※この記事は、mixiにおいて2006年11月30日にマイミク限定で公開していた日記を再掲載したものです。
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1/fのゆらぎ というものがあります。
ピンク・ノイズとも言われていますが。
自然界に多く存在し、人間の耳に入ると・・・心地よく感じる音の一種です。
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水の結晶などを通して「波動」ということが、科学的に研究されています。
よく「良い波動」と「悪い波動」という表現があります...
愛と調和はプラス(+)で、自我と欲はマイナス(-)という風に聞いたことがあります。
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精妙で美しく清らかな波動 と 汚れた醜い波動 という風に表現すれば...
美しく清らかな方が――イイです。ね?!
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しかし、潔癖主義も行き過ぎると――楽しくないです。
人間、生きていれば――清濁、併せ呑む――といえると思います。
とにかく、本人が――幸せで、健康で、歓びに満ち……楽しく
毎日を生きていれば よいのでは? と思いますが。
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結局は、「バランス」の問題というのもあるかも知れませんが...
“多少”の「エゴ」が残っていても――慈悲と絶対的な愛に満ちた宇宙の海は、心地よく感じているかも。とぼくは思います。
あまり、「エゴ」が多いと――痛い目?にあってしまうものなのかも知れませんが(う゛~~~)
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ぼくは「エゴ」という言葉を使いましたが…「マインド」ということについても当てはまるかもしれません。
「マインド」とは?なんでしょうか???
「マインド」とは――英語でMIND(名詞)/「心」・「頭脳」という意味です。
「心」そのものが“いけない”ものなのでしょうか?
「頭脳」そのものが“いけない”ものなのでしょうか?
(日本語で考えてみれば・・・よくわかります(>_<)" )
ぼくの見解では、
「ヘルシー・マインド」(健康的な心)
と
「アンヘルシー・マインド」(不健康な心)
と2種類あると思います。
ちなみに、動詞のMINDでは「気にする」「思いわずらう」という意味もあるので・・・小学校の頃、スポーツをやっていて仲間がミスした時に「ドンマイ/Don't mind!!」と声を掛けていたときの“あれ”ですね・・・
Don't mind your mind too much!!
(あんまり「マインド」「マインド」って気にすんなって!!)
アメリカン・ジョーク?ですね。
(インド滞在中「マインドがうるさくて」といっていた同室のKさんに贈った言葉です。)
※BBSHヒーリング科学の点から見れば、
――第3チャクラの整合された状態とそうでない状態の働きという表現になるかな??
※ラメッシさんは「Working Mind」と「Thinking Mind」という表現を使っていました。(「人生を心から楽しむ~罪悪感からの解放~」より)
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最後に、大好きな…でも僕にとっては、未だ“神秘的な輝き”を放っている…ラメッシさんの言葉より
自由が起こるのは
「私は自分自身の意志によって
自分の人生を生きている」
という愚かな観念と傲慢が落ちるときです。
※この言葉の意味を―――本当にカラダで実感し、体感し味わうことができる“とき”が僕にも来るのでしょうか?
ま、できることはがんばって、神の意志にゆだねる以外にありませんが・・・・・・・・
【41歳の自分の付記】
■ラメッシ・S・バルセカール(Ramesh S. Balsekar):
1917年、インドの中流家庭に生まれる。
大学を卒業後、銀行に勤めながら、妻と3人の子供を養い、最後は頭取として手腕を発揮する。
銀行を退職後、師であるニサルガダッタ・マハラジ
(Nisargadatta Maharaj)に出会い、覚醒る。
それ以後長年、ムンバイの自宅や欧米で、世界中から訪れる探求者たちの質問に答える日々を送り、2009年9月に92歳で生涯を終える。
著書に、『人生を心から楽しむ』(マホロバアート発行 現在絶版)他多数。
※amazonのレビュー欄で
株の掲示板でラメッシ・バルセカールの本をバイブルにしているという人がいて
その掲示板がきっかけで彼の本を読むようになった・・・という人がいました。
株をやっている人の中にも面白い人がいるもんだなぁ~と感心しました。
■ラメッシ・S・バルセカールについて「わかりやすく」かつ「貴重で多様な情報」に溢れたページを紹介します。
ラメッシ・バルセカールは、欧米では、「最後にたどりつく先生」という異名があり、その意味は、色々な先生、色々な修行の場をまわって、それでも満足できない人たちが最後に教えを請う先生という意味である。だから、彼は有名にはなったけれど、実際に彼に会いに行く人は、他のインドや欧米のカリスマ的導師たちに比べれば、それほど多くはない。