Gon のあれこれ -12ページ目

Gon のあれこれ

読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

Living trilogy と名付けられたスエーデンの映画監督 Roy Anderson の2000年の作品。

原題は「Songs from the Second Floor」

Living は独我訳で「人生模様」としたが、邦題の[散歩する惑星]とはどこから来たのか不明。

同監督は1943年の生まれ。

1969年スエーデンの映画研究所の卒業。

ある資料によるとそこでベルイマンの講義を受けたという。

1970年に「スエーディッシュラブストーリー」で監督デビューを果たすが、

二作目が批評的にも興行的にも失敗して、ながらく制作の機会がなく、

1981年には自ら制作会社を立ち上げ、コマーシャルフィルムで糊口をしのぎながら、

25年ぶりのこの作品がカンヌで審査員賞を受賞して復活を果たす。

 

ブラック・コメディーと区分されるが、笑うに笑えないような深刻なテーマや不条理が展開する、

と覚悟して見た方がいいように思う。

 

第一作のこの映画は、勤続三十年の初老の男が、社長の呼び出しに「昇進」などを期待して

出かけたものの「解雇」を言い渡されてオフィスの人気ない廊下で社長の足首にすがって

引き吊られる場面から始まる。

 

かといってその男が主人公というわけではない。

いくつかのシーンが脈絡なく展開するが、その場面転換の繋ぎは「音楽」であり

その中には二階から聞こえるものもある。このあたりが題名の由来か。

 

よく分らないシーンに、まだ10歳にもならない少女が、年老いた黒服の男たちが取り囲む中で女教師とおぼしき女性から愚にもつかない説教をされ、黒服の男たちが「経験も大切」と唱和するが

その少女とおぼしき子供が、司教たちや黒服の男たちや一般大衆の見守る中、飛び込み台のようなところから崖に突き落とされる。

 

何に対する生け贄であろうか?

画面の左側には数人の大司教たちが整列している。あり得ないシーンだ。

 

いくつかのシーンの中である物語性をもっている男がいる。

自分のレストランに放火して燃やしてしまった男だ。

家には老妻がおり、二人の息子、長男はタクシーの運転手であったが詩を書く男でもあった。

その長男は今は精神病院に入院して話もままならない、妻と子供がいるというのに。

次男は個人タクシーを継いで兄の妻子の面倒も見ているらしい。

 

教会に救いを求めにいくが、牧師はガムをかみながら「自分だって株で大損した」「土地で大損した」といって慰めにもならない。

最後に、イエスの磔刑像を売っていた男が、それらを全部捨てているところ、墓地とおぼしきところに来るが、そこは十字架状でもあり、崖の上から突き落とされたとおぼしき少女が目隠しをされたまま近づいてくる。

 

もう一つ最後があった。

とあるバーで、黒服の男がカウンターの上に嘔吐しており、その手前には女教師が「立てない」といってスツールから何回も這い上がろうとしている。司教らしきものもいる。

屍衣を引きずった男がバーの奥の方にゆく。

 

ほかにもいくつかのシーンがある。100歳でぼけた元司令官を祝のパーティ。

ボックスに入った人間を切断するマジックで腹に傷を負った男とそれを診る医師と不倫している女。マジシャンの夫婦。などなど。どのシーンを印象深いとするかはそれぞれだろう。

 

見終わった感想を一言で言えば、「見るものの解釈を拒んでいる」映画、ということだ。

冒頭に出てくる首になった男も、自分のレストランに放火した男も、顔に白い何かを塗っている。

 

映画では見るものに何らかの「共感」をよぶもの、感情移入を誘うものが展開されるのだが、

白いものを塗ることで、感情の表出を曖昧にし、「共感」を拒んでいるかのようだ。

 

しかしながらとても印象に残る映画だ。主題歌も。

 

参考までにこの映画のトレーラーを貼り付ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

原題は「HIROSHIMA MON AMOUR」

米軍によりヒロシマに原爆が投下されたのは1945年8月6日。

今年もまた記念行事と被爆者の回顧が繰り返され永らく形骸化の危機にある。

折しも今日8月15日は昭和天皇が「戦争終結の詔書」で無条件降伏を認めた日。

 

 

 

「二十四時間の情事」という、日本人の観客に対して何かに媚びたような邦題は

見事にしっぺ返しを食い、公開後一週間で中止に追い込まれたと言う。

 

1959年公開のこの映画、フランスでは大変な評判でアランレネの評価を高め、

次のロブ=グリエ脚本による「去年マリエンバードで」の製作にもつながった。

その理由の一端は原作者の構想に忠実な監督レネの姿勢にもあったと思われる。

 

さすれば河出書房新社、工藤庸子訳の以下の書を参照しないわけにいかないのであるが、その冒頭のシノプシス(あらすじ)にこうある。(適宜抜粋)

 

 

1957年の夏、舞台はヒロシマ。

年の頃三十とおぼしきフランス人の女が、この町にいる。「平和」についての映画に

出演するためにここに来たのである。

この女が出演するシーンが終わってフランスに戻る前日に物語は始まる。

映画の中では決して名指されることのないこの匿名の女がその日にひとりの日本人

に出会う。そして極めて短い愛の物語をともに生きることになる。

ふたりはホテルの部屋で寝ている。

女は男にヒロシマですべてを見たという。そして女が見たものが映し出される。

一方では男の声が否定的に一連の映像は偽りのものだと決めつける。

ヒロシマを語るにベッドから、と言うのは冒涜的な喚起と言うべきだが、どこに居ようと

ヒロシマについて語ることは出来るのだ。たとえ行きずりの不倫の恋のさなかでも。

しかしヒロシマを理解することは人間精神が陥る典型的なまやかしとしてここに定立されている。

 

ちょうど今二人はそれぞれに、自らの物語に回帰したところである

月並みな不倫の物語。二人はそれぞれに結婚して子供がいて、一夜の恋の冒険を生きている。

だがどこで?ほかならぬヒロシマで、どこよりもそれが想像しにくい町でヒロシマで。

ヒロシマにおいては特殊な光輪の様なものがあり、字義通りの意味を補完するもう一つの意味がまとわりつくのである。そこにこそこの映画の主たる狙いのひとつがある。

 

(ヒロシマの恐ろしさ)を描出することはやめておこう。

それは日本人たちがみずからやってきたことだから。

そうではなく、その恐ろしさを一つの愛の中に刻み込むことによって甦らせるとすれば、その愛は必然的に異例なもの,【驚嘆させる】ものとなろう。

 

地理的にも哲学的にも人種的にも可能な限り隔てられた二人の人間の間で、ヒロシマは共に分かち合う土地となるだろう。

そこではエロス的なものや愛や不幸をめぐる普遍的諸条件が苛烈な光に照らされる。

ヒロシマ以外のところではそのようなものは在りえない。

 

目覚めたとき二人は過去についても話をするだろう。

彼女が生まれ成長した町で一体何が起きたのか?

