スエーデン人の映画監督ベルイマン(1918-2007)1960年の作品。
1952年「不良少女モニカ」でフランスヌーベルバーグに認められ、
1957年「第七の封印」 「野いちご」そして60年のこの「処女の泉」と続き評価が確立
1961年には「鏡の中にあるごとく」 62年「冬の光」 63年「沈黙」と立て続けに発表。
これらは後に「沈黙三部作」と言われる。
あらすじ(ネタバレ)はWikipediaから拝借して抜粋。
舞台は土着信仰とキリスト教が混在する中世のスウェーデン。裕福な地主テーレとその妻メレータ、彼らの一人娘であるカリンの一家は敬虔なキリスト教徒である。しかし一家の養女であるインゲリは密かに異教の神オーディンを信奉し、苦労を知らずに育ったカリンを呪詛している。
ある日、教会への勤めを両親に命じられたカリンとインゲリ。途中でインゲリと言い争いをしたカリンは、彼女と別れて一人教会に向かう
道中カリンは貧しげな三人の羊飼いの兄弟に遭遇する。彼らに同情して食糧を分け与えるカリンだが、清純なカリンに魅了された長男と次男はカリンを強姦、彼女を殺害してしまう。その様子を物陰から目撃していたインゲリ。
カリンを殺害した夜に羊飼いの兄弟が宿を乞うたのは、偶然にも彼女の両親が経営する農場だった。そうとは知らず、羊飼いの兄弟は母親のメレータにカリンから剥ぎ取った衣服を売りつけようとする。娘の運命を察したメレータは、夫のテーレに誰が娘を殺したかを告げる。妻にカリンの衣服を見せられ彼らの犯行を確信する。
早朝の光の中、復讐のために体を清めたテーレは羊飼いの兄弟が眠る母屋に赴く。娘に乱暴した長男と次男を斃したのち、テーレは激情に任せて罪の無い少年の命まで奪ってしまう。
テーレは、森に放置されたカリンの亡骸まで(インゲリにより)案内される。
テーレは娘の死と彼自身の復讐を看過した神を糾弾する。
それでもなお神の救済を求めるテーレは、娘の遺体の側に罪滅ぼしのために教会を建設することを約束する。
テーレとメレータが娘の亡骸を抱きかかえたその時、彼女が横たわっていた場所から泉が湧き出してくる。インゲリは、泉から湧き出た水を、手で掬って顔に注ぎかけた。(挿入した写真は映画Weから借用)
このあらすじを書いた人はキリスト教に対する理解があまりなく、とても通俗的だ。
あらすじ自体隔靴掻痒の気味がある。少し補足してみよう。
舞台は中世とあるから宗教戦争以前の宗教つまりカトリックである。
一方オーディンは北欧神話の主神。
強姦された娘の絹のドレスについていた血は破瓜の徴だろう。
娘カリンの死体を目にして父テーレは茫然自失して坂道をよろめき転倒する。
上体を起こして独白する。
神よ、なぜです?
見ておられたはずだ。
罪無き子の死を、私の復讐を、
だが黙っておられた。
なぜなのです、私にはわからない。
だが私は許しを乞います。
でないと自分の行いに耐えられない。、
生きてゆけない。
(更に上体を起こして)
ここに誓います。
我が子の亡骸の上に
神を称える教会を建てます。
罪を償うために。
私のこの手で。
テーレは立ち上がり娘の亡骸のもとに行き、娘を抱きかかえると、
その跡に泉が湧き出る。
インゲリは跪いて手で水をすくって顔を洗う。
ついで母メレータが泉の水をすくい、カリンの顔を洗う。
他の者は手を合わせ、そして最後にみな上の方を見上げる。
ながながと引用叙述したが、ここにこの映画の主題が凝縮されていると思うからだ。
神はわれわれが罪を犯すことを止めることはない。沈黙するのだ。
復讐は神のする事ではない。神罰などというものは無いのだ。
神がすることは、ただ罪を犯したものを許すこと。
許しによって癒すことだけだ。
それが神の沈黙の「なぜ}に対する答えである。
インゲリの顔を洗う行為は、土俗の神からキリストに対する改宗、帰依であり
洗礼だ。
メレータがカリンの顔を洗うことで、カリンの死体は浄められた。
最後にみな上の方を見上げたのは、教会と同じようにそこに
キリストが、神がおられるからである。
沈黙三部作にこの映画は入っていないが、
間違いなくこの映画は「神の沈黙」がテーマとなっている。
テーレを演じたマックス・フォン・シドーの上に引用した独白の
その後ろ姿の演技は圧巻である。
実際に鑑賞されることをお勧めする。このシーンだけでも見る価値があると思う。
この俳優のせいか、ギリシャ悲劇ないしシェイクスピア劇を見ているような錯覚に誘われる。
また最後に謳われるグレゴリオ聖歌(多分)、
歌詞がわかるとなお一層理解が深まるだろうが残念だ。
後記:この映画についてはブロ友のZELDAさんのブログに触発されて鑑賞した。
ブログの一読をお勧めする。