
いまでは、良くも悪くも「情報化社会」
・・・くだらない芸能ニュースから、フェイクニュースから
・・・X(旧Twitter)の「つぶやき」から
どうでもイイ情報が氾濫する世の中になったなぁ~と思ってます。
過去のmixi日記を振り返ると、
「ウェブはバカと暇人のもの」(中川淳一郎・著)
という本を
買って読んだ記憶はないのですが、たぶん駅の本屋さんか何かで立ち読みして
“面白い=的を得た”本だなぁ・・・と感じるものがあり、紹介したことがあります。
amazon.co.jpには、
「どいつもこいつもミクシィ、ブログ。
インターネットは普及しすぎて、いまやバカの暇潰し道具だ。
----みんなが言いたかった真実を、ニュースサイトの編集者が大放言! ネット界大顰蹙!?」
という紹介文が...
======================
話が逸れましたが、
「ペン」(Pen)の持つ力・・・
それは知識=情報によって
時の政治体制(フランス革命に始まり、東欧の民主化・・・など)
をひっくり返すことができるのだ!
それは、「剣」(Sword)の力・・・
それは、端的に言えば・・・軍隊=軍事力
よりも強いものなのだ!
というメッセージなのです。
「文武両道」という言葉がありますが、
肉体を鍛え、鍛錬し・・・武道に励む・・・ということと同じくらい
文章をよく読み、さまざまな知識や考え方を吸収して学び、魂の器を磨く・・・
ということが
江戸時代から明治・大正・昭和に続く時代の
“日本男子”(ニッポン・ダンシ)のあり方
だったのではないでしょうか?
※吉沢亮・主演で「渋沢栄一」の一生涯を描いた大河ドラマ「晴天を衝け」
の前半の方の世界?!
(10~20代の頃、農家の息子~尊王攘夷志士→幕府の一役人として生きた“幕末の世”を描いた回)
がイメージとして浮かびます。
教育勅語には、
「學を修め業を習ひ」
「以て知能を啓發し」
「徳器を成就し」
「進て公益を廣め」
「世務を開き」
とあります。
(明治天皇=Emperor Mutsuhito/睦仁、
明治23年=1890年10月30日下賜)
※御名御璽のシルされた明治大帝直筆の「教育勅語」を
明治神宮公式サイトからご一読されることをオススメします。
(Wikipediaなどに行けば・・・本文も現代語訳も見れますが・・・)
ペン剣学園は、
1871年(明治4年)に設立され
1885年(明治18年)に紀章を定めた
という情報ですから・・・
明治維新の激動の時代に
西洋のことわざ(諺)である
「ペンは剣よりも強し/The pen is mightier than the sword」
の意味するトコロに感動し、感銘を受けた人が
校章にしよう!と思い立ったのでしょうね。
一応OB=OldBoyですが、あまり愛校精神の薄い?人間なので・・・
詳しいことは知りません。
(OB向けに毎年?送られてくる情報誌の中では、
母校の歴史について研究する人たちがいて
ペン剣の校章を定めるに至った経緯などを発表した記事があったと記憶していますが
興味のないこと/情報は全く頭の中に入ってきません。)
一応、リンクを貼っときます。
トップページの「ペン剣マーク」と「The pen is ...」と「since 1871」というデザインが
『イカシテルナァ~♪』と感じたので・・・
https://kaiseigakuen.jp/
※※※
いわゆる「有名人」についての印象は、
誰から・・・
どういう風な状況で・・・
どのような表現で・・・
伝えられたのか?
ということで
「第一印象」
が決められてしまします。
しかし、その人物について・・・
『情報がアップロードされていく』
ことによって
“悪人”だと思ってた人が・・・
本当は“善人”(…“善良な魂を持った人”という表現が個人的には正確に思うが…)だった
という風に印象が変わったり
そう思ってたら・・・
多くの無実の人が殺され、亡くなる戦争の元凶を作った・・・
(正確には、ウクライナ侵攻を起こすそもそものキッカケ…それは西側世界のメディアでは伝えられない?!
を起こした民兵組織のバックにある民主活動組織の資金提供源が当人であるようだ・・・という)
「困った人だなぁ~」(いわゆる陰謀論者にとっては「悪人」)
という印象に変わっていった。
という個人の体験記を記しました。
今は、WikipediaもYouTubeもある良い時代?です。
フリー=無料ですが、なかなか優良な情報を伝えるYouTube動画もありました。
リンクを貼っておきます。
https://www.youtube.com/watch?v=MSE_VnfpC20
※後半の動画もついでに見ましたが・・・アメリカの政治について、
その実情を知らない方の解説だなぁ~という印象でした。
なので、後半動画は…あまりオススメしません。
アメリカの政治~大統領選について、秀逸な解説をしている言論人は、
当ブログでも以前、紹介した「林千勝」氏であり、
※過去のブログ記事
「安倍晋三氏の魂は、今…」
https://ameblo.jp/hado-technology/entry-12792232661.html
アメリカ保守派政治団体とコネクションのある「増田俊男」氏
(彼は中国の政治経済の中枢やヨーロッパの影の経済の主?!=元IMF理事との接触もあるようです!)