なぜ行きずりの恋を生きることにこれほど貪欲になったのか?

何故愛に対してこれほど臆病になったのか?

ふたりが出会って間もなく平和行進が始まるだろう。

行進、犬たち。猫たち。野次馬たち。ヒロシマのすべてがここにある。

世界の「平和」に貢献するという話になればそれはお定まりのことなのだ

 

1944年二十歳の時丸刈りにされた。生まれて初めての恋人は(進駐した)ドイツ人兵でフランスが解放された日に殺された。丸刈りにされた娘は間もなくヒロシマの原爆の話を聞いた。一人の娘が祖国の敵を誠の愛をもって愛した、と言う理由で丸刈りにするということは恐ろしさと言う意味でも愚かしさと言う意味でも、ひとつの絶対である。

 

とある喫茶店で別の日本人の男といる女がそこに見いだされるだろう。

別のテーブルには女が愛している男が見出されるだろう。絶望で身動きできずに。

女はホテルの部屋に戻り、数分後男がドアをたたく。

部屋では何事も起こらない。ふたりともお互いに対し無力感に囚われている。

部屋にみなぎる【世間の秩序】はふたりを取り囲みもはや決してかき乱されることはない。

 

女と男の名前が言及されることはない。

台詞の平坦な調子、男と女の不倫につきものの感情の激しい起伏はない。

互いの情欲は燃え上がっているが、二人の表情は能面のように何かが張り付いている。

情事、といえば情事であるが、二人の主観性が奪われた情事だ。

 

フランスのとある町ヌヴェールで、日本やイタリアと三国同盟を結んだドイツ軍が

進駐し、薬屋の娘は若いドイツ兵と恋に陥る。

ドイツが敗色濃厚となって撤退しようとするとき、娘は男とミュンヘンに駆け落ちを決意するが、

待ち合わせの場所で男は狙撃され、冷たくなっていく男と娘は一つの影になる。

娘は丸刈りにされ地下に押し込められるが、髪が生えそろった頃脱出し自転車でパリに出る。

そしてまもなくヒロシマに原爆が落とされ、日本の敵国パリっ子が歓喜する。

 

ヌヴェールとヒロシマ、男と女のそれぞれの状況が対置する。

女はヌヴェールで死ななかったことが悔いとして残り、

一方男は兵役でヒロシマにいなかったことで原爆の惨禍に遇わずにすむが、

原爆が男のこころの何かに深く影を落としている様子は見られない。

占領下での禁じられた恋を生きられなかった女とヒロシマの男。

男は最後に女から「ヒロシマ、私の恋人」と代名詞化される。

男はヌヴェールでのことが女の夫も知らない女の隠されたことであること、

そこに相手の女の生きた何かを得たことで、喜ぶ。

なぜにそう嬉しいのか?自分にない生の証を見つけたからか?

去勢されたヒロシマの、その男の回復?

 

そういえば、二人の名前はもとより、二人の出会いのいきさつも、「平和についての映画」の内容も、男の兵役ードイツ兵とパラレルであり得る筈の男の兵役も言及されることはない。

言及しないことでヌヴェールとヒロシマが二人に貼り付くかのようだ。

情事の個人的な性格を剥ぎ取って、地名で代置することを狙っているのか?

米国に原爆を落とされたヒロシマと、ドイツに征服され傀儡政権を樹立され

進駐されたフランスのヌヴェールを。

 

冒頭に述べたように監督のアランレネはデュラスに忠実に映画を作っているように思える。勿論、例えば二人の会話のシーンを、どのような背景で、どのような角度から二人ないしその片方を捉えるか、あるいはその表情や「間」を取るのか、などなどの事は監督の決めることであり、そこにこそ映画の表現、意味、つまり指し示すもの、がスクリーンの上に展開されるのだ。

シノプシスはその映画の骨格ではあるが、例えば我々の肉体が、あるいは生命が骨格で語ることが出来ないようにそれに尽きるものではなく、ネタバレは大して問題ではない。

(ジル・ドゥルーズはカメラを映画の関数と言っているー記号と事件ーがそこまではどうか)

 

脚本を書いたマルグリット・デュラス(1914-1996)は仏領インドシナ(ヴェトナム)の生まれ。

帰国してパリ大学で法律と数学を学ぶ。

インドシナでの華僑の青年との性愛を描いた自伝的小説「愛人」で1984年ゴンクール賞受賞、

世界的ベストセラーになり、作家としての地保を確立する。

(映画ラ・マン、もう記憶の彼方である)

 

その経歴の中で、1980年だから66歳頃のとき38歳下の青年と同棲生活を送ったことが

目を引くが、ドイツ占領下ミッテランの元でレジスタンスに加わり、59年にはシナリオを書いた

この映画が公開され、66年には映画監督も務める。

1968年にはパリ五月革命に参加。映画人だから当然と言えば当然だが。

これにはサルトルを始めメルロ=ポンティらも参加したからパリの知的サークルに長い間

いて、そこでもまれた人だと思われる。

この映画も今ではヌーベルヴァーグの主要作品と評価する人もいる。

 

先にパリ大学で数学を学んだ、と書いたが、このシナリオもかなり厳密な構成に基づいている

様に思われるし、かなり抽象的でもある。

しかし、例えばベルイマンのような「主題としての抽象性」というのでなく

関係性の抽象性、台詞の抽象性である故に、「映画」という形式にうまく合っているのか、という点で疑問が残った。つまり映画では本のようにページを前後にめくって参照する事はできないのだ。

 

また映画の重要な要素である観客ー商業面でどうだろう。

ある知的サークル、パリだけではなく例えば米国や日本のフランス文学、フランス思想サークルでは了解可能性が高いのだろうけれども、私を含めて一般大衆には理解できない面が多い。

