『処女の泉』 誰が少女を殺したか? | シネマの万華鏡

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試練の時を旧作映画祭りでのりきろう!

とうとう首都圏+大阪・兵庫・福岡に緊急事態宣言が出るそうですね。イベント関係の仕事は当分絶望的、テレビドラマの撮影もできないそう。毎月仕事で伺うビルでも入口のゲート前にサーモグラフィーカメラが置かれて、熱がある人は入場を止められることになりました。ちょっとでも熱があれば有無をいわさず仕事はジ・エンド・・・これは緊張感あります。でも、予防以外どうすることもできないので、ひたすら消毒。当たり前ですが直行直帰。立ち寄るのはスーパー・ドラッグストア・パン屋・コンビニだけ。できるだけビタミンと水分を摂取。部屋は加湿。入浴で体をほぐして。

国がこれほど強制力を持ってくる事態も初体験です。戦争が始まる時もきっとこんなふうにガタガタッとくるんだろうなとふと思いました。どうかこれを契機に世界が不穏な方向に動いていくようなことがありませんように。

 

ささ、こんな時こそ映画です。今日もイングマール・ベルイマン。ベルイマンはこれまでちょっととっつきにくかったのですが、『沈黙』を記事にできてようやく重い扉が開いた感じですね。

本作はウディ・アレンがタイム誌の取材に答えてベルイマン入門作品として挙げた5作のうちの1作。ちなみに他の4作は、『第七の封印』『野いちご』『魔術師』『叫びとささやき』だそうです。

父親が牧師だったというベルイマンの作品には宗教色が濃いものが多くて、それがハードルを上げてる面があるんですが、本作は宗教的なテーマながら分かりやすい作品。それでいてベルイマンらしい骨太感もあって、たしかに入門向きかもしれません。

 

あらすじ(ネタバレ)

 

16世紀のスウェーデン、豪農テーレ(マックス・フォン・シドー)の一人娘カーリン(ビルギッタ・ペテルスン)は、おめかしをして下女のインゲリ(グンネル・リンドブロム)と一緒に教会にロウソクを届けに行きます。しかし、カーリンは屈託なくインゲリを慕い、父なし子を身ごもったインゲリをいたわっている一方で、インゲリのほうは何不自由なく恵まれたカーリンを妬み、彼女を呪詛しています。その日、自分の呪詛がかないカーリンの身に何かよからぬことが起きると予感したインゲリは急に良心が咎めてカーリンに引き返そうとすすめますが、カーリンはかまわずに身重のインゲリを水車小屋に残して教会へ続く森へ。そこで出会った貧しい放浪者の3兄弟に親切に食べ物をふるまったばかりに彼らにレイプされ、殺害されます。実はインゲリはカーリンの後を追い、隠れて一部始終を見ていたのですが、声をあげることができず、カーリンを見殺しに。

 

3兄弟はさらに裕福だと言うカーリンの両親から金を奪うため彼女の家を訪ねますが、インゲリがカーリンの父に一部始終を告白したことで、激高した父親は3人を殺害。インゲリの案内でカーリンの無惨な亡骸と対面します。

 

1960年の作品。少女のレイプを描いた内容は当時波紋を呼び、日本では該当シーンはまるごとカットされて上映されたとか。

 

殺人には殺人を

(カーリンをレイプして殺した放浪の3兄弟)

 

映画って、影響力が大きいメディアだけに倫理観と切り離し難いところがありますよね。映画と言えどもモラルの枠をはみ出ちゃイカンと考える人も多い。一時期露悪的な映画が流行した時代もあったけれど、今は除菌第一という流れ。ましてや本作が作られた1960年代にはなおさら、厳しい倫理規制があったはずです。

そんな中で本作では少女のレイプとそれに対する報復殺人(殺された中には幼い少年も含まれる)を描いています。ベルイマンは実験的な作品をいくつも作っていますが、今作では残忍な衝撃シーンを入れたこと自体冒険だったと言えるんじゃないでしょうか。

 

実際、少女レイプの描写は激しい抗議を受けたそう。ただ、本作を観ていただければわかるように、少女ポルノ的な興味本位な部分はかけらもなくて、少女に起きた惨劇を目をそむけずに見つめた、真摯な描写。この作品に必要不可欠なシーンです。

カーリンの父親による少年殺しのほうは、兄たちのカーリン殺害を目撃していた少年が良心の呵責に苦しむ描写があるだけに痛ましさがあります。何もそこまで・・・とも思う。でもその反面、なんの罪もない娘を殺されたカーリンの父親の復讐心を真っ向から責めることはできないとも思うんです。

こんなむごい仕打ちに遭って、自制心が保てるかどうか。少年殺しは衝撃的に見せることそのものが目的ではなくて、この究極の状況での罪を際立たせるための描写。少女殺し同様にこれも本作のテーマを描ききる上で必要な描写だったと思います。

 

少女を誰が殺したか?

