Gon のあれこれ -13ページ目

Gon のあれこれ

読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

今村昌平監督の最高傑作と自他ともに認める1964年の作品。白黒。

 

 

 

 

前年公開された「にっぽん昆虫記」がベルリン映画祭で、銀熊賞は逃したものの、

主演の左幸子が主演女優賞を取ったことで、国内でも今村昌平の評価が高まり、

この「赤い殺意」は、その宣伝ビラに「巨匠・今村監督作品」とまで持ち上げられている。

 

舞台は東北仙台。

大学図書館の司書吏一(西村晃)の妻貞子(春川ますみ)はふくよかな肉体と表情の乏しい、内なる感情が読み取りにくい女である。

 

夫はたびたび主張で留守にするが、ある夜自宅に入った強盗(露口茂)にレイプされる。夫が帰宅後打ち明けようとするが、言い出せずにいる。

夫も貞子に無関心なせいで何かがあった気配を感じていないようだ。

すでに吏一と長男勝を設けている貞子は家庭を壊したくない、との思いからその現状を守りたい、と思う。

 

二日後、強盗が再び押し入り、今度は「心臓の病でもうじき死ぬから優しくしてほしい」

と甘ったれたことを言って再び貞子に乗っかる。

 

ある日デパートで強盗に声を掛けられた現場を、吏一の同僚の事務員が見かけ、

その事務員は吏一と長年の肉体関係があり、司書と結婚したいと思っている故か吏一に告げ口し、吏一も妻の肉体的魅力が男惹きつける事に無関心でいられなくなる。

 

吏一の父、つまり義父の葬儀に行った貞子は、自分が妾腹の子だという理由で入籍されておらず、子供の勝は義父の子の籍になっていることを知る。

 

強盗は貞子の跡を密かに追いかけ、貞子が妊娠した事を知り、腹の中の子は俺の子だ、と執拗に絡み、貞子はついに強盗を殺そうと決意する。

 

冬、吏一が京都大学に出張中、貞子と強盗は密会し、貞子はこれが強盗との最後の肉体関係、との思いから心を許して肉体も燃える。その後列車に乗って最後尾でもみ合うが果たせず、吹雪で汽車が不通になったため強盗と峠越えをしようとする。

心像病の強盗はトンネルの中で息絶え、貞子は証拠を残さぬよう自分の持ち物を拾い集めて下山し帰宅する。

 

ところが吏一の愛人の女が貞子ら二人の跡を付けており、二人をカメラに収める。

その事務員も仙台に帰った貞子のスナップを取ろうとしてトラックにはねられて死ぬ。

 

吏一は事務員が残した写真をもとに貞子にいろいろと問いただすが、貞子は自分ではない、としらを切りとおす。

貞子はそうした寄る辺ない不安定な身の上にもめげず、勝と腹の中に宿した

子どもを励みに今の生活を守り、生きていこうとする。

 

前作の「にっぽん昆虫記」も東北の寒村に育ったたくましい女を主役に据えた物語だ。

この昆虫記と、「神々の深き欲望」はぜひ見たい映画として残っているが、今村昌平の映画には「土着」に対するこだわりと、女のしたたかな生とそのしたたかさの核としての性「セックス」、つまり男に対する「武器としての性」があると思う。

 

今村は戦争末期、いわば徴兵逃れのため桐生高等工業に入学したが、在学中に終戦となり兵役を免れた、徴兵逃れ、ということは戦争に取られることは「犬死」であるとの認識があった筈だから、「敗戦」もまた見通していたことになるだろう。

 

戦前の「一億玉砕」と竹やりで戦おうとした政府に迎合した政治家が官吏が、国民が、敗戦で、一転米軍が進駐すると、マッカーサーに熱狂する姿を見て、戦後の民主主義もまた戦前の軍国主義と同じ「虚妄」にすぎない、さすれば、

日本人の根っこにある「変わらないもの」を追及していこう、

という意思があったのではないか。

それが「土着」と「性」に対する執着なのだ、と推測する。

 

今村より少し年長の戦時中、軍隊の体験のある若者たちは、いかに「虚妄」であっても戦後の「民主主義」の方がはるかに生きるに値するもの、「平和の方がはるかに尊い」ものだ、とする信念を懐胎するだろう。

勿論その「あや」はその原体験の違いによってもまた織りなされるから、一様には表現されないが、新藤兼人(1912-2012)、小林正樹(1916-1996)岡本喜八(1924-2005)と今村昌平(1926-2006)の違いにそれを感じるのだ。

喜八と今平は二年しか違わないが、敗戦の時の年齢差は大きな影響があると思う。

 

それはまた、丸山眞男(1914-1996)と三島由紀夫(1925-1970)の間にも存在するものの一つだと思う。(機会があれば映画「三島由紀夫vs東大全共闘」で述べたい

 

この「赤い殺意」の春川ますみの演技は高く評価されている。

経歴を調べると日劇ミュージックホールのダンサーが前身だが、春川を起用した今村の慧眼もまた称賛されるべきだろう。

私のような素人の演技力評価よりも、左幸子の評価の方が傾聴の価値があろうと思うので以下に抜粋する

 

 

「あの中の女の描き方は、最も女そのものだと思いますね。

日本という土壌の中で、ずっと脈々と流れている男と女の姿だと思いますね。

いろんな時代の中で、どんな困難があっても、越えられるだけ超える努力は、目いっぱいする。自分がこうと思ったらとことんそれに行ってしまうという女の人を感じましたね。

また春川さんが凄かったから。

やらせてみると春川さんの持っているものがどんどん出てくるんで、ある時は(今村が)ふりまわされていらっしゃるところがありました」(同書84P途中適宜略)

 

なお今村はこの「赤い殺意」について同書で以下のごとく語っている。

「赤い殺意」という映画が私の代表作という事らしいが、それは戦中戦後、アメリカに強姦された日本を画くという甚だしい冒険を、一人の愚かな主婦とその家に毎々押し寄せる心臓病の強盗を主人公として画いた作品なのだ。

強姦されればされる程強くなる女性の真実を知りたいという思いであった。

肉体の表層は侵されても、奥深い核は決して破られ馳せぬという自分を発見することで、小官吏で暴君の亭主と自分、彼女を一人前の人間と認めない姑と自分の立場をじわじわと逆転させてしまう女」(103P)

 

なおこのくだりは「遥かなる日本人」の「安吾と私と青春」15pにもある。

 

冒頭「わたしの代表作らしい、などと照れているが、「カンヌから闇市へ」の中では

「自分では赤い殺意」が一番好きですね。

ラストにだんだん近づいて、春川ますみという不細工なでかい女が、なんか自己主張

し始めるというようなところが気に入っている」46p

とのべている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第50回カンヌ映画祭では、イラン映画の「桜桃の木」と同時受賞。

監督のアッパス・キアロスタミは同国を代表する監督、とある。

 

また賞を競った映画には、ウオン・カーワイの「ブエノスアイレス」、ヴィム・ヴェンダースの「エンド・オブ・バイオレンス」などがあり、今村昌平が日本人監督で「楢山節考」に続く唯一の二度目受賞、ということなどを考えあわせると、今村にとって大変な名誉であったことだろう。しかし本人は受賞はまたも予想外であったらしい。

 