 

「君は何も見なかった」と繰り返す男。

例えば資料で見ることが、何も見ないことになるなら、「資料館」にはどれほどの意味があるのか。

あるいは毎年追悼のための平和祭やそこで言われる「反核宣言」の意味については

どれほどの有効性があるのか、などなど問いかける意味は多様に拡散するのだ。

そして「何も見なかった」と言うことの意味を深く掘り下げることが、この映画の投げかけるものだ、

と私は思うのだが、どうもこれは少数意見のようだ。

当時の「理解不可能性」思潮の反映かもしれないが。

 

尚、主演のエマニエル・リヴァの代表作でもあるが、彼女は2017年89歳で亡くなった。

生涯独身であった。

彼女の静かな表情はとても印象的だ。それが心の奥底の闇を際立たせる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

会場には、作家の製作風景などが映像展示され、自分の抱くイメージを

飽くことなく、執拗に表現し続ける姿に魅了される。

 

総勢25名のアーチストの200点余りの作品。

その一つ一つを集中して見るのは大変だ。会場内で印象に残った作品と作家を

いくつか紹介する。

 

1、長 恵

  

 毎朝、パーキンソン病で固まった体を薬を飲み飲み ほぐしながら、「天使の姿」を

 書き続ける。かつて障碍者支援施設で働いていたが、64歳でリタイアし、イエスキリ

 ストに祈りを捧げながら、一方では天使が自分を迎えに来て、その天使に伴われて

 天国に行けるようにとの願いを込めて描画する。

 震える手で細かなところを描くのは大変な筈であり、それを色の濃淡でカバーする。それが却って温かみのある絵となっているように感じる。

 

2.金崎将司

 

 これは何かを象ったものではない。

 がエイリアンのように地球外生命ではなく、身近に共生しているもののように

 感じる。この作品は紙を重ねてのりで貼り付けた、気の遠くなるような作業で

 つくられた。金崎は、自分の体を動かしながら、自分の体内から湧き上がる

 リズムに合わせながら動かし、それは彼の体内に何かが充満したのちに

 制作に取り掛かる。そうした金崎の体内のリズムは我々とも共振し、それが恐らく

 この作品が我々にとても身近に感じさせる所以なのだろうと思う。

 

3、CANKTLE(キャンクト)

 

 

 会場内のこの作者のヴィデオは、「首から上は映さないように」と言う条件

 つまり身元を隠すことが条件で撮られている。

 本人の言によれば、27~28歳のころ精神をやられて、それまで絵を描いた

 事が無かったけれど、衝動に駆られて絵を描き始める。

 絵のテーマは自分が見てきた「天国と地獄」。

 その形象は心の中から湧き上がってくるもので、それを絵筆に乗せる。

 本人は「はけ口」とも「昇華」とも言う。

 身体表現として、ギターを掻き鳴らしドラムを狂ったように叩く。

 自己を表現することに饒舌であり、絵以外の表現手段に不足がある訳ではない。

 しかしギターもドラムもそれぞれのコードがあり約束事がある。

 絵は何の制約もなく、自由に自己を表現する手段として代替できないもの、

 なのだろう。

 

他にも魅力的な作家、例えば粘土をこねる心地よさから始まって、土偶のような

ものを作り続ける陶芸か沢口真一。

 

布に着色したボタンを縫い付ける井村ももかは「幸せなら手を叩こう」ほかの歌を

口ずさみながら、ピンクのかつらをつけて制作する。それらはNHKの「お母さんと一緒」のキャラクターから着想しているらしい。

 

この展覧会は9月6日まで開催されるが、コロナ禍で3密を避けるため入場無料だが事前予約性である。

主催は東京芸大とNHK.

4つ折りの赤い地に金色の文字を印字したパンフはとても見ずらい。

主催者の見識を疑う。

 

こうしたアートは、OUTSIDER ART と括られるのが普通であり、アカデミー、つまり

芸大や芸術団体つまりコミューンなどの枠組みから外れたところのアートという含意がある。確かにそうした枠外の人たちに表現の機会を与え、そこからアカデミーが何らかの刺激を得ようとすることが、パンフにも書かれておりそれなりの意味はあるだろう。「上から目線」が少し気になるが。

しかし、例えば「日展」が表現者たちにとって現在どれほどの価値を認められているかは知らないが、公募される展覧会が、アカデミーやコミューンなどとそのボーダー外の

作家と分け隔てなく開催されるべきだろうと思う。

もちろん地域の「芸術祭」も同様にOUTSIDERと混在して欲しい。

 

アート=表現、つまりアートとは表現する事なのであり、

その媒体が

文字であるならば詩歌、小説。

音声であるならば唄や謳い

身体であるならばバレー、ダンス、マーシャルアーツ。

描具であるならば絵画

カメラなら写真

それらの複合としての映画や演劇、あるいはオペラ。

 

と、とても大雑把で推敲未然ではあるが、媒体の違いがジャンルの違いであって、

表現されたものは須らく「アート」と幅広く認めるべきだ、と言いたいのだ。

 

それゆえに その

表現に「あるがまま」「人知れず」などというレッテルは必要が無い

展示空間を作るべきなのだとも。

 

冒頭に述べた作家の制作風景など。

 https://art-as-it-is.jp/movie/

前日のブログにつきまして一部訂正して以下の追加記事を書きました。

 

引用の赤字の部分、映画ではロードがニューヨークに電話する場面があり、「迷惑では」と彼に感情移入したのですが

当初は、ほんの1~2日だけ、と言われたものの「もう一日」と何回も引き延ばされる。

そのためニューヨークにいる恋人(ゲイと言われる)に何度も連絡し、航空券の予約を変更するなど大変な迷惑であったに違いないが、ピカソ(1881-1973)とその愛人ドラ・マール(1907-1997)のメモワールなどを書いたロードにとって、ピカソの事を時々持ち出すジャコメッティの罠から逃れるのは無理であった。

ブログでも紹介した ロードの著「ジャコメッティの肖像」(みすず)を通読すると、

1、「カンヴァスに簡単な肖像スケッチを描くだけ」と言うのがスタート(同書p5)

2、初日の終わりにジャコメッティは「これは少なくとも始まりではある」と言い ロードは「私たちが一緒に仕事するのは一日だけと思っていました」と言うが結局 再訪してポーズすると約束する。(同書p12)

