#ベルイマン監督作品 #冬の光 | Gon のあれこれ

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読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

原題は「聖体拝領者」。1963年「神の沈黙」三部作の最後に作られた

 

最後の晩餐のイエスの言葉からパンと葡萄酒をイエスの肉と血を象徴的に食すること

により、拝領者はイエスと一体化する。

 

冒頭、牧師トーマスが正午の聖餐におい、て跪く信者に見下ろすようにパンと葡萄酒を

与える。

「食べなさい、これは私の体である。私を忘れぬよう」

「飲みなさい。罪の許しのために流す私の血である」

 

この映画は3人との主要な対話シーンからなっている。

元漁師ヨナス、女教師マルタ、寺男アルゴットの三人である。

最初は元漁師ヨナス。式の後ヨナス夫妻が「相談が、、」と来たる。

 

ヨナスは中国が核を持つとの記事を読んで核戦争の恐怖に打樋がれているという。

「神を信じなさい」

と言われてヨナスは牧師の目を見ると、牧師は目を伏せる。

「生きていれば心の平和を乱される。神は遠くから見ておられるだけ」

「何に縋って生きればよいのか、、、」 とヨナス。

ヨナスの妻がヨナスが後で来るから二人で話し合って」と帰る。

 

その間、愛人関係にある女教師マルタが来て彼女との最初の対話が始まる。

ヨナスとの話はどうだったかと問われてその主題は「神の沈黙」と答えるが、マルタ

「神の沈黙なんてバカバカしい。

元から神なんていないのよ。

学ぶべきよ、愛することを。

「君から?無理だよ」 とつれないトーマス。

マルタはトーマスに「わたしの手紙を読んだか}と問うがノーと答えられ

彼への愛とトーマスは自分を愛していない、と思うと言って去る。

 

去ったあとトーマスは亡くなった妻の写真を取り出し、しばし眺めた後

マルタの手紙を読み始めるが、画面はマルタが手紙に代わって話し始める

「トーマス、あなたは不信心よ。両親は信心はなかったけれど優しかった。

神やキリストはぼんやりした概念だけ。

あなたは神を信じ込もうとしている。無理やり、感情的に。

「秋に突然、光が差して生きる目的が分かった。

あなたを愛している。生きがいなの、尽くさせて。誰かのために生きたいの。」

そこにヨナスが現れる。

「いつから自殺願望が?」ずっとです」

「わたしの家内は4年前に死んだ。愛していた。

生きる目的を失い、死のうと思ったが死ねなかった。何かの役に立ちたくてスペイン内戦の従軍司祭に志願したが、戦争は酷かった。

現実から目をそらし心の内に閉じこもった。

私は聖職者失格だ。私だけを愛する神を作り上げた」(目を背けるヨナス)

「牧師でありながら頭は自分の事だけ。都合のいい答えだけ出す神だ。

だが現実を突きつけると神が突然牙をむく。恐ろしいモンスターになる。

考えたくなくて神を闇に閉じ込めた。

「神が存在しなくともそれがなんだ?

人生に意味など必要か?

死は肉体と魂が滅びるだけのことだ。

人の蛮行、孤独、恐れ、すべては明白だ。

説明など必要ない。創造者はいない。庇護者も、思考も、、」

(閑話休題ーこのトーマスとヨナスのやり取りは一画面にヨナスが手前に横顔で

トーマスが奥で時に背を向け時にヨナスの方を向いて両者が影になることなく

緊迫した状態で続く。見ごたえのある部分)

 

ヨナスは黙って牧師の前を去る。もとから答えを期待していなかったように。

ヨナスが去ったのちトーマスは、一人礼拝堂の中を見回し

罪だ、なぜお見捨てに」と咳をひどくして倒れ込む。

そこに女教師マルタが現れトーマスを抱き上げたのちトーマスが

「解き放たれた、やっと。

心のどこかに願っていた。気の迷いだと、、夢だと、、、と泣く。

そこにヨナスが銃で頭を撃った、との知らせが入り、マルタに

「ヨナスのところに行く。私にかまうな。今は一緒に居たくない。

他人にも自分にもうんざりしている。人のうわさになりたくない。

マルタに「結婚して」と言われ 「嫌だ」と即答。

マルタは「あなたへの憎しみを愛に変えようとした。

放っておくと沈んでいく人だから

救いのない人。自分を憎んでいる」

「いい加減にしろ、もう構わないでくれ」とトーマス

とやり取りするが、薬をもらって二人でヨナスが自殺した冬の河原に行く。

トーマスは警察や役人とやり取りの後、ヨナスの家に行き妻に彼の死を告げる。

トーマスが「役に立たなくてすまない」と言うと妻は「仕方がなかった」という。

身重の妻は階段に倒れ込むが「トマスが「祈ろうか」と問うときっぱり断る。

 