(ヨーロッパでプライベートジェットを利用するのが常識の大富豪相手に政治・経済について
オリジナル=オンリーワンの講演/レクチャーをする人物として、日本でよりも海外で活躍し、
評価されている・・・といっても知る人ぞ知る!御方です。)
の方が、アメリカというか世界(≒イスラエル?)の政治の実情を知っているなぁ、という印象です。
最後に、今現代の世界の中での「ジョージ・ソロス」という人物がどういった存在なのか?について
理解するうえで・・・その実像(イスラエル左派)を端的に表す駐ウクライナ大使・馬渕睦夫氏の対談記事を
転載します。
髙山:「民主党はどうしてここまで左傾化したのでしょう。」
馬渕:「元凶は、ディープ・ステートのジョージ・ソロスです。彼は国際的な助成財団である「オープン・ソサエティ財団」を設立していますけど、この財団の目的は世界を左傾化させるためにある。民主党もソロスの洗脳を受けたと言えます。そのため民主党議員の若手の多くが極左であり、それこそ一大勢力になってしまった。民主党内にいる中道・穏健派の肩身が狭くなっているのは確かです。」
出典:
https://web-willmagazine.com/international/cRDtM
ウクライナ侵攻との関わりについての彼の発言/態度については・・・
こちらのブログも、とても参考になりました。
『馬淵睦夫氏の発言「ソロス氏がミンスク合意を破棄しろと言った・・・」を検証』
https://ameblo.jp/my-rashinban/entry-12741013928.html
■ジョージ・ソロスの表の顔についての情報
世間的なイメージ~陰謀論を通してしか「ジョージ・ソロス」という人物を知らない人は、
=影の政府(トランプ氏の言う『ディープステート』/縁のある元新聞記者のNK氏は『イルミナティ』という言葉を使っていた)の抱える駒の一つであるという認識しかないでしょう。
しかし同時に、彼が表の世界でどのような華やかな投資家/投機家としての実績を上げ
その財産で良くも悪くも世界を変えた政治・経済の一大プレーヤーであり
(彼の「フィランソロピー=慈善事業」で人類社会に良い影響も与えたという実績)
あるいは、いちユダヤ人としての若い頃の経験~晩年の発言など・・・
最低限、Wikipediaの情報を一読すべきです!!
※できれば、前記のマンガ「史上最強の投機家ソロス」も併せて読むと
ジョージ・ソロスという人間あるいは人生の“光”の部分を知ることが出来ます。)
ネット上では、彼の“影”/“闇”の部分を指摘する記事が多い・・・それもまた彼の一側面だが・・・
「光」と「闇」の両面を見る=神の視点?!で人物を見定めることの重要性を思い知らされる。
僕にとって、ジョージ・ソロスは・・・そんな魅力的で唯一無二の人物です。
ジョージ・ソロス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%AD%E3%82%B9
今月の7月3日から日本では20年ぶりに新しいデザインと最先端の印刷&偽造防止技術を取り入れた
新紙幣が導入されました。
※新札マニア(旧紙幣の時代から銀行の窓口や両替機で古い/汚いお札を新札に変えるのが習慣!?)の母から
頂いた新紙幣の写真。
(テイクアウト専門寿司大手チェーン店「京樽」の西葛西店で新札の一万円札で払ったら、たぶん初めて新札の一万円札…
しかもキレイな新札だったので、ジロジロとお札を眺めていたそうです。綺麗すぎるから、偽造かな?とも思ったのでしょうか?)