3、二日目の終わり、ジャコメッティは「進歩はしている。しかしぼくたちはもっと先まで進まねばならない。ぼくたちは明日も仕事するだろうね?」と言い、ロードは「勿論です」 と答え、ここからはロードの肖像画を描くことが二人の共同作業になってゆく。

4、三日目、ジャコメッティは「これを描き続ける価値があるだろうか?」とロードに尋ね 「勿論です」と答える。(同書p28)あたかも二人は対等な友人同志と言う趣だ。

5、五日目、ロードはピカソが愛人ドラ・マールに「価値のために尺度の頂点に到達

できないなら、尺度の方を粉砕してやる」と言った話をジャコメッティに言うと

アルベルト(原文)はふんと鼻を鳴らしていった。「そんなことは何の意味もない。 ピカソの言うことはみんなそんなふうだね。最初はウイットに富んだ言葉のように 思えるが、実は何の意味もない」とピカソに対する辛らつな評を述べる。美術評論家、エッセイスト ロードにとっても聞き逃すことの出来ない貴重な瞬間があった。(同書p70)

 

これらから充分推察できるように、ロードにとっては「迷惑ではもちろんなかった」し

ジャコメッティとの「共同作業」に深い満足もしていたのである。

従って冒頭の一文「ロードにとって大変迷惑であったに違いない」を訂正して

変更の手数はかかったが」に差し替え「長年の友人ジャコメッティと過ごす日々や、ピカソ(1881-1973)とその愛人ドラ・マール(1907-1997)のメモワールなどを書いたロードにとって、ピカソの事を時々持ち出すジャコメッティの罠から逃れるのは無理であった。」と続ける。

(ジャコメッティ)

訂正については以上です。

ジャコメッティがロードの肖像画を描いたのは1964年、ジャコメッティの死の二年前である。

ジャコメッティは前年63年に胃がんの摘出手術を受けており、手術は成功し健康を回復し寸暇を惜しんで制作に没頭する。

65年にはニューヨークの近代美術館で開催された自らの回顧展を見るためにニューヨークを訪れロードの出迎えを受ける。

ロードはあまりにも衰弱したジャコメッティの姿にショックを受けるが、その年の12月心臓発作で倒れ翌66年1月11日に急逝する。(同書p164訳者あとがきより抜粋)

 

みすず書房の「ジャコメッティの肖像」(ジェームズ・ロード1965年)の作品をベースに

 

 

スタンリー・トウッチが脚本・監督をした2017年の作品。

 

著者のジェームズ・ロード(1922-2009)は美術評論家で、1964年当時既に彫刻家として著名なジャコメッティ(1901-1966),からモデルを頼まれた時、仕事柄それを断るのはとても困難であった。

 

 

 

当初は、ほんの1~2日だけ、と言われたものの「もう一日」と何回も引き延ばされる。

そのためニューヨークにいる恋人(ゲイと言われる)に何度も連絡し、航空券の予約を変更するなど大変な迷惑であったに違いないが、ピカソ(1881-1973)とその愛人ドラ・マール(1907-1997)のメモワールなどを書いたロードにとって、ピカソの事を時々持ち出すジャコメッティの罠から逃れるのは無理であった。

 

またドラはピカソの有名な絵「泣く女」(1937)のモデルであった。

 

結局ロードは18回にわたってモデルを務め、パリを後にするが、ジャコメッティのアトリエには40歳下の若い愛人で娼婦のカロリーヌがふいに来てロードそっちのけでイチャイチャしたり、妻のアネットと日本人の矢内原伊作がベッドで同衾しているのを目撃したりする。

 

ご承知のように矢内原伊作(1918-1989)は戦後東大総長を務め、無教会キリスト教の指導者でもあった矢内原忠雄(1893-1961)の長男で伊作(イサク)は創世記のアブラハムの子イサクから取られた。アブラハムは神にイサクを神への絶対的帰依の証として生贄に捧げよ、と言う。

(知人の女性でいさ子、と名付けられた方がいる。ご両親はクリスチャンであった。)

 

矢内原はジャコメッティのモデルを何回も務め、ジャコメッティに関する著作を数冊世に出している。

矢内原はサルトルやカミュなど実存主義思想の翻訳者でもあるが、目下の私の哲学渉猟でいえばベルクソンの初期の著作「思想と動くもの」の翻訳者でもある。

 

ジャコメッティの彫刻、まるで肉をそぎ落としたかのようなこの像を、しかしながらモデルの面影を十分に留めるこの像を、サルトルは現代の人間の「実存」を表現するもの、と評価したらしい。

 

肉をそぎ落としてなお、その人物として認知しうる像、ということはその人物の特徴、その人らしさを的確に把握したジャコメッティの眼力はなるほどすごいものがある、と思う。

 

人物画ではないが、輪郭の線を極限に切り詰めてなお生気に満ちた絵を描いた雪村の馬の絵がある。

ものの形は文字通り輪郭で表現することはそれ自体自然で見る方も理解しやすいが

ジャコメッティはロードの顔を描くにあたって、線の上に線を重ね輪郭線を消そうとしているかのように見える。まるで彫像のように。

上掲書p137

ジャコメッティはロードを右45度の1m2~30cmのところに座らせ、ロードが身じろぎなどして動くとすごく怒ったらしい。

そして正面からだけではなく横顔などもじっくりと観察したようだ。

彼は言った

「君は書面から見た顔が野獣に見えるだけでなく、横顔は少々変質者の様だ」

彼はにっこりと笑い、こう付け加えた。

「正面の顔は牢屋に行かねばならないし、横顔は精神病院に行かねばならない」 (同書28P)

 

この会話自体にジャコメッティのユーモアを感じるのだが、同時に、表現が難しいが、

絵筆を動かす行為自身の中に彼の対象に対するイメージが投影される

と言う事ではないか。

これは彫像でいえば、手で彫像をこねくり回している行為そのもののプロセスの中に創造の行為がある、と言うことになるのだろう。

つまり手が動く、手が考える、手が作り出すと言っても良い。

 

しかしながら、こういってもジャコメッティのあのそぎ落とされた彫像の秘密に迫った、とは残念ながらとても言えない。

かれが対象と向き合う時、絵筆を、手を動かすとき、特殊な、彼自身だけのものである何者かが見えているに違いないのだ。

 