二人は教会に戻るが、祭壇の際で寺男のアルゴットにトーマスは話かけられる。

「イエス様の受難ですよ。本当は何を苦しまれたんでしょう。

「磔の苦痛でしょうか?そんなはずはない。

あれくらいの苦痛なら私にも経験があります。

「ゲッセマネではイエス様の悲痛な声を弟子たちは聞かなかった。

眠り呆けていた。兵が来ると逃げ出した。

ペテロも裏切った。3年もともに暮らして教えを説いたのに。

イエス様の言葉は少しも届いていなかった。

弟子たちに見捨てられ孤独だったんです。

だからこそ苦しんだ。

誰にも理解されず、いざと言う時に見捨てられた。

途方もない絶望だ。

まだ続きがある。イエス様は十字架で苦痛に呻きながら叫ばれた。

”わが神よなぜ私をお見捨てになったのか” 神に見放されたと思った。

私の教えは間違っていたと死を前にして神に疑いを抱いた。

なによりも辛かったはずです。神の沈黙が。

 

(付言:このテーマはスコセッシの「最後の誘惑」(1988年)沈黙(2016年)

に受け継がれてゆく。スコセッシ自身もベルイマンのテーマに言及している。)

 

礼拝の時間が来る。

この間オルガン演奏者はマルタに「牧師の妻は大した浮気女さ。トーマスは騙されていた。ここを離れろ。」と言ったのちトーマスのところに行って

具合は悪そうだな。くたばるなよ」と悪態をついて演奏席に行く。

会衆はマルタのみ。しかし予定通り礼拝を始める。

聖なるかな全能にして主なる神。

その栄光は地に満ちる」

その始まりと同じく終わりも礼拝で終わる。

始まりは会衆はすくなく、それでも10人ほどいただろうか。

終わりはマルタ唯一人である。

 

 

 

 

2010年の統計によると、スエーデン国教会(ルター派)の会員は国民の70%とされ、

新生児の50%が今も洗礼を受けているそうだ。

一方会員に属しても「無神論者」と言う人も多いらしい。

日本における「葬式仏教」のような宗教との付き合い方、と簡単に決めつける事も

出来まい。適切な文献が無いのだから。

 

この映画について二三書き留めておきたいことがある。

ひとつは題名「冬の光」について

ひとつは抽象的ないし形而上学的テーマにおける「対話」(セリフ)の位置について

最後はベルイマンのキリスト教観についてである。

 

冒頭原題は「聖体拝領者」であったが、スエーデン国外向けに「冬の光」と改題された。

「冬の光」とする方が詩情があって、より惹きつける題名にはなっただろう。

しかし上記のように牧師と3人の対話は、冬の光が差し込む教会で撮影された。

その意味で私にはこの題名の方が腑に落ちる。

 

次に「神の沈黙」ないし「不在ー無神論」などのような抽象的な主題を扱う場合、

独白にせよ、対話にせよ「言葉」による方が見るものに直接届き、説得力が増す

 

いまいろいろな人の映画論を読んで、自分でもあれこれと考えている最中であるが、

現時点では、映像芸術と言う観点、つまり詩や小説などの言語を媒体とする芸術、

色彩と線を媒体とする絵画、あるいは同じイメージでもある瞬間を切り取り固着させた

写真などとの比較を念頭にしながら、映画を考えてみると、映画には、先ず「主題」が

あり、その主題を展開するためのプロット(ストーリー)があり、それを現実化して

観る者に説得ないし説明する映像がある。

そしてその映像には、シチュエーション(ここでは大雑把に時空間-場、としておく。

またミザンセヌとかショットやアングル明暗や照明などテクニカルなことも置いておく)

その中における大概は人物の言葉と行動がある。

 

セリフや表情や身振り、これら一切の表現が、

映像芸術を映像芸術たらしめている重要な要素なのだ。

ここから脱線するが、映画のパンフレットは、「この映画を見るのはお得ですよ」と

言わんばかりの映画評論家の「賛辞」は二の次にして、せめてセリフを載せてもらいたい

と思う。

 

最後にベルイマンのキリスト教観についてであるが、「神の沈黙三部作」と言われる

この「冬の光」「鏡の中にあるごとく」と「沈黙」の内この一作だけしか鑑賞して

いない今の段階で、結論付ける事は差し控えるべきだろう。

 

しかし「第七の封印」や「処女の泉」、あるいは「野いちご」などを見た中で、

ベルイマンにはキリスト教に対して、斥力と引力の双方を内心感じているのではないか、

と思う。父がルーテル教会の牧師であり、子供のころその父から折檻を受けたトラウマが

彼の中にあり、それが斥力になっていることは容易に想像がつくが、彼の映画には

斥力ばかりではないと思う。、現実の父親はイエスキリストではないのだから

 

そしてそういうアンビヴァレンツ(両価値感情)が、彼の映画に陰影と言うか深みを

与えているのだと思う。

 

一方斥力と引力、という分析は私自身の投影があるだろう。

処女懐胎や復活については疑念は拭えないし、と言うことは信仰の基本部分の

三位一体を信じられないわけだが、聖書の中のイエスの言動の中にある思想・哲学

は大いに惹きつけられるし最も尊敬もしている。つまり人間として。

 

私と似たような人にニューヨークタイムズのニコラス・クリストフと言うコラムニストがいて

毎年クリスマスのころになると、「疑念」を聖職者や神学者にぶつけている。

最後に昨年の記事を貼り付けておく。

https://www.nytimes.com/2019/12/21/opinion/sunday/Christianity-Philip-Yancey.html?searchResultPosition=1