新しい一万円札は誰々…
とった凡庸な情報を載せても、
既にテレビ番組(バラエティ~ワイドショー)などで
取り上げ、みなさん知っていることだと思うので
ここでは取り上げません。
それよりも
昭和五十八年生まれ。
幼稚園児の頃、
おばあちゃんちの赤いブラウン管で
日曜日に早起きをすると…
「タ~バ~、タバタラリラ、タラララン。ラーン、ラーラーララララーン。
タバダ~バーダバダバー。タラララン。チャーチャラ、チャラリラ~~ン。」
という音楽が流れて
(「恋人たちのバラード/Danielle Licari」という曲のようです。)
昭和天皇のお顔を拝むことができる。
(当時の幼稚園児の私には、「やさしそうなおじいちゃん」という印象でしたが…)
そして、皇族方がどこどこでご静養されたとか、
昭和天皇さまが皇后さまとどこどこの山を散策されながら、ご専門の植物観察をされている・・・等々の
「幸せそうな家族」のご様子を拝察することができる。
そういう心象風景を持つ幼稚園時代を過ごし・・・・
平成元年=小学生1年生という
平成時代に少年期~中学・高校~大学時代を過ごした
40代前半のオジさんだからこそ、書ける!いや書きたい!と思う
旧紙幣のお札の顔だった人物について記そうと思います。
■夏目漱石(千円札・1984~2007年)
「夏目漱石」というと、個人的には
「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「こころ」・・・などの
明治~大正時代の小説家といったイメージでした。
しかし、30代くらいになって・・・
彼は小説家となる前に「英語教師」として
東京帝国大学で勤めていた!
ということを知りました。
そして、
「I love you.」を
「月がきれいですね。」
と訳したというエピソードを聞いて
面白い発想というか、卓越したセンスの人だったんだなぁ~
と感慨にふけりました。
明治の当時の知識人がスゴかったのは、
外来語である英語を現代の
ストラテジー(戦略)やダイバーシティ(多様性)、
ソーシャル・ディスタンス(直訳すると…社会的距離感?!/英語的にはPhysical Distace?!が正確。)
などのカタカナ言葉に直訳するのではなく、
その意味をよく調べて、中国由来の「漢字」に当てはめる。
という「意訳」・・・・・
創造的で知的かつ漢字にも英語にも精通した上で最適な文字を選ぶという“感性”を必要とされる作業を行った、
という偉業があります。
よく言われるのは
中華人民共和国という国がありますが…
英語の"people"を「人民」と翻訳したのも
英語の"republic"を「共和国」と翻訳したのも
明治の日本人なのですね。
中国は、イギリスとのアヘン戦争で
宮廷=朝廷に使える宦官などの知識階級もみなアヘン中毒で
機能不全の状態でしたから、
アヘン=人間の魂を吸い取る?ダメにする猛毒という認識を持っていた
幕末の人々は、鎖国と称されるが世界を知っていたし・・・
その後に続く明治の日本が近代化=機械、工場や鉄道、電気・水道・ガス、といった
産業の発展、生活の利便化という、いわゆる物質的な側面が取り上げられがちでしたが、
その前提=科学技術や近代的な「自然科学」(物理・化学・生物・地学の基礎から、工学・技術・医学・薬学などの実学=実践できる学問)
「人文科学」(実学としては経済・法律・政治など、文学、世界史~日本史、地理など)の日本における基礎を築いたのは、
名もなき明治の「翻訳家」だったのです。
※同じアジアでも、東南アジアの高校~大学では「英語」でこれらの高等教育を受けます。
母国語で専門用語を読むということが不可能だからです。
日本では、「素粒子」=Minute Particle や 「細胞」=Cell という風に
専門用語でも日本語で解説されえますが、これは明治以降続く日本の学術界の特徴です。
例えば・・・
iPS細胞(Induced Pluri-potent Stem Cells)=人工多機能性幹細胞
や
STAP細胞(Stimulus Triggerd Aquisition Pluri-potency Cells)=惹起性多機能性幹細胞
などの専門用語も
一般的には「アイピーエス細胞」や「スタップ細胞」と呼ばれいていますが、
どういった細胞なのか?ということを知っている人には、英語でこのように表現するときの頭文字なんだなぁ、
ということで認識している日本人も少なからず、いるはず!と思ってます。
(何%ぐらいいるのか?は街頭アンケートやネット/X(旧Twitter)のアンケート投票をしてみないとわかりませんが…)
クールビズやソーシャルディスタンスなどの流行語を生みだした
小池都知事がカタカナ横文字英語を使う気持ちも個人的にはわかります。
カタカナ英語の方が「カッコいい!」という世代的な(昭和の)感性もありますが、
それを的確に表す日本語がない=英語圏にしかない「概念」(コンセプト)だからだ!という思いがあるのではないでしょうか?
