#今村昌平監督作品 #楢山節考  #83年カンヌパルムドール #坂本スミ子 #緒形拳 | Gon のあれこれ

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読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

83年のカンヌ映画祭では、大島清監督作品、デヴィッド・ボウイの出演で話題を呼んだ「戦場のメリークリスマス」とパルムドールを争い、前評判を逆転してこの「楢山節考」が受賞した。撮影はオールロケで、姨捨(おばすて)の場面は糸魚川で行ったが、それ以外は長野県小谷(おたり)村の車の通わぬ、徒歩二時間かかる文字通りの秘境で全員合宿で行われた。

 

様々なエピソードが語られているが、今村昌平だけでなく、「戦メリ」の大島も映画製作にかける情熱は鬼気迫るものがある。情熱は時に空回りし周辺の反発を呼んだりもするが、熱気がスタッフや出演者にも伝搬し、結局は我々見る者にも伝わってくるものなのだろう。

 

あらすじはWikipediaと映画.comより適宜合成する。

耕地にも気候にも恵まれないその寒村には、厳然たる3つの掟があった。

「結婚し、子孫を残せるのは長男だけである」

「他家から食料を盗むのは重罪である」

「齢70を迎えた老人は『楢山参り』に出なければならない」。

来年に楢山参りに出る定めの老女おりん(坂本スミ子)の家では、家族がそれぞれ問題を抱えていた。長男の辰平(緒形拳)は去年妻を事故で失い、侘しく鰥夫暮らしをしていた。そんな辰平は母親思いゆえ、とてもおりんを「楢山参り」に出すことはできない。次男の利助(左とん平)は頭が弱くて口臭がひどく、村人から「くされ」と呼ばれ蔑まれている。村の掟で結婚が許されず、家の奴(下人)として飼い殺しにされる運命の利助は女を知る機会もなく、一方辰平の後継ぎの息子けさ吉は、村のふしだらな女 雨屋の娘松やんと遊びほうけていた。

そんな折、向こう村の若後家・玉やんが、辰平の後妻として家に入る。一方でけさ吉も松やんを妻として家に迎え入れるが、松やんは手癖が悪く、貴重な食料を好きなだけ食い散らかし、挙句は盗み出した馬鈴薯玉蜀黍を実家へ持ち出していく。松やんはほどなく妊娠する。そんな中、松やんの実家である「雨屋」が、食料窃盗の咎で村人総出の制裁を受けることになる。雨屋の父つっあんが焼松の家に豆かすを盗みに入って捕まったのである。食料を盗むことは村の重罪であった。二代続いて楢山へ謝った雨屋は、泥棒の血統として見なされ、次の日の夜、男達に縄で縛られ生き埋めにされた。その中に松やんも居た。

新屋敷のおえい(倍賞美津子)は父親が残した「村の男と寝るように」との遺言を実行していたが口の臭い利助だけはパスした。飼馬のハルマツに当り散らす利助を見かね、おりんはおかぬ婆(清川虹子)さんに身替りをたのむ。

晩秋、おりんは明日山へ行くと告げ、その夜山へ行く為の儀式が始まった。夜が更けて、しぶる辰平を責め立てておりんは楢山まいりの途についた。裏山を登り七谷を越えて楢山へ向う。楢山の頂上は白骨と黒いカラスの禿げ山だ。辰平は七谷の所で、銭屋の忠やんが70歳になった父親(辰巳柳太郎)を谷へ蹴落すのを見て茫然と立ちつくす、気が付くと雪が舞っていた。辰平は猛然と山を登り 「おっ母あ、雪が降ってきたよう! 運がいいなあ、山へ行く日に」 と言った。おりんは黙って頷くのだった。

楢山の「掟」はすべて土地がやせていて田んぼも作れない極貧の村ゆえである。

長子相続は、土地を次子以下に分割すれば共倒れになる。従って次男以下は他家に養子に行くしかないが、利助は頭が弱く養子口もないので家に残って下男をするより仕方が無いのだ。一方娘が生まれれば口減らしのためには長男の男を見つけて

その家に入るよりほかに途はない。この状況では「後妻」を見つける事も容易だろう。

 

辰吉の長男けさ吉の女漁りや遺言を実行するおえい、あるいは利助とおかねなどのセックスシーンが豊富にある。製作費(3億9千万)の三分の二を出した東映の岡田社長は「異色の芸術ポルノ」と売り込んだし、ボケた吉本隆明も「ポルノ映画」と評したらしい。しかしながら寒村における「口べらし」としての性は生死に直結する課題なのだ。

 

つまりこの映画の主題は、生ー生存のため食うことと性ーと死(口減らし為の姨捨)、

母子の絆(辰平とおりん)と父親殺し(辰平や銭屋)という普遍的なものにある。

 

一方ではセックスシーンはおえいと村の男たち、あるいは次男の利助とおかね婆さんにしても、とてもユーモラスだ。上記の深刻なテーマと明らかな対照をなしている。

 

更に映像の美しさがある。始まりの雪の小谷村や山々の遠景、黙々と姨捨に向かう

おりんと辰平、そして人骨が散乱する姨捨場に舞う雪のシーンなどとても印象的だ。

 

こうした要素がカンヌでの最高賞(パルムドール)に繋がったのだろう。

 

おりんを演じた坂本スミ子はこの時46歳、緒形拳の一つ年上だ。

違和感なく見れたが、声は若い。しかし変に婆に作らず却って好感が持てた。

 

後記:実は同じ今村作品の「神々の深き欲望」(1968)を鑑賞したかったのであるが、レンタル出来ず、この「楢山節考」の一つ前の作品「ええじゃないか」(1981)を先に見たのだけれど、画面が暗くて人物が不分明でかつセリフも聞き取りにくい箇所などがあり、出てくる人物の造形も不明瞭で、どうにも集中できず途中で見るのをやめた。泉谷しげるが米国領事と英語でやり取りする場面は泉谷の地が出ている、というか知性的だ。それが日本語の演技とどうつながっているのか今一不明でもある。

興行的にも失敗したらしいが、「主役の桃井かおりは大地喜和子にすればよかった」

(村松著今平犯科帳p201)と今村監督は言ったらしいが、もし本当だとすれば責任転嫁だろう。主役の決定権や演出は今村に在ったはずだ。

 

 

先に挙げた「ええじゃないか」の問題点、つまり照明の問題やセリフあるいは人物造形などの問題点はこの映画では解決されているように感じる。

ゆえに今村もそれらを十分意識していたのだろうと思う。

白黒(エロ事師たち)からカラー化はその失敗を含めていろいろな試行錯誤も重ねてきたのだろう、と思うがその意味での「神々の深き欲望」は見逃せない作品だ。