#ベルイマン監督作品 #野いちご | Gon のあれこれ

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読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

「野いちご」は1957年、ベルイマンが39歳の時の作品。

 

既述の処女の泉(1959年)と第七の封印(1956年)の間に製作された。

 

同時期には「魔術師」(1958年)がある。ベルイマンは1955年のカンヌ映画祭で

 

「夏の夜は三たび微笑む」が特設賞を受賞して国際的知名度があがり、「第七の封印」

 

も成功を収めたことで「野いちご」も容易に製作された、と小松弘著の下記の本にある。

 

 

少し長いが配給会社のMagicHour社のホームページからストーリのコピーによる紹介。

78歳の孤独な医師イーサク・ボルイ。妻は亡くなり、子供は独立して、今は家政婦と二人きりの日々を送っている。長年の功績を認められ、明日ルンド大学で名誉博士号を受けることになっていた。その夜イーサクは奇妙な夢を見る。

人影のない街、針のない時計。彼の前で止まった霊柩車。中の棺には彼そっくりの老人がいて、手をつかんで引きずり込もうとする。

夢から覚めたイーサクは、飛行機でルンドに行く計画を取りやめ、家政婦アグダの反対を押し切って車で向かうことにする。

車の旅には、息子エーヴァルドの妻、マリアンが同行することとなった。マリアンは家族に対して冷たいイーサクの態度をなじる。道の途中、ふと思いつき、青年時代に夏を過ごした邸宅に立ち寄る。古い家のそばに広がる野いちごの茂みに腰を下ろし、感慨に耽るイーサク。いつしか現在の感覚が薄れ、過去の記憶が鮮明によみがえってくる。

野いちごを摘む可憐な乙女、サーラ。彼女はイーサクの婚約者だが、彼の弟に口説かれ、強引に唇を奪われる。家の中ではイーサクの母親、兄弟姉妹、親戚一族が揃い、にぎやかな食卓を囲んでいる。弟との密会をからかわれ、動揺するサーラ。彼女は真面目なイーサクより、奔放な弟に惹かれていることを密かに告白する。

夢から覚めたイーサクの前に、サーラそっくりの娘が立っていた。サーラという名前の快活な女学生と、ボーイフレンドである2人の若者が旅の道連れとなった。途中、事故にあった夫婦を助けるが、アルマンと名乗る夫とその妻は車内で喧嘩を始め、うんざりしたマリアンは二人を追い出す。車はかつてイーサクが住んでいた美しい湖水地方にさしかかる。立ち寄ったガソリンスタンドでは、子供の頃に面倒をみた店主が彼を覚えていて、心のこもったもてなしをする。途中、年老いた母親の屋敷を訪ねたイーサクは、忘れていた過去の記憶に触れ、車の中で疲れて眠りに落ちる。

イーサクに手鏡をつきつけ、老いた自分の顔を見るよう促すサーラ。彼女は弟と結婚し、仲睦まじく暮らしていた。アルマンに導かれ、医師の適性試験を受けたイーサクは、ことごとく失敗して不適格とみなされ「冷淡で自己中心的、無慈悲」の罪を宣告される。更に一組の男女が密会する光景を見せられる。それはかつて目撃した、妻カーリンの不倫現場であった。アルマンはイーサクに「孤独」の罰を告げる。

 

上記の斜体の部分は、イーサクが夢ないし回想,つまりフラッシュバックの部分である。

 

針の無い時計、霊柩車、自分にそっくりの死者を見たせいだろう、何かに導かれる

 

ようにして彼は授賞式に車で出かける事を決意する。

 

車で行くことで、自分の青年時代に過ごした館に立ち寄り、野いちごを見つけて

 

当時の記憶がよみがえってくる。

 

それは奇妙な追憶だ。他の人たちはみなかつての姿であり、自分は現在の姿である。

 

それは自分の過去ー婚約者サーラを弟ジークフリートを奪われたことの苦い思い出

 

反芻であり、自分の孤独で人を容易に寄せ付けない性格の「今ここにある」自己の

 

受容プロセスでもある。

 

それはフロイトの無意識、ユングの元型への還元などとは違い、現在のあり方ー

 

自分を取り巻く状況と、対人的在り方に焦点を合わせる現存在分析的な手法

 

想起させる。(現存在分析は50年代に盛だったがベルイマンが触れたか否かは不明)

 

イーサクが見る夢は、彼自身の「今の」心境を反映したものであり、過去の出来事を

 

受容することで起きる心境の変化に伴って、「今の」自己も変容する。

 

そうしたイーサクの変化が、息子の妻マリアンの息子との夫婦関係の危機について

 

口を開く契機を与える。

 

ルンド大学で名誉博士号を授与され、ヒッチハイクの三人も息子夫婦も、家政婦も

 

みな出席している。

 

就寝したイーサクに息子のエ―ヴァルドが立ち寄り、イーサクが少し話がしたい、

 

と引き留め「、二人の事が気になる、、これからどうする」と切り出す。

 

やり直したい、マリアンを失いたくない。

失えば生きてゆけない。

マリアンはどう言っている?

しばらく考えたい、と

 

その時マリアンが入ってきて、新しい靴をイーサクに見せる。

イーサクはマリアンに「君のことが好きだよ」と伝え

マリアンもまたイーサクに「大好き」と言ってイーサクに口付けする

 

老境に入って死が身近なものとなったイーサクは、周囲の身近な人たちとの

 

関係を自分から結びなおし、孤独から抜け出すことが出来そうである。

 

映画監督は、映画の始まりと、それをどのように終わるかに心血を注ぐものだろう。

 

観る者にどうやって強い印象を残すことが出来るか、が始まりと終わりに多く

 

がかかっているからだ。特に終わりが納得できないと不満を残す結果になりがちだ。

 

始まりはイーサクの書斎での「孤高」を印象図付ける無言の独白。表情も硬い。

 

終わりは「良い夢」が見れそうな穏やかで満足した表情で寝入る。

 

それによって見る者もまた彼の長い一日とその心境の変化に癒されるのだ。

 

 

 

 

主演のシェストレムについてはWIKIより抜粋。つまりベルイマンが尊敬する大先輩。

ヴィクトル・シェストレムVictor Sjöström1879年9月20日 - 1960年1月3日)は、スウェーデン映画監督脚本家

創成期のスウェーデン映画界やハリウッドで映画監督として活躍したことから、「スウェーデン映画の父」と呼ばれる。監督業の傍ら、映画俳優としても独特の存在感を示した。特にイングマール・ベルイマン監督の『野いちご』における演技が有名。