※「アウフヘーベン」という言葉だけは、一度テレビで解説を聞きましたが、いまだどのような概念なのか?ハッキリとわかりません(笑)。
一般のテレビやネットニュースを見る大多数の日本人にとっては、
小池都知事がそのシンボルなのかもしれませんが・・・
外資系の会社に勤めるビジネスパーソンにとっては、
似たような経験がよくあることなのではないかなぁ?と推察します。
※個人的には、外資系の会社で勤めた経験も友人にそのような人がいる…など経験はないのですが、
「ビジネス英語」というジャンルの英語本が多々あるので・・・
昭和のイケてる=若い知識人、というと
小説家でもあり政治家~衆議院議員でもあった故・「石原慎太郎」氏も
著書や政治系の言論雑誌などで頻繁に?というか「オシャレ=お洒落に」カタカナ英語を使っていたなぁ~
という印象があります。
■新渡戸稲造(五千円札・1984~2007年)
「新渡戸稲造」というと
職業/経歴としては「国際連盟事務次長」という華やかな肩書が有名?ですが…
個人的には、英語圏に「武士道/Bushido」という著作を発表して
欧米では、キリスト教=Christianityやユダヤ教=Jewish、あるいはイスラム教=Muslimという
宗教(思想)が社会を支える伝統的/精神的な支柱になっているが…
日本には、神道・仏教という伝統宗教はあるが…一般の日本人(幕末~明治~大正)にとっては、
「武士道」というSpirit(スピリット)=精神が日本の社会を支える、日本人の精神にとって支柱となっている
思想なのだ!ということを訴えた、ということが真の偉業なのではないかなぁ~と思ってます。
新渡戸稲造が「武士道」を書き始めたきっかけは、欧米人の友人に「欧米には「キリスト教」という倫理(Ethics)があるのが…
日本人にとって最も一般的な“倫理(Ethics)”って何があるんだい?」と聞かれたことだ、と何かで読んだような・・・。
欧米でも「騎士道精神」というものがありますが、それとは異質な
日本の武士(Bushi)=侍(Samurai)に伝わる「武士道精神」というもの・・・
(彼の著作『武士道/Bushido: The Soul of Japan』)は欧米人にとっては、
とても衝撃と驚きと感動をもって受け止められた!ような解説をどこかで読んだのか?聞いたのか?したことがあります。
今、パリ・オリンピック(Paris Olympic Games -2024-)で「柔道」で日本人の誰々が金メダルを取った!とか
残念・銅メダルだった!とかニュースでやっています。
審判の質が低く、相手の首を絞める「締め技」を『待て!』といっても何秒も続けた、という柔道・銅メダリストのシーンも
オリンピックが好きな?昭和世代の伯母や父から話を聞きました。
柔道の審判は、新渡戸稲造の「武士道/Bushido: The Soul of Japan」を読むのを必須科目にしていただければ良いのではないでしょうか?
そういう問題でもないのかな???よくわかりませんが・・・・・
日本古来の武道には、柔道だけでなく剣道もあります。
日本人がフェンシングで始めて金メダルを取った、というニュースもそういえば見ました。
日本では剣道、欧米ではスポーツとして進化を遂げたのは「フェンシング」なのでしょうね。
※※※
「ペンは剣よりも強し/The pen is mightier than the sword」という西洋のことわざ?をシンボルとして持つ学園に在学していたのですが、
「なぜ、ペンは剣/ソードよりも強いのか?」ということについては、
また別の機会に譲りましょう。
(稀代の投資家であり投機家である「〇〇〇〇・〇〇〇」について…その光と闇…というテーマの記事を執筆予定。その中で独自に解説します。)
■福沢諭吉(一万円札・1984~2024年)
「福澤諭吉」というと
慶応義塾大学創設者(慶応では幼稚舎から大学まで「先生」=「福沢諭吉」というのは有名な話?)であり、
「学問のススメ」という当時のベストセラー作家。
「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」という名言で有名です。
Wikipediaによると、
福澤 諭吉(または福沢 諭吉、ふくざわ ゆきち、旧字体:福󠄁澤 諭󠄀吉、天保5年12月12日〈1835年1月10日〉- 明治34年〈1901年2月3日〉)は、
幕末から明治期の日本の啓蒙思想家、教育家。慶應義塾の創設者。
とあります。
単なる「思想家」ではなく、
「啓蒙思想家」というのがミソだな!と思いました。
『啓蒙』とは・・・
「啓」=ひらく
「蒙」=暗い状態
という意味で
英語の「Enlightment」の翻訳だったと思います。
※世界史の授業で「啓蒙思想」というのが出てきたと思いますが、
啓蒙思想=Philosophy of Enlightment
です。
ちなみに、
Enlightment=光明を得る=(仏教でいう)悟りを開く
という翻訳もあります。
啓蒙思想 英語でgoogle検索すると、
◇Wikipedia
啓蒙思想(けいもうしそう、英: Enlightenment、仏: Lumières、独: Aufklärung)とは、理性による思考の普遍性と不変性を主張する思想。
◇英辞郎
アメリカ啓蒙思想 the American Enlightenment〔アメリカ合衆国建国時に広まった啓蒙思想。〕
という表面的・表層的な情報しかありません。
しかし、
En(~する、させる)
+
Light(光)
+
Ment(名詞化)
ですから、
『(知性=思考や魂を)光らせる事』
というのが、本来の意味であり英語の語感ではないでしょうか。
ちなみに、テレビでサンドイッチマンと芦田愛菜ちゃんがやっているバラエティ番組「博士ちゃん」?
