東京大学所蔵の地球儀🌍や

植民地時代のコリア(朝鮮半島)の写真📷

あるいは、全ての公文書ならびに生きた語り継がれている証言



公開すれば、

従軍慰安婦や徴用工問題

も、

南京事件/南京大虐殺

も、

すべては明らかになるでしょう。



TBSの感謝祭の後の、

後夜祭に

満州・満洲/Manchuria

の問題が

出てくるのには、

神の采配を

感じざるを得ない。



そして、

皇后雅子さまの

お父様=小和田絙氏が

国際司法裁判所の長官であるのには…

霊的な意義があるように

思います。

 

■アインシュタインの夢見た超統一場理論は、インドでは既に数千年前から賢者の間で語り受け継がれてきた哲学で氷解する?!

存在するモノ・コトに対して

(質量を持った粒子であれ、対生成や対消滅を繰り返す電子/陽電子=真空であれ)

―――――そもそもの“存在”とは?

という視点で宇宙を覗くのが、

インドの聖古賢者によって受け継がれている“哲学”

です。


その人が語る言葉や表現によって

カラーというか、エナジーというか、

当たり前ですが…異なるので

どれが正しいとか、どれが的を得ているとか、

いろいろ何が一番か?ということにこだわりがちですが・・・


結局、そんなのどうでもよいのではないのではないか?と思います。


有名どころでは、

・あるヨギの自叙伝―パラマハンサ・ヨガナンダ

・聖なる科学―真理の科学的解説―ギャナアヴァター スワミ スリ ユクテス 

などがあります。


以前、紹介した ラメッシ・S・バルセカール さんの

・人生を心から楽しむ: 罪悪感からの解放

・ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの ―時間以前からあった永遠の真実―

・誰がかまうもんか?!

なども書籍としては楽しみ、味わうことが出来ます。

参照(過去記事):「エゴ」について


宇宙の根本原理の“真理”に触れることができる・・・という表現の方が正確かもしれませんが、

「真理」という言葉を使うと日本では宗教的/Religiousな響きがあるのであまり的確ではないというか、

好きな表現ではありません。

「真理」=「Truth」(マコトのコト)という意味で使っているのですが・・・

なかなか一般的に日本では怪しい新興宗教の匂いがしてしまいます。


西洋人でこのことに気付いているのは、世界3大ヒーリングスクールの一つを運営する

マイケル・ママスかな?と思います。

・癒しの鍵―天使、アインシュタイン、そしてあなた

という書籍も出ているので、もしピン!と来るものがあれば是非、読んでみてください。

■日本で―――“本当にホントウノコトガわかっている人”として思いつくのは・・・

・菊池霊鷲

精神世界の人々からは「覚者」として崇められていた女史のようです。
中国から来日した気功師が、「わたしより強い気を持った人は初めてです。私があなたにできることはありません。」
というエピソードをどこかのWeb上で読みました。

個人的には、ホントウノコトがわかっている叡智ある可愛らしい“おばあちゃん”と言った印象です。
天然エピソードも豊富なユニークでユーモアのある面白い人物だったことは間違いないようです。
→参照:太母語録:ユーモア編/http://www.iii.ne.jp/kikuchi/tamo-1.htm
YouTube:菊池霊鷲(太母-たも)さん 「太母さんを囲んで」★★★必見!!!
https://www.youtube.com/watch?v=WF5YbbRYyt8
※過去記事:波動の本質と光の使者からのメッセージ
http://blog.livedoor.jp/hado_technology/archives/51993998.html

 

※2024/12/06

YouTube動画を

貼り付けました。

・植原紘治(ルンル)

一般的には、ルンルと称される速読法の実践者です。
速読法というと、1分間に何文字~何ページ本が読めるか?といったものをイメージしますが、
ルンルは、全く異なります。どんなものか?は、公式サイトを訪ねたり、
「ゆるんだ人からうまくいく。CDブック サイバーリーディング ルン・ル」
「わたしにうれしいことが起こる。ゆるんだ人から叶っていく」
などの書籍を購入したり、付属のCDで実際にルンル速読法を体験してみることをオススメします。
植原先生の独特の(ホントウノコトガわかっている人の深い神妙な響きの)声による誘導瞑想が体験できます。
※YouTubeでも、様々な動画も視聴できるようです。
 

 

※2024/12/06

YouTube動画を

貼り付けました。


・酒井一郎

この方は「ブッダ宇宙論」という本を書き、25歳で急逝された方なのですが、
小林正観さんの本で紹介されていたからという理由で、どんなことが書かれているんかなぁ~
という安易な気持ちで購入しました。初めて読んだ時の感想は、訳の分からないよくわからない本だな。
ま、時が変われば…また読みたくなるかもしれないから…と思っていたのですが。
この本が訴えていることが、なんとなく伝わってくるモノがあり、今ハマっている本の一つです。
時が変われば、読むべき本?読んでいて色々吸収できる本!が変わってくるのですね。
著者の酒井一郎さんについては、別の機会を見てブログで記事を書こうかな?とも思っています。

※その他―――日本人で3人ほど、昭和~平成を生きたスピリチュアルな教え(レッスン)を説く
話している内容もエネルギーも素晴らしい方が3人ほどいるのですが、それはまたの機会に譲ることにします。

 


■「悟り」とは?

「悟り」とは、
さとり=差+取り=差を取ること=ワンネス
という解説をするとあるヒーラーがいました。

私は、彼の主張というか思考回路に反対です。

この世界は、単一性と多様性(ダイヴァーシティ)の2つの側面があります。

「ワンネス」=すべては“ひとつ”・・・という彼の中のヴィジョンというか、
宇宙の単一性のみに偏って、その陶酔感に酔っているという
美的センスありきで、このような思考回路というか言葉遊びをしているんだな。
というのが私の率直な印象です。

「あなたはわたし、わたしはあなた」というタイトルの書籍も確か出していたと思うのですが、
個人的には真逆の「あなたはあなた、わたしはわたし」という認識を持っています。
バーバラ・ブレナン的な観点からすると“Boundary/境界”に問題のある方と判断されるのではないかと思います。
2人の人間がそれぞれに独立して個々に生存し、その場を共有しているという認識を超えて、
異なる2人の存在がその違いや境界を無視して1つに融合する、手を取りあって一つの輪になる、
そんな観念に美や快感を感じるそんな価値観のように思えるのです。

この宇宙は、クォークやレプトンなどの素粒子でできているという宇宙の単一性/あるいは人間みんな同じ・人類皆兄弟じゃないか!という単一性と同時に
さまざまな人間、動物、植物、鉱物、惑星、恒星、隕石、etc....さまざまな多様性=ダイバーシティを受け入れ、楽しんでいくことが出来るという両面が共存していると思うのです。

一般的に“悟る”というのは、Aという言葉・概念はこういうものだと思っていたけど・・・
人の話を聴いたり、書籍を読んだりして、ああ実はこんな状態を説明するときに用いる概念というか言葉だったのか!
という発見!本当の意味/それが表す事柄を知る・・・光明が差す・・・頭の中の整理がついた状態・・・そんな意味で使われるのが一般的ではないでしょうか?

ですから、悟る・・・あるいは、あの人は悟っている/悟っていないという言葉を使う時に最も的確だと思われるものは、

光明を得る・・・頭の中がパッと光るように“気づき”や“プチ発見”をするとか、

話を聴いたり、本を読んできたりして・・・何とも言えない、言葉では表現するのが困難な…でも確かに何かのモノゴトの真実/真相=Truthに迫っている!と感じさせる人や話を聴いたり読んだりして、「あぁ、この人は真実の悟りの境地に入っている人かもしれない」と思う時に使うのが本来の使い方なのではないかなぁ~と思います。

悟りというのは、英語圏では
Enlightenment=En+light+en+ment
(光り輝かせること)
というのが原語だと思うので、

日本語では、「光明を得る」という表現が最も正確な翻訳ではないかなぁ?と思います。
しかし、正確には・・・知性や頭脳(マインド)、ハート、魂、ココロに光が差したというイメージだと思うので、
「光明を得る」という日本語も
Enlightenmentの訳語としては、100%正確とは言い切れないでしょうね。


今、巷?ワイドショー!を騒がせている兵庫県知事問題について私見を述べさせていただきます。

まず、はじめにこのニュースを耳にしたのは・・・

兵庫県の県知事に対する不正や問題を告発した県職員を

県知事の権限で特定し、懲戒解雇させたとか?懲戒処分中に自殺した?とか

そんなヤヴァイ人がいるんだ!というのがまず第一の印象でした。


大手の民間だろうが、お役所だろうが、「トップの不正を告発する」という仕組み

があり、告発した者にはその秘匿性が守られる・・・というシステムがあり、

だからこそ企業統治や行政機関(中央省庁や都道府県庁)の健全性が保たれる

そういう基本がわかってない?!そんな県知事いるの?????


というのが驚きでした。

その兵庫県知事に対するワイドショーのイメージダウン戦略

~政治的な意図はなく、ただ視聴率が稼げるから面白おかしく、知事の傲慢な言動・態度を暴露する~

もあり、結局、県知事の座をおりることになるわけですが。


選挙では、ワイドショーなどのイメージダウン戦略に対抗して「知事としてのこれまでの実績」や

「(マスコミのイメージ戦略では、悪い悪いと言われているが)そんなに悪い知事ではないのでは?(という反発する
イメージ払拭戦略)」

をYouTubeやXなどで展開したことが知事再選に繋がったとしています。


県知事は政治家ですから、「政策」を実行してよりよい社会を築くというのが第一に大切なことなので・・・

TV・ワイドショーのイメージ戦略に踊らされてきた…昭和・平成の時代とは異なり、

選挙のあるべき姿/本質的な目的…よりよい政策を掲げ、実行してくれる知事を選ぶ…というポイントが

第一にあるべきだと思うのですが...


テレビ番組で選挙に行き投票をした人にインタビューした映像を見ると、

・そもそもなぜ、県知事としての不適任性を問われたのか?

・公益通報という制度の重要性

ということはどうでもよくて(?)


・テレビで騒がれているような悪い人じゃない!

とか、

「印象」や「イメージ」で選挙の候補者を選ぶ・・・という日本人のレベル(民度の低さ)を

感じました。

※その一番の原因は、マスコミ・TV番組が 自民党総裁選なり兵庫県知事選なりの候補者の主張・政策などを
深堀して、総裁なり知事になって政務を行いたいという情熱(Passion)や志(ココロザシ)を15分でも30分でも

主張したり相互に議論したりするなどを放送プログラムとしてどこかの放送局(地上波TVでもAbemaTVなどのネット世代のTVShowでもYouTubeでも)時間を取ることが大切なのではないかなぁ~と思います。

個人的には、テレビ番組で斎藤知事を批判し、そのイメージを貶めるようなワイドショー番組に対しても・・・

YouTubeやXで拡散されている斎藤知事の悪いイメージを払拭し、善良な実績や政治家としての志・実績などにも目を移してテレビでは報道しない政治家としてのポジティブな側面を広く人々に伝えるYouTubeやXに対しても・・・

どちらもなんとも思いません。人間というのは、光と影ーーー善行と悪行ーーー愛される側面と嫌われる側面・・・さまざまな側面を持っている存在だと思うので、出来る限りのすべての情報を総合的に収集して、その実像~虚像を見極めつることが大切だと思っています。

まあ、どんな経緯であれ県知事として再選された斎藤知事には、
 

県民のためになる行政サービスや県全体の経済を活性化させるような政策の実行、etc....

県民のために奉公していただいて、決してまた不遜な態度を県職員にとらないよう

身を引き締めて公務にあたってもらいたいものです。

※この記事は、mixiにおいて2006年11月30日にマイミク限定で公開していた日記を再掲載したものです。

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 1/fのゆらぎ というものがあります。

 ピンク・ノイズとも言われていますが。

 自然界に多く存在し、人間の耳に入ると・・・心地よく感じる音の一種です。

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 水の結晶などを通して「波動」ということが、科学的に研究されています。

 よく「良い波動」と「悪い波動」という表現があります...

 愛と調和はプラス(+)で、自我と欲はマイナス(-)という風に聞いたことがあります。

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 精妙で美しく清らかな波動 と 汚れた醜い波動 という風に表現すれば...

 美しく清らかな方が――イイです。ね?!

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 しかし、潔癖主義も行き過ぎると――楽しくないです。

 人間、生きていれば――清濁、併せ呑む――といえると思います。

 とにかく、本人が――幸せで、健康で、歓びに満ち……楽しく

 毎日を生きていれば よいのでは? と思いますが。

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 結局は、「バランス」の問題というのもあるかも知れませんが...

 “多少”の「エゴ」が残っていても――慈悲と絶対的な愛に満ちた宇宙の海は、心地よく感じているかも。とぼくは思います。

 あまり、「エゴ」が多いと――痛い目?にあってしまうものなのかも知れませんが(う゛~~~)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ぼくは「エゴ」という言葉を使いましたが…「マインド」ということについても当てはまるかもしれません。

 「マインド」とは?なんでしょうか???