始まりは「映画」の観賞としてであったのだが、映画を見る目的自体がジャコメッティのあのユニークな彫像の秘密を知りたい、というところから始まった故に、原作になった著作と一緒くたになってしまった。

 

そこでもう一歩更に脱線する。

彫刻、絵画、デッサンは私にとってこれまで常に、外界についての、また特に顔と人間存在全体についての、あるいはもっと単純に私の身近に居る人々についての私のヴィジョンを私自身に説明するための手段でした。

私にとって現実は決して芸術品を作るための口実ではなかった。

芸術は、私が見るものを私自身がよりよく理解する手段なのです。

しかし、例えば一つの顔を私が見える通りに彫刻し、描き、あるいはデッサンすることが私には到底不可能だということを私は知っています。にもかかわらず、これこそ私が試みている唯一のことなのです。私が作りうるであろう一切は、私が見ているもののおぼろげなイメージにすぎないでしょう。

(ジャコメッティ私の現実p104適宜中略)

もどかしいが彼の理解が一歩進んだような気がする。

 
 
 
 
 

 

参考:ピカソの泣く女

 

 

能の「鉄輪」の物語を現代の三角関係の愛憎の中に織りなした作品。

手元にある岩波講座 能・狂言 (4)能鑑賞案内から「鉄輪」の項を抜粋しよう。

 

 

 

自分を捨てて後妻を迎えた夫を恨み、貴船の明神に丑三つ参りをしている女は社人より「顔に丹を塗り赤い衣を着、鉄輪の三つの足に火をともして頭上に戴いて憤怒の心を持てば、鬼になるだろう」と言う神のお告げを聞き、早くも鬼の姿に変じかけて帰宅する。

夫は陰陽師安倍晴明の占いにより、女の恨みのために命が危ないと知って祈祷してもらう。そこへ鬼となった妻が現れ、恨みを述べて後妻の命を奪い、夫を連れ帰ろうとするが、

三十番神に追い立てられ、力及ばず退散する。(p279)

能ではシテ(主人公)が女、ワキが安倍晴明、ワキに連れられて登場するのが夫(ワキツレ)。ろうそくを三本立てた鉄の冠が出るから、薪能にはもってこいの能である。

 

夫とその後妻は夜となく昼となく、素っ裸で抱き合っている。

 

「10分に一回性行為をいれる」

「長さは70分程度}

「モザイク・ぼかしは入らないよう対処する」

というフォーマットであとは自由に製作された日活ロマンポルノ。

 

この作品と同時期(1972年)に映画界を風靡したのは「日活ロマンポルノ」であったが、新藤のこの作品もどういうわけか、概ねこのフォーマットに添っている。

勿論作品は新藤の「近代映画協会」制作だからロマンポルノとは呼べないが、

大胆な性描写で「性」の問題に取り組んだ新藤だから、対抗心はあっただろうし、

ある程度製作費の資本回収は確実にできる、という読みもあっただろう。

 

わたしは、たくさんのシナリオを書いて、たくさんの女を書いてきた。

そしてようやく性に突き当たった。性というものがもはや避けられなくなってきた。

人間関係をたぐっていくと結ぶ目には性があった。(以下の書p12)

 

 

同書の中で「劣情」に訴える事を目的としたポルノについて、(適宜中略)

クローズアップで、舌と舌とのからみあいが見えるほどに懇切丁寧に描写する。観客の顔色を窺っているのだ。

着物の場合の心得は適度に裾を割って白いふくらはぎをのぞかせる。

のぞき趣味にかなっているのだ。

ベッドシーンでは、肝心なところは撮れないのだから、

そこに至る道中の効果を狙う。

こうした態度は、徹頭徹尾観客の劣情にうったえかけようとしたもので、

真の愛や性は不在である。

と書いた新藤は、この作品では遠慮なく性行為描写を行っている。

しかも、それを、日本の伝統芸能「能」の演目から題材をとり、名門観世流の観世栄夫を主役に起用した辺りに新藤の対表現規制戦略を見るのだが、どうだろうか。

 

大島渚が「愛のコリーダ」で実際の性行為を描いたのが4年後の1976年。

フランス映画「美しき諍い女」で無修正が黙認されたのは1991年、翌92年には

映倫が「原則として日常生活を描写したところでの陰毛表現は問題なし」との見解

を出し以後陰毛論争は沈静化した。

 

この流れは、日活ロマンポルノの盛衰とも密接に絡んでいる。

1971年放漫経営で行き詰まった日活が労使一致して選択した「ポルノ路線」が

低コストで製作され、規模の小さい劇場で上映され、低料金であったことも相まってどんどん売れてどんどん製作された。その結果優秀な若手の監督は「撮れるならば」とロマンポルノを作る。

神代辰巳、曽根中生、崔洋一、周防正行などがキャリアスタートをしている。

一方80年代後半には家庭にビデオデッキが普及し、「私的利用」で許容範囲が広がった性表現は遂に「本番」アダルトビデオに行きつくことになり、これが日活のポルノ路線を衰退させることになる。

 

もう一つ、ご承知のように新藤と乙羽信子とは正式に結婚するまで長い婚外生活にあった。この映画とも重なり合う部分が大いにあるのである。

新藤・乙羽の関係を「不倫関係」と簡単に言ってしまうにはためらいがある。

個人的には乙羽が終生新藤を「センセイ」とよび、新藤もまた「乙羽さん」と呼んだというが、この二人の男女の、この「距離感」がとてもいい。

勿論これから述べるように、二人の関係はしばらくの間内密であった。

 

新藤兼人(1912-2012)は広島の豪農の生まれだが、父親が他人の借金の証文に連帯して没落、15歳で尋常小学校高等科を卒業したのち、たまたま見た映画に衝撃を受け、22歳で新興キネマに入る。溝口健二の「元禄忠臣蔵」の建築監督の座にようやくありつくが、一作のみ。43年国民映画脚本に応募して当選するが映画化はならず。最初の内縁の妻孝子(愛妻物語のモデル)が結核で死んだ後兵隊にとられ、海軍の掃除部隊に配属される。

終戦後、新興キネマを吸収した松竹大船に復帰、いくつかの脚本を書いて認められるようになる。46年34歳の時親戚の勧めで美代と結婚。シナリオライターとしての評価はどんどん上がるが、社会性の強いテーマが首脳に嫌気されて、ならば、と1950年独立して「近代映画協会」を殿山泰司らと設立。