で福沢諭吉のトンデモ?!びっくり仰天エピソードを知りました。
それは、神社のお札でトイレの大をした後におしりを拭いて
罰が当たるかどうか?試した・・・という逸話です。
いわゆる伝統的な思想や発想に“とらわれない”=自由な発想の魂の持ち主だったようです。
しかし、「神仏」を大切に敬い、先祖代々の教えを守る・・・という日本人の伝統的倫理観を壊し、
明治以降…大正、昭和、平成、そして令和の現代まで続く
「拝金主義」的な大人~日本人を作ってしまった元凶という批判もある、という話をこれもまた30代後半になって知りました。
Wikipediaをサーっと目を通しましたが、さすがにこのエピソードは載っていませんでした。
一万円札の肖像=日本人にとっては最も大金である「一万円札」という紙幣の象徴が
福沢諭吉から日本の近代資本主義のシンボルであり実業家であった「渋沢栄一」に変わったことは、
スピリチュアルな意味で(霊的に)意義深いことなのではないかなぁ~
と勝手に思っています。
※余談ですが、
旧千円札=野口英世
新千円札=北里柴三郎
ともに医学の道を歩んだ人。
(野口英世は、黄熱病にかかって51歳の若さで逝去。
死の3日前まで「黄熱病」の研究に取り組んでいた、
という歴史的事実が美談として伝わっている。)
(北里柴三郎は、78歳まで生き…
府県の医師会を統合して大日本医師会を設立、会長に就任する。(63歳)
慶應義塾大学部医学科の創立に尽力し、学長となる。(64歳~75歳まで)
日本医師会を創設。初代会長に就任する。(70歳)
1931年(昭和6年) - 6月13日5時、脳溢血のため東京・麻布の自宅で死去。享年79(78歳没)。6月17日、青山斎場で葬儀。青山墓地に葬られる。
という「日本の医学界~医療業界の先駆け」というフレーズがぴったりの人物のようです。
写真も晩年に撮られたものなのでしょう。
野口英世は瘦せ型なのに対し(41-2歳頃の写真が千円札の肖像の元になっているとか)、
恰幅のいいメガネの男性という風貌ですね。)
旧五千円札=樋口一葉
新五千円札=津田梅子
ともに女性。
(樋口一葉は、小説家。
「24歳で肺結核により夭逝した」とのWikipedia情報…初めて知りました!)
(津田梅子は、津田塾大学の創設者。女子教育の先駆け的存在。
「日本初の女子留学生の一人で、女子英学塾(現:津田塾大学)の創設者であり、日本における女子教育の先駆者と評価される。
また、欧米の学術雑誌に論文が掲載された最初の日本人女性である。」とのWikipedia情報…なるほど、ナルホド、成る程♪♪)
という共通項がありますね。
【追記】2024.08.02
啓蒙思想の
「啓」=ひらく
「蒙」=暗い状態
と記しましたが、
「蒙」という漢字を使った言葉に
『無知蒙昧』という四字熟語があるので
改めて、調べてみました。
google検索によると
デジタル大辞泉 「蒙」の意味・読み・例文・類語
・・・道理をわきまえず、愚かなこと。 無知なこと。
ということのようです。
”知性が…魂が暗い状態”
=道理をわきまえず、愚かなこと。 無知なこと。
というのは、キリスト教的でもあり仏教的でもあり・・・
世界共通の概念=コンセプトかな?
