Living trilogy 最終作、原題は 「Sat on a Branch Reflecting on Existence 」
2014年東京国際映画祭で公開されたときの邦題は「実存を顧みる枝の上の鳩」。
この題は監督が好きなブリューゲル(父)の「雪中の狩人」から取った、とのこと。
この絵に対するWikipedia の解説が秀逸。全文をコピペする。
『雪中の狩人』は、雪の山間集落や岩山を背景に、猟銃 を背負った狩人が猟犬 を引き連れて歩く情景を描いた作品。左下に近景の狩人を配置し、中心にスケート に興じる村民、右上に遠景の山岳を配し、遠近法 を巧みに用いている。疲れた狩人の背中からは溜息が聞こえてきそうである。一方、眼下に広がる村では、人々が凍った池でスケートを楽しんでいる。その対比が、人間の喜怒哀楽、生活の貧富、人生の浮き沈みを見るものに印象付ける。前述のように、絵画の中心が、神でもなく、風景でもなく、人間であることから、『雪中の狩人』は、ルネサンス 的田園風景画の代表作と言われる。
この絵から漂ってくる何気ない「静けさ」が好きでブリューゲルの最も好きな絵の一つ。
また木の上に止まって下を見下ろしているかのごとき鳥も注目である。
それはさておき、この映画の邦題に、「日本的心性」が現れている、と思うので
日本向け予告編と欧米向け予告編を見比べてみたい。
先ずは日本向け字幕版。
VIDEO
次いで現地版。
VIDEO
日本語版は、
「人類は愚かな過ちを繰り返す。
それでも一人一人の人生は最高に愛おしい。
世の中うまくいかない事ばかり、
それでも明日はやってくる」
一方英語版バージョンでは
I'm happy to hear you're fine と繰り返される。
相手に対する気遣いは勿論あるがお互い「個」である。
この違いは私には大きく感じる。
日本バージョンのなだめるような調子。あるいは一種の諦念。
あたかも人生の不条理は「仕方の無いこと」世の中はそんなものなのだから。
