『危険なメソッド』 正常と異常のあいだ | シネマの万華鏡

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(引き締まったモノトーン基調の映像)

19歳の春に見た一生モノの悪夢

新型コロナ騒動で引き続きひきこもりの週末、ちょっと気分を変えて夢分析の話でも。

昔々、大学1年生の時、フロイトとユングの精神分析(ユングの場合は「分析心理学」と呼ばれるようですが)の入門書を読む英語の講義を取ったんです。先生は東大卒だったか東大と掛け持ちされてるんだったかの非常勤講師で、うちの大学の学生の出来の悪さにいつもご機嫌が悪かったことをよくおぼえてます。

もうひとつこの講義が忘れられない理由が1つ。たぶんこの講義の影響で、当時物凄く怖い夢、それもフロイト的な夢を見たんです。夢の内容を思い出してもどこか怖いのか全くわからないのに、とにかく目が覚めた時恐怖でしばらく動けなかったほど。

それはこんな夢でした。

 

私の育った田舎に皆が「お宮」と呼ぶ小さな神社がありました。本当はスサノヲ尊を祀る須賀神社らしいんですが、神主さんはとうにいなくなってご神体もない。ただ、石段を上ったところに鳥居と中はがらんどうの社殿があって、その裏に小さい石の祠が残っていました。夢で私はその祠の裏に広がっている笹原を歩いていきます。

笹原の先は現実には隣りの集落との境の峠ですが、夢の中では峠にあたるところが崖になっていて、眼下は海。気が付くといつのまにか私は海の底を歩いています。何故か普通に息ができました。少し前を赤い紐でお互いの体がつながれた犬が2匹走っているのが見えて、その犬の後を追っていくと、左の岩肌に扉があります。その扉を開けるとすぐ目の前が狭い階段になっていて、のぼり切ったところにさらに扉があり、その奥はとても小さな薄暗い部屋。部屋の中のことでおぼえているのは、ろうそくの灯り、それとピアノがあったことです。私はピアノを弾こうとして鍵盤に触れたのですが、その時に何かとても怖いものを見るんです。それがなんだかは覚えていないんですが、ものすごく怖いもの・・・もしかしたら何も見なかったのかもしれませんが、とにかくそこで恐怖のあまり目が覚めます。

 

ね?海といい、階段といい、階段の上の小部屋といい、いかにもフロイト的でしょう? そして何度考えても、何が怖かったのか分からない。

ほんの少し精神分析の知識に触れたことで、自分の中で眠っていたものが白昼夢に引き出されたような、不思議な体験でしたね。この夢に限らずある年齢の頃まで昼寝をするとたまに怖い夢を見ていましたが、後にも先にもこんな奇妙な夢体験はないですね。

 

そんなこともあったせいか、精神分析やフロイトの夢分析には興味があります。私がデヴィッド・クローネンバーグの作品が好きなのも、めくるめく変態世界(←まぎれもなく褒めてます)というだけでなく、フロイト的な要素を感じるから。例えば『戦慄の絆』の双子の子宮回帰願望なんて、ものすごくフロイト的じゃないですか? そもそもフロイトの想定する人間自体、多くの人が考える「普通」とはかけ離れたアブノーマルなもので、そこからしてすでにクローネンバーグの世界とつながっているとも思うんですよね。

これは私の勝手な想像ですが、フロイトとユングの蜜月から確執に至るまでを描いた本作は、クローネンバーグにとって映画監督人生の1つの集大成的な意味もあったんじゃないかと。

 

ただ・・・クローネンバーグの変態ボディホラーが好きな人にとって本作が面白いかというと、なんとも。

じゃあ、精神分析好きになら面白いのかと言えば・・・ううむ、それもまたなんとも。

なんとも歯切れの悪い書き方になってしまうんですが、まあ、とりあえず始めてみましょうか。

今ならAmazon Primeでも観られますので(会員なら無料)、ぜひご一緒に。

 

 

あらすじ(ネタバレ)