今村は1989年、ヒロシマをテーマにした「黒い雨」が興行成績が振るわず、8年間

もの長い雌伏を強いられた。生涯の監督作品はわずかに20作。

あまりに少ない。

彼が映画人として後輩の育成のため私財を投じて映画学院を設立・運営したことなどの「生き方」を含めて、もっともっと作品を残してもらいたかった、と思うのであるが、

そこに、何か日本の映画界の歪み、スター偏重や五社協定の様な閉鎖的慣行があるような気がするがどうだろう。今の「製作委員会方式」も良いと思わないが。

 

 

 
 

 

映画は

不倫した妻を殺害して以来人間不信に陥り、ペットであるにだけ心を開きながら静かに理髪店を営む中年男性(役所広司)と、自らの境遇を嘆き自殺を図った女性(清水美沙)との心の交流を描いた物語である。(Wiki)

 

川べりのロケ、床屋、意味深な水槽の魚、、、

今村が日活で撮った「エロ事師たち」(1966年)を想起するのだが、川べり、というのは

それ程のエキストラも要らず(大量のエキストラを使った「ええじゃないか」の失敗も

心中にあっただろう)川辺や水面が映像に自然な転換点を与えてくれるので、場面展開、場面転換しやすい場所、という面はあるのではないか、と推量する。

理髪店についても、小道具や理髪師の立ち居振る舞いについては既に学習済みなので隙のないミザンセヌを構成することが出来る。(ミザンセヌについては以下参照https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%8C

「エロ事師たち」ではヘラブナが未亡人春の死んだ夫の化身のようであったが、この映画のウナギは何だろうか。ペットであるウナギ、とWIKIにあるけれど、

仮出所の男の身代わりとして水槽に囚われているのであろうか。

あるいは囚われているのは彼自身の心の方であろうか。

 

映画監督としては登場するいろいろな人物や物がすべてわかりやすいものでは面白みも奥行きもないから、曖昧で多義的なものをいくつか投入するのだろう、

と思うので詮索はこれぐらいにする。

 

この映画が受賞した理由について、当時欧米でこの映画がどのように受け取られているかを知りたくて、いろいろと調べたのであるが、一つはニューヨークタイムズに「にっぽん昆虫記」や「赤い殺意」などの傑作に比肩しないが今村らしい映画である、との評である。

https://www.nytimes.com/1997/05/23/style/IHT-the-movie-guide-unagi.html?searchResultPosition=2 )

また、Wikipediaに以下の記事がある。参考まで。

Reception[edit]

Lawrence Van Gelder of The New York Times said that the film "swims with grace, insight and vast compassion", complimenting the "vivid" cast that allowed the director "not only to bare the passions that seethe beneath the orderly surface and apparent conformity of Japanese life but also to ponder emotions and issues that know no nationality."

 David Stratton of Variety described the film as "filled with colorful characters, and fluctuating alarmingly—but with surprising success—among several levels on the emotional spectrum", saying that the director "has created a rich tapestry of characters and situations, all of it vividly brought to life with pristine visuals and a generous emotional warmth."

 Describing its cinematography, Noah Cowan of Filmmaker said that the film "is shot in sunny, saturated colors, lending it the air of a filmmaker content with his achievements in the sunset of his career."

Film critic Tadao Sato(佐藤忠男) stated that in light of a lack of attention regarding Japanese films in Japan itself at the time, the Japanese public had a lack of awareness about the film, and in regards to positive foreign reception of The Eel, "It was gratifying, then, that 'Unagi' should receive international recognition at a time when Japanese themselves were ignoring such films."

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ピーター・ドイグ、というあまり名の知られていない作家ではあるが、

休館中、国立近代美術館のホームページに展示作品が公開され、

彼の絵の意表を突く面白さに惹かれ出かける。

我々が絵や映画のイメージを見る時、全体のゲシュタルトの中で人物や色彩が目立って表現されたものを図、としてとらえ、その背景を地と認識する。

確かにこの絵では二人の人物が中心に居るが、なぜどんな理由で「選ばれた」人物

かが不詳であり、むしろ湖畔にあるどこかに通じる鮮やかな色のタイルの通路が目に焼き付けられる。そうしてみると両脇の灰色の枝の木も描きかけのように適当で、

湖畔も湖畔にせり出す岬もその上の空も霞んでいる。

この人物は全体のスケール観を出すために描かれたのだろうか?

色彩それ自体としてとても美しく、カヌーの中の人物の孤独感が迫ってくる絵であるが、手前と湖(波立ちが少ないのでそのように推測する)、その奥の岸辺と森が水平に層をなしておりその中に「図」としての人物目船一体の存在がある。

そしてその孤独感(イデア)はその曖昧な造形と無縁ではあるまい。

 

ドイグの作品はこうした水平の、多くは色彩で区分された層が幾層もあり、その中に

「主題」となるものが描かれている。その主題は横であったり、縦であったりあるいは先の通路のように湾曲している。そこが彼のユニークさの源泉の一つ、と見る。

中央に黒々とした林があるので目がそこに行くのだが、両脇にある山荘?のようなものを考えると鏡合わせのようになっており、中央の線がその折れ線である。

更に人物などをよく見ると左側にはスキーをしている人々が、右側にはお祭りに集う人々(と推測する)が描かれている。日本の二曲一隻の屏風絵のようなものである。

従って図は中央の林と見えたものより、地の方に絵を鑑賞する手掛かりがあり、

ゲシュタルトの言う図と地、という視点を揺るがしている絵である、と見た。

実際には大きな絵であるが借用する絵では絵ハガキのようになってしまう。

何処にも雪が無いところでジャンプする者が上空にあり、左奥にはスキーを履いた者が数人おり、手前右の人物もスキーを履いている。 とすれば草スキーか。

右奥の黒点はバスケットのゴールポストのようにも見える。

我々が遠近やスケールを判断できないのは人物などに日の影が無いせいだ

しかしジャンプ台なしにこんなに高く飛べるわけもなく、さすれば作家の遊び心か。

会場で最も惹かれた、そして最も好きな絵である。

水平に、いちいち詮索する必要のない様々な層がある。

この馬に乗る人物は作家の自画像かもしれぬが、真剣な目つきでこちらを見ている。

黒装束で黒い馬、、、、いわく言い難い神秘的魔術的雰囲気(イデア)がある。

地は特定の意味を持たぬ。

だからと言って騎馬の人物に特定の意味があるだろうか。

 

我々が美術館に足を運ぶとき、そのメタメッセージは、

「見るものは美術である」芸術である。

と言う事であり、

「国立」の冠が付く美術館であるからには、その絵は

「素晴らしい」絵であり、しかも「高価」なものだ。

という、いわば暗黙のシャワーを予め浴びている。

それが故に、その美を、その価値を、その意味を探すのであるけれども、

ドイグはそれを逆手にとって、「美」など「価値」など「意味」など探しなさるな、

絵もまた人生の退屈を紛らわすあそび、なんだから。

と言っているように思えるのだが、どうだろう。

 

この展覧会の恐らくはキュレーションをした蔵屋美香さん(現在は横浜美術館館長)

の解説がある。いわば正統的批評であるから、口直しにどうぞ。

ピーター・ドイグのリアルとヴァーチャル。蔵屋美香評「ピーター・ドイグ展」

 

 

 