 「マインド」とは――英語でMIND(名詞)/「心」・「頭脳」という意味です。

 「心」そのものが“いけない”ものなのでしょうか?

 「頭脳」そのものが“いけない”ものなのでしょうか?

   (日本語で考えてみれば・・・よくわかります(>_<)" )


 ぼくの見解では、

    「ヘルシー・マインド」(健康的な心)
         と
    「アンヘルシー・マインド」(不健康な心)

と2種類あると思います。


ちなみに、動詞のMINDでは「気にする」「思いわずらう」という意味もあるので・・・小学校の頃、スポーツをやっていて仲間がミスした時に「ドンマイ/Don't mind!!」と声を掛けていたときの“あれ”ですね・・・


Don't mind your mind too much!!
(あんまり「マインド」「マインド」って気にすんなって!!)

アメリカン・ジョーク?ですね。
(インド滞在中「マインドがうるさくて」といっていた同室のKさんに贈った言葉です。)


※BBSHヒーリング科学の点から見れば、
――第3チャクラの整合された状態とそうでない状態の働きという表現になるかな??

※ラメッシさんは「Working Mind」と「Thinking Mind」という表現を使っていました。(「人生を心から楽しむ~罪悪感からの解放~」より)

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最後に、大好きな…でも僕にとっては、未だ“神秘的な輝き”を放っている…ラメッシさんの言葉より


   自由が起こるのは

   「私は自分自身の意志によって

   自分の人生を生きている」

   という愚かな観念と傲慢が落ちるときです。


※この言葉の意味を―――本当にカラダで実感し、体感し味わうことができる“とき”が僕にも来るのでしょうか?

ま、できることはがんばって、神の意志にゆだねる以外にありませんが・・・・・・・・


【41歳の自分の付記】

■ラメッシ・S・バルセカール(Ramesh S. Balsekar):

1917年、インドの中流家庭に生まれる。
大学を卒業後、銀行に勤めながら、妻と3人の子供を養い、最後は頭取として手腕を発揮する。
銀行を退職後、師であるニサルガダッタ・マハラジ
(Nisargadatta Maharaj)に出会い、覚醒る。
それ以後長年、ムンバイの自宅や欧米で、世界中から訪れる探求者たちの質問に答える日々を送り、2009年9月に92歳で生涯を終える。
著書に、『人生を心から楽しむ』(マホロバアート発行 現在絶版)他多数。

※amazonのレビュー欄で
株の掲示板でラメッシ・バルセカールの本をバイブルにしているという人がいて
その掲示板がきっかけで彼の本を読むようになった・・・という人がいました。

株をやっている人の中にも面白い人がいるもんだなぁ~と感心しました。
 

■ラメッシ・S・バルセカールについて「わかりやすく」かつ「貴重で多様な情報」に溢れたページを紹介します。

 

ラメッシ・バルセカールは、欧米では、「最後にたどりつく先生」という異名があり、その意味は、色々な先生、色々な修行の場をまわって、それでも満足できない人たちが最後に教えを請う先生という意味である。だから、彼は有名にはなったけれど、実際に彼に会いに行く人は、他のインドや欧米のカリスマ的導師たちに比べれば、それほど多くはない。

 

 

■水泳部で強健な肉体を持ち、性格も明るかった唯一無二の親友が、突然「自殺」という手段で自らの命を絶ってしまった

中学三年生と高校一年生の時に同じクラスメートで

高校の時は左後ろの席に1度席替えがあったのに、神の采配?物凄い確率=奇跡で同じ前後の席を過ごした、

水泳部に所属する友人がいました。


個人的に気に入られ、水泳部に入って欲しい、一度でも見学に来て欲しい、と懇願されましたが・・・

小学校の頃から、体育――とくに水泳(プール)の授業が苦手で、小学6年生の時にようやくなんとか25mプールを端から端まで

息継ぎのようなことをしながらクロールで泳げる・・・平泳ぎはどうやって足を掻けば良いかも、解剖学的によくわからない・・・

そんな水泳=大の苦手という意識のある人間だったので、彼の「水泳部に入って欲しい」という情熱よりも、

幼稚園の頃、水泳の習い事に通っていたのに、まともに泳げない・・・という僕の“水泳コンプレックス”が勝って、

一度も水泳部の練習に見学にさえ、行きませんでした。


後に高校2年生に上がる時のクラス替えで

彼とは別々のクラスになってしまい、5月の運動会に審判団に入り、ルールを覚えたり、ミーティングに参加したり・・・

また中間テストの勉強も準備が間に合わずに、「学校に行きたくない」という思いが試験当日に母に伝えても無視され、

通学のためのJRの満員電車にギリギリのタイミングで乗るか?乗らないか?という瀬戸際に「乗らない」というフレーズが頭の上に浮かび

電車を乗らずに、家に帰り・・・中間試験のテストをさぼってしまった!ということが契機となって―――

夏休み明けまで続く、不登校になってしまったという過去があります。


学校に行かずに、家で悶々と過ごしている時は、

高校1年生の時に「あんなに熱心に水泳部に勧誘してくれたのに・・・なぜ一度も、応えてあげなかったんだろう。」

「水泳部に入れば、肉体を鍛えることができるうえに、同級生や先輩・後輩との交流など・・・高校生の人間として必要な経験ができたのに・・・」

と自分自身の選んだ選択を後悔する、という時期がありました。


結局、僕は映画か?VHS?で見た「もののけ姫」のエンディングの

「アシタカとサン」をピアノで弾く練習をする!という音楽セラピー

~誰かにアドバイスされたのではなく、有り余る時間を使って自分の魂が本能的に欲した療法~

を通して、自分自身の魂とココロが癒された、という経験があります。

夏休み明けの2学期には「絶対に、学校に行きなさい!」という母の命令?通り、

学校の教室に早めに行き、席につき・・・久しぶりの自身の登校に・・・

「どんな言葉を掛けられるかな?」という不安なココロを押し殺して

ただ前を向いて視線は少し下にして、じっとチャイムが鳴って授業が始まるのを待っていた、という記憶をはっきりと覚えています。


その後、「〇〇ちゃ~ん(僕の下の名前)、学校に来てない間、どこ行ってたのかなぁ~?」と友達のような友達でないようなクラスメートに問われた際、

自分:「あ~、ちょっとね。自分の故郷(ふるさと)の星まで帰省してた。」

クラスメート:「えっ?マジ」「どこの惑星よ?」

自分:「プレアデス星団アトラス星!」

クラスメート:「・・・」

という会話をしたせいで、UFOに乗って宇宙人に連れ去られていた説が学年中?に広まっていった?!

というエピソードを最近になって再発見しました。


結局、高校2年生の秋になって・・・

大学受験のための塾に行かなければいけない~という雰囲気の中で

水泳部の彼と同じ塾を選びました。


彼は、東京大学薬学部志望でしたから・・・

(理系で生物・化学が得意だったんでしょうね。お母さまが薬剤師でもいらっしゃったからかもしれません。)

僕は、京都大学工学部建築学科志望だったので・・・


数学の授業と英語(英作文)の授業が同じで・・・

帰りもJR中央総武線の水道橋から同じ方向だったので、帰りに一緒になり電車内でよく話をしました。
(彼の親友Tくんと3人で)


それぞれ志望する大学に入学し、彼は東大で・・・私は京都で一人暮らしをながら、新たに同じ学部やサークルなどで友達を作り・・・

それでも夏休みなどに帰省する際は、必ず会っていました。


私は、2年半通学し、1年半休学し、4年経ったところで自分の意志で中退をしました。(家族に相談もしませんでした・・・)

一方、東大ならではのシステム=「進振り」という1~2年生まではリベラルアーツといって一般教養を幅広く学び、

3年生の時に自分の志望する学部に、1~2年生の時の成績などが良い人から入ることが出来る、というシステムを取っています。

彼は、薬学部志望で東京大学理科二類に入学したけれども、時間にゆとりのある大学生の時代に“文学”の世界にハマってしまったようで、

文学部への編入を志望するようになったようです。


そして、鍛え上げられた肉体を持っているにもかかわらず、

その魂は・・・自分がどういう将来を生きていくべきか?についての明るい展望を持てなくなってしまったようです。


結果的に一度、睡眠薬の大量摂取(いわゆるオーバードーズ)で自殺未遂をして、たまたまお母さまに発見されて・・・

救急隊が駆け付け、胃を洗浄する?・・・などの応急処置で一命を取り留めたようです。


そして、東大の5年生から6年生に上がる直前の3月下旬に・・・二度目のオーバードーズでこの世を去ってしまいました。


■「自殺」/「自死」すると・・・どうなるんだろう?という思い~想い

彼の葬儀が千葉のある教会で行われるということで

人生初の葬儀=親友のカトリック式の葬祭でした。


一年後には追悼ミサにも参列しました。

彼のお父さまやお母さまと少しお話させていただいたり、

彼の遺作である本(彼の書いた文学作品+両親や友人のコメント付き)を郵送で受け取り

読ませていただく中で、


彼は、お母さまが聖母マリアに「子供を授けてください」という祈りをしたら

(結婚して長らく子宝に恵まれなかったが)高齢にもかかわらず、祝福されて生まれた一人っ子である、ということ。


彼の死を通して、お父さまがキリスト教に目覚める!キッカケとなった。

ということを伺いました。


両親にとっては、キリスト教の親交を深めるために・・・転生してくれた高貴な魂であった・・・という印象を持ちました。


※たぶん、葬儀の時に配られたモノだと思うのですが、

1歳児くらいの幼子イエスを抱く聖母マリアの肖像画の裏に

「幸せな人、神の言葉を聞いて
   それを守る人。

ヨゼフ   〇(姓) 〇〇(名)

        一九八三年三月〇〇日 生
        二〇〇六年三月〇〇日 帰天」

と書かれた名刺サイズのカードがあります。

ヨゼフというのは、いわゆる洗礼名なのでしょうね。


当時、僕はサイキックチルドレンという・・・

あの世とこの世の境界/肉体と魂の境界を越えたところで

生きている=第三の眼を持つ脳障害児(2006年当時・7歳)Kくんのリハビリプログラムのボランティアに行っていたので

自分の親友が自殺で亡くなったことを相談しました。


彼は、ジョーク以外は真実しか口にしない、という高潔な人格であり、魂の持ち主と感じます。

自分の知りうる彼の死の真相について話した後、

Kくんは「お空の愛に溢れたところにいるよ~」という発言はせず、

彼の魂がいまどういう状態にあるのか?(自分が死んだことを自覚しているのか?)

僕にどのような言葉を掛ければ、僕にとってプラス(癒しや慰め)になるか?といったことを

必死にあの世=実相と繋がった彼の脳内で必死に情報検索している・・・

そんな印象を受けました。

結果、あまり多くを語らなかったような気がします。

僕の一縷の望みとしては、彼の高潔な魂だけがもつ法力で

彼がもし万が一、暗闇の世界に落ちてしまったなら、光の世界へ救い出してほしい!

そんな下心もあったのは、恥ずかしいですが、事実です。


彼よりも彼のお母さんNさんが掛けてくれた

「もっと前から(自ら命を絶つことを)わかってたんじゃないかなぁ~」という言葉は、記憶にあるのですが。。。


両親が葬儀のミサを行った教会では、

肉体を飛び出した彼の魂がキリスト教の儀式によって、イエスキリストに導かれ…すぐに天国に入った

という表現を突然の自死で悲しみのどん底にある両親に掛けたそうです。

(しかし、バーバラ・アン・ブレナンのように彼のアストラル体≒魂を視たわけではなく

 ただ共有するキリスト教の世界観の中で、精一杯掛けられうる善の言葉=安心させる表現をしたにすぎないのでは?と思っていました。)


