今村昌平監督の最高傑作と自他ともに認める1964年の作品。白黒。
前年公開された「にっぽん昆虫記」がベルリン映画祭で、銀熊賞は逃したものの、
主演の左幸子が主演女優賞を取ったことで、国内でも今村昌平の評価が高まり、
この「赤い殺意」は、その宣伝ビラに「巨匠・今村監督作品」とまで持ち上げられている。
舞台は東北仙台。
大学図書館の司書吏一(西村晃)の妻貞子(春川ますみ)はふくよかな肉体と表情の乏しい、内なる感情が読み取りにくい女である。
夫はたびたび主張で留守にするが、ある夜自宅に入った強盗(露口茂)にレイプされる。夫が帰宅後打ち明けようとするが、言い出せずにいる。
夫も貞子に無関心なせいで何かがあった気配を感じていないようだ。
すでに吏一と長男勝を設けている貞子は家庭を壊したくない、との思いからその現状を守りたい、と思う。
二日後、強盗が再び押し入り、今度は「心臓の病でもうじき死ぬから優しくしてほしい」
と甘ったれたことを言って再び貞子に乗っかる。
ある日デパートで強盗に声を掛けられた現場を、吏一の同僚の事務員が見かけ、
その事務員は吏一と長年の肉体関係があり、司書と結婚したいと思っている故か吏一に告げ口し、吏一も妻の肉体的魅力が男惹きつける事に無関心でいられなくなる。
吏一の父、つまり義父の葬儀に行った貞子は、自分が妾腹の子だという理由で入籍されておらず、子供の勝は義父の子の籍になっていることを知る。
強盗は貞子の跡を密かに追いかけ、貞子が妊娠した事を知り、腹の中の子は俺の子だ、と執拗に絡み、貞子はついに強盗を殺そうと決意する。
冬、吏一が京都大学に出張中、貞子と強盗は密会し、貞子はこれが強盗との最後の肉体関係、との思いから心を許して肉体も燃える。その後列車に乗って最後尾でもみ合うが果たせず、吹雪で汽車が不通になったため強盗と峠越えをしようとする。
心像病の強盗はトンネルの中で息絶え、貞子は証拠を残さぬよう自分の持ち物を拾い集めて下山し帰宅する。
ところが吏一の愛人の女が貞子ら二人の跡を付けており、二人をカメラに収める。
その事務員も仙台に帰った貞子のスナップを取ろうとしてトラックにはねられて死ぬ。
吏一は事務員が残した写真をもとに貞子にいろいろと問いただすが、貞子は自分ではない、としらを切りとおす。
貞子はそうした寄る辺ない不安定な身の上にもめげず、勝と腹の中に宿した
子どもを励みに今の生活を守り、生きていこうとする。
前作の「にっぽん昆虫記」も東北の寒村に育ったたくましい女を主役に据えた物語だ。
この昆虫記と、「神々の深き欲望」はぜひ見たい映画として残っているが、今村昌平の映画には「土着」に対するこだわりと、女のしたたかな生とそのしたたかさの核としての性「セックス」、つまり男に対する「武器としての性」があると思う。
今村は戦争末期、いわば徴兵逃れのため桐生高等工業に入学したが、在学中に終戦となり兵役を免れた、徴兵逃れ、ということは戦争に取られることは「犬死」であるとの認識があった筈だから、「敗戦」もまた見通していたことになるだろう。
戦前の「一億玉砕」と竹やりで戦おうとした政府に迎合した政治家が官吏が、国民が、敗戦で、一転米軍が進駐すると、マッカーサーに熱狂する姿を見て、戦後の民主主義もまた戦前の軍国主義と同じ「虚妄」にすぎない、さすれば、
日本人の根っこにある「変わらないもの」を追及していこう、
という意思があったのではないか。
それが「土着」と「性」に対する執着なのだ、と推測する。
今村より少し年長の戦時中、軍隊の体験のある若者たちは、いかに「虚妄」であっても戦後の「民主主義」の方がはるかに生きるに値するもの、「平和の方がはるかに尊い」ものだ、とする信念を懐胎するだろう。
勿論その「あや」はその原体験の違いによってもまた織りなされるから、一様には表現されないが、新藤兼人(1912-2012)、小林正樹(1916-1996)岡本喜八(1924-2005)と今村昌平(1926-2006)の違いにそれを感じるのだ。
喜八と今平は二年しか違わないが、敗戦の時の年齢差は大きな影響があると思う。
それはまた、丸山眞男(1914-1996)と三島由紀夫(1925-1970)の間にも存在するものの一つだと思う。(機会があれば映画「三島由紀夫vs東大全共闘」で述べたい)
この「赤い殺意」の春川ますみの演技は高く評価されている。
経歴を調べると日劇ミュージックホールのダンサーが前身だが、春川を起用した今村の慧眼もまた称賛されるべきだろう。
私のような素人の演技力評価よりも、左幸子の評価の方が傾聴の価値があろうと思うので以下に抜粋する。
「あの中の女の描き方は、最も女そのものだと思いますね。
日本という土壌の中で、ずっと脈々と流れている男と女の姿だと思いますね。
いろんな時代の中で、どんな困難があっても、越えられるだけ超える努力は、目いっぱいする。自分がこうと思ったらとことんそれに行ってしまうという女の人を感じましたね。
また春川さんが凄かったから。
やらせてみると春川さんの持っているものがどんどん出てくるんで、ある時は(今村が)ふりまわされていらっしゃるところがありました」(同書84P途中適宜略)
なお今村はこの「赤い殺意」について同書で以下のごとく語っている。
「赤い殺意」という映画が私の代表作という事らしいが、それは戦中戦後、アメリカに強姦された日本を画くという甚だしい冒険を、一人の愚かな主婦とその家に毎々押し寄せる心臓病の強盗を主人公として画いた作品なのだ。
強姦されればされる程強くなる女性の真実を知りたいという思いであった。
肉体の表層は侵されても、奥深い核は決して破られ馳せぬという自分を発見することで、小官吏で暴君の亭主と自分、彼女を一人前の人間と認めない姑と自分の立場をじわじわと逆転させてしまう女」(103P)
なおこのくだりは「遥かなる日本人」の「安吾と私と青春」15pにもある。
冒頭「わたしの代表作らしい、などと照れているが、「カンヌから闇市へ」の中では
「自分では赤い殺意」が一番好きですね。
ラストにだんだん近づいて、春川ますみという不細工なでかい女が、なんか自己主張
し始めるというようなところが気に入っている」46p
とのべている。