尚、当初の会期は6月14日までであったが、外出自粛などの影響で閉館。

先週再開されるとともに、10月11日まで延期されたが、

抗体保有者は1000人に一人の状況であること

東京都のPCR検査の絶対数や

医療従事者に対する支援や医療具の備蓄、

軽症者の収容ベッド数などは不十分であること

などなどの状況を鑑みるに第二波第三波の襲来は不可避で、

再度の外出自粛と言う名の禁止が予想されるので、

なるべく早く見ておこう、と去る17日に出かけた次第。

カメラ持参で出かけたが、途中で電池が切れて残念な思いをした。

いつもは鑑賞後ビールなど飲みながら余韻に浸るのであるが、

コロナ禍で気分が乗らぬ。

やはり飲食業の皆さんへの打撃は相当なものがあるだろう。

最後に、冒頭述べたこの美術展の情報は以下のツイッターから得ている。

 

 

 

 

 

 

 

緊急事態宣言も解除され、ようやく美術館などの再開がなされるようになってきた。

しかし東京都では人口当たりの感染者数が大阪府や北海道と並んで多いので

このところ感染者数の鎮静化が続く埼玉県内の県立近代美術家に出かける。

テーマは「写真と映像の物質性」

カメラ、という人工的物体で撮ったイメージをパネルやスクリーンなどの物体ー人工的

即ちアーティフィシャルなものに映したものを鑑賞している訳だから、「物質性」」は

免れず、その物質性が即作品に反映される、と言うことから、何か新しい知見が得られるのではないか、という期待から出かけた。

この展覧会の開催趣旨を少し長いが下記にコピーする。

デジタル技術が加速度的に発展し社会に浸透した現代において、写真や映像という表現形態を選んだアーティスト たちは、動画像編集ソフトによる加工や合成、コピーやスキャニング、さまざまな出力方法を用いたインスタレーション、 ソーシャルメディアやフォトシェアリング・プラットフォームを利用した双方向的な手法などを複合的に駆使して、その表 現言語を更新し続けています。新しいテクノロジーから伝統的な手法までがひろく選択可能性に開かれた状況から、 写真と映像の可能性を拡張する意欲的な表現が次々に生まれるスリリングな場に、私たちは立ち 会っているのです。

 この展覧会で紹介する 4 名と 1 組のアーティストは、こうした状況をふまえつつ、 メディアの物質性を重視した独自 のアプローチによってこの領野に新機 軸を打ち出しています。数百枚の写真を積み重ねて切断した断面、くしゃくしゃ に折りたたまれたプリントの物理的な襞、映像から立ち上がる観る行為に潜在する触覚的な要素など、彼らの作品に おける特徴的な物質性は、単にフェティッシュなこだわりによるものではありません。おのおのが用いるメディアの歴史 や特性、機能に鋭く分け入り、それを更新するため の戦略によって獲得さ れ た性質なのです。

 彼らの作品をラディカルな再考と更新をめざす「新しい写真的なオブジェクト」と措定し、著しい速度で変化する現代 の写真表現・映像表現の一断面をとらえることがこの展覧会のねらいです。それはまた、私たちをとりまく今日の視覚 環境について、深く考えを巡らせる絶好の機会となるはずです。

 

問題はこの先、この狙いが如何に実現されているか、である。

我々鑑賞者は、製作者の「新しい写真的オブジェクト」を見る場合、「ラジカルな再考と

更新を目指したものであるか否か」はその製作方法、つまり撮影や投影に関する方法が開示されていないとその革新性の評価は出来ない。

その点では会場で渡された「作家略歴」に簡単な紹介があるけれども、もっと

製作過程のビデオでの紹介などが欲しかった。

都美セレクション グループ展 2020 や 都立写真美術館の公募受賞作品展 などの展覧会で実験的な、あるいはまた新人の作品を鑑賞する機会を得るのだが、その場合は鑑賞者として作品の主題やインパクトを脳に刻むので、大概は製作方法には注意を向けない。しかし今回の展覧会では「物質性」というユニークな切り口を提示した事の意味は

大いにあるだろう

 

今回の出品者の中、二人が埼玉県出身者である。

愛郷心、と言うのではなく固定資産税や県民税などを払っている立場からすると、

県出身者を応援する、というのは納得できる

 

一方、宇沢弘文氏の言う「社会的共通資本としての美術館」と言う観点からは、

若い作家の人たちに表現の機会を出来るだけ与える場、としての美術館

あるいはそうした機会を通して経済的な基盤を提供する場、としての美術館

あるいは小中学生に現代美術などに親しみ鑑賞眼を養うための場、としての美術館

などなど様々な顔を持つ美術館(場)であって欲しい。

 

特に私が好きな「場}はこれから世に出ようとする人たちのコンペである。

コンペに出品することで、自分の長所欠点も個性も見えてくるだろう。

場合によっては映像芸術で飯を食っていくことをあきらめる場合もあるだろう。

そうして転身したのち、「自分が表現したいもの」が沸き起こって、再び制作意欲が

作品が出来る場合もあるだろう。

そうした時にも表現機会があることがとても大切だ。

 

最後にとても面白かったアーティストデュオ Nerhol の製作過程のビデオを

見つけたので紹介する。

 

 

 

 

(映像作成牧野貴)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

83年のカンヌ映画祭では、大島清監督作品、デヴィッド・ボウイの出演で話題を呼んだ「戦場のメリークリスマス」とパルムドールを争い、前評判を逆転してこの「楢山節考」が受賞した。撮影はオールロケで、姨捨(おばすて)の場面は糸魚川で行ったが、それ以外は長野県小谷(おたり)村の車の通わぬ、徒歩二時間かかる文字通りの秘境で全員合宿で行われた。

 

様々なエピソードが語られているが、今村昌平だけでなく、「戦メリ」の大島も映画製作にかける情熱は鬼気迫るものがある。情熱は時に空回りし周辺の反発を呼んだりもするが、熱気がスタッフや出演者にも伝搬し、結局は我々見る者にも伝わってくるものなのだろう。

 

あらすじはWikipediaと映画.comより適宜合成する。

耕地にも気候にも恵まれないその寒村には、厳然たる3つの掟があった。

「結婚し、子孫を残せるのは長男だけである」

「他家から食料を盗むのは重罪である」

「齢70を迎えた老人は『楢山参り』に出なければならない」。

来年に楢山参りに出る定めの老女おりん(坂本スミ子)の家では、家族がそれぞれ問題を抱えていた。長男の辰平(緒形拳)は去年妻を事故で失い、侘しく鰥夫暮らしをしていた。そんな辰平は母親思いゆえ、とてもおりんを「楢山参り」に出すことはできない。次男の利助(左とん平)は頭が弱くて口臭がひどく、村人から「くされ」と呼ばれ蔑まれている。村の掟で結婚が許されず、家の奴(下人)として飼い殺しにされる運命の利助は女を知る機会もなく、一方辰平の後継ぎの息子けさ吉は、村のふしだらな女 雨屋の娘松やんと遊びほうけていた。

そんな折、向こう村の若後家・玉やんが、辰平の後妻として家に入る。一方でけさ吉も松やんを妻として家に迎え入れるが、松やんは手癖が悪く、貴重な食料を好きなだけ食い散らかし、挙句は盗み出した馬鈴薯玉蜀黍を実家へ持ち出していく。松やんはほどなく妊娠する。そんな中、松やんの実家である「雨屋」が、食料窃盗の咎で村人総出の制裁を受けることになる。雨屋の父つっあんが焼松の家に豆かすを盗みに入って捕まったのである。食料を盗むことは村の重罪であった。二代続いて楢山へ謝った雨屋は、泥棒の血統として見なされ、次の日の夜、男達に縄で縛られ生き埋めにされた。その中に松やんも居た。