僕は、この後・・・「天国を旅するスーザンからのメッセージ」という送信側も受信側も職業:弁護士という特異な霊界通信本に出会います。

その中の文章を読むことで、彼の魂というか潜在意識が置かれた状況というものを理解する大きな一助になりました。


ここに一番ユニークでオリジナルで素晴らしい示唆に富んだ6ペ-ジ分を転載します。

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第二部 死についての他の側面

第七章 自殺と安楽死

 自殺や幇助死についてはどうでしょう。ある意味で、すべての「死」は自殺であるとも言えます。私たちはそれぞれ死ぬことを選択するのですから。「死」は、たとえそう見えたとしても、不本意の行為ではありません。
 殺人であれ、死刑の執行であれ、事故であれ、戦争、疫病その他、どんな場合でも違いはありません。すべての死の日時、方法、場所は、実際の出来事が起こるよりもはるか以前に決定されていたのです。人生のすべての出来事は偶発的なもので、「死」も同じように偶発的に起こるはずだ、という集合意識的な人びとの思い込みからはそのように見えるだけなのです。
 人は、誰かが死んだり、死にかかっているという知らせを受けると、それを悲劇だと思うでしょう。しかし、「死」はいかなる事情であれ悲劇ではありません。それは常にひとつの「機会」なのです。私たちは「死」によって別の世界に移行できます。そこにはさらなる人生が続いていて、成長と学びの機会がたくさん待っているのです。
 皆さんはこう思うでしょう。
 「それならなぜ、もっとやさしい死に方を選ばないのですか?」
 私が伝えたいのもそこなのです。より優しい死を選ぼうではありませんか。
 私たちは、何ヵ月も何ヵ月も拷問を受けるように癌が肉体を蝕むのを見て、苦痛の中で生き延びるよりも、なぜ一発の銃弾を頭に撃ち込まないのでしょう?
 なぜ、殺人音が撃ち込んだ弾丸を頭から取り除く代わりに誰かに殴ってもらい、昏睡状態におちいる前に命を断たないのですか?
 なぜ、自動車の玉突き事故で押し潰されて死ぬ代わりに、獣医が犬にするように、安楽死できるよう注射を打ってもらわないのですか?
 なぜ、病院の集中治療室で刺すような痛みに耐えながら、心臓が再び始動するよう医者が皆さんの胸にパドルを当てて、身体に電気を通してもらう代わりに、戦場の地雷で自分を吹き飛ばさないのですか?
 バーン! 皆さんはあっという間に死んでいます。
 皆さんがどんな死を遂げようと、それは問題ではありません。それぞれの死には、長所もあれば、短所もあるのです。皆さんは、殺人の犠牲者に同情するかもしれません。「まあ、この人はこれから人生が花開こうとしている矢先に、他人のために命を縮められたんだわ」と。
 しかしその犠牲者は、死ぬことに数ヵ月かけて馴染むために、しばらくのあいだ病床で生きながらえることを望んでいたのでしょう。
 それでは、なぜ安楽死はいけないのでしょうか? 他の幇助死についてはどうでしょうか?
この本の読者である皆さんは、私が死ぬまでの数ヵ月間、惨めな状態から早く抜け出ることをどれほど懇願していたかご存知でしょう。
 私にできることは、せいぜいケボアキアン博士【訳注1】に電話するのを押しとどまることでした。もし彼が飛行機で飛んできて、惨めさから私を救い出してくれさえすれば……。もし彼が、そのときミシガンの法廷で、自己防衛のために忙殺されていなかったら……。私の終末を目撃した人たちは、私が苦しんでいるのを見ながら、私が幇助死や安楽死を心から望んでいることを知っています。
 でも今振り返って見ると、そうしなくてよかったと思っています。私の「意識」の一部は死ぬことを懇願しながら、大部分の「意識」は、癌にかかっているあいだいつも癌に歩調を合わせ、その期間をできるだけ引き伸ばすようにしていたのです。ただ、あまりに肉体の痛みがひどかったので、そのことを自覚できなかっただけです。私が自覚できたのは、肉体的な痛みだけでした。そして、なぜこんなに苦しむのか不思議だったのです。
 今になってみれば、その苦しみは、必要なものだったことがわかります。私は長く苦しい「死に方」を計画したのです。なぜなら、私がそのような「死に方」を望んでいたからです。
 痛みというものがどういうものなのか。痛みについて何もかも知りたかったのです。痛みが私の意識を奪い、焦点のすべてになって欲しかったのです。というのは、痛みの中で、私か到達しようと懸命に試みている新しい「意識レベル」がやってくるからです。痛みには、注意をひとつのことに集中するメカニズムがありました。あたかもふたりの武将が戦場で互いに対峙し、それぞれに決意が強く、一歩も引き下がろうとはしないときのように、私の集中力は研ぎ澄まされました。そして痛みに対面し、痛みとひとつになるにつれ、日増しに勇気がわいてきたのです。
 苦痛の極みと、歓喜の極みは、それほど違わないと聞いたことがあります。想像できる痛みの極みの体験をした私は、この意見が正しいと誓うことができます。
 つまり癌との闘病期間が、私に成長と悟りをもたらしたのです。苛酷な痛みと苦しみの果てに、私は、愛するとまではいかないにしても、それとひとつになり、抱擁し、敬意を払うことを覚えました。すでに私は強烈な経験をしていたので、この時点で私を動揺させるものはほとんどありませんでした。もちろん、死ぬことは恐ろしいことです。けれども、私は生き延びて、その痛みを乗り越えました。そしてそのお陰で「気づき」を成長させることができたのです。
 この章で私は、自殺や幇助死が、適切な死に方かどうかというところから話を始めました。また、痛みと苦しみの価値について長く書いてきたので、皆さんは、きっと私が殉教者の立場に立ち、自分の意思で自分を殺すべきではないと主張すると思うでしょう。
 でも、それは違います。もし教会が、「自殺は大罪だ。あなたは永遠に地獄の業火の中に投げ込まれるだろう」と言ってもそんなことは少しも気にすることはない、と断言します。
 私は、自殺によって人生で自分がかかわったすべてのことを完了しなかったことを後悔している人たちにも出会いました。彼らは、もう一度皆さんのところへ戻って別の人生を生き、やり残した仕事を完了したがっていました。
 逆に、自分の自殺を自己救出だと考えている人たちもいました。彼らは、人生の袋小路に入ってしまって、そこから逃れる術がわからなかったのです。その中でもがき続けることをやめ、彼らが本来進むべき道に復帰するために、自殺という手段をとったのです。
 そんなことをするべきではないと言う人もいます。「あなたが窮地を作ったのなら、その結果とともに生きるべきだ」と。このように非難する人たちは、たとえば「破産の申請」を法律が定めた「再生」という意昧にとらずに、個人の失敗によるただの不名誉と見なしている人と同じです。
 しかし、他人がどう言おうと、どう考えようとかまわないのです。教会、政府、隣人がどのように考えようとかまいません。大切なのは皆さん自身です。皆さんが何を信じるかです。皆さんの心の奥深くの静かなところ、皆さん自身だけが内部に到達できるところで発する、小さな声は何と言っていますか?――「よし、やろう」「いや、やめよう」「ちょっと明日まで様子を見れば」――皆さんの「内なる声」は真実を知っています。その導きを信頼してください。
 私が、耳を傾けたり信じたりすることを学べたのは、私にささやきかけるこの「内なる小さな声」のおかげでした。この内なる小さな声が、明日、何か起こるかを静観するように言ったのです。明日に、明日に、そして明日に。私は、毎日を、一日ずつを生きることを学びました。
 ある日、目を覚ますと、痛みはなくなっていました。
 そして全能の神の光の中で私は浴し、愛と思いやりの癒しが痛みの記憶を洗い流しました。そしてそれは、かつてどんな気ままな夢でも想像できなかったエクスタシーに変わっていました。そのとき、自殺であろうと幇助死であろうと、はたまた安楽死であろうと――皆さんが好きなように呼んでください-その問題は、事実上、意味を持たないのです。


【訳注】
〔1〕ケボアキアン博士 末期患者の自殺を幇助している退職医師。彼とその患者は安楽死を法的に認めるべきだと主張している。彼は何回も殺人容疑で裁判にかけられるがその都度無罪となる。最近いくつかの州で末期患者の安楽死を認可する州もでてきた。


===================================================

■自分の中の「自殺」=「自死」観

彼は、大学の頃から所謂“うつ病”の症状を呈し始めたようですが、

僕は、高校生の頃からその気がありました。


僕は、その頃から・・・近所や学校近くの図書館をはじめ、本屋では立ち読みをして

はじめは、心理学の本などから自分自身を癒すためにいはどうすればいいか?という実益を追求するために・・・

後にはそれが“霊的な世界”に対する探究というものに変化していきました。


霊的な世界についての情報があるが故に、安易に自殺するという選択肢を考えたり、具体的に企図することすら、ありませんでした。

しかし、この世から去って霊的な源泉=あの世に帰りたい!という・・・

いわゆる「自殺願望」ではない・・・「帰郷心」のあの世バージョンという思いを常に持っていたようですし、

母も「20代の頃から“早くあの世に行きたい”と言っていたねぇ~」と回顧するくらい、

肉体を去った魂の世界=「あの世」に対して「帰郷心」を抱く青年でした。



「オーラの泉」という美輪明宏氏と江原啓之氏がゲストのオーラの色とその意味、守護霊や前世について霊視したり、

人生のアドバイスを授けたりする番組が一時ブームになりました。


美輪明宏氏の影響で

“自殺しても意味がない。死んでも人は生まれ変わる。今世で悩み苦しみに耐えきれなくて自殺した人は、

また生まれ変わって同じような悩み苦しみを味あわされることになる。次は自殺しない!という選択を魂がするために・・・”

という教えを受けていたので、安易に自殺することは“決してしてなはならいことだ!”という意識がありました。


この美輪明宏氏のメッセージは、霊的世界を肯定していても・・・

安易に自分の意志で“生と死の境界を越えてはならない!”という重要な教訓/レッスンを含んでいると思います。


■誰もが一度は考える・・・「人は死んだらどうなるか?」というシンプルな疑問

死後の世界に対する探究は、高校生の頃から始まり・・・30代になっても続きます。

「死後の世界について」 - April 17, 2021

というタイトルのブログ記事も書いています。

http://blog.livedoor.jp/hado_technology/archives/52007725.html


僕が高校生の頃から尊敬し、敬愛していた「バーバラ・アン・ブレナン」女史が

新著「コアライトヒーリング」下巻で、第11章~第12章と二章分に渡って

「低次アストラル界」について解説しているのには、驚かされました。


上記の過去ブログ記事の中にも
「バーバラ・ブレナンは、アストラル界やHEFの観点から、自殺は不毛である、と痛烈に語っています。これも霊界の真実でしょう。」

と記しましたが、

「自殺」/「自死」で亡くなった彼も、低次アストラル界を通ったのでしょうか?



「ジュリアの音信」という霊界通信にも、

・・・自殺した魂は他者の生命と同じく大切な「自分の生命」を殺した罪というものを負わなければならない。

霊界では、暗い箱のようなところに閉じ込められる…という苦しみを味あわされる。・・・

といった表現を読んだことがあります。



「地獄なんてないさ♪死んだらみんな天国に行くんだ!」というのは、

明るく陽気な発想ですが、

“地獄の存在を信じること”の教育的有用性

=この世にある社会的悪(殺人、強盗、暴行、詐欺、横領、・・・etc.)を少なくすること

に貢献しないでしょうか?


そもそも、“魂の存在=死後の意識の継続性/輪廻転生のシステム”を

「信じる/信じない」というレベルではなく、“宗教”という機構や枠組みにお任せするのではなく、

「哲学」「倫理」の授業の一環として・・・

前世退行療法(催眠で前世に関するトラウマを癒す手法)や幼児の胎内記憶~前世紀億に関する調査・研究を紹介したり、

霊界通信に関する本を何冊か読んで、その共通項や違いについて議論したり考察したりするとか、

臨死体験の研究に関する本を読んだり、ロバート・モンローなどの幽体離脱に関する研究に触れたり(日本では木内鶴彦さんが著名)、

沢山の人々の死と隣り合わせの救急医療現場での医師の証言に触れたり(東大病院に勤める矢作直樹さん)、

眠れる予言者、エドガー・ケイシーのライフリーディングに関する著作に触れたり、

ヨーロッパのスピリチュアリズムに関する著作に触れたり、

精神分析の大御所、C・G・ユングも晩年、注目した「チベット死者の書」に触れたり、・・・etc...

教育業界として出来ることはたくさんあるのではないでしょうか?


“あの世”に関する情報に触れることで

人生をより良い方向に変えることが出来る!


それは、ひとつには・・・犯罪・詐欺・汚職など、悪の道を歩まないようにする・・・ということであり、

ふたつめには、自分の人生=現在置かれている状況、環境をありのままに受け入れ、どんな状況も変化=好転するという“希望”を持ち、

何歳になっても人生は自分の意志と選択で変えていくことが出来るのだ、という人生のエールを送ることに繋がるのではないか?と思います。


そのような意義があると確信しています。


■23歳の誕生日3日前に自死した“彼”の世界

このブログ記事を書いているときに

彼が残した文章(中学~高校の文集や小説家を目指していた大学時代に残した遺稿を遺族の両親がまとめた著書)を直接読む機会がありました。

その中で発見というか、再確認したのは・・・

彼の内面に大きく影響を与えた存在のひとつが「尾崎豊」さんだったということです。

彼がカラオケで尾崎豊の歌を好きで歌うのを聴いたことは1回だけだったような気がしますが。

ただ歌が好きというレベルを超えて、雑誌記事や著書などを通して「尾崎豊」という存在が発しているコトバ~メッセージに傾倒していた、というのは・・・

紛れもない事実だったと、いうことが一友人としてはっきりと証言できます。


そして、尾崎豊さんも26歳の若さで大量の覚醒剤服用(オーバードース)で亡くなっているという事実。

他に、いわゆる「人生のモデル」となる人物が辿った道を、結果的には同じように辿ってしまった・・・という

なんとも表現しがたい・・・悲劇的な運命という風に言えると思うし。


小さい頃からカトリック教会に通い、西洋的=キリスト教的な世界観の中で育ったようですから、

「魂の生まれ変わり」という概念というものが欠落しているなぁ~という思いもあります。


いずれにせよ、『死後の世界』に関する情報の欠如が・・・彼の死を招いたのでは?という発見がこの年になって生まれました。

死後の世界について・・・何度も繰り返し、その実態についての記述を読む耽ることの重要性を説く文章が霊界通信にありますが、

人間の死亡率は100%ですから(笑)・・・誰でもいつかは扉を開けることになる「天国のドア」

あるいは「地獄のドア???」のその先にどのような世界が待っているか?ということについて

知ることは、“これ以上ない”『重要な知識』と言えるのではないでしょうか???