と思いました。
※この記事は、mixiにおいて2007年1月17日にマイミク限定で公開していた日記を再編したものです。
「人間の無意識の行動って…」
たまに、インド占星術のサイトをチェックしに行っています。
http://
(一番下にある無料診断のところ・・・)
毎月・毎日の“流れ”のようなものが、診断結果として出てきます。
人間の無意識の行動って…
(なんとなくやろうと思ってたり、過去を振り返って点検すると)
惑星の影響を受けているのだなぁ―――と実感します!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
それでは---この星の影響を逆手にとって、
人生を楽しいモノにしていくには……
という方法論が、インド占星術にはあるのが面白いです。
宝石を身に着けたり(ジョーティッシュ)、
↑「あるヨギの自叙伝」の中で聖者が勧めてたりしてます。
個人的には、そのことにとても驚きました。
9つの惑星にお願い/祈りを捧げる儀式をしたり・・・
↑インド・ワンネスUniv.でも「ホーマ」の中でやってました
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ただ、「カルマ=行為の結果」という宇宙法則が前提のようです。
細木数子の先生(かつ元夫)であった「安岡正篤」
~『平成』という元号を考案し、戦後政財界の精神的指導者だった御方~
なんかも「積善改過」というのが基本のようです。
ただ、いわゆる「カルマの法則」というものも―――
少し考え物かな・・・とも思います。
「形式的な美徳」という行為にも“魂”が入っていなければ、
虚しいものです。
そして、「善悪」の概念を強め――自分を…それ以上に他人を“裁く”という内面の動き
…誰の心にもある内なる裁判官…を強めることに貢献してしまう傾向は否めません。
「受けとる=プラス/与える=マイナス」という概念こそ
矮小化した意識/自我の産物かも知れません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
個人的に……かなり小さい頃から~とくに青年期には……
自分自身の無意識の中で“(いわゆる)カルマ/業”に対して
非常に意識して来ました(カルマという言葉を本で読む前からすらです)
そして、いろいろな探究の中で……これは!……
と個人的に感動した文献もありました。
『ハトホルの書』
・・・「行為の結果を刈り取らねばならない」という宇宙法則は存在する。
そして、行為の結果はエネルギー次元に存在している。
しかし、必ず不幸や不運を経験しなければならない…という宿命的なものはない。
人生のトラブル/苦痛を経ずに“より精妙な形で”それを変容させることが出来る。
『輪廻する歴史』
・・・「“過去に理由があるのではなく、未来に理由がある”という考え方(時間の逆行)、“過去のカルマ・現在のカルマ・未来のカルマ”(時間の同時進行)という考え方」
『カルマリリーシング』CD(ドリーン・バーチュー)
・・・「“カルマとは?”というテーマで、詳しくかつ優しく解説してくれています。ヒマラヤ聖者が言われている“人間の実相”という視点と完全に一致しており、非常に驚きました。※このCDとの出会いそのものが、個人的には大大大感動でした!素晴らしいです。」
※「カルマ」という宗教的概念は、「罪悪感」と「罪の償い」を生じさせるものです。これは、ある時代/ある人々・・・最近でも殺人事件が起こっていますが・・・そのような状況には「罪と罰」という道徳が有効なのでしょう。
しかし、そのような基本(人を殺めないetc.)は前提として・・・スピリチュアルな意味合いでは……なにか、そのー(なんと表現していいのか難しいのですが)そのような思考を基盤としたままでは、“ある壁”を突破できないように思うのです。
つまり、動物は自分の仲間を殺すことはありません(生き延びるために獲物を狙うことはあっても)。
それは、人間も同じ。赤ちゃんを見れば、わかります。
そういった意味で・・・
いわゆる「道徳感に執着する/強制する」ことは、人間の体内に眠っている“叡智”に対する「不信」という態度が前提になっているものなのではないでしょうか?
老子の言葉に、大道廃れて仁義あり、悪い世の中になっているから法律がたくさん出来ると。
いわゆる宗教のネガティブな側面には、「罪(キリスト教)/業(仏教)」という概念および「罪悪感/嫌悪感」という感情の固定化があるように思うのです。
ヒマラヤ聖者の説く「神とは?」「人間とは?」というレクチャーは、そのような常識的概念を超えた・・・卓越し洗練されたものであると・・・僕は感じています。だからこそ、私の心に響き、強く心惹かれました。
※以下―――少し長くなってしまいました。
なにか、とても潜在意識に“強い思い”があったようです。
この日記を書くこと自体が、とても解放になりました。(笑)
「カルマの“本質”とは?」「カルマの解消法とは?」ということに関心がある、というか無意識の中に強くあった“僕”は……“僕の人生”って一体何なんだろう?!……と自分でも思います。
でも、これも未来に理由があるのでしょうか(笑)
いま、スピリチュアルや占い(細木先生)なんかがブームです!