1904年、若き精神科医ユング(マイケル・ファスベンダー)は高名な精神分析医フロイト(ヴィゴ・モーテンセン)が提唱する画期的な治療法を、新しく受け持った患者ザビーナ(キーラ・ナイトレイ)に実践する。そしてユングは彼女が抱えるトラウマの原因を突き止めるが、二人は医師と患者の一線を越え禁断の関係に。やがてザビーナの存在は、ユングとフロイトとの関係に確執をもたらしていき……。

(シネマトゥデイより引用)

 

デヴィッド・クローネンバーグ監督、2011年の作品です。

あらすじを引用しておいてナニなんですが、ユングとフロイトの確執の原因はザビーナ、つまり女性関係ではありません。

フロイトはユングを並み居る弟子の中でも偏愛し、自分の後継者とみなしていたけれど、ユングはフロイトの何事も性欲に結び付ける精神分析理論に疑問を感じていたし、フロイトはフロイトで、ユングが降霊会や神秘主義も研究対象に含めていくことに対して警鐘を鳴らしていた。要は2人は学説の面で対立を深めていったんですよね。

ただ、1970年代に発見されたザビーナ・シュピールラインの日記・書簡によって、彼女がユングの研究に大きな影響を与えた存在であることや、ユング・フロイト双方との交流が明らかになっていて、本作はこのザビーナ関連の発見をからめてフロイトとユングの関係を深堀りしようとした形跡があります。

 

ザビーナの突き抜けたマゾヒズムが牽引するクローネンバーグ節

(美しいザビーナ、でも彼女の性衝動はギガです・・・)

 

フロイトとユングの関係というテーマとか、ヴィゴ・モーテンセンにマイケル・ファスベンダー、そしてキーラ・ナイトレイにヴァンサン・カッセルまで登場するというキャスティングはすごく魅力的。特に男性陣の人選!!そこはかとな~く耽美で、淫靡。この3人が揃うと、それだけでイケてる変態映画が出来上がりそうなワクワク感が盛り上がります。

加えて、本作でキーラ・ナイトレイが演じてるザビーナが(実在の人物ですが本作の中では)マゾヒズム炸裂の色情症というこれまた立派な変態。しかもキーラの完全に振り切った演技は!!正直振り切りすぎな感すらあるのですが、ここまで極めてこそデヴィッド・クローネンバーグ作品。彼が作り上げる屈折したエロチシズムの中毒者には、ユングにスパンキングされてエクスタシーに耐えるザビーナの表情は、まさにど真ん中のはずです。

つまり、このあたりまでは、素晴らしくクローネンバーグ好きの期待にこたえた作品と言えると思うんですよね。

ところが、あろうことか、肝心のフロイトとユングの関係について総括してない。そのせいか、捉えどころがなく冗長。これはどうなんだと。

 

それでも何回かこの映画を観直したのは、どうしてもデヴィッド・クローネンバーグのフロイト/ユング観のシッポに触れてみたかったから。

ちなみにこの本を参考のために読みました。精神医学者の小此木啓吾氏と臨床心理学者の河合隼雄氏の対談形式になっていて、読みやすいですよ。

 

 

ザビーナがつなぐフロイトとユング

(フロイトの後ろにスフィンクスがいるのが面白い。「この公園を散歩しているといいアイデアが浮かぶ」と本作のフロイトは言っているから、彼のエディプス・コンプレックスの着想はこのスフィンクスだったのかも)

 

本作のフロイトとユングの関係は、フロイト説に登場する葛藤する父と子の姿に似ています。

フロイトとユングの年齢差は19歳、丁度父と子の世代だし、しかも子が葛藤の末に父を超えていくように、ユングもまたフロイトと決別して独自の形で分析心理学を発展させていく。そういう意味では、まさに父と子の葛藤の物語そのものなんです。

ただ、残念なのことにこの物語には2人が奪い合うべき「母」がいない。2人の父子的関係をフロイト的な父子関係と呼ぶには、ちょっと建付けが弱いんです。

 

もっとも、母親が不在なかわりに、2人の間にはザビーナがいます。

ユングとザビーナがフロイトについてこんな会話をかわすシーンがあります。

ユング「フロイトは性衝動に執着してすべての症状を性的に解釈する。柔軟性がない」

ザビーナ「私の症例には正解よ」

そう、ザビーナの精神疾患の原因は性衝動でした。屈辱に性的快感を感じる自分自身を責めていた彼女は、欲望を解放することで恢復したんです。フロイトは彼女の症状を「女性色情症」と呼びますが、人間行動の中心に性衝動がくるフロイト理論では、人間は皆多かれ少なかれ色情症だと言っても過言ではありません。