■「なんでこんなにひっきりなしに息をするの?」―――という質問に対する誠実な解答?!

僕が思いついた回答は、

「息を吸ったり吐いたりして、呼気(アウトプット)と吸気(インプット)を繰り返さないと
 空気(窒素約70%+酸素約30%)の循環が起こらないから。
 ※吸気より呼気(吐く息)の方が酸素濃度が下がり、二酸化炭素濃度が上がるので、
 人間もとより動物の肉体は、体内で酸素を吸収し、二酸化炭素として排出されるということが
 自然科学=医学的に検証されているから。
 循環が起こらないと=息をしないと・・・肉体がその機能を維持できないでしょ?」

という感じです。
(ちょっと長いですが・・・)


放映された専門家の回答??―――NHKのテレビマンが企画会議の末、考え出した回答?!は、

「酸素が毒だから」

というものでした。


え???

「酸素が毒だから」

体内では“活性酸素”とか―――“酸素”が『毒/Toxis』として作用することもある!

ということは知ってるけど・・・

え?どういうこと?????

と思い、

食い入るようにTV画面を見ていたのですが、

用があって何分間かその場を離れてしまったら

次の質問に移ってしまっていました。


あー、なぜ―――

「酸素が毒だから」



「なんでこんなにひっきりなしに息をするの?」

という“疑問/問い”に対する“解答/答え”になっているのかな?

知りたかったなぁ~~~

という思いが残ったまま、別の用をしてしまいました。


たまたま土曜日の朝、早く起きて―――

母が珍しく昨晩の「チコちゃんに叱られる」の再放送を見ていて

ちょうど、この(2番目)テーマの冒頭部分だったので・・・

昨晩、頭に「?(クエスチョンマーク)」が浮かんだままだった“モヤモヤ”を

解消したい!と思い、ジーッと集中して番組を視聴しました。


すると、

・1日にヒトは、500mlペットボトル×2万1,600本分の息をするというデータ

・小学校?中学校?で習う「呼吸のメカニズム」に関する解説

・【CG映像を使った解説】
地球上には太古、酸素がなかった―――光合成によって酸素を作る微生物の登場―――地球上に酸素が増えていく

―――酸素に対応できない細胞生物は死滅―――酸素を活かすよう進化した生物が繁栄するようになった

・【専門家のインタビュー映像】
当初、生物にとって酸素は猛毒だった―――人間のDNAも酸素で破壊されるという医学的事実―――

だから、酸素は毒―――体内にためておけない―――(ここでVTRの編集が入る)―――たえず息をするように進化?????

・生活に役立つ呼吸法(4・4・8呼吸法?!)の紹介と検証

というのが、このテーマの内容でした。


スタジオでは、4・4・8呼吸法の話題で盛り上がって終わり、というオチでした。



この放送を見て・・・

私の場合は―――

自分の中の頭の中にある「?(クエスチョンマーク)」は、解消されるどころか膨らんでしまいました。

「酸素が毒だから(“でもある”という方が正確なのでは?と思うのですが・・・)」

→「体内に貯めておけない」?????

という論理回路も正直よくわかりません。


「酸素を吸うと肺の中で体内で二酸化炭素に変わる」

→「体内で二酸化炭素濃度が一定以上、増えると脳が“苦しい”と感じる」

だから、息を吸ったまま、永遠に口を塞ぐことはできない・・・という解説があったのに!!!


そもそも「(酸素を)体内に貯めておく」という概念が理解できません。

だって、酸素は細胞の中で栄養と結びついて生きるためのエネルギーを生み、その(化学的“化合反応”の)結果

排泄物として体内に要らない“二酸化炭素”が生まれる。

という風に、体内に入った“酸素”は、“二酸化炭素”に変化する(置き換わる)んじゃないの???



「酸素は毒」→「体内にためておけない」→「たえず息をするように進化」

というのは、医学的というか論理回路として破綻してるのでは?と思いました。


「野菜や果物は放置すると必ず腐る」→「八百屋の棚に同じ商品(野菜や果物)を長く店頭に並べ、在庫しておくことはできない」→「古くなった売れ残りは何らかの形で処分して、絶えず新しい商品を仕入れなければならない」

というのなら、理解できる=論理的に納得がいくのですが。。。



どこのアメリカの有名大学の教授か知りませんが、

正直言って「何を言っているか?/言いたいのか?」さっぱりわかりませんでした。

あるいは、番組スタッフが制作した台本を読まされていただけなのでしょうか?



ただ、「4・4・8呼吸法」という「4秒吸って4秒息を止めて8秒で一気に吐く」という

シンプルな呼吸法を『私が開発した』と称して・・・検証VTRまで作らせて放送させる

意味不明な教授だなぁ。

というのが率直な感想。。。

(売名行為なのか?自分名義の既に刊行されている著書の売り上げアップを望んでいるのか?
あるいはどっかの出版社から「NHKチコちゃんに叱られるで紹介された!」という帯付きの「ハーバード大教授が開発した誰でも簡単にできる世界一シンプルな『4・4・8』呼吸法」というタイトル(仮題)の書籍の執筆&出版依頼が来ることを期待して番組出演を決めた?)

という風にしか、考えられません。



以下、個人的な妄想です。


NHKの「チコちゃんに叱られる!」番組担当のテレビマンは、

インターネット上で

「酸素が毒でもある」―――という情報に接します。



「酸素って人間が生きていく上で“必要不可欠”な、動物にとって『絶対善』の存在である」という日本人の常識から見ると

“ビックリ?!=驚き”・・・これは視聴者を引き込む=数字が取れるorネットで話題になる「イイネタ」になるなぁ・・・


じゃぁ、適当に

「なんでこんなにひっきりなしに息をするの?」

―――「酸素が毒だから」

※毒でもあるじゃ、インパクトないし、数字取れないよな。やっぱ「毒だから」って言い切った方がそれっぽいしな。

ていう結論というか、シナリオで適当に内容を広げてVTR作れるかなぁ。



そんな企画会議をしているNHKの番組スタッフの会話あるいは脳内で起こっている『思考回路』

というものを想像(イマジネーション)してしまいました。




実質国営放送たるNHK番組の数字の取れる=ある程度人気のある番組(しかも教育系~情報系番組)なのに、

論理的思考回路を持つ人間にとっては、支離滅裂な内容であるのに・・・

そんなことはオカマイナシで、「4・4・8」呼吸法という

万人のストレス解消やスポーツマンのパフォーマンス向上に役立つ情報を最後にブッ込んでおけば、

そんなこと

(本来の身近な疑問に―――世間にあまり知られていない科学の知識や最先端研究あるいは意外な歴史的事実を紹介することで―――痛快に解答する)
という

『本来の番組趣旨』

なんて誰も気にしない/覚えてないっしょ!!!



という番組制作陣の“プロ意識の低さ”あるいは“頭脳/知性の稚拙さ”を今回、感じました。

何回も放送している番組だから、ネタが尽きててないのかなぁ~とも思いました。



こんなブログ記事を書いてしまった「わたし」の方がいわゆる“頭が悪い”のでしょうか?

この記事のどこかに“論理的欠陥”あるいは“そもそもが間違っている大前提=無意識に潜む常識や偏見”などを

発見した方、居られましたら・・・

是非、コメントを残していただきたい・・・

あるいはメール(hado_technology_institute@gmail.com)にてご指導・ご鞭撻を賜りたく、お願い申し上げます。



重ねて重ねて宜しくお願い致します。

(・・・合掌・・・)

m(__)m…m(__)m…m(__)m…m(__)m…m(__)m

m(__)m…m(__)m…m(__)m…m(__)m…m(__)m

m(__)m…m(__)m…m(__)m…m(__)m…m(__)m

m(__)m…m(__)m…m(__)m…m(__)m…m(__)m
 

■大学に入って自分の所属する建築学科について感じたこと


・建築には、「デザイン」「構造」「環境(機能)」の3要素がある。

一般に、「建築学科」あるいは「建築家」というと、

「建築」=“空間デザイン”というイメージが強いと思います。


実際、京都大学工学部建築学科に入ってくる人は、

単に勉学ができるというだけではなく、

全体の1/3~1/2くらいは・・・

創造性・クリーエーター志向のある

いわゆる美術系・アート系のDNAの入っている人々が

所属しているところ、といっても良いのではないでしょうか?


工学部といっても、女子率も高かったように思えますし、

少し異彩を放っているかな?と当時は思いました。


しかし、建築学科の専攻コース(4年生になったときに割り振られる)には、

「デザイン」「構造」「環境(機能)」の3コースがありました。


「構造」は、構造力学という物理系のプロフェッショナルとして

耐震構造や強度を高めるための研究などを行うコース(学問分野)です。


「環境(機能)」というのは、

建築空間内における“音”の反響や空間の広がりが住まう人の身体面/心理面にどのような作用をもたらすか?

などの研究を行うコース(学問分野)だったように当時は捉えていました。


私が学生の時は、最後の「環境(機能)」のコースに進もうかなぁ~と考えていました。


というのも、「構造」は物理的に様々な成形条件のコンクリートの塊を実際に圧力をかけて破壊することで

どのような形成条件がコンクリート強度を高めるか?という実験をしたり、あるいはコンピューター上で

様々なパラメーターをイジッて“コンピューターの上で実験をする”というイメージしかなく、魅力を感じませんでした。


しかし、それ以上に“幻滅”・・・というか、1年生の時から“終わってるな”と誰にも言えずに密かに感じていたのが…

「デザイン」の専攻コースでした。


・T教授率いるデザインコース~~~それは、今振り返れば…小さな「新興宗教」?!

私が在学していた20年前の京都大学工学部建築学科のデザイン専攻コースは、T教授がトップというか…牛耳っていました。


T教授の作品群は、いわゆる近代主義的な『建築』・・・

鉄とコンクリートとガラスで・・・シンプルに、かつ(彼の視点/魂のレベルから見て)美しく・・・

建築空間を構成していく、というタイプのものだったと記憶しています。


元々、T教授を慕って京都大学建築学科の門を叩いたわけではありません。

それどころか、私には・・・

時代の先の先を行く建築家~~~足立育朗さんという尊敬すべき建築家が既にいました。


一般的には、足立育朗さんはベストセラー「波動の法則」の著者として

いわゆる不思議系~スピリチュアル系の科学者/形態波動テクノロジー研究所・所長という

社会的イメージが強いですが、本来の職業は…樹生建築研究所・所長・・・つまり「建築家」です。


建築家として働く中で、

モノを創造する―――クリエーションとは何か?