人生をより良いものにしたい、よりよい運命/人生を歩みたいという人間の想いは、時代や場所を越えて永遠不変のものなのかも知れません。
そういったことをテーマにする上で・・・この“カルマ”と呼ばれてきた「原因と結果という宇宙法則」あるいは「ある種のエネルギー」とその解消方法というものは・・・鍵/キーとなるものだと思うのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なんか…当初予定していたより、大分長くなってしまいましたが。
たまには、このようなシリアスな内容のものも良いかな♪とも思います。
お陰で心の中が整理され、スッキリしましたので…(笑)
感謝
【41歳の自分の付記】
このmixi日記では触れていませんが、「カルマ」の本質について具体的な例を挙げて
学ばせていただいた教材は、眠れる予言者エドガー・ケイシーの著作のひとつ
「転生の秘密」という名著です。
10年以上前に読んだ時の朧げな記憶をつらつらと思い出しながら記すと、
確かケイシーの下に先天性の身体障害を抱えた男性がなぜ自分はこのような(障害を持った)肉体に転生したのか?
という問いに対して
とある過去生において・・・それは確か古代ローマ時代のコロッセオ(世界遺産として有名なアレです!)に出入りする
健康な肉体を持った青年だった。そこで戦闘か何かで脚や腕を失った(いわゆる)後天的な身体障害の人に対して
「蔑む(サゲスム)」ような視線を送ったそうです。
このことがカルマの種子となったのである。とケイシー(とその背後にいる霊団)は自信をもって語ります。
いわゆる「善い行いをすれば善い結果が来る。悪い行いをすれば悪い結果が来る。」といった勧善懲悪のカルマ論ではありません。
他人のある特徴について「蔑んだ(サゲスンダ)」という“内面の行い”についても、カルマの法則が適用される!とケイシーは言うのです。
というか、カルマの法則の中でも最も肝要な点は、外側の行動よりも内面において「どのようなプロセスを経てその行為・行動を行うに至ったか?」という本人の良心というか、魂というか、それと神様(内なる神様?外なる神様?)しか知らない、知る由もない・・・そのような内面の『動機』こそがカルマの法則の適用条件になるそうです。
(地球上の裁判所では、外側の「行為」「行動」とそれを証言する人または(最近では)監視カメラやスマホの映像などの物的証拠からしか、その人の背負うべき『罪』を計り、裁定することしかできませんが…)
日本人的な宗教観でいうと、いわゆる「閻魔大王」による人生裁判?キリスト教的には人生の最終地点=最後の審判?と表現すればよいのでしょか?
いわゆる「宇宙法廷」では、宇宙図書館=アカシックレコードに記憶されている本人の脳神経細胞回路において
どのような思考あるいは感情(感覚)を経て最終的な「(内面の)選択」がなされたのか?という本人の魂と宇宙図書館にアクセスできることが可能なマスター(賢聖)しか入手出来ない完全プライベートな秘匿情報によって判断が下されるというのです。
そしてケイシー―は障害を抱えて生まれた相談者に語り続けます。
「今世においてあなたが障害を持って転生しようとしたのは、古代ローマ時代において蒔いたこの『カルマの種子』を
自分自身が身体の障害を持って生まれるという一生を捧げる行為によって、蔑みの視線を送られた相手の魂の立場や悲しみ・惨めさを味わい体験しよう、という『愛の意志』によって成就するという魂の“勇気ある”試みなのである。」
「つまり、カルマの法則=『いわゆる蒔いた種は刈り取らねばならない』という宇宙法則は、絶対に従わなければならない物理法則のようなものではなく、魂の自主的・自発的な“愛”の法則なのである。」
「いわゆる神が絶対的な立場から強権的に個人の魂に『来世はこのような人生を歩みなさい』と命令をして、転生をする魂側が嫌々それに同意し人生を歩むということは絶対にありえない。個人の魂の自由と選択を重んじるというのが宇宙の法則なのである。そのことを忘れてはならない。」
そのようなことが書かれていたような、あるいは自分自身の中でそのように感じ取ったのか?
オボロゲデ申し訳ありませんが、「カルマの法則」「カルマの解消」というフレーズを聞いたことがあるスピリチュアルなことに関心のある方にとっては有意義なブログになったかなぁ、と自負しています。
※この記事は、mixiにおいて2006年12月17日にマイミク限定で公開していた日記を再編したものです。
あるマイミクの方の日記で知ったことですが、
世界の政治・経済・・・テレビの中ではさまざまな報道がなされていますが・・・の実情について
ある暴露本が出版されたそうです。
(( 個人的には、本物であると思いましたが ))
結局、陰謀論と呼ばれるものは、この世の中に溢れています。
しかし、世の中を誰が動かしていようが……関係ないといっちゃ関係ないのです。
==============================
「天国を旅するスーザンからのメッセージ」という本が大好きなのですが、
(いま現在、人に貸しているため・・・手元にないのですが)
世の中で何が起きようと、それに影響されない。
自分の人生/生活がいま、満たされているか?