温めていたシナリオ「愛妻物語」(51年)で39歳にして初めて念願の監督デビューを果たす。主演は大映の人気スター「百万ドルのえくぼ」乙羽信子(1924-1994)であった。

続けて52年には、乙羽主演で「原爆の子」を撮る。

このころから乙羽の新藤に対する尊敬の念が深まり、新藤が京都に来てシナリオを書くために旅館に籠って居る事を知り、人生を共にしたい覚悟で訪ねる。

 

この京都の夜、新藤は饒舌であった。

その時新藤が書き上げたのは「縮図」であり、乙羽に主役の芸者をやってほしい、

と言われ、乙羽ははっきり自分の分かれ道が来たと思った。

その夜映画や生い立ちの話などしたが、新藤の妻美代夫人の事は二人とも避けていた。

強情で、強がりで、意固地で、不愛想で色気のない私の胸中は「先生好きです」と言う重苦しい感情で充満し、ノド元までこみあげてきた。

私は人を愛し、相手の愛も感じることが出来たら、「不倫の世界」であっても、ただ突き進むだけである。

気が付くと、私は新藤の左隣に寄り添っていた。

「先生好きなんです」

新藤は何も言わない。ただ左のこぶしが石のように固くなった。

「乙羽さん、いいのですか」

新藤の声は、干からびていた。私はうなずいた。「いいのですね」と念を押すように新藤は言った。「いいんです」正直なところ私の記憶は、ここから鮮明ではない。 (乙羽信子「どろんこ半生記」より。)

 

 

 

 

その後の二人は逢瀬を重ねたが、乙羽にとっては「一生日陰の身」を覚悟してのことであった。それゆえの「センセイ」「乙羽さん」なのである。乙羽は「近代映画協会」に大映から強引に移籍してきたので仕事上のパートナーにもなった。

 

新藤は既に美代との間に子をもうけていたが、その美代からの申し出により72年新藤60歳の時に正式に離婚。美代は子供を連れて別れるつもりであったが、子供は新藤のもとに残り、美代は77年に死亡する。律儀な二人は翌78年正式に再婚した。

「鉄輪」は72年の作であるから、新藤が美代と離婚した年に当たる。

 

もう一つ余談であるが、能の舞台、貴船の明神は、「川床料理」で有名なところでもある。川をさかのぼってゆくと、勢いよく流れる川のせせらぎが聞こえる。

川の上にしつらえた床の上にござを敷き、せせらぎの音を聞きながら御酒や川魚料理などを頂く。鴨川の川床とは違って、涼しくもあり静かでもあり違った趣がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

殯(もがり)とは日本古代の葬送儀礼。納棺したままの遺体を長いこと放置し、一方では死者の霊を慰め、一方では白骨化を確認して安どする、両義的な儀礼。

この風習は随書に記載があり、倭の国日本と朝鮮半島の高句麗に6世紀ごろからあったらしい。

 

 

 

物語ぴあ映画生活からコピペする。(一部加除

奈良県東部の山間地。自然豊かなこの里に、旧家を改装したグループホームがある。そこでは軽度の認知症を患った人たちが、介護スタッフと共同生活をしている。その中の一人、しげき(うだしげき)は、33年前に妻・真子(ますだかなこ)が亡くなってから、ずっと彼女との日々を心の奥にしまい込んで生きてきた。グループホームへ新しく介護福祉士としてやってきた真千子(尾野真千子)もまた、心を閉ざして生きていた。息子を亡くしたことがきっかけで、真千子は夫との別れを余儀なくされたのだった。ある日、亡き妻の思い出の詰まったリュックサックを、そうとはしらず手にとった真千子を、しげきは突き飛ばしてしまう。福祉士として自信を失う真千子を、主任の和歌子(渡辺真起子)は「こうせんといけん、と言うことは無いからね」と励ます。次第に、真千子は自分の生き方を取り戻し始め、やがてしげきと心打ち解けあっていく。そのきっかけは茶畑の中での二人の追っかけっこ。

ある夏の日、しげきの妻の墓参りに同行する真千子だが、途中で運転する車が脱輪してしまう。真千子が助けを呼びに行く間にしげきは森に入り込み、そのまま二人は森を彷徨う。

長い夜が空け、朝、しげきは妻の亡骸の眠った場所を見つけ、土を掘り起こし、そこに思い出を埋める。それは、しげきが長年つけていた何十冊もの日記帳だった。眠るしげきの傍らで、真千子は遥か上空を飛ぶヘリコプターの音を聞くのだった。

(最後のヘリの音は捜索のヘリかしらん)

茶畑の緑も広々としていて眼になごむ。

迷い込んだ森も緑深い。

 

森は、風が吹き抜けて枝葉がそよぐ音や小川のせせらぎの音がする。

小鳥のさえずりも聞こえるだろう。

そして息をいっぱいに吸い込みたくなるような独特の空気と匂い。

森の緑は、茶畑の緑は人の心を落ち着かせる。

 

こうした心の変化をもたらす場が河瀬の最も撮りたかった場であり、

妻の死と、息子の死でそれぞれ傷ついた二人の心が癒されてゆくプロセスが、

物語が茶畑と森の中で起こるのだ。

 

この緑を最大限活用し、コロナ禍の中で候補者同士の演説会での公約実現ゼロなどが追及されるのを避け、一方では毎日感染者数を述べて都民に注意を呼びかけ、「視察」と称する練り歩きで何かをやっているふりをした小池都知事。

通称「緑の狸」

緑もまた両義的なのだ。

この狸顔、とくとご覧あれ!