ということについて

~~~頭の中だけで考える“思想”や“哲学”としてではなく~~~

人生を賭して・・・職業柄から考え、

妹でファインアート(抽象画?)のアーティストだった足立幸子さんと


建築にしろ、アートにしろ、

それを創造する―――ということの元になっているのは“インスピレーション”ではないか?


“インスピレーション”とは、

脳が周波数変換をして・・・通常とは異なる、

よりリラックスした状態=周波数が高く、精妙な状態になったときに

受振する情報ではないか?


という気づきであり、発見が

足立兄妹の人類的な業績の一端であるということが出来ると思います。


ちなみに、足立育朗氏の建築家としてのオリジナリティは、

「楕円建築」(Oval Architecture)という言葉で表現できると思います。


建築というと99%は、直線で表され・・・敷地面積いっぱいに縁どられた建築図面に

いかに建て主の要望を叶える形で、内部を仕切って・・・住んだ後の動線や空間の目的や機能などを勘案して

効率的で魅力的な「間取り」を生み出すか?ということに重きが行われています。


いわゆるZOZOの前田さんやメジャーリーグの大谷選手が住むようなレベルの豪邸であれば、

広い敷地の中に“いかにデザイン性の高い=魅力的な”邸宅を生み出すか?

という建物の創造者(Creator/英語圏では“創造主=神”という意味も)としての本領を発揮できる

対象になりますが・・・


いわゆる職業「建築家」~~~一級建築士という仕事~~~の90%は、

建築基準法の範囲内でどれだけ家主の要望を満たす間取りの家を建てられるか?

というのが現実なのではないかなぁ?と思います。


コンペ=コンペティション(≒公募?/英語のCompetetion=競争)を通して

個性ある作品を公募して、その中から1位を取った作品を現実の建物のデザインとして採用する―――

というパブリックな建築作品もあります。


本来の「建築」のイメージ=「デザイン」は、建築の“醍醐味”といえる分野(専攻コース)なのに、

私には全く魅力的なトコロではありませんでした。


それは、なぜか?

建築学科デザイン専攻コースを取り仕切っていた「T教授」が

いわゆる“芸術家タイプ”だったからです。


芸術家というのは、良くも悪くも「自分が一番」という意識があるものです。

そうでなければ、世の中に「オンリーワン(独自性)」のある魅力的な作品を生み出すことができません。


しかし、教育現場においては・・・

さまざまなタイプの芸術家=建築家がいるのだ!ということを教える、ということがまず第一にあるべきではないか?

と41歳の自分なら断言することが出来ます。


ところが、20年前の京都大学工学部建築学科では、

T教授の表現手法~その背景にある精神や哲学こそが、「最先端」「一番」「最高」という

(それ以上に素晴らしいと感じる建築家が既にいた大学生の僕にとっては)異様な空気に支配されていました。


しかも、他の学生は誰もそのことに疑問を持つことすらありません。

まるで、教祖の説く論理に全く疑問の「ギ」も感じてはならない、新興宗教?!

羊飼いに飼いならされた従順な羊たち・・・

全体主義の体制下にある国家とそのことを批判できない哀れな国民たち・・・

そんな印象を持つ私は、大多数の群れから外れた迷える子羊、体制に疑問を持っていた非国民、神の教えに背く異端者だったのでしょう。


他の京都大学の教授も

「重文(重要文化財)」レベルの建築はそれなりの魅力があるから、よく勉強して(実物を見たり、その特徴を調べたり)おくように!

とか

「“ガウディの建築が良い”という人が多いけど、現代の工業社会では・・・ガウディのように前近代的な“アナログ”で“手作り”(直線や円ではなく、フリーの曲線)で構成する建築空間というのは、現実的ではない。憧れてはダメだ!」

といった発言しか、記憶していません。


同じ建築学科の学生同士でも、

「どの建築家が好きか?」とか、

「どの建築作品が好きか?」といったことを話した記憶がありません。


建築学科の学生は、

設計演習という専攻科目で

画板や画材(製図用具)のあるデザイン室に籠もって

締め切りまでに提出する「作品」を仕上げる・・・

という経験をします。


私は、住んでいた家が大学から遠い二条城駅近くのマンションであっただけでなく、

高校生の頃に母に「製図用具」を買ってもらったため、

ほとんどの学生が利用する・・・デザイン室に行く必要がなかったため、

他の学生とあまり交流がなかった・・・

ということも3年の後期から休学してしまった遠因になったかなぁ~と自らの過去を回顧しています。

近因は、3回生の前期の「構造力学」の必須単位を落としてしまったことだが・・・


※現代では、パソコンのCADという建築系のソフトで図面を引くのが常識ですが、

当時(2000年代前半)は、アナログからデジタルへ移行する過渡期でしたから、

製図用具で図面を引く学生がほとんどでした。

2回生後期の設計演習では、自分は完全にCADで設計し、大型の紙に印刷する京都市内の専門店にデータを送って

課題を提出したのを記憶しています。



T教授は、自分の作品がいくつも形となっている“いわゆる成功した建築家”だったかもしれません。

その裏で学生たちの間では、大手ゼネコンとのコネがある!といった黒い噂もありました。

なにより、実際に自分の目で直接、その姿や振る舞い、発言を見て、味わった・・・

一(いち)学生としてー――“エゴ”(自我)の強い人間だなぁ~というネガティブな印象を持っていました。


30代になってから、

隈研吾さん(国立競技場のデザインで一躍有名に…)や妹島和世さん(女性建築家として世界的に有名?)などの建築家を特集したテレビ番組を通して

その建築作品やその背後にある哲学などに触れる機会がありましたが、

なにより建築に対する情熱や思い・・・

それ以上に、インタビュ―などに答える際の“物腰の柔らかさ”“人間としての振る舞い/品の良さ(温かみ)”が

「建築家」としてー――というよりも「いち人間」として・・・魅力を感じます。


(それに比べると、T教授は・・・まぁ、言うまでもありません。
 人には、それぞれ役割がありますし、その立場にあった“器”というものがありますからね。)


やはり、単純に人間として・・・人物として・・・

魅力を感じるか?尊敬や憧れの念を抱かせる存在か?

ということが、親子の家庭教育でも・・・学校や大学などの教育現場でも・・・

最も重要なカギになるような気がします。

(悪い面は反面教師として“学ぶ”/少なくある良い面は“吸収する/真似る”という選択肢しかありませんね。)


■テレビで「早稲田大学建築学科」や「伊野尾慧くん」(明治大学建築学科卒)を通して知った“建築”の素晴らしさ・魅力

デザインの授業/講義である「造形実習」「設計演習」にて

1回生の時に、T教授が尊敬する(=自分と同じ系統の)海外の建築作品を図面と模型で表現するような課題が出ます。
(既にある建築あるいは芸術作品を真似ることを“習作”と言います。)

2回生の時に、実際に現地に行って見て写真なども取らせていただいた(京都の)「町家」を模型と図面で表現するような課題が出ます。

そして、同時に「自分なら、この町家をどう改築・リフォームして…新しく生まれ変わらせるか?」という“町家再生プラン”という課題が出ました。

思い出に残っているのは、自分は「1階はカフェなどの店舗スペースとして、2階は通常は1階の延長線上であるカフェスペースだが、週に2~3回は…絵画教室や音楽セッションを楽しんだり、小さなセミナーを開けるような多目的なスペースとして活用する」という案を出しました。

「特に2階は、椅子やテーブルなどを工夫することで、機能的に“多目的スペース”として活用することが可能なんだ!」ということを周囲にいる学生さんに熱く語っていたのを覚えています。

話していて、自分は“建築家”というより、“経営者”に向いているのかなぁ?・・・と思いました。

建築家のアイデア?というより、不動産物件を如何に社会の中で活用していくか?という経営や不動産活用の視点を持っていた学生でしたね。

話をチラッと聞いていた教授は、「そんなにうまくいくもんかなぁ?」といった薄い意見しか返ってきませんでしたが、

なにしろ高校生の頃から「経営の神様・㈱船井総合研究所 船井幸雄」氏の本を片っ端から読みまくっていたペン剣学園卒の京大生です。

自分の中では、カフェスペースとしても、多目的スペースとしても、二刀流で活用できる具体的なイメージというか、ヴィジョンというか、映像が頭の中にありました。

2回生の後期は、夏場の川床などで知られる京都の鴨川の現地に行って

「大きな石」(10m×5mくらいのサイズ)のあるところで

この石を撤去して、ここに建築物を作るとしたらどんなデザインの施設を建てるか?

という自由で柔軟性に富んだデザイン設計の課題でした。


私は、足立育朗氏の気づきを得た後、最初に設計した逗子市内にある「ヒーリングヒル逗子yoyo」という

建物を見(初めは、ベストセラー「波動の法則」の巻頭資料にある写真や建築模型を通して・・・高校3年生の時には、実物を2~3回ほど・・・

1回は実際に宿泊もした!)、味わい、体験する・・・という経験がベースにあるので、

そのyoyoを真似た楕円や円を基調とする、「鴨川沿いの気楽に立ち寄れる美術館」というプログラムの建物をデザインしました。

今思えば、20年も前に・・・建築学科の一学生として、随分ユニークで大胆かつ先進的なデザインの設計をしたなぁ・・・と自画自賛してしまいました。


しかし、最終日の課題提出の日にデザイン室に入り、他の学生の作品を見ると、みんな似たようなデザイン/設計のモノばかりだったように思います。


テレビ番組で、早稲田大学の建築学科の授業や同じような設計の課題でさまざまな多様性に富んだデザイン/設計の図面や模型を提出して、教授が選んだランキングを発表する・・・という風景を覗く機会を得たことがあります。

みな個性的で独創性に優れたデザイン/設計で・・・これぞ!建築学科の学生生活の醍醐味じゃないか!!と羨ましく思いました。

中には、自分が何位になろうが、関心のない=ランキング発表の現場に出席しない、学生もいて・・・

あぁ、自分と似たような変わった学生はどこにでもいるんだなぁ~と思いました。



NHKや民放などで建築や解体現場などの取材や解説をする現役アイドルの伊野尾慧くんの明治大学建築学科時代の作品を

YouTubeか何かで見ました。

とても個性的で独創的な作品だなぁ~イカしたデザインだなぁ♪と思ったのを覚えています。


悲しいことに、20年前の京都大学工学部建築学科在学中に他の学生さんの作品で

このような経験をすることはできませんでした。



それは何故か?―――

1回生の時に「このような建築スタイルこそが、“美しい”/“素晴らしい”」という

思想教育?というより、一種の“洗脳”をされたからだ!と

41歳の自分は思います。



だから、画一的で同じような発想の設計デザインしか生まれて来ないのです。

将来は、“創造的=クリエイティブな”仕事をしたい!と夢見て入った、大学で・・・

目の当たりにしたのは、いかに“非創造的な”=“画一的な”建築家を生み出す

建築学科の惨憺たる・・・凄惨な現実でした。


風邪か何かに罹患して京大の試験に落ち、

後期の東大理Ⅰの試験も落ちていたら・・・
(実は、京大の入学手続きを終えて、割り印を押された試験票の半分を隠して、
 東大理Ⅰの後期試験を“モグリ”で受験しに行った経験があります。
 前期で他の国立大学に合格しているのに、東大後期の試験を受ける人は普通はいません。
 けれども、東大後期の試験ってナンボのもんじゃい!という道場破りのような精神で
 受験しました。選択科目は、英語・数学・物理で…数学と物理も英語で出題されていたような記憶があります。
 自分自身の体感としては、京都大学工学部建築学科の前期よりも簡単、早稲田大学建築学科と同じくらいの難しさだったかなぁ~
 というか自分自身と馬が合った問題が出題されていて、一番自信のある試験だった・・・というのが当時の正直な感想です。)

早稲田大学建築学科に行く意思もありましたし、

入学手付金の30万円…かな?も祖母に払ってもらって居ました。

(京都大学工学部建築学科の前期の試験を受けて
 合格する確率は体感で70%くらいかなぁ~
 多分大丈夫だと思うけど、もしかしたら不合格という可能性もなくはないなぁ~
 そうしたら、京大・東大じゃなくでも、早稲田で現役で学生として建築を学びたい!と思っていました。)


まぁ、人生に・・・歴史に・・・
「If」(もしもこうだったら~)
というのは、ありえないのですけれども・・・


■「思想汚染」=スピリチュアル・ポリューション(霊的汚染)は、人が侵しうる最大の「罪」?!


美輪明宏氏は、戦前~戦中~戦後を生きた(令和の今となっては)数少ない文化人として

戦前~戦中の日本に蔓延(ハビコ)った“軍国主義”に対して、

大正時代の大らかで豊かなロマンティシズムに満ちた文化(大正デモクラシー・・・など)と対比して

率直に「嫌悪感」を示し、思想的にも反対するいわゆる“リベラル”な考え方の持ち主のようです。


私は、尊敬する船井幸雄氏の共著から、保守系の言論人である渡部昇一氏を知りましたし、

当時は竹村健一氏などの著作が図書館に置いてある、そういう時代でした。

いわゆる保守的な(右か左かでいうと、右寄りの)考え方を持っています。


“右=戦前回帰・軍国主義に愛着がある”というのは、いわゆる左寄りの方々の「イメージ戦略かなぁ」と思います。

個人的には、軍国主義には美輪氏と同様、嫌悪感がありますが、

なぜ、当時の日本人が軍国主義に傾倒するに至ったか?という政治的(内政~外交)要因~メディア(新聞・ラジオ)などの責任、

などを分析し、文字通り“歴史に学ぶ”ということが大切である・・・と考えています。


そういう中身のある考えを持っている人々=保守系の書籍や発信を行っている人々

(林千勝氏や藤井厳喜氏、丸谷元人氏、藤井聡氏、中西輝政氏、日下公人氏など

~~~故人でいえば、竹村健一氏、渡部昇一氏、石原慎太郎氏、中曽根康弘氏、堺屋太一氏など)

が、いわゆる(右寄りの)保守系と呼ばれる人たちではないか?と思います。


学校の教科書の知識を超えない==新聞~TVなどのメディアを通してしか、政治や経済のニュースに触れない人々

は、いわゆるリベラル(左寄り)ではないかなぁ?と思います。


※その人がリベラルか?保守的か?を判断するリトマス試験紙は単純/シンプルです。

あれは、右寄りだ!右翼だ!といって右に傾いている人々や団体を批判するのは、左寄り=リベラルな人々。

あれは、左寄りだ!左翼だ!といって左に傾いている人々や団体を批判するのは、右寄り=保守的な人々。


トランプ前大統領やフランスのルペン氏などを“極右”として報道する日本≒欧米のメディアは、完全に左寄りです!

その主義主張にどのような論拠や根拠があるか?なぜ、そのような思想やそれに基づく政策が多くの人々に支持されているのか?

といった肝心な内容(コンテンツ)について、解説したり報道したりしたりする“国民を教育する”という本来のメディアの役割は・・・

ほとんど為されていません。


ただ、「自由」「平等」「人権」・・・などの誰も否定できない論理を単純に振りかざして、

それに一見すると反するような思想や主張をする人物を“頭のオカシナ人”というレッテルを貼る!