新屋敷のおえい(倍賞美津子)は父親が残した「村の男と寝るように」との遺言を実行していたが口の臭い利助だけはパスした。飼馬のハルマツに当り散らす利助を見かね、おりんはおかぬ婆(清川虹子)さんに身替りをたのむ。

晩秋、おりんは明日山へ行くと告げ、その夜山へ行く為の儀式が始まった。夜が更けて、しぶる辰平を責め立てておりんは楢山まいりの途についた。裏山を登り七谷を越えて楢山へ向う。楢山の頂上は白骨と黒いカラスの禿げ山だ。辰平は七谷の所で、銭屋の忠やんが70歳になった父親(辰巳柳太郎)を谷へ蹴落すのを見て茫然と立ちつくす、気が付くと雪が舞っていた。辰平は猛然と山を登り 「おっ母あ、雪が降ってきたよう! 運がいいなあ、山へ行く日に」 と言った。おりんは黙って頷くのだった。

楢山の「掟」はすべて土地がやせていて田んぼも作れない極貧の村ゆえである。

長子相続は、土地を次子以下に分割すれば共倒れになる。従って次男以下は他家に養子に行くしかないが、利助は頭が弱く養子口もないので家に残って下男をするより仕方が無いのだ。一方娘が生まれれば口減らしのためには長男の男を見つけて

その家に入るよりほかに途はない。この状況では「後妻」を見つける事も容易だろう。

 

辰吉の長男けさ吉の女漁りや遺言を実行するおえい、あるいは利助とおかねなどのセックスシーンが豊富にある。製作費(3億9千万)の三分の二を出した東映の岡田社長は「異色の芸術ポルノ」と売り込んだし、ボケた吉本隆明も「ポルノ映画」と評したらしい。しかしながら寒村における「口べらし」としての性は生死に直結する課題なのだ。

 

つまりこの映画の主題は、生ー生存のため食うことと性ーと死(口減らし為の姨捨)、

母子の絆(辰平とおりん)と父親殺し(辰平や銭屋)という普遍的なものにある。

 

一方ではセックスシーンはおえいと村の男たち、あるいは次男の利助とおかね婆さんにしても、とてもユーモラスだ。上記の深刻なテーマと明らかな対照をなしている。

 

更に映像の美しさがある。始まりの雪の小谷村や山々の遠景、黙々と姨捨に向かう

おりんと辰平、そして人骨が散乱する姨捨場に舞う雪のシーンなどとても印象的だ。

 

こうした要素がカンヌでの最高賞(パルムドール)に繋がったのだろう。

 

おりんを演じた坂本スミ子はこの時46歳、緒形拳の一つ年上だ。

違和感なく見れたが、声は若い。しかし変に婆に作らず却って好感が持てた。

 

後記:実は同じ今村作品の「神々の深き欲望」(1968)を鑑賞したかったのであるが、レンタル出来ず、この「楢山節考」の一つ前の作品「ええじゃないか」(1981)を先に見たのだけれど、画面が暗くて人物が不分明でかつセリフも聞き取りにくい箇所などがあり、出てくる人物の造形も不明瞭で、どうにも集中できず途中で見るのをやめた。泉谷しげるが米国領事と英語でやり取りする場面は泉谷の地が出ている、というか知性的だ。それが日本語の演技とどうつながっているのか今一不明でもある。

興行的にも失敗したらしいが、「主役の桃井かおりは大地喜和子にすればよかった」

(村松著今平犯科帳p201)と今村監督は言ったらしいが、もし本当だとすれば責任転嫁だろう。主役の決定権や演出は今村に在ったはずだ。

 

 

先に挙げた「ええじゃないか」の問題点、つまり照明の問題やセリフあるいは人物造形などの問題点はこの映画では解決されているように感じる。

ゆえに今村もそれらを十分意識していたのだろうと思う。

白黒(エロ事師たち)からカラー化はその失敗を含めていろいろな試行錯誤も重ねてきたのだろう、と思うがその意味での「神々の深き欲望」は見逃せない作品だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

原題は「Summer with Monika -Sommaren med Monika」1953製作

ベルイマン監督35歳。国際的にも評価の高い「道化師の夜」と同時期の作品である。

 

先ずはストーリーから。(MovieWalker より抜粋、一部加除)

春のストックホルム。労働者階級の住む下町の瀬戸物店で配達係をしている青年ハリイ(ラルス・エクボルイ)は、モニカ(ハリエット・アンデルソン)という十七歳の少女と知り合った。二人とも先の見込みのない仕事で,モニカは奔放な性格、ハリイは父と二人暮しで、のんきな性格の青年であった。そんな二人の仲は急速に接近して行った。モニカはある夜、酔って帰った父と口論して家をとび出し、ハリイの許に走った。ハリイは自分も家をとび出し、彼女と二人きりで父の持つモーターボートの中で暮そうと決心した。二人は、狭い船室で恋の喜びに身をまかせた。二人は、のんびりした生活を送っていたが、夏も終わりになり家に帰るべき時が来たがモニカの妊娠は明らかだった。ストックホルムに帰った二人は、ハリイの伯母の世話で結婚し、モニカは女の子を生んだ。ハリイは自分の親としての責任を喜んで果たそうとして、工場に職を得て真面目に働きはじめ夜は夜学に通って親子三人のよりよい生活を目指した。しかしモニカは主婦の生活には堪えられず、以前のような興奮と冒険の生活をあこがれ、ハリイが仕事で朝帰りした時モニカが男といるのを発見。そしてハリイは彼女と離婚し、モニカの遺棄した自分の子供をひきとって自分で育てようと決心した。

最後は冒頭のシーンと同じ鏡の前でハリイは我が子と二人を映し、やがてモニカとのひと夏の、モニカが逆光のなか裸で磯辺を海に向かっていくシーンや二人でボートで海に乗り出すシーンの回想と二人の生活の証でもあった家具が二束三文で売られて運ばれる今のシーンで終わる。

この映画はハリエットアンダーソンのあけっぴろげな裸体と男女の行き当たりばったりの性的関係で、スエーデンが「性的自由の国」という評判を高めた、とされる。

この映画でベルイマンは何を描きたかったのだろうか。

10代の若い男女の、楽園でのセックスを含む生活。

しかし食うためには社会に出て働くか盗みをするしかない。

そういう現実に直面した時、結局はストックホルムに帰って仕事を見つけ

家庭を築き社会に適応せざるを得なかった。

そしていつまでも楽園を夢見る、あるいは社会に適応できないモニカは

別な男との新しい性的関係を持つ形でその社会の枠を飛び出すしかなかった。

あるいはモニカに体現される奔放な女の性か。

あるいはエデンの園の不可能性ー妊娠と生活ーか。

 

ベルイマンは前年33歳の時三度目の結婚をしたばかりであった。

かれは5度結婚をするのだけれど、

単に「惚れっぽくて飽きっぽい」とは片づけることは出来ない。

結婚は簡単だが離婚は精神的にも大変だ。

それを4度も繰り返す精神的エネルギーは何処から来るのか?