 

 

 

音楽や自然環境音などはあるが、台詞を排した作品で、1961年モスクワ国際グランプリ受賞。

かのエイゼンシュテインに続くものだ、とのすごい評価をする評論家もいたらしい。

 

前作「第五福竜丸」で撮影中の合宿先の宿泊代などを踏み倒して行き詰まり、新藤が起こした「近代映画協会」の解散を決意したのち、その墓銘碑に、と製作した映画。

モスクワで評判を呼び、世界各国から作品を買う申し込みが相次ぎ、近代映画社は解散を免れ、つもる借金を清算することが出来た。

 

ロケは瀬戸内海にある小島「宿禰島」で出演者、スタッフ合計15人で島に泊まり込み撮影期間一か月、500万円の低予算で製作された。

 

 

 

ストーリーは少し長いがWikipediaよりコピペする

瀬戸内海に家族4人(夫婦と男の子2人)が住む、電気・ガス・水道がない周囲約500メートルの小島があった。島には平地はほとんどなく、島の頂上辺りのわずかな平地に小屋を建て、ヤギやアヒルと共に住んでいる。島の斜面に春はムギ、夏はサツマイモを植え、生活の糧としていた。長男は小学2年生、次男は未就学であるが、両親を助け家事を手伝っている。夫婦の日課は、隣島まで小舟を漕いで、飲料と畑の作物のための水を汲みに行くことだった。隣島よりに入れて漕ぎ舟で運んだ水を、島の急斜面を天秤棒を担いで運び上げるのである。

時には妻が誤って水をこぼしてしまうが、夫は容赦なく妻を平手打ちにする、農業には条件の悪い土地であるが、夫婦所有の土地ではなく、地代として農作物を納めている。

ある日、子供たちがを釣り上げた。妻はよそ行きの衣装に着替え、家族全員で巡航船に乗って尾道の市街へ行き、鯛を売って普段では手に入らない日用品を買ったり、また外食を楽しむこともできた。

ある日、長男が高熱をだす。父が医者を探し、島まで連れてきたが、間に合わなかった。葬儀には僧侶と通学先の担任の先生と同級生が来て、遺体は島に埋葬される。

葬儀が終わり、家族にはまた日常の生活が繰り返される。しかし畑の作物に水をやっている時、妻は突然桶の水をぶちまけ、狂ったように作物を引き抜き始める。そして大地に突っ伏して号泣する。

夫はただ見ているだけであった。ほどなく妻は落ち着きを取り戻し、水やりを再開する。この家族にはこの土地で生きてゆくほかなく、この小島で生活してゆく。

このセリフを排した新藤の意図に敬意を表して、この記事を書いた人たちの「感情移入」的な個所は切り払った。

 

新藤はこの映画でその後の彼の原点となるべき事柄を

集団創造の原点を見つけた。

必要なだけの人数で作る。合宿してスタッフが腕を組む。そして真実なものを作れば生きていけるという自信を植え付けてくれた。

 

(同書P138)

新藤はモスクワにこの映画を持ってゆく前、画家の岡本太郎に見せたところ、岡本は映画の最後に出る「しかも彼らは生きてゆく」と言う字幕を見て「こんなものはただのリアリズムだ」と言われて即座にこれを取り除いたという。

勿論新藤は単なるリアリズムを提示しようとしたのではない。

どのように過酷な環境下でも、人は生き、命を繋ぎ子をなし、

生きる喜びを見出してゆく。

生きる事に目的などはいらない。

それは新藤が起こした「近代映画協会」の営みそれ自身にも重なる。

それを台詞抜きで身体をもって一巻の映画に体現したのだ。

 

「しかも彼らはいきていゆく」で思い出したのだが、「この世界の片隅に」の最後にも似たようなナレーションがある。

「この世界の片隅で、わたしたちの生活は続いていく」というものだ。

 

このアニメ映画のブログ「この世界の片隅に」 に書いたのだが、

 

 

 

私はこの最後に引っかかった。

戦後、女性も男性同様、結婚相手を選べるようになり、主権者として選挙権、被選挙権を行使できることになった故に、「続いていく 私たちの生活」は本来異なったものとなったはずである。(中略)

平凡な日常の中に幸せはある。

その平凡な日常を「暴力的に破る」のは戦争であり、自然災害などの天災であり、原発事故などの過酷事故である。

戦争も、原発事故も人災であり、その意味で「主権者たる我々普通の人」の責任は重い。

そういう観点は希薄な映画だと思う。

当時ツイッターで、このアニメの、とりわけすずを礼賛した人たちが多かった。

幾人かの人とやり取りしたが、それはほとんどが男性であり、すずの生き方に

「妻ないし女性の理想像」を見出している。

それを保守主義、などと美化してはならない、と思う。

 

 

原題は不可逆、取り消しできない、撤回できないの意味。

フランス語も英語もスペルは変わらない。

 

映画のストーリーは概ね起・承・転・結、つまり発端から、発端からではない場合でも

ある段階で発端がフラッシュバックされるのが通常だが、この映画は逆に発端へ辿ってゆく。

 

仏教の因果応報を持ち出すまでもなく、我々の社会は、ある物事には原因がある、

という信念で成り立っており、それが「責任」や「治療」概念を生むわけだけれども、逆に辿ることがどんな映画になるのか、という関心から鑑賞。

 

 

 

ストーリーは、アレックス(モニカベルッチ)がパーティ会場から一人出てきて

タクシーを捕まえようとするが出来ず、傍らの街娼が「地下道で向こうに渡れば」と言われて地下道に入り、そこでレイプされる。

 

パーティ会場にいた愛人のマルキュス(ヴァンサン・カッセル)と元夫のピエール(アルベール・デュポンデル)は意識不明のアレックスが搬送されるのを見て、犯人テニアを追跡、ゲイクラブ レクタム(直腸)でマルキュスがテニアの頭を叩き潰す。

(左からピエール、アレックス、マルキュス)

終わりから始まりに向かって物語をたどる、といってもフイルムを逆回しにすると理解不能つまりセリフさえ分からなくなってしまうので、各ショットごとに始まりに向かってゆく編集。

 

つまりショット5の終わりから次のショット4(6ではない)が始まる、という構成であるが

ある程度のストーリーが頭に入っていないと、ショットの中身も頭に入りにくいだろう。

ということで上記に、始まりからのストーリーを紹介した次第。

 

この逆に辿るショットは実験的かもしれないが、成功したとは言えないだろう。

監督自身がその試みを繰り返していないし、同じやり方の映画が他にあるとは寡聞にして知らない。何よりも我々の「意識」の流れに反する事であり、ショットごとの内容が一つのまとまりとしてあることが却って我々の記憶に混乱をもたらす。

 