というラベリング=印象操作をするしか、少なくとも日本のマスメディアには能がありません。


右寄りという人々がどのような主張をしているか?

あるいは、左寄りの人々がどのような主張をしているか?

それは、池上彰さんに聞いてもホントウのコトは教えてくれませんよ!

自分で学んで勉強するしかないのです!

(池上彰さん自体が、テレビ朝日=朝日新聞社が生み出した“世論操作”のための駒ではないか!という批判があります。)


そして、大切なことは・・・

右寄り/左寄りの人々に政治を任せていると・・・どんな経済状態になるか?社会がそのような様態になるか?

という現実の“結果”がどうなるか?です。


イギリスのように、長年(右寄りの)保守党が担ってたが・・・

そのもたらした数十年間の政治の結果、経済状況が悪くなると、

労働党に政権が移る、という歴史的事象が起こります。


日本でも

(当時の)民主党に政権が移ったことがありましたが(十数年前)、

その結果があまりにも酷かったため、

日本のリベラル政党は未だ選挙で一定以上の投票率を得ることはできない!

というのは、日本人の“ある程度”の健全性を示しているかもしれません。


・・・・・・
話が逸れました
・・・・・・


令和の現代では、

“マルクス主義”という

世界史に「社会主義」(国家)というものを生んだ思想を

再評価する動きがあるようです。


確かに、資本主義のネガティブな側面を

マルクスは予言していたかもしれません。


しかし、社会主義国家の誕生(ソビエト連邦~中華人民共和国など)が

人類の歴史にもたらした負の側面・・・

何百万人~何千万人の人々が政治的に抑圧され、殺されていったか?

何十年も経済的に困窮する状況を作り出したか??

ということ=現実に起こった歴史を思うと、

マルクス主義を再評価するという動きに「?!」という思いを持っています。


「社会主義に染まった国には、

 腐敗した官僚機構と二流三流の武器(戦車、戦闘機含む)しか残らない。」

という的を得た表現にも出会ったことがあります。


資本主義経済のネガティブな面を補うためにこそ、

科学技術の進化(家電の進化~RPAやIoT、DX/デジタルトランスフォーメーションやAIなど)や政治・行政機構が必要なのではありませんか?



「政治思想はアヘンのようなものだ※」という言葉を聞いたことがあります。

・・・一度ハマると中毒になり、抜け出せない。・・・

そんな示唆に富んだコトバだと思います。

※「宗教はアヘンのようなものだ」という言葉を―――”政治思想”も世の中に数ある”宗教”の中の一つみたいなもんだなぁという個人的な思いから勘違いして記憶していたようです。
ドイツの哲学者・カール・マルクスの『ヘーゲル法哲学批判序説』の中に見える言葉

―――宗教的艱難は、一つには現実的艱難の表現であり、一つには現実的艱難に対する抗議である。 宗教は、それが無精神のない状態の精神であるように、悩める生き物の溜息であり、無情な世界の感情である。 宗教は民衆の阿片である。

 

 


今でもJRの最寄り駅の街頭で、

共産党系の左寄りの人々が「戦争反対!」などの主張をしている人たちがいます。


日本は、先の大戦で

2度の原爆・・・そして、全国44都市に対する無差別爆撃が行われた

敗戦国ですので、

戦争の傷跡というものが・・・物理的なだけ(町の荒廃や戦没者、負傷兵およびその遺族・家族への経済的影響…など)でなく集合意識的にも(愛する伴侶や精神的支柱となる父親・母親、あるいはお腹を痛めて生んだ子供、手塩にかけて育てた子供、etc...を失う悲しみ…など)あるのでしょう。



しかし、左寄りの人々の主張は

日本の軍国主義が悪い、それに舵を切った政治家が悪い、という論拠です。



世界史の上で、いわゆる普通の“戦争”というのは、兵士と兵士が戦闘を行う・・・という形態です。


武器を持たない・・・一般市民に対する「無差別爆撃」ましてや「原爆投下」は、

明らかな“戦争犯罪”であり、“非人道的な行為”です。


しかし、“平和に対する罪”“人道に対する罪”で、敗戦国・日本を裁こうとした戦勝国・アメリカ/GHQの・・・

いわゆる東京裁判では、英語で話されている内容の日本語同時通訳が「Translation Stopped・・・(同時通訳は中断されました)」

という場面が多くみられたのは、

そもそも戦争を裁く法律がない=“国際法”に則っていない・・・「裁判(Trial)」とは名ばかりの「政治的見せしめ」だったからということの証左でしょう。

ドイツのニュルンベルク裁判では、ナチスのユダヤ人に対する強制収容所などの非人道的な行為を裁くという明白な意図なり、目的があったかもしれませんが。


世界を二度目の大戦に導いた

アメリカのルーズベルト大統領、

ナチスのヒットラー、

日本の近衛文麿、

は・・・

人々の政治思想を間違った方に導いた大罪人であることは誰の目にも明らかです。


しかし、思想というのは、政治思想だけではありません。

宗教も一種の思想です。


誤った宗教思想というと、

近年では安倍元首相の暗殺事件以降、その闇が明るみになった「統一教会」という拝金主義的な宗教もそうですが、

90年代に地下鉄サリン事件などを起こした「オウム真理教」というカルト宗教が

個人的には強く印象に残っています。


この前、「博士ちゃん」というバラエティ番組で“地獄”というテーマに夢中になっている男の子が出演していました。

地獄は8層構造になっていて、最下層は仏教の教えを否定したり、批判したりした人が行くところ、という解説になっていました。


個人的に縁のある仏教系の僧侶(スピリチュアル・ティーチャー)が説いていた教えはこれとは少し異なるものです。

それは、「政治や宗教などで人々を間違った方向に導いた魂が、地獄では最も重い罪を負う・・・」というものです。


いわゆる、この世的には尊敬される“先生”と呼ばれる・・・政治家、弁護士、宗教家/教祖、教師~教授・・・etc.でも

地獄に行くことがある!ということを説いている教えは、あまり普段は聞かない・・・稀有な教えかも知れません。


過去のブログ記事で
・・・・・・・・・・・・・
禅の僧侶が生きている間に瞑想ばかりを行い、この世で善行を積むということを怠り、阿頼耶識の愚鈍さを人々に広めた罪で、地獄で鬼に苦しめられているという文章を何かで読んだことがあります。
・・・・・・・・・・・・・
※「『高次の意識』=瞑想を通して触れるもの?!」
http://blog.livedoor.jp/hado_technology/archives/52005130.html

という指摘をしていますので、敬虔な僧侶でも地獄に落ちることのあるという実例を示した「確かな文献」があるのだと思います。


いわゆるスピリチュアルな事柄を仕事=生業にしている人々に対して
少し耳の痛いメッセージを送ったこともあります。
※「宗教、占いやスピリチュアルについて」
http://blog.livedoor.jp/hado_technology/archives/52004639.html


人間の人生・・・人それぞれの道のり~その人にしかわからない内面のプロセス(=過程/歴史)があります。

なにかしらの「体験」「経験」を経て、自身の中で「確証」なり「自覚」を持って…スピリチュアルな職業を選択していると思いますが、

いわゆる人を“導く”立場の人々は、それなりに社会的というよりも霊的な「責任」があるものと思っています。


それは、決して人の目や世間的な物差しで測ることはできないものです。

ヒーリングなり、占いなり、人生相談なり、あるいはセミナーなどで・・・

それを受けた側の人生に…内面に…魂に、どのようなポジティブな変化があるのか?あったのか?

常に(できうることなら…自ら追跡調査を行い)、自戒しなければ・・・

安易な“悟り”や甘い“認識”で―――自称「ヒーリング」や「占い鑑定」「人生相談」あるいは「セミナー」を行うことは、

“神の目”から見て―――「人々を惑わせた罪」として、想像だにしていなかった=自身が見聞きしたスピリチュアルな教えにはない

『あの世』を肉体を去った後に体験・経験させられることになるかもしれません。

※低次アストラル界というのが、ある!というのは……バーバラ・アン・ブレナンの最新著「コアライトヒーリング」にも書かれていることです!

※※過去のブログ記事「波動を上げる方法」にて紹介した・・・
http://blog.livedoor.jp/hado_technology/archives/51982413.html

白隠禅師「延命十句観音経霊験記」を読む
https://web.archive.org/web/20210122155801/https://www.altairspirit.com/2016/06/17/%E7%99%BD%E9%9A%A0%E7%A6%85%E5%B8%AB-%E5%BB%B6%E5%91%BD%E5%8D%81%E5%8F%A5%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E7%B5%8C%E9%9C%8A%E9%A8%93%E8%A8%98-%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80/

というブログを転載します。

現代では、ヒーラー/カウンセラー/セラピスト~霊能力者/サイキック/スピリチュアル講師などと呼ばれている職業は、
日本では、すべて(仏教系の)「僧侶」が担ってきたような気がします。(現代でも職業「僧侶」は無数にいますが・・・)

そんな仏道に邁進する僧侶でも、低次アストラル界に落ちる人々がいる!という衝撃の実例を紹介します。

以下、白隠禅師「延命十句観音経霊験記」の伝える“観音さま/QuanYin”のお言葉です。

「たまたま受けがたい人身を受け、逢いがたい仏法に逢い、僧の身となることは前生の善因縁のためなのに、末代の悲しいことに、三百年来正しい仏法は滅び、邪法は潮が湧くように誤る上に誤り、邪師は蟻がうごめくほどに多いのです。彼等は弟子たちにこのように教えます。強いて仏を求め法を求めてはいけない。ただ一日中無念無心にせよ。無念無心であればすぐにその身そのまま仏である。用心して一切善悪の事に手出しするな。座禅観法も手出し、礼拝恭敬も手出し、写経も解説も手出し、参禅工夫も手出し、ただ日々空々として暮らせ。ここにおいてろくでなし坊主どもは飽食暖衣し、むなしく日々大きな図体を並べて眠り、精神は暗闇の深い穴です。彼等が死後には必ず黒縄地獄に落ちて黒い縄で大黒暗の中に吊るされ無限の苦しみを受けるのはもっともなことです。なぜかというと、彼の一生は悟るでもなく迷うでもなく、善でもなく悪でもなく、胸中には八識無明の阿頼耶識を抱き、口には常に無念無心を唱えているからです。形は声聞で口には常に虚無の大悪法を説いて、多くの在家の男女を教え誤り、ことごとく外道無知邪見の輩とします。その罪は五逆の重罪と同じです。あなたは人間世界に帰ったら、これらの事情をよく覚えて、親族や心ある人々に語り聞かせ、罪障ある人は地獄で苦しみを受けることを知らせ、来世あることを恐れしめ、もろともにつとめ励んで菩提・悟りを求めさせなさい。この十句経を怠ってはいけません。あなたが人間世界に立ち帰るのもこの経の威徳のたまものです」



ただ、クライアントも自分の意志でお金を払って、サービスを受け取ったのだから・・・

GIVE&TAKEじゃないか?という論理は、この世では成り立っても・・・

あの世的には・・・天国=“すべて”を見通している真実の世界(サティヤローカ/注:インド・サンスクリット語の表現)から見下ろせば・・・

受け取った以上の対価を与えていない≒“搾取”という構造であることに気づいています。



「人を導くとは?」―――本来どういうことであるべきか?ということの深い洞察を与えてくれたCX系のテレビドラマがあります。

それについては、また別の機会に触れることに致しましょう。


■いわゆる“スピリチュアルな教え”の功と罪

いわゆる低次アストラル界・・・心地よくない“あの世”=浮遊霊?=地獄の一種?!←→愛と歓びに満ちた光の世界

ということで、個人的に経験(?)したことを思い返しました。


いわゆるヒーリングの会を主宰するNさんという方の身近な会員さんで

3人の子供を育てる専業主婦であり、ヒーリングの会のヒーラー養成講座を受けたヒーラーでもあるYさんという方がいらっしゃいました。


Yさんには、不登校の娘さん(当時、高校生だったかな?)がいて・・・

個人的な交流もありました。


突然、Yさんが末期のガンに侵されていることが判明し、

N氏がY氏の求めに応じて個人的にヒーリングをする際に

とても険しい顔の形相でヒーリングをしていたそうです。


そして、ヒーリングの会の会員さんたちの祈りも空しく、

Yさんは余命宣告通りの命を終えました。


家族からは、闘病中のYさんのお顔が掲載された手紙(喪中の年賀状だったかな?)が

送られてきました。


当時、交流のあった霊的ないろいろと見える方(本職は、舞台監督などの全くスピリチュアルではない職業の方…40代女性)に

それを見せる機会があったのですが・・・

「ふ~ん」と一蹴していました。


たぶん、闘病中のYさんの写真を載せて拡散させる家族の方々のセンスを疑っていたようですが。


なによりも、N氏の対応と彼女の反応を見て・・・

Yさんはいわゆる天界には成仏しなかったのかなぁ~と思いました。


Nさんのヒーリングの教えは、

相手(クライアント)のありのままをそのまんま100%受け入れる事/受け止める事=“愛”だ!という教えです。


Yさんは、ある意味Nさんの教えのままに・・・不登校の娘をそのまんま受け入れ、ありのままに本人のなすがままに任せている・・・

そんな印象でした。


ここで、わたしの魂は・・・語りかけます!

