展覧会 #写真と映像の物質性 #埼玉県立近代美術館 #Nerhol #牧野貴 | Gon のあれこれ

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読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

緊急事態宣言も解除され、ようやく美術館などの再開がなされるようになってきた。

しかし東京都では人口当たりの感染者数が大阪府や北海道と並んで多いので

このところ感染者数の鎮静化が続く埼玉県内の県立近代美術家に出かける。

テーマは「写真と映像の物質性」

カメラ、という人工的物体で撮ったイメージをパネルやスクリーンなどの物体ー人工的

即ちアーティフィシャルなものに映したものを鑑賞している訳だから、「物質性」」は

免れず、その物質性が即作品に反映される、と言うことから、何か新しい知見が得られるのではないか、という期待から出かけた。

この展覧会の開催趣旨を少し長いが下記にコピーする。

デジタル技術が加速度的に発展し社会に浸透した現代において、写真や映像という表現形態を選んだアーティスト たちは、動画像編集ソフトによる加工や合成、コピーやスキャニング、さまざまな出力方法を用いたインスタレーション、 ソーシャルメディアやフォトシェアリング・プラットフォームを利用した双方向的な手法などを複合的に駆使して、その表 現言語を更新し続けています。新しいテクノロジーから伝統的な手法までがひろく選択可能性に開かれた状況から、 写真と映像の可能性を拡張する意欲的な表現が次々に生まれるスリリングな場に、私たちは立ち 会っているのです。

 この展覧会で紹介する 4 名と 1 組のアーティストは、こうした状況をふまえつつ、 メディアの物質性を重視した独自 のアプローチによってこの領野に新機 軸を打ち出しています。数百枚の写真を積み重ねて切断した断面、くしゃくしゃ に折りたたまれたプリントの物理的な襞、映像から立ち上がる観る行為に潜在する触覚的な要素など、彼らの作品に おける特徴的な物質性は、単にフェティッシュなこだわりによるものではありません。おのおのが用いるメディアの歴史 や特性、機能に鋭く分け入り、それを更新するため の戦略によって獲得さ れ た性質なのです。

 彼らの作品をラディカルな再考と更新をめざす「新しい写真的なオブジェクト」と措定し、著しい速度で変化する現代 の写真表現・映像表現の一断面をとらえることがこの展覧会のねらいです。それはまた、私たちをとりまく今日の視覚 環境について、深く考えを巡らせる絶好の機会となるはずです。

 

問題はこの先、この狙いが如何に実現されているか、である。

我々鑑賞者は、製作者の「新しい写真的オブジェクト」を見る場合、「ラジカルな再考と

更新を目指したものであるか否か」はその製作方法、つまり撮影や投影に関する方法が開示されていないとその革新性の評価は出来ない。

その点では会場で渡された「作家略歴」に簡単な紹介があるけれども、もっと

製作過程のビデオでの紹介などが欲しかった。

都美セレクション グループ展 2020 や 都立写真美術館の公募受賞作品展 などの展覧会で実験的な、あるいはまた新人の作品を鑑賞する機会を得るのだが、その場合は鑑賞者として作品の主題やインパクトを脳に刻むので、大概は製作方法には注意を向けない。しかし今回の展覧会では「物質性」というユニークな切り口を提示した事の意味は

大いにあるだろう

 

今回の出品者の中、二人が埼玉県出身者である。

愛郷心、と言うのではなく固定資産税や県民税などを払っている立場からすると、

県出身者を応援する、というのは納得できる

 

一方、宇沢弘文氏の言う「社会的共通資本としての美術館」と言う観点からは、

若い作家の人たちに表現の機会を出来るだけ与える場、としての美術館

あるいはそうした機会を通して経済的な基盤を提供する場、としての美術館

あるいは小中学生に現代美術などに親しみ鑑賞眼を養うための場、としての美術館

などなど様々な顔を持つ美術館(場)であって欲しい。

 

特に私が好きな「場}はこれから世に出ようとする人たちのコンペである。

コンペに出品することで、自分の長所欠点も個性も見えてくるだろう。

場合によっては映像芸術で飯を食っていくことをあきらめる場合もあるだろう。

そうして転身したのち、「自分が表現したいもの」が沸き起こって、再び制作意欲が

作品が出来る場合もあるだろう。

そうした時にも表現機会があることがとても大切だ。

 

最後にとても面白かったアーティストデュオ Nerhol の製作過程のビデオを

見つけたので紹介する。

 

 

 

 

(映像作成牧野貴)