一方このストーリーが起承転結で編集された場合、大して見るに値するないし評価される映画になるとはあまり思えない。

トンネル内での長いレイプシーンや暴力的なシーンが話題になるぐらいだろう。

暴力的なシーンがそれ自体として評価の対象になる映画は価値があるとは思えない。

しかしこの試みによって監督のキャスパー・フエは「鬼才」-大概は訳の分からないものを生み出す才能の持ち主に奉られる呼称だがーと言われるようになったらしい。

 

この映画は2002年の作品だが、ノエ監督はその後東京を舞台にした「エンター・ザ・ボイド」(2009年)や「クライマックス」(2018年)を制作している。

この映画やクライマックスはドラッグが使用され、エンター・ザ・ボイドは「チベット死者の書」という神秘主義者愛用の書がキーになっている。

 

最後にWikipediaのあらすじをコピペする。

時刻はDVDメニューのチャプター

  1. --:-- エンドクレジット逆回し。
  2. 03:59 元肉屋が「時はすべてを破壊する」"Le temps detruit tout"と語るホテルの隣、ゲイクラブ"Rectum"(レクタム、直腸)からストレッチャーに乗せられたマルキュスと手錠をかけられたピエールが出てきて、救急車と警察車両に乗せられる。
  3. 03:11 Rectum店内でTenia(テニア、サナダムシ)を捜し、男の頭を叩き潰す。
  4. 03:03 車から降りてRectumへ向かう。
  5. 02:58 所在地の不明な"Rectum"へタクシーを急がせる。
  6. 02:51 オカマ達にテニアの行先を聞いて回る。
  7. 02:14 事情聴取。その後、復讐を勧められる。
  8. 01:43 意識不明のアレックス搬送を目撃。
  9. 01:09 地下道でアレックスがテニアに暴行を受ける。
  10. 00:57 パーティー会場でアレックスとマルキュスが言い争いをする。
  11. 22:35 マルキュス、アレックスとピエールがメトロ構内、車内で会話をする。
  12. 21:22 マルキュス、アレックスがアパルトマンで出掛ける前の時を過ごす。アレックスが妊娠検査。
  13. 20:01 『2001年宇宙の旅』スターチャイルドのポスターを背にアレックスが下腹に手をあてる。
  14. 19:27 公園でアレックスが本を読んでいる。
  15. 88:88 ストロボスコープ。「時はすべてを破壊する」"Le temps detruit tout"の字幕

 

 

1961年、第14回カンヌ映画祭パルムドール受賞作。

 

 

最も簡単なストーリーはWikipedia

パリ郊外でカフェを営むテレーズはある日、店の前を通る浮浪者に目を止める。その男は16年前にゲシュタポに強制連行され、行方不明になった彼女の夫アルベールにそっくりであった。テレーズはその男とコンタクトをとるが、その男は記憶喪失だった。

 

 

 

テレーズを演じるのは、アリダ・ヴァリ(1921-2006)

両親とも貴族の家系に生まれ,1954年ヴィスコンティの「夏の嵐」で伯爵夫人(主演)。

 

ストーリーを少し補足すると、テレーズは浮浪者(ジョルジュ・ウイルソン)の川べりの

掘っ立て小屋を突き止め、浮浪者が夫であることの確信を得ようとするが、それが充分には得られない。その確信は浮浪者が記憶を取り戻すことで間違いなく得られるので、かつて夫が好きだったものを作って食べさせたり

二人で行ったオペラの曲を聞かせたり

あるいはダンスに誘う

しかし浮浪者は記憶を取り戻すことが出来ずにいるなか、テレーズの熱い思いだけは

伝わってくるので、追い詰められて逃亡する。

その結果にテレーズは落胆しながらも諦めることが出来ずに、

やり方を間違えた、性急すぎたのよ。

優しすぎた、そうでしょ。

でも冬が来れば帰ってくる。

夏は時期が悪い。

厳しい冬なら、日が短くて行くあてが無くなるもの。

冬を待つの、冬を待ちましょ。

この最後のセリフもなかなかに切ないのであるけれども、

浮浪者が鏡の中のテレーズと対話するシーンは美しさと緊張感に満ち、

閉店後のカフェ、明日の開店の清掃のために椅子をテーブルに上げたフロアで

二人が躍るシーンもそれぞれの心が思いやられて、深い印象を残す。

 

過去の記憶を失った浮浪者は、今ここに生きるよりない。

過去を失えば、確たる未来もないのだ。

一方テレーザは、かつて夫と共有した過去を取り戻すことが、

相手が夫であるとの確証が得られ、明日の生活に希望が戻ってくる。

 

失った記憶が、痴呆やアルツハイマーであったらどうであろう。

記憶は回復する見込みはない。しかも薄れる一方だ。

 

共有した時間、共有した歴史を共に語り合うことで夫婦だったり、

親子だったり、兄弟だったりしたことの濃密さがその都度現前する。

それにより生きた証がともに得られるのだ。

 

相手がボケてくると、今のこの瞬間の会話さえ不確かなものになってしまう。

そこが途方もなく切ない。いたたまれない。

 

一方人間の体の原子は約7年で別の原子と入れ替わる。

物理的には常にあたらしく変化しているその中で、記憶、が一貫した自己を

支えている、と通常思っているが、その記憶はコンピューターのように脳の一部に

ストレージされているわけではない。

その都度どういうわけかシナプスが反応しあって過去の事を想起する。

したがってその想起が正確である、とはとても言えない。

 

 

そうすると、テレーズの夫の記憶、好物やちょっとしたしぐさなど

長い不在の中で変質し歪められた可能性もある。

仮に浮浪者が記憶を取り戻したとしても、それはテレーズのものとは

同じとは言えないのだ。

しかも記憶がそれなりに残っていくためには、繰り返し想起されなければ

ならない。かくも長き不在の間想起される機会はゼロに等しいから

ますます想起が困難になる。

やはり確定するには、残留孤児の場合もそうだがDNAテスト、ということになるだろう。

 

話は思わぬ方向にそれたが、映画に戻ると、

浮浪者は両手をバンザイして去る。

カンヌで今平こと今村昌平がこの映画の監督アンリ・コルビに出会った際、

今平はコルビにこの仕草をしたらしい。

コルビはとても感激したそうだ。

 

言語に共通性が無くとも、身振り、というものは通じる。

残留孤児の場合も仕草や表情が身内の誰かに似ている、と身元が判明した事もあった。それは記憶にあるものよりは確実、と言えるだろう。

具体的に対照するものがあるゆえに。