#イングマールベルイマン監督作品 #第七の封印 | Gon のあれこれ

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読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

暗闇の空に鳩が舞い、その遥か高いところから下を見下ろすと、独りの男が

 

波打ち際に打ち捨てられたように横たわっている。

 

地上に降りると男は胸に十字軍の鎧をつけ傍らにはチェス盤と駒がある。

 

もう一人いる。騎士の従者だ。

 

鳩は聖霊を意味し、高い位置からのズームは神の視線だろう。

 

この始まりが、既にしてキリストの主題を暗示する。

 

一方登場する死神や堕落した説教師、あるいは従者の言は反キリスト的である。

 

ストーリーは少し長いがmagichourより引用する。

ペストが蔓延し、世界の終末の不安に慄く中世ヨーロッパ。10年にわたる十字軍の遠征から帰途についた騎士アントーニウスと従者ヨンス。疲れ果て、浜辺で眠れぬ夜を過ごすアントーニウスの前に「死」と名乗る黒いマントの男が現れる。彼を連れて行こうとする死神に対し、チェスの勝負を挑むアントーニウス。「対局の間死はお預けだ。私が勝てば解放してくれ」。興味を示した死神は条件を受け入れ、チェスの盤を挟んで戦いが始まる。

夜が明け、故郷への道を急ぐアントーニウスとヨンス。道の傍らには馬車を止めて休んでいる旅芸人の一座がいた。役者のヨフは、目の前を通り過ぎる聖母マリアとイエスの姿を見るが、妻のミアは幻だと笑って信用しない。
教会を訪れたアントーニウスは、告解室に跪き、神への疑念と苦悩を語るが、聖職者のふりをした死神に騙されてチェスの作戦を教えてしまう。教会の外にはひとりの女が鎖につながれていた。彼女は魔女で、明日火あぶりの刑にされるのだという。農家に立ち寄ったヨンスは、盗人と鉢合わせた村娘を助ける。その盗人こそ、以前熱烈な言葉で騎士たちを十字軍に参加させた、神学者ラヴァルのなれの果ての姿だった。

旅芸人の一座は、陽気な芝居と歌を披露するが、キリスト像を掲げ、自らを鞭打って歩く異様な集団にさえぎられる。宿屋では大勢の客たちが、疫病がいつこの地方に飛び火してくるかと噂しあっていた。ヨフは鍛冶屋とラヴァルにからまれている所を、ヨンスに助けられる。

アントーニウスは、夫を待つミアと愛らしい子供ミーカエルと言葉を交わし、心を和ませる。そこに戻ってきたヨフ、ヨンスたちも加わり、草むらに腰を下ろして、野いちごとミルクを分けあって食べ、しばし平和なひとときを過ごす。この幸せな情景を永遠に記憶に留めたいと願う騎士。死神はヨフ一家に目をつける。

 

戦争と疫病は、いま新型コロナ肺炎のパンデミックに襲われている我々がそうである

 

ように、「死」の存在を身近にする。そうした「死」の隣在が「魔女狩り」、今でいえば

 

人種差別や異端ーLGBTに対する排除を強め、不安や恐怖が権力に対する盲従

 

即ち全体主義を受容する地ならしをして民主主義を死に至らしめる危険を高める。

 

「死」の隣在はこうした事だけではない。

 

十字軍遠征を何度も行った中世のカトリックにとっては、「キリスト教」に対する

 

「疑い」もまた生み出す。

なぜ神は五感でとらえられないのか。

なぜ曖昧な約束や奇跡にお隠れになるのです?

己を信じられぬものが、どうすれば神を信じられるのか。

信じぬものはどうするのか?

なぜ神を殺せない。

神を知りたい。教義や空想でなく、

手を差し伸べ、顔を見せ言葉を下さる神が欲しい。

 

アントニウスは神と対話しているつもりであったが、実は死神。

「人は死や無など考えぬ。恐れが形になったもの、それを人は神と呼ぶ。

と神のふりをした死神が答える。

(今朝死神が訪れて死神にチェスを挑みしばしの猶予を求めた理由は)

私は今まで当てもなく何かを求めてきました。

だからと言って自分を攻めようとは思わない。

人生とはそういうものです。

だが最後に何か意味あることを成し遂げたい

 

宗教改革後ルター派の国となったスエーデンの牧師の子に生まれたベルイマン

 

は子供時代に牧師の父から受けた折檻ー暴力によって深く傷ついた経験を持つ。

 

ニーチェもまたルター派の牧師を父に持つ。(父はニーチェが4歳ごろ死去)

 

それが故かベルイマンの中に、ニーチェ「反キリスト者」的、あるいは「最後に

 

何か意味あることを成し遂げたい」なかにサルトル「実存的」な思想がある。

 

従者ヨンスは女房に逃げられた鍛冶屋に言う。

愛と言うのは所詮煩悩と不実と嘘なのだよ。

愛は疫病の中でも一番厄介だが死にはせん。

この世のものすべてが不完全だとすれば

愛こそは完全な不完全。

いささかの照応がニーチェにある。

数々の短い愚行ーそれが君たちのもとでは恋愛と呼ばれる。

そして君たちの結婚は、一つの長い愚事として、数々の短い愚行を終わらせる。(ツアラストラ第一部19より)

 

死神と最後のチェスをしている時、旅芸人ヨフ、幼児ミカエルをつれた若い夫婦

 

が危険を察して逃げ出すのを死神の背後に見る。彼らを死神から逃れさせようと

 

アントニウスは長考する。

 

自分の居城に帰ったアントニウスは遂に死神が訪れたことを知る。

 

 

かくして死神から逃れたヨフ一家3人はは明るい陽光のなか新しい旅にでる。

 

そしてヨフは死神に先導されて踊るアントニウスたちをみるのだ。

 

この最後の光景は、ここにに至るまでの、フイルムノワール的な暗い陰鬱な、

 

あるいはまた白と黒のコントラストの強い画面と違ってとても明るく対照的な

 

シーンとなっている。また幼児の名前も天使ミカエルを連想させる。

 

この映画「第七の封印」は1957年の作品。

 

「神の存在」を問いかけているが、

その問いかけに答えは無い。

暗闇から問いかけても暗闇があるだけだ。

救われたヨフ一家は、神が救ったわけではない。

神の存在に確信が持てないアントニウスが

「最後に何か意味あることを成し遂げたい」

と死神から救ったのだ。