その修羅から得られた女性観はどんなものか?

 

そうした事まで考えると、ストーリーを紹介するのは簡単だが

主題を推し量るのはなかなかむつかしい。

そしてその難しさが映画作家としての注目に繋がったのではないか、

とも思う。(主題無き映画)

 

映像的には予算が乏しいせいで、ロケ撮影中心、同時録音、即興演出

など、後の1950年代のヌーベルバーグの先駆けとなった。

ゴタールなどに称賛された所以である。

 

主演のハリエット・アンダーソンとは当時性的関係にあったらしい。

その関係が途絶えた後も、「道化師の夜」や「夏の夜は三たび微笑む」などで

起用している。(別れ方がうまいのだろうか?)

 

最後に「不良少女モニカ」と言う題名は、米国での配給権を買った者が

センセーショナルーモニカのヌードを含めーな狙いで付けたとのこと。

それが日本での映画名にもなっている。

 

この非常事態宣言の中、映画館にも美術館にも行けず、古書市は中止、、

と言う中で、ベルイマンの映画をレンタルで借りたため、返却期限までに

連日鑑賞してはブログを書いた。少し消化不良の気味もある。

一人の映画作家の作品を連続して見るという珍しい体験もした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

原題は「聖体拝領者」。1963年「神の沈黙」三部作の最後に作られた

 

最後の晩餐のイエスの言葉からパンと葡萄酒をイエスの肉と血を象徴的に食すること

により、拝領者はイエスと一体化する。

 

冒頭、牧師トーマスが正午の聖餐におい、て跪く信者に見下ろすようにパンと葡萄酒を

与える。

「食べなさい、これは私の体である。私を忘れぬよう」

「飲みなさい。罪の許しのために流す私の血である」

 

この映画は3人との主要な対話シーンからなっている。

元漁師ヨナス、女教師マルタ、寺男アルゴットの三人である。

最初は元漁師ヨナス。式の後ヨナス夫妻が「相談が、、」と来たる。

 

ヨナスは中国が核を持つとの記事を読んで核戦争の恐怖に打樋がれているという。

「神を信じなさい」

と言われてヨナスは牧師の目を見ると、牧師は目を伏せる。

「生きていれば心の平和を乱される。神は遠くから見ておられるだけ」

「何に縋って生きればよいのか、、、」 とヨナス。

ヨナスの妻がヨナスが後で来るから二人で話し合って」と帰る。

 

その間、愛人関係にある女教師マルタが来て彼女との最初の対話が始まる。

ヨナスとの話はどうだったかと問われてその主題は「神の沈黙」と答えるが、マルタ

「神の沈黙なんてバカバカしい。

元から神なんていないのよ。

学ぶべきよ、愛することを。

「君から?無理だよ」 とつれないトーマス。

マルタはトーマスに「わたしの手紙を読んだか}と問うがノーと答えられ

彼への愛とトーマスは自分を愛していない、と思うと言って去る。

 

去ったあとトーマスは亡くなった妻の写真を取り出し、しばし眺めた後

マルタの手紙を読み始めるが、画面はマルタが手紙に代わって話し始める

「トーマス、あなたは不信心よ。両親は信心はなかったけれど優しかった。

神やキリストはぼんやりした概念だけ。

あなたは神を信じ込もうとしている。無理やり、感情的に。

「秋に突然、光が差して生きる目的が分かった。

あなたを愛している。生きがいなの、尽くさせて。誰かのために生きたいの。」

そこにヨナスが現れる。

「いつから自殺願望が?」ずっとです」

「わたしの家内は4年前に死んだ。愛していた。

生きる目的を失い、死のうと思ったが死ねなかった。何かの役に立ちたくてスペイン内戦の従軍司祭に志願したが、戦争は酷かった。

現実から目をそらし心の内に閉じこもった。

私は聖職者失格だ。私だけを愛する神を作り上げた」(目を背けるヨナス)

「牧師でありながら頭は自分の事だけ。都合のいい答えだけ出す神だ。

だが現実を突きつけると神が突然牙をむく。恐ろしいモンスターになる。

考えたくなくて神を闇に閉じ込めた。

「神が存在しなくともそれがなんだ?

人生に意味など必要か?

死は肉体と魂が滅びるだけのことだ。

人の蛮行、孤独、恐れ、すべては明白だ。

説明など必要ない。創造者はいない。庇護者も、思考も、、」

(閑話休題ーこのトーマスとヨナスのやり取りは一画面にヨナスが手前に横顔で

トーマスが奥で時に背を向け時にヨナスの方を向いて両者が影になることなく

緊迫した状態で続く。見ごたえのある部分)

 

ヨナスは黙って牧師の前を去る。もとから答えを期待していなかったように。

ヨナスが去ったのちトーマスは、一人礼拝堂の中を見回し

罪だ、なぜお見捨てに」と咳をひどくして倒れ込む。

そこに女教師マルタが現れトーマスを抱き上げたのちトーマスが

「解き放たれた、やっと。

心のどこかに願っていた。気の迷いだと、、夢だと、、、と泣く。

そこにヨナスが銃で頭を撃った、との知らせが入り、マルタに

「ヨナスのところに行く。私にかまうな。今は一緒に居たくない。

他人にも自分にもうんざりしている。人のうわさになりたくない。

マルタに「結婚して」と言われ 「嫌だ」と即答。

マルタは「あなたへの憎しみを愛に変えようとした。

放っておくと沈んでいく人だから

救いのない人。自分を憎んでいる」

「いい加減にしろ、もう構わないでくれ」とトーマス

とやり取りするが、薬をもらって二人でヨナスが自殺した冬の河原に行く。

トーマスは警察や役人とやり取りの後、ヨナスの家に行き妻に彼の死を告げる。

トーマスが「役に立たなくてすまない」と言うと妻は「仕方がなかった」という。

身重の妻は階段に倒れ込むが「トマスが「祈ろうか」と問うときっぱり断る。

 

二人は教会に戻るが、祭壇の際で寺男のアルゴットにトーマスは話かけられる。

「イエス様の受難ですよ。本当は何を苦しまれたんでしょう。

「磔の苦痛でしょうか?そんなはずはない。

あれくらいの苦痛なら私にも経験があります。

「ゲッセマネではイエス様の悲痛な声を弟子たちは聞かなかった。

眠り呆けていた。兵が来ると逃げ出した。

ペテロも裏切った。3年もともに暮らして教えを説いたのに。

イエス様の言葉は少しも届いていなかった。

弟子たちに見捨てられ孤独だったんです。

だからこそ苦しんだ。

誰にも理解されず、いざと言う時に見捨てられた。

途方もない絶望だ。

まだ続きがある。イエス様は十字架で苦痛に呻きながら叫ばれた。

”わが神よなぜ私をお見捨てになったのか” 神に見放されたと思った。

私の教えは間違っていたと死を前にして神に疑いを抱いた。

なによりも辛かったはずです。神の沈黙が。

 

(付言:このテーマはスコセッシの「最後の誘惑」(1988年)沈黙(2016年)

に受け継がれてゆく。スコセッシ自身もベルイマンのテーマに言及している。)

 