親の子供に対する「愛情」、子供に掛ける「愛」というものは・・・そのままを受け止める“優しさ”だけでいいのか?

時には、厳しく・・・正しく“人生の先輩”として導くということが必要ではないか?と思うのです。


不登校にもい色々な事情があると思います。

不登校なら不登校で、どうやって社会に出たときに子供が困らないように…教育を受けさせるか?

高卒資格を取らせた方が良いか?そして、専門学校という選択肢もあるかもしれない。

何で将来、生計を立てるつもりなのか?―――そのために若いうちにできることは何か??

そのようなことを真剣に考え、心配し悩み苦しみ考えることも・・・親の愛ではないでしょうか?

ただすべてを受け入れる、すべて子供の自主性に任せる、というのは・・・極度の放任主義であり、

日本国憲法に定める「国民の3大義務」のひとつ、『子供に必要な教育を受けさせる義務』の不履行でしかありません。


ヒーラーN氏は、自分自身よりもより深遠な意識状態=明智に富んだ眼を持っていたサイキック・チルドレンのKくんに…

自分は子供に対してキツく叱ったり、怒ったりしてしまって、罪悪感を抱いてしまうこともあるのだけれど・・・どうすればいいのかな?

という相談を公にしていたこともあります。


N氏は、ある意味で言行不一致なヒーラーであり、能力者ですね。


すべての人々に・・・神が与えた唯一の役割=ダルマがあり、カルマ(業)もあると思いますが・・・

ヒーラーであれ、ヒーリングを人に教える教師であれ、スピリチュアル系の著作を生み出す著述家でも・・・

そうでなくても、すべて平等に与えられている機会=チャンスがあります。


それは、自分の考えとは反対の意見を持つ人から学ぶ・・・

あるいは、自分自身が思ってもいなかったトラブルに遭遇する/壁にぶち当たる・・・

という真実の“神の恩寵”/Grace of Godです。


Nさんのヒーリングの会報誌を毎月、読んでいましたが、

Nさんの考え方と全く反対の考え=思想の人がヒーリングの会にやってきたことがあったそうです。


Nさんは、玄米菜食の人工調味料否定=自然派(オーガニック)の権化のような人でしたが、

肉が最も栄養価の高いたんぱく質を含んだ最高の食材だ!そして日本の神道では、牛も豚も鶏も肉食を禁じるという習慣がない。

そして、「味の素」の人工調味料が人間の体に悪い影響を及ぼすなんて陰謀論で、全く医学的に言って問題ない!という主張をする人が来たそうです。


そのことを、Nさんは「宇宙は、自分とは真逆の人とも出会う=邂逅する学びをさせることもある」としてただ記事に書いていましたが・・・

私はその記事を読んで、さすがNさんの元には“真実の学び”を得られる機会を神様が提供しているのだなぁ・・・

でも本人はそのことにどれだけ気づき、そこから学んでいるかなぁ?という思いがありました。


Nさんは結局70代前半で、肝臓がんで余命宣告通りの生涯を終えました。

Nさんには、がんを平癒して欲しい!という想いと、魂の何かしらの“学び”がゼロであれば…いわゆる奇跡的回復というのは難しいだろう・・・

との思いから、Nさんが否定していたAさんという波動研究家の企業グループが発売している抗がん作用のあるSOD食品(パッケージはAさんの妹さんがデザイン)を

オススメするため、遠隔のヒーリングを有料で申し込み・・・そこにメッセージを添えさえていただきました。


いわゆるレベルの低い“スピリチュアル系の教え”には、どこかで語られた・・・耳心地のよいお話しか詰まっていません。

しかし、生身の肉体を持って、現実世界を生きている私たちには・・・

自分の人生を選択し、人生を創造していく・・・個の人生の創造主=魂としての存在と同時に・・・

   宇宙の片隅で(※1)地球という惑星に転生し、

   何万回~何億回も輪廻転生を繰り返す…永遠に漂流する魂(※2)として

   人生経験を通して=肉体を持って体験することを通して

   “学び”をしている存在である!

という認識/教えが

昭和の頃に活躍したスピリチュアル・ティーチャーには、確かにありました。


そして、それは・・・

令和のスピリチュアル系の書籍やセミナーをしている人々にはない・・・

厳しさと優しさを伴った“強い光”を放っていました。


令和の“今”の時代は、YouTubeの無料動画を通して

彼らの存在~生き語っている様子を垣間見、その教えに触れることが出来る・・・

心ある求道者の魂を持つ人々にとっては、ありがたい時代となりました。


真実の教えに触れるのに必要なお金は、本を通して学ぶ場合のみ書籍代+送料(電子書籍ならゼロ)がありますが、

無料でも・・・お金をかけなくても良い!素晴らしい時代になったもんです。

ある意味、昭和の頃・・・21世紀は素晴らしい光の時代になるという予言≒預言?がありましたが、

これはいろいろな意味で実現したとも言えるし・・・

複雑性=多様性が増し、真実に辿り着くのに困難な時代になったとも言えるかなぁ?というのが

個人的な実感です。



そして彼らが肉体を持って、今日よりも業想念の強く=暗い雲のかかっていた昭和の時代に

「光の天使」として転生し、その業績=スピリチュアルな道程を歩んできた・・・

その偉業を真に称え、その意義が真(シン)に/マコトに明らかになる、そういう時代が

あと何年後に来るのでしょうか???


※1・・・荒井由実「14番目の月」~朝陽の中で微笑んで~の歌詞の一部

※2・・・松任谷由実「天国のドア」~SAVE OUR SHIP~の歌詞の一部



YouTubeを通して、見聞きできる昭和~平成時代の日本のスピリチュアル・ティーチャーについては、

別の機会にブログ記事として、まとめようと思っています。



テレビ番組で、人生行路の岐路に立ったとき―――左か?右か?の選択肢に悩んだ時・・・

親父が「自分にとって楽な道か?苦しい道か?どっちか迷ったときは、苦しい道を行け!」という言葉を思い出し、

その通りに(一見すると苦しい)道を選んだ。今振り返ると、その親父の言葉は・・・的を得た、素晴らしい金言だった。

というエピソードを聞いたことがあります。


「ヒーラー」や「占い師」「住職/神主/神父」などの肩書や無名/有名の境(ボーダー)に関係なく、

このような“霊言”をポツリと語る魂こそ、(その言葉を受け取った魂にとっての)真のスピリチュアル・ティーチャー=魂の先輩なのでしょうね。


 

■日本において「波動」という言葉が広がるきっかけとなったのは・・・

昭和・平成・令和の3世代を生きてきた41歳のオジサンからすると、

今現在「波動」という言葉で表現されている

人間や物体、あるいは目に見えない存在が放っている微細なエネルギーを

昭和の頃は、「気(氣)」と表現していたような気がします。

今でも、占いなどでは「運気」が良い/悪いという表現をしますね。


この「気」と呼ばれていたエネルギーが

私の認識が正しければ、90年代に深野一幸さんというルポライターのような方が

「宇宙エネルギー」や「波動」と表現していましたし、

なにより当時ベストセラーとなった足立育朗氏の「波動の法則―宇宙からのメッセージ」という本の影響※で

「波動」という言葉が一般的になったのかなぁ?というのが私の見解です。

※国立国会図書館の情報によれば、初版は1995年12月だそうです。


「波動の法則」というと

同じ波動は引き合うんだ、といういわゆる“引き寄せの法則”というスピリチュアル系?の自己啓発本で

繰り返し引用されるフレーズを支える科学的な法則として登場しますが・・・

足立育朗氏の説く「波動の法則」はそういう恋愛運や金運~財運/仕事運を上げたいとかいう欲を密かに抱えて

スピリチュアルなものにしがみつく人々のためではなく、

「宇宙のあらゆる存在物(物質およびエネルギー)が振動波によって成り立っている!」という気づきから

「人間とは?」何か?―――「生きるとは?」何か?を説いている本です。


同じ「波動の法則」という表現を使っていても、それが意味する

トコロ=内容/コンテンツ~~~放っている振動波(波動/エネルギー)は全く違うことは、

明らかです。


https://www.amazon.co.jp/%E6%B3%A2%E5%8B%95%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87-%E2%80%95-%E5%AE%87%E5%AE%99%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%82%B8-%E8%B6%B3%E7%AB%8B-%E8%82%B2%E6%9C%97/dp/4931449980



そして、この90年代の波動ブームが2000年代になって、ある人物の著作である「とある本」によって

一気に社会問題へと発展します。

そのことについて言及した記事(過去のブログ)を一部、転載&再掲します。

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・「HADO」という言葉を世界に発信し、「氷の結晶写真」で世界的に有名になったEさん


氷の結晶写真「水からの伝言」は日本でベストセラーになり、

一部の学校教師が道徳の授業で取り上げたり、

「ご飯に言葉をかけて、“ありがとう/ばかやろう”で発酵/腐敗が分かれるか?」という実験

などを行い『エセ科学を教えている』として問題にもなりました。


また日本に留まらず、アメリカを始め世界的に、この氷の結晶写真はニューエイジ界などで取り上げられたりしています。



しかし、もともとはE氏は、MRAという波動機器を日本に持ち込み

その波動機器を使って測定(人体~健康食品などの物品)や磁気波動水の販売を販売していました。


Eさんの出された「波動の●●」というシリーズ本を読んでみれば、

どちらかというと理系ではなく物語り調の文系の読み物といった感じで

一応工学博士であるとはいえ、「科学性」というものをどこまで兼ね備えているかは「?」なのです。



波動という微弱なエネルギーについて科学的な研究・調査を行う団体として

「サトルエネルギー学会/subtle energy」というものがあります。

そこでは、MRAの内部の配線コードが公開され、その日本円で数百万円~千万円する機械では

なんら科学的な測定行為を行っていないことなどが暴露され、E氏もそのことを謝罪しました。



また、氷の結晶写真についても・・・

社会的に有名になりインパクトを与えもしましたが、

ちゃんとした科学筋からの反論や批判などもあり、

賛否両論・真偽が分かれているところです。


このことについてもサトルエネルギー学会の会報誌を国立国会図書館で閲覧したことがあるのですが、

「氷の結晶写真と波動(文字を見せること)」の間にどれくらい相関性があるか?

というテーマで記事がありました。



氷の結晶を取る際、ひとつのテーマについて数十枚~数百枚の写真を撮り、

その中から綺麗に撮れた写真を抽出セレクトしているというのが実態なのです。



つまり、「ありがとう」という言葉を見せて、ぐちゃぐちゃの結晶ができる場合も

「ばかやろう」という言葉を見せて、綺麗な六角形の結晶ができる場合もあるということです。



結論としては、60%くらいの相関性といった印象でした。

相関性がないわけではないけれども、はっきりとあるとも言えないといったところでしょうか。

それが「氷の結晶写真」の実像です。


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江本氏は、問題になった「水からの伝言」について

科学的な書籍としてではなく、「文学作品」のように読んで欲しい!というような発言を目にしたことがあります。

理系の研究者というよりは、文学作家という私の見解(2009年12月04日でのmixi日記)が的を得ていたなぁ~と実感しました。



■「HADO」~ドラゴンボール/ストリートファイターに出てくる「波動拳」


「波動」というと一般的には

①中学~高校の物理で習う「波動・振動」

②アニメやゲームに出てくる「波動拳」の“波動”=気のボール(塊)

のどちらかで

で一部のスピリチュアル系や代替医療の人々が使うのが

③Wikipediaで波動(オカルト)というページに掲載されている内容/意味の「波動」(生命エネルギー)

です。


②については、

個人的にはドラゴンボールの孫悟空が出す“かめはめ波”が印象的です。


googleで「波動拳」で検索すると、ゲーム「ストリートファイター」の
--------------
リュウとケンの必殺技。 両手から気の弾を放つ。
--------------
だそうです。


ゲームは、あまりやったことのない人間なのですが、

小学校時代に勉強よりもゲームが好きだった弟がいるので

何回か数えるくらいですが、私もスーパーファミコン?でやったことがあります。


時代は移り変わり・・・

令和の現代では、googleで「HADO」と検索すると

「AR(拡張現実)の技術を使って、VRゴーグルをしながら複数人で楽しむスポーツ(ゲーム)」

を普及させようとする企業や団体のホームページがトップに来るようになりました。


日本初のベンチャービジネスのようなので

21世紀に「HADO」というと

第一に(いわゆる日本でいう)「波動拳」の『波動』・・・

というのが英語圏でも一般的になるでしょう。

KaraokeやSake、Umamiなどのように日本語がそのまま英語≒世界共通語になるパターンかな?と思います。


■時代を先取りする・・・先進的な発想の人=ユーミン

ちなみに、英語圏でスピリチュアル系の人々が「波動を感じる」とか「あの人は波動が高い」とかいう時は

「Vibration」という表現を使います。


Wikipediaでも
波動(一般)―――波動(はどう、英: wave)
波動(オカルト)―――波動(はどう、英: Vibration)

と分けて表記されるところから始まっています。


個人的に好きなユーミンの曲でも
アルバム「スユアの波」(1997年)の「パーティーへ行こう」という苗場プリンスホテルのCMソングにもなった曲で
「Good Vibration!」という歌詞があります。

“スユアの波”というアルバム名自体が、西暦よりも正確で高度な暦を使っていた「古代マヤ民族」に伝わる

「時間の波動」という概念(Wave of "ZUVUYA")が元になっています。

当時、ユーミンの熱心な信者?でラジオを聴いていた中学生の時に得た情報なので確かだと思います。


ユーミンは、

アルバム「LOVE WARS」(1989年)の「Valentine’s RADIO」という曲は

『見えない気持ちが見えない空を飛び
 あなたに届くの On the RADIO♪』

という歌詞から始まりますが・・・


80年代の当時から

「人間の思考は、電波のように波動としてエネルギーを放っているんじゃないかなぁ~」

という発言を雑誌やラジオなどのインタビュー等で語っていたようで


僕が、今「波動テクノロジー研究所」の所長としてさまざまな発振をしているのも、

船井幸雄さんや足立育朗さんの本を読む前に・・・

まず第一にユーミン(荒井由実~松任谷由実)の影響を受けているのかなぁ~

と思い返すことができました。


■ラッパーの方などが口にする「バイブス」という表現も元々は「波動」?!