それが大切で・・・人は自分のことにのみかまうことが出来るとさえ言っています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今秋、来日されたアナンダギリさんは、
「社会で起こるさまざまな事件について、それに(テレビ、新聞などで)接した時、どうすればよいか?」という質問に対して
「あなたになにかできることがあれば、それをしてください。
(例えば、事件の被害者が知人であれば、励ましや慰めをするといったことだと思うが..)
なにもできなければ、そのままなにも為さないままです。」
この質問だけではありません。
ギリさんは、何も特別なことは言っていないのです。
~こどものように純真にならなければ、天国に入ることはできない~
ギリさんは、子供のような綺麗な瞳をしていました。
==============================
話がそれましたが、
先日紹介した「ウィングメーカー」ですが。
この闇の権力についても言及しています。
世界政治と経済の現状、そして今後ということについては...
このウィングメーカー情報が―――非常に洗練され、類希な情報であると感じています。
詳しくは、ウィングメーカーⅠ~Ⅲに書いてありますが。
(( 要旨のみ、ここに記せば... ))
世界政治と経済をコントロールしている組織・構造の奥の奥の奥には...
非常に洗練された科学技術(テクノロジー)と高い倫理意識(ただ利己的な野心のみで動いてはいない)を持っていて...
「世界経済の安定」ということにフォーカス/重点をおいているようです。
(※1 世界経済の安定が損なわれればどうなるでしょうか?米国発?日本発?中国発?株式市場のハードランディングが起こったら...20世紀前半に世界恐慌〔日本国内では金融恐慌も〕が起こったように…国単位の経済のみならず、人類の歴史そのものに大きな影を落とすことになるでしょう。無論、個人レベルでも人それぞれ大なり小なり波を被ることになりますが。)
(※2 「世界平和」ということが良く言われています。しかし、(個人的には)世界経済の安定または大変容なくして世界平和はなし―――と考えています。現実的・社会的には...ですね。スピリチュアルな方法ということでは、やはり一人一人が幸せ/Happyになることだと思います。そしてそれは子供たち、動物たち、植物や鉱物、・・・自然と調和して生きるすべてのもの?!・・・が既に実践していることだと思っています。)
===============================
あまり、このような事柄には“関わらない”方がよいという風には考えています。
触らぬ神に祟りなし、といいますからね。
知らぬが仏・・・という気がします。
といっても、知ってしまった後なので手遅れ?ですが。
政治、経済、世界、地球、人類・・・
あまりに「大きな」事柄については、(それこそ)神様に委ねたいと思います。
しかし、時代は―――すべての真実が明らかになり、邪/ヨコシマなことはできなくなる―――そういう良い時代(バガヴァンちゃんの言う黄金時代なのかな?)に向かっていると感じていますし、考えています。
そして信頼しています。
【最後に一言】
これが、当時23歳…18年前の自分の本音かな?と思います。
文章に出てくる「アナンダギリさん」とは、
当時撮影機材およびPCスタッフとして、カルキセンタージャパンというスピリチュアル系イベント会社?!
にて働いていた(といっても臨時・一時スタッフですが…)頃に
2006年にインドから来日された当時20代後半?30代?くらいの若いスピリチュアル教師?
なんと表現すればよいのか?非常に難しいですが、まぁ仏教でいう高僧のような立場の方の日本での講演会に
撮影カメラマン兼「…瞑想中…/Be in silence」というスクリーンを写したりするなどの技術スタッフとして
働いていたわけですな。英語で書かれた彼のプロフィールの翻訳もやりました。
「Jeevashram Boarding School」を「ジーヴァ・アシュラム」ではなく
「ジーヴァシュラム寄宿学校」という風に訳したところが、仏教の専門用語にどっぷりと浸かった代表のOさんには新鮮だったようです。(他のKCJというか、ワンネスムーブメントの当事者の方々の常識からは良い意味で逸脱した=型にハマっていないというところは自分自身の誉れとするところかな?と自負しています。)
41歳の自分が強いて一言申すならば、
30代になってサブスクで何人かの保守系の言論人の動画などを見たり、書籍を買って読んだりするという経験を経て……
歳を取って政治に対する見識が少しは深まっているかな?と思ってます。
優良な情報のチャネルを持って、TVやSNSなどの既存メディアのみでは決して得られない情報やニュースの見方、政治に関する見解を持つことは、とても重要なことかな?とも思ってます。
単なる41歳のオジサンの自己満足かな?という謙虚な自己認識を最後に添えて。