礼拝の時間が来る。

この間オルガン演奏者はマルタに「牧師の妻は大した浮気女さ。トーマスは騙されていた。ここを離れろ。」と言ったのちトーマスのところに行って

具合は悪そうだな。くたばるなよ」と悪態をついて演奏席に行く。

会衆はマルタのみ。しかし予定通り礼拝を始める。

聖なるかな全能にして主なる神。

その栄光は地に満ちる」

その始まりと同じく終わりも礼拝で終わる。

始まりは会衆はすくなく、それでも10人ほどいただろうか。

終わりはマルタ唯一人である。

 

 

 

 

2010年の統計によると、スエーデン国教会(ルター派)の会員は国民の70%とされ、

新生児の50%が今も洗礼を受けているそうだ。

一方会員に属しても「無神論者」と言う人も多いらしい。

日本における「葬式仏教」のような宗教との付き合い方、と簡単に決めつける事も

出来まい。適切な文献が無いのだから。

 

この映画について二三書き留めておきたいことがある。

ひとつは題名「冬の光」について

ひとつは抽象的ないし形而上学的テーマにおける「対話」(セリフ)の位置について

最後はベルイマンのキリスト教観についてである。

 

冒頭原題は「聖体拝領者」であったが、スエーデン国外向けに「冬の光」と改題された。

「冬の光」とする方が詩情があって、より惹きつける題名にはなっただろう。

しかし上記のように牧師と3人の対話は、冬の光が差し込む教会で撮影された。

その意味で私にはこの題名の方が腑に落ちる。

 

次に「神の沈黙」ないし「不在ー無神論」などのような抽象的な主題を扱う場合、

独白にせよ、対話にせよ「言葉」による方が見るものに直接届き、説得力が増す

 

いまいろいろな人の映画論を読んで、自分でもあれこれと考えている最中であるが、

現時点では、映像芸術と言う観点、つまり詩や小説などの言語を媒体とする芸術、

色彩と線を媒体とする絵画、あるいは同じイメージでもある瞬間を切り取り固着させた

写真などとの比較を念頭にしながら、映画を考えてみると、映画には、先ず「主題」が

あり、その主題を展開するためのプロット(ストーリー)があり、それを現実化して

観る者に説得ないし説明する映像がある。

そしてその映像には、シチュエーション(ここでは大雑把に時空間-場、としておく。

またミザンセヌとかショットやアングル明暗や照明などテクニカルなことも置いておく)

その中における大概は人物の言葉と行動がある。

 

セリフや表情や身振り、これら一切の表現が、

映像芸術を映像芸術たらしめている重要な要素なのだ。

ここから脱線するが、映画のパンフレットは、「この映画を見るのはお得ですよ」と

言わんばかりの映画評論家の「賛辞」は二の次にして、せめてセリフを載せてもらいたい

と思う。

 

最後にベルイマンのキリスト教観についてであるが、「神の沈黙三部作」と言われる

この「冬の光」「鏡の中にあるごとく」と「沈黙」の内この一作だけしか鑑賞して

いない今の段階で、結論付ける事は差し控えるべきだろう。

 

しかし「第七の封印」や「処女の泉」、あるいは「野いちご」などを見た中で、

ベルイマンにはキリスト教に対して、斥力と引力の双方を内心感じているのではないか、

と思う。父がルーテル教会の牧師であり、子供のころその父から折檻を受けたトラウマが

彼の中にあり、それが斥力になっていることは容易に想像がつくが、彼の映画には

斥力ばかりではないと思う。、現実の父親はイエスキリストではないのだから

 

そしてそういうアンビヴァレンツ(両価値感情)が、彼の映画に陰影と言うか深みを

与えているのだと思う。

 

一方斥力と引力、という分析は私自身の投影があるだろう。

処女懐胎や復活については疑念は拭えないし、と言うことは信仰の基本部分の

三位一体を信じられないわけだが、聖書の中のイエスの言動の中にある思想・哲学

は大いに惹きつけられるし最も尊敬もしている。つまり人間として。

 

私と似たような人にニューヨークタイムズのニコラス・クリストフと言うコラムニストがいて

毎年クリスマスのころになると、「疑念」を聖職者や神学者にぶつけている。

最後に昨年の記事を貼り付けておく。

https://www.nytimes.com/2019/12/21/opinion/sunday/Christianity-Philip-Yancey.html?searchResultPosition=1

 

 

 

 

 

 

 

「野いちご」は1957年、ベルイマンが39歳の時の作品。

 

既述の処女の泉(1959年)と第七の封印(1956年)の間に製作された。

 

同時期には「魔術師」(1958年)がある。ベルイマンは1955年のカンヌ映画祭で

 

「夏の夜は三たび微笑む」が特設賞を受賞して国際的知名度があがり、「第七の封印」

 

も成功を収めたことで「野いちご」も容易に製作された、と小松弘著の下記の本にある。

 

 

少し長いが配給会社のMagicHour社のホームページからストーリのコピーによる紹介。

78歳の孤独な医師イーサク・ボルイ。妻は亡くなり、子供は独立して、今は家政婦と二人きりの日々を送っている。長年の功績を認められ、明日ルンド大学で名誉博士号を受けることになっていた。その夜イーサクは奇妙な夢を見る。

人影のない街、針のない時計。彼の前で止まった霊柩車。中の棺には彼そっくりの老人がいて、手をつかんで引きずり込もうとする。

夢から覚めたイーサクは、飛行機でルンドに行く計画を取りやめ、家政婦アグダの反対を押し切って車で向かうことにする。

車の旅には、息子エーヴァルドの妻、マリアンが同行することとなった。マリアンは家族に対して冷たいイーサクの態度をなじる。道の途中、ふと思いつき、青年時代に夏を過ごした邸宅に立ち寄る。古い家のそばに広がる野いちごの茂みに腰を下ろし、感慨に耽るイーサク。いつしか現在の感覚が薄れ、過去の記憶が鮮明によみがえってくる。

野いちごを摘む可憐な乙女、サーラ。彼女はイーサクの婚約者だが、彼の弟に口説かれ、強引に唇を奪われる。家の中ではイーサクの母親、兄弟姉妹、親戚一族が揃い、にぎやかな食卓を囲んでいる。弟との密会をからかわれ、動揺するサーラ。彼女は真面目なイーサクより、奔放な弟に惹かれていることを密かに告白する。

夢から覚めたイーサクの前に、サーラそっくりの娘が立っていた。サーラという名前の快活な女学生と、ボーイフレンドである2人の若者が旅の道連れとなった。途中、事故にあった夫婦を助けるが、アルマンと名乗る夫とその妻は車内で喧嘩を始め、うんざりしたマリアンは二人を追い出す。車はかつてイーサクが住んでいた美しい湖水地方にさしかかる。立ち寄ったガソリンスタンドでは、子供の頃に面倒をみた店主が彼を覚えていて、心のこもったもてなしをする。途中、年老いた母親の屋敷を訪ねたイーサクは、忘れていた過去の記憶に触れ、車の中で疲れて眠りに落ちる。

イーサクに手鏡をつきつけ、老いた自分の顔を見るよう促すサーラ。彼女は弟と結婚し、仲睦まじく暮らしていた。アルマンに導かれ、医師の適性試験を受けたイーサクは、ことごとく失敗して不適格とみなされ「冷淡で自己中心的、無慈悲」の罪を宣告される。更に一組の男女が密会する光景を見せられる。それはかつて目撃した、妻カーリンの不倫現場であった。アルマンはイーサクに「孤独」の罰を告げる。

 