まるでフロイトの精神分析の権化のような患者であるサビーナをを治療した経験がユングをフロイトに引き寄せた・・・つまり、ザビーナはユングにとってのフロイト的啓示と言ってもいい存在なんですよね。

 

2人の男性の間に1人の女性、それも男性2人が性的関係を共有する女性を介在させるという手法はよく男性同士の同性愛関係を暗示するために使われます。デヴィッド・クローネンバーグも『戦慄の絆』の中で主人公の双子(ジェレミー・アイアンズ)が共有する女性を描いているし、『明日に向かって撃て』のブッチとキッドの間にいるエッタもそういう位置づけの女性。

本作のザビーナの場合はあくまでもユングの愛人であってフロイトとは師弟関係ということで、「2人の男性に共有される女性」というポジションとは違うんですが、大枠で見ればそういう構図の中で3人は描かれている気がします。

 

(資産家の妻に買ってもらった赤い帆のボートにフロイトを乗せて湖で遊ぶユング。同じ船にザビーナも乗せた)

 

そういう気がするのは、フロイトと同性愛は無縁ではないから。上に挙げた『フロイトとユング』の中で小此木氏も「フロイトという人は同性愛的傾向があって、弟子にも非常に傾倒した後喧嘩別れをするパターンを繰り返しており、ユングもその1人だった」と言っています。そもそもフロイトは「人は幼児期には誰もが多形倒錯的な欲望を持っている」と主張している人。この意味で彼の中に異性愛=正常、同性愛=異常という発想はなく、根本は同性愛を排除していないんですよね。(厳密に言うと話はそこでは終わらないのですが、以下は割愛)

そんな背景があって、本作の中ではフロイトとユングの間にゆるく同性愛的な補助線が引かれているんじゃないかと。

 

実際はフロイトにもユングにも妻がいて、特にフロイトは子だくさんでもあったし、フィジカルな意味での同性愛関係はなさそうですが、ユングに否定されたフロイトが倒れたり、フロイトと決別したユングが精神疾患に陥ったり、蜜月を終わらせた後の2人が反発しあいながらも依然強く意識し合っていたことを考えると、愛にも擬制できる精神面での強い結びつきがあったと解釈してもおかしくないのかなという気がします。

そのあたりは、ヴィゴとマイケル・ファスベンダーというキャスティングでふわっと眺める感じでしょうか。

 

正常と異常の間

資産家の妻のおかげで優雅に暮らしているユングをフロイトが軽くやっかんだり、ユングが妻と愛人との間で優柔不断な二股男ぶりを覗かせたり、2人の天才のごく人間臭い一面も描いた本作。

それはそれで面白いんだけれど、やっぱり掴みどころがない・・・クローネンバーグのフロイト観・ユング観のシッポは、今回も掴めなかったかもしれません。

 

ひとつ強く心に残ったのは、クライマックスでフロイトと決別した後精神を病んだユングが、妻に呼び寄せられたザビーナに言った「正常な人間には(自分を)治せない」という一言。

正常な人間が異常な人間を治療するという発想の延長線上に『カッコウの巣の上で』みたいな惨劇が待ち受けている気がするので、この言葉は心地よく刺さりました。

 

 

ことさらに正常と異常の間に線を引かない(あるいは正常と異常の優劣をつけない)発想はユングの分析心理学の特徴なのかもしれませんが、アブノーマルな世界を追い続けたデヴィッド・クローネンバーグの思想でもあるような気がします。

単にアブノーマルな世界をこれ見よがしに見せていくんじゃなくて、既成概念が壊されていく面白さがある。これも、フロイト/ユングの理論とクローネンバーグ作品の通底する部分のような気がします。だからどちらも面白い。

その面白いものの掛け算のはずなんですが、ことこの作品に関してはどうしちゃったんでしょうか。

いやはや、お後がよろしいようで。