(教会にろうそくを供えに行く途中で殺された美少女カーリン)

 

もっとも、この作品は単純に少女強姦殺人と少女の父親による復讐の悲劇だけを描いたものじゃありません。

少女を殺したのは誰か? もちろん手を下したのは三兄弟ですが、そのまえにインゲリがカーリンを呪詛している。インゲリ自身、カーリンが殺されたのは自分の呪詛のせいで、男たちのせいではないと言っています。

 

父無し子で人に蔑まれているインゲリ、カーリンは何不自由ないお嬢様、美しくて誰からも愛される。インゲリはカーリンに嫉妬していた・・・たしかにそうでしょう。

ただ、嫉妬だけで片づけられない話だということは、ここに水車小屋の番人が登場してくることからも分かります。

 

(ヨーロッパ中世の水車小屋。水力で粉挽きなどをしていた。)

 

ヨーロッパ中世社会史研究者の故阿部謹也によると、マクロコスモスに属する水をコントロールする水車小屋の番人は畏怖の対象となり、時代が下るに従って賎視の対象となっていったとされています。また、水車小屋はしばしば「悪魔の棲む場所」として恐れられたとか。

たしかに、この作品に登場する水車小屋の男は、まさにそういう造形の人物として描かれています。孤独でボロ服をまとったこの男は、人の心を読むこともできれば、この世ならぬ者たちの気配も聞くことができる。村と森との境の水車小屋に棲んでいることが象徴的に示しているように、彼はこの世と異界の境界にいる、なかばマクロコスモス的な存在として描かれているんです。

問題はこの水車小屋の男がインゲリを「同類」と言っていること。お互い社会から疎外された存在で、社会を呪詛しながら生きている、そういう意味での仲間ということなんでしょう。

 

敬虔なクリスチャンである奥様(カーリンの母)も、同じく信仰心の篤い老女中も、どういうわけかインゲリに対しては差別的な言葉を吐き、他の人に対する時とは同じ人間とは思えないくらいにぞんざいな態度なんですよね。

スウェーデンの文化に詳しくないので、彼女がどういう立場なのかはわかりませんが、おそらく彼女も水車小屋の男と同じく被差別民なのかもしれません。(それからカーリン殺しの3兄弟も)

インゲリがカーリンを呪詛した背景には、個対個の私怨だけではなく、当時の社会の歪みがあったということじゃないでしょうか。

 

カーリンの恵まれた少女ならではの悪気はないが心無い言葉も、インゲリを傷つけた。

加えてカーリンの両親もこの事件をまねいた元凶。

早起きしてみんなとミサに行っていればこんなことは起きなかったのに、娘に朝寝坊させて、おまけにいかにも金回りの良い家の娘と分かる晴れ着まで着せてやったことが、放浪者の男たちに狙われるという最悪の結果を招いた。親が甘やかして、生きるための知恵を授けなかったのも罪でしょう。

どんなに信心しても、神が危険から子供を守ってくれるわけではないという現実もこの作品は浮き彫りにしているんです。

 

神の沈黙

(カーリンを呪詛したインゲリ。世の中への憎悪と自己嫌悪がこの強い眼差しに表現されていて、惹き込まれます)

 

ベルイマンの作品には「神の沈黙の三部作」と呼ばれる作品(『鏡の中にある如く』『冬の光』『沈黙』)がありますが、本作のテーマもまさに「神の沈黙」に行きつくように思えます。

神の恩寵に満ちているはずのこの世でありながら、無垢な少女カーリンは親切にした男たちに無残にも殺された。聖書は復讐は神の手にゆだねるべしとおしえているけれど、もし我が子がこんな目に遭ったとしたら、黙って神の制裁が下るのを待つことができるでしょうか? 

そんな信仰への強烈なアンチテーゼを、この作品は投げかけています。

カーリンの父親の場合は自ら復讐を行ってしまう。それでも神は沈黙したまま・・・

 

ベルイマンの視点は、まるで神に抗議するかのようです。ただ、本作は神の否定を目的にしているわけではないと感じるのは、カーリンの亡骸が横たわっていた場所からタイトル通り「処女の泉」が湧き出し、その澄み切った水でインゲリが顔を清める場面があるから。

その泉は神がインゲリに与えた赦しにも見えるし、今は物言わぬ存在になったカーリンからの赦しにも見える・・・これがベルイマンが見つけた神という存在に対するひとつの答えなのかもしれません。

 

カーリンが息絶えた場所に父親が教会を建てることになり、もっと近くに教会がほしいと言っていた女中の願いが奇しくもかなうことになったのも、神から貧者への恩寵なんでしょうか。

 

マックス・フォン・シドーの瞳

(『魔術師』の魔術師役のフォン・シドー。この眼、一度見たら忘れられません)

 

ベルイマン御用達の役者だった故マックス・フォン・シドー。ごく最近訃報が出た時には何人かのブロ友さんが追悼レビューをされていましたね。

上に挙げたウディ・アレン推薦のベルイマン入門作品5作にもうち4作に出演しているという、まさにベルイマン作品の顔。

華のある容姿なのに俗っぽい嫌味がなくて、ベルイマンの宗教色の強い作品で人間の苦悩を演じるのにうってつけの佇まいでしたね。ことに『魔術師』で演じた科学者の顔と魔術師の顔をふたつながら持つ男の、憂いを帯びた大きな瞳、眼に焼き付きました。『魔術師』もすごく面白かったので、ぜひ記事にしたいと思っています。