上記の斜体の部分は、イーサクが夢ないし回想,つまりフラッシュバックの部分である。

 

針の無い時計、霊柩車、自分にそっくりの死者を見たせいだろう、何かに導かれる

 

ようにして彼は授賞式に車で出かける事を決意する。

 

車で行くことで、自分の青年時代に過ごした館に立ち寄り、野いちごを見つけて

 

当時の記憶がよみがえってくる。

 

それは奇妙な追憶だ。他の人たちはみなかつての姿であり、自分は現在の姿である。

 

それは自分の過去ー婚約者サーラを弟ジークフリートを奪われたことの苦い思い出

 

反芻であり、自分の孤独で人を容易に寄せ付けない性格の「今ここにある」自己の

 

受容プロセスでもある。

 

それはフロイトの無意識、ユングの元型への還元などとは違い、現在のあり方ー

 

自分を取り巻く状況と、対人的在り方に焦点を合わせる現存在分析的な手法

 

想起させる。(現存在分析は50年代に盛だったがベルイマンが触れたか否かは不明)

 

イーサクが見る夢は、彼自身の「今の」心境を反映したものであり、過去の出来事を

 

受容することで起きる心境の変化に伴って、「今の」自己も変容する。

 

そうしたイーサクの変化が、息子の妻マリアンの息子との夫婦関係の危機について

 

口を開く契機を与える。

 

ルンド大学で名誉博士号を授与され、ヒッチハイクの三人も息子夫婦も、家政婦も

 

みな出席している。

 

就寝したイーサクに息子のエ―ヴァルドが立ち寄り、イーサクが少し話がしたい、

 

と引き留め「、二人の事が気になる、、これからどうする」と切り出す。

 

やり直したい、マリアンを失いたくない。

失えば生きてゆけない。

マリアンはどう言っている?

しばらく考えたい、と

 

その時マリアンが入ってきて、新しい靴をイーサクに見せる。

イーサクはマリアンに「君のことが好きだよ」と伝え

マリアンもまたイーサクに「大好き」と言ってイーサクに口付けする

 

老境に入って死が身近なものとなったイーサクは、周囲の身近な人たちとの

 

関係を自分から結びなおし、孤独から抜け出すことが出来そうである。

 

映画監督は、映画の始まりと、それをどのように終わるかに心血を注ぐものだろう。

 

観る者にどうやって強い印象を残すことが出来るか、が始まりと終わりに多く

 

がかかっているからだ。特に終わりが納得できないと不満を残す結果になりがちだ。

 

始まりはイーサクの書斎での「孤高」を印象図付ける無言の独白。表情も硬い。

 

終わりは「良い夢」が見れそうな穏やかで満足した表情で寝入る。

 

それによって見る者もまた彼の長い一日とその心境の変化に癒されるのだ。

 

 

 

 

主演のシェストレムについてはWIKIより抜粋。つまりベルイマンが尊敬する大先輩。

ヴィクトル・シェストレムVictor Sjöström1879年9月20日 - 1960年1月3日)は、スウェーデン映画監督脚本家

創成期のスウェーデン映画界やハリウッドで映画監督として活躍したことから、「スウェーデン映画の父」と呼ばれる。監督業の傍ら、映画俳優としても独特の存在感を示した。特にイングマール・ベルイマン監督の『野いちご』における演技が有名。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

暗闇の空に鳩が舞い、その遥か高いところから下を見下ろすと、独りの男が

 

波打ち際に打ち捨てられたように横たわっている。

 

地上に降りると男は胸に十字軍の鎧をつけ傍らにはチェス盤と駒がある。

 

もう一人いる。騎士の従者だ。

 

鳩は聖霊を意味し、高い位置からのズームは神の視線だろう。

 

この始まりが、既にしてキリストの主題を暗示する。

 

一方登場する死神や堕落した説教師、あるいは従者の言は反キリスト的である。

 

ストーリーは少し長いがmagichourより引用する。

ペストが蔓延し、世界の終末の不安に慄く中世ヨーロッパ。10年にわたる十字軍の遠征から帰途についた騎士アントーニウスと従者ヨンス。疲れ果て、浜辺で眠れぬ夜を過ごすアントーニウスの前に「死」と名乗る黒いマントの男が現れる。彼を連れて行こうとする死神に対し、チェスの勝負を挑むアントーニウス。「対局の間死はお預けだ。私が勝てば解放してくれ」。興味を示した死神は条件を受け入れ、チェスの盤を挟んで戦いが始まる。

夜が明け、故郷への道を急ぐアントーニウスとヨンス。道の傍らには馬車を止めて休んでいる旅芸人の一座がいた。役者のヨフは、目の前を通り過ぎる聖母マリアとイエスの姿を見るが、妻のミアは幻だと笑って信用しない。
教会を訪れたアントーニウスは、告解室に跪き、神への疑念と苦悩を語るが、聖職者のふりをした死神に騙されてチェスの作戦を教えてしまう。教会の外にはひとりの女が鎖につながれていた。彼女は魔女で、明日火あぶりの刑にされるのだという。農家に立ち寄ったヨンスは、盗人と鉢合わせた村娘を助ける。その盗人こそ、以前熱烈な言葉で騎士たちを十字軍に参加させた、神学者ラヴァルのなれの果ての姿だった。

旅芸人の一座は、陽気な芝居と歌を披露するが、キリスト像を掲げ、自らを鞭打って歩く異様な集団にさえぎられる。宿屋では大勢の客たちが、疫病がいつこの地方に飛び火してくるかと噂しあっていた。ヨフは鍛冶屋とラヴァルにからまれている所を、ヨンスに助けられる。

アントーニウスは、夫を待つミアと愛らしい子供ミーカエルと言葉を交わし、心を和ませる。そこに戻ってきたヨフ、ヨンスたちも加わり、草むらに腰を下ろして、野いちごとミルクを分けあって食べ、しばし平和なひとときを過ごす。この幸せな情景を永遠に記憶に留めたいと願う騎士。死神はヨフ一家に目をつける。

 

戦争と疫病は、いま新型コロナ肺炎のパンデミックに襲われている我々がそうである

 

ように、「死」の存在を身近にする。そうした「死」の隣在が「魔女狩り」、今でいえば

 

人種差別や異端ーLGBTに対する排除を強め、不安や恐怖が権力に対する盲従

 

即ち全体主義を受容する地ならしをして民主主義を死に至らしめる危険を高める。

 

「死」の隣在はこうした事だけではない。

 

十字軍遠征を何度も行った中世のカトリックにとっては、「キリスト教」に対する

 

「疑い」もまた生み出す。

なぜ神は五感でとらえられないのか。

なぜ曖昧な約束や奇跡にお隠れになるのです?

己を信じられぬものが、どうすれば神を信じられるのか。

信じぬものはどうするのか?