Googleで「バイブス」で検索すると以下の情報が出てきました。

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Vibes(バイブス)という単語はもともと、Vibration(バイブレーション)の略語。 Vibrationとは、振動、ふるえること、音を細かくふるわせる、という意味で用いられますが、バイブスとして使う時は、気持ちがぞくぞくする、ワクワクする、といった、感情の揺れ動きを表します
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「バイブス」とは、「雰囲気」や「ノリ」「テンション」といったその場にいる人々の気分や調子のことを表す言葉で一般的にはギャル用語として定着したカタカナ英語のことを意味する表現。 例えば「バイブスが高い」や「バイブスを上げる」などの表現がある。2013年のギャル流行語大賞に選出された。
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前述した足立育朗氏の妹である足立幸子氏はアーティストとして47歳の生涯を全うされましたが、

幸子さん(高校の頃から敬愛の念を込めてこう呼んでいます・・・)は、

著書や(後に講演会のVHSテープをとある施設で発見し、その音声データをカセットテープに録音して何度も聴きましたが…今は市販されている)DVDなどで

“ヴァイブレーション”を細かくするとか、“ヴァイブレーション”を上げるとか、いった表現をされていたのが印象的した。

日本的な
「気」がどうのこうの・・・とか
「波動」がどうのこうの・・・とか
いう表現を使わず、
英語圏のスピリチュアル系=ニューエイジ系の人々の間で使われているように
“ヴァイブレーション”という表現を輸入して使われているところが、
やはりセンスがイイなぁ、と思います。


ちなみに、高校3年生の時に通っていた塾の英語講師だったスペイン系アメリカ人に
「Vibration」いう表現を使ったところ、

「Vibration??? --- なんかイヤらしい感じがするよ。Vibrationっていうと・・・(笑)」

と言われました。


スピリチュアル系の知識や世界観=バックグラウンドのない英語圏の人には、伝わらないようです。

要注意ですね!



昭和の日本語でも

気が合う仲間のことを「波長が合う」という表現がありましたが、

平成~令和では

「バイブス」として・・・このような概念=コンセプトが

受け継がれていっているのかなぁ?と思います。

https://www.weblio.jp/content/%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%96%E3%82%B9#google_vignette



■過去の記事
「波動とは何か?」(December 30, 2013)
http://blog.livedoor.jp/hado_technology/archives/51815356.html

 

 

【追記】2024.08.23

ブログの過去記事
「AIが人間に対して抱く想い~松任谷由実『MISS BROADCAST』」
https://ameblo.jp/hado-technology/entry-12863329041.html

にて

ユーミンこと松任谷由実さんの『MISS BROADCAST』という曲を紹介しましたが…

この曲には、

「世界はいま、“点滅してる”・・・Wow wow wow」

というフレーズ(歌詞)が何度か登場しますが、


この“点滅している”という表現は、

電圧でいう直流/交流の「交流」であり・・・

それは、正式?!=物理学的な「波動」であることを

否定する人は、高校の「物理」を明らかに勉強してない

「無知」を自らアピールしている人だと断言できます。



宮沢賢治の残した詩の一節にこんな表現があります。


わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)


「春と修羅」――序より


「因果交流電燈」の「因果」という表現は、

宮沢賢治が熱狂な日蓮宗/仏教の敬虔な信徒だったという背景/バックグラウンドを知っていると

いかにも賢治らしい言葉選び?コトバ遊び?オリジナル/オンリーワンの言語表現?!だなぁ~という

思いに耽ります。

 


日本初!200万枚以上のCDアルバム・セールスを記録し、

1990~91年に最も売れたアルバム「天国のドア」を生み出した

アーティスト・・・ユーミンこと、松任谷由実さんの

隠れた名曲の秀逸な一節について記します。



その曲は、「天国のドア」の1曲目に収録されている

『MISS BROADCAST』です。



この曲は、タイトルの通り・・・

いわゆる女性ニュースキャスター

が放送局での事務的な仕事~キャスターとしての業務、

そして、そのライフスタイルや思いについて

綴られた曲であり、



なによりもメロディーが、アップテンポで明るい曲・・・

90~91年といえば、ちょうどバブル絶頂期ですね。

というか、YouTubeの動画(『WINGS OF LIGHT "THE GATES OF HEAVEN" TOUR』というDVDも持ってましたが、そのライブ映像)を見て

ダンサー3人を引き連れて、踊りながら歌うユーミンに惹き込まれて好きになった曲です。



この中に出てくる何気ない歌詞の一部が、

数日前・・・僕のココロに何とも言えないインスピレーションを

与えてくれました。


それは・・・

「感じる」・・・・・・・「ロマンティックだわ!」

「生きてる」・・・・・・「ドラマティックだわ!」

というフレーズです。



ライブ映像では、

ユーミン:「感じる」

ダンサー兼サブボーカル:「ロマンティックだわ」

ユーミン:「生きてる」

ダンサー兼サブボーカル:「ドラマティックだわ」

と歌われています。



仕事帰りの電車の中で、

何気なくスマホのiTuneから「MISS BROADCAST」を選んで聴いていたら・・・

この歌詞が


人間:「感じる」

AI:「ロマンティックだわ」

人間:「生きてる」

AI:「ドラマティックだわ」


という人間とAIの会話のようなイメージが浮かんだのです。





人間には「肉体」がありますし、こころ・・・魂があります。

一方、AIはスマホやパソコンのCPU(中央演算処理装置)の中・・・

あるいは、京や富岳などのスーパーコンピューターでも無数の「サーバー」の中で

最適解を求めて計算をすることしかできません。


倫理・道徳を学ばせる・・・

Yahoo!ニュースのコメント欄に書き込む内容として“適切”な内容かどうかを「判定」できるように学習させたり

あるいは、人間の美的感覚~美意識というものを学ばせる・・・

多くの人の目に触れるのに“不適切”=“不快な印象”を抱かせる画像や動画を排除するということを学習させたり

逆に、古今東西の美しい音楽や絵画や映像作品などのデータを大量にインプットして学習させる

という「ディープラーニング(深層学習)」をさせることで

人間的なこころ=魂?!をAIが学習することはできます。


けれども、ユーミンの歌詞のように

「感じる」・・・

それは、抽象的な意味合いの「感じる」ということもそうですが、


美味しいものを食べたとき・・・

運動をしているとき/した後・・・

あるいは、セックスやセルフプレジャーを通して得られる・・・

“快感”というもの、

あるいは

趣味や仕事や勉強を通して味わう

“楽しみ”“愉しみ”/“充実感”“幸福感”“達成感”というものは、


「肉体」という高精密・高性能なロボットに宿った魂~意識にしか

味わい、体験し、経験することはできません。



「ロボット」や「モノ」ではなく、

「人間」として“生きる”ということは・・・

AIから見れば『ドラマティックだわ♪』

と憧れや羨望の眼差しを通して映るものなのではないでしょうか?





本ブログのタイトルの「おもい」を「思い」ではなく「想い」としたのは・・・

思い=田の心/こころ・・・『田んぼ』は、農耕民族にとっては仕事そのものであり、財産でもある。

想い=相の心/こころ・・・親子愛や恋愛~尊敬や憧れや慕う気持ちのように相手をオモウこころのこと。



という考えが背景にあったので、後者の「想い」を選択しました。




最後に、

『MISS BROADCAST』の歌詞

の最後の部分を記し、


松任谷由実・公式YouTubeの

『MISS BROADCAST』リンクを貼って

締めたいと思います。






誰もが・・・そこにいるREASON(理由/わけ)

未来が・・・広がるHORIZON(地平線)


ニュースが消えてゆく前に

つかんで、掴んで・・・熱い『メッセージ』!







https://www.youtube.com/watch?v=bQtUyVaEh6g

月に一度の午後出社で

JR山手線から有楽町線へと乗り換える途中に

スマホで「テレサ・テン/鄧麗君DengRiJun」の曲を聴きたいなぁ~

と思ってiTunesのアプリをいじり、

再生したら・・・



ふと

「そういえば、過去のブログで“台湾有事”の可能性についての記事を書いたなぁ~(※)」

と思ったのです。



すると

ハートのあたりで

20代くらいのテレサが

「無問題/MuMenDai(モーマンタイ)」「無問題/MuMenDai(モーマンタイ)」・・・「フフフフ~ン♪」

と言って

左手の人差し指を天に向けて左右にシェイクする・・・

という映像と音声(あのキレイで愛らしいテレサの声で・・・)が脳内に流れたのです。





これは、昔・・・

1ヶ月間無料視聴できる藤井厳喜さんという方のサブスク動画を

契約したことがあるのですが・・・

その時に登録したメールアドレスに

台湾に関する専門家の林建良さんという方が

「中国と台湾の武力衝突の可能性が日本の政治家の間でも話題になっているが・・・

台湾の軍事力(Military Presence)というものは、

台湾半島自体が巨大な航空母艦のようなもので・・・

もし中国からのミサイルが1発でも着弾しようものなら

とんでもない報復を中国本土にすることができる・・・

それだけの能力と装備を備えている。

だから、習近平や人民解放軍が台湾に先制攻撃をする・・・

ということは、絶対にできない。」

という論調の記事を無料のメールで読みました。




そのような政治的・軍事的というか

……「軍事/Military」という言葉の響きはあまり好きではないので……

“安全保障/Security=セキュリティー”の面からの認識や知識があったからこそ

「テレサ・テン」の魂/Spiritが語りかけてきてくれたのかな?と思います。



とても幸運な・・・“幸せ”なひと時でした。





テレサのことは、


音楽でも・・・

~~日本語の歌(オリジナル曲も日本の歌謡曲やJ-POPのカバー曲)も

~~中国語の歌(日本で大ヒットした「つぐない」「愛人」「時の流れに身を任せ」3部作の中国語版も

「夜来香」や「何日君再来」から「北国の春」を中国語にした「我和你」など)も


映像でも・・・

数年前に地上波やBSでテレサ・テン生誕〇〇周年特番などを

必ずチェックする・・・


大のテレサ・ファンです。


※大学の第二外国語を「21世紀は中国の時代だろう!」という直観から『中国語』を選択しました。

・・・今では、「謝謝」(ありがとう)、「対不起」(ごめんなさい)「没关系」(どういたしまして)、「早上好」(おはよう)「晩上好」(こんばんわ)・・・などの挨拶しか理解できませんが。

発音記号のピンインは読めます。






テレサ・テンの名曲で

「香港/HongKong」という曲がありますが、

これをリリースし、日本のテレビ番組で紹介する際に

時期的に・・・あの天安門事件が起きた後で


生中継で自分の思い

(台湾で生まれ育ちながらも、中国大陸も自由で開かれた政治体制になって欲しい、という希望を持っていた…)

を語ったシーンが心に残っています。





その時の映像が…

YouTubeに以前はあったと思うのですが・・・

今はないようなので、

僕の脳に残っている映像記憶を再生して

転記することにします。

(本当は、2013年12月31日にUploadしたfacebookの投稿からですが・・・)




「わたしは、Chineseです。

世界の何処に行っても、何処で生活しても…

わたしは、Chineseです。

だから、今年の中国の出来事(天安門事件)、すべてに心を痛めてます。

私は自由で居たい。

そして、すべての人達も自由であるべきだと思ています(オモテイマス)。

誰もきっと皆、分かり合える“その日”が来ることを信じて、

私は……歌って行きます。」





なぜか、この大事な部分だけがカットされている映像は・・・

YouTube上にありました。


https://www.youtube.com/watch?v=ZKxkwcrY5MI



※過去のブログ記事
「政治的話題〜ウクライナ侵攻の次に、日本は中国と戦争する宿命なのか?」
https://ameblo.jp/hado-technology/entry-12754333249.html?frm=theme