なぜ神を殺せない。

神を知りたい。教義や空想でなく、

手を差し伸べ、顔を見せ言葉を下さる神が欲しい。

 

アントニウスは神と対話しているつもりであったが、実は死神。

「人は死や無など考えぬ。恐れが形になったもの、それを人は神と呼ぶ。

と神のふりをした死神が答える。

(今朝死神が訪れて死神にチェスを挑みしばしの猶予を求めた理由は)

私は今まで当てもなく何かを求めてきました。

だからと言って自分を攻めようとは思わない。

人生とはそういうものです。

だが最後に何か意味あることを成し遂げたい

 

宗教改革後ルター派の国となったスエーデンの牧師の子に生まれたベルイマン

 

は子供時代に牧師の父から受けた折檻ー暴力によって深く傷ついた経験を持つ。

 

ニーチェもまたルター派の牧師を父に持つ。(父はニーチェが4歳ごろ死去)

 

それが故かベルイマンの中に、ニーチェ「反キリスト者」的、あるいは「最後に

 

何か意味あることを成し遂げたい」なかにサルトル「実存的」な思想がある。

 

従者ヨンスは女房に逃げられた鍛冶屋に言う。

愛と言うのは所詮煩悩と不実と嘘なのだよ。

愛は疫病の中でも一番厄介だが死にはせん。

この世のものすべてが不完全だとすれば

愛こそは完全な不完全。

いささかの照応がニーチェにある。

数々の短い愚行ーそれが君たちのもとでは恋愛と呼ばれる。

そして君たちの結婚は、一つの長い愚事として、数々の短い愚行を終わらせる。(ツアラストラ第一部19より)

 

死神と最後のチェスをしている時、旅芸人ヨフ、幼児ミカエルをつれた若い夫婦

 

が危険を察して逃げ出すのを死神の背後に見る。彼らを死神から逃れさせようと

 

アントニウスは長考する。

 

自分の居城に帰ったアントニウスは遂に死神が訪れたことを知る。

 

 

かくして死神から逃れたヨフ一家3人はは明るい陽光のなか新しい旅にでる。

 

そしてヨフは死神に先導されて踊るアントニウスたちをみるのだ。

 

この最後の光景は、ここにに至るまでの、フイルムノワール的な暗い陰鬱な、

 

あるいはまた白と黒のコントラストの強い画面と違ってとても明るく対照的な

 

シーンとなっている。また幼児の名前も天使ミカエルを連想させる。

 

この映画「第七の封印」は1957年の作品。

 

「神の存在」を問いかけているが、

その問いかけに答えは無い。

暗闇から問いかけても暗闇があるだけだ。

救われたヨフ一家は、神が救ったわけではない。

神の存在に確信が持てないアントニウスが

「最後に何か意味あることを成し遂げたい」

と死神から救ったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スエーデン人の映画監督ベルイマン(1918-2007)1960年の作品

1952年「不良少女モニカ」でフランスヌーベルバーグに認められ、

1957年「第七の封印」 「野いちご」そして60年のこの「処女の泉」と続き評価が確立

 

 

1961年には「鏡の中にあるごとく」 62年「冬の光」 63年「沈黙」と立て続けに発表。

これらは後に「沈黙三部作」と言われる。

 

 

あらすじ(ネタバレ)はWikipediaから拝借して抜粋。

舞台は土着信仰とキリスト教が混在する中世のスウェーデン。裕福な地主テーレとその妻メレータ、彼らの一人娘であるカリンの一家は敬虔なキリスト教徒である。しかし一家の養女であるインゲリは密かに異教の神オーディンを信奉し、苦労を知らずに育ったカリンを呪詛している。

ある日、教会への勤めを両親に命じられたカリンとインゲリ。途中でインゲリと言い争いをしたカリンは、彼女と別れて一人教会に向かう

道中カリンは貧しげな三人の羊飼いの兄弟に遭遇する。彼らに同情して食糧を分け与えるカリンだが、清純なカリンに魅了された長男と次男はカリンを強姦、彼女を殺害してしまう。その様子を物陰から目撃していたインゲリ。

カリンを殺害した夜に羊飼いの兄弟が宿を乞うたのは、偶然にも彼女の両親が経営する農場だった。そうとは知らず、羊飼いの兄弟は母親のメレータにカリンから剥ぎ取った衣服を売りつけようとする。娘の運命を察したメレータは、夫のテーレに誰が娘を殺したかを告げる。妻にカリンの衣服を見せられ彼らの犯行を確信する。

早朝の光の中、復讐のために体を清めたテーレは羊飼いの兄弟が眠る母屋に赴く。娘に乱暴した長男と次男を斃したのち、テーレは激情に任せて罪の無い少年の命まで奪ってしまう。

テーレは、森に放置されたカリンの亡骸まで(インゲリにより)案内される。

テーレは娘の死と彼自身の復讐を看過した神を糾弾する。

それでもなお神の救済を求めるテーレは、娘の遺体の側に罪滅ぼしのために教会を建設することを約束する。

テーレとメレータが娘の亡骸を抱きかかえたその時、彼女が横たわっていた場所から泉が湧き出してくる。インゲリは、泉から湧き出た水を、手で掬って顔に注ぎかけた。(挿入した写真は映画Weから借用)

   

このあらすじを書いた人はキリスト教に対する理解があまりなく、とても通俗的だ。

あらすじ自体隔靴掻痒の気味がある。少し補足してみよう。

舞台は中世とあるから宗教戦争以前の宗教つまりカトリックである。

一方オーディンは北欧神話の主神。

強姦された娘の絹のドレスについていた血は破瓜の徴だろう。

 

娘カリンの死体を目にして父テーレは茫然自失して坂道をよろめき転倒する。

上体を起こして独白する。

 

神よ、なぜです?

見ておられたはずだ。

罪無き子の死を、私の復讐を、

だが黙っておられた。

なぜなのです、私にはわからない。

 

だが私は許しを乞います。

でないと自分の行いに耐えられない。、

生きてゆけない。

(更に上体を起こして)

ここに誓います。

我が子の亡骸の上に

神を称える教会を建てます。

罪を償うために。

私のこの手で。

 

テーレは立ち上がり娘の亡骸のもとに行き、娘を抱きかかえると、

その跡に泉が湧き出る。

インゲリは跪いて手で水をすくって顔を洗う。

ついで母メレータが泉の水をすくい、カリンの顔を洗う。

他の者は手を合わせ、そして最後にみな上の方を見上げる。

ながながと引用叙述したが、ここにこの映画の主題が凝縮されていると思うからだ。

 

神はわれわれが罪を犯すことを止めることはない。沈黙するのだ。

復讐は神のする事ではない。神罰などというものは無いのだ。

神がすることは、ただ罪を犯したものを許すこと

許しによって癒すことだけだ。

 

それが神の沈黙の「なぜ}に対する答えである

インゲリの顔を洗う行為は、土俗の神からキリストに対する改宗、帰依であり

洗礼だ。

メレータがカリンの顔を洗うことで、カリンの死体は浄められた。

最後にみな上の方を見上げたのは、教会と同じようにそこに

キリストが、神がおられるからである

 

沈黙三部作にこの映画は入っていないが、

間違いなくこの映画は「神の沈黙」がテーマとなっている。

テーレを演じたマックス・フォン・シドーの上に引用した独白の

その後ろ姿の演技は圧巻である。

実際に鑑賞されることをお勧めする。このシーンだけでも見る価値があると思う。

この俳優のせいか、ギリシャ悲劇ないしシェイクスピア劇を見ているような錯覚に誘われる。

また最後に謳われるグレゴリオ聖歌(多分)、

歌詞がわかるとなお一層理解が深まるだろうが残念だ。

 

 

 

 

後記:この映画についてはブロ友のZELDAさんのブログに触発されて鑑賞した。

ブログの一読をお勧めする。

『処女の泉』 誰が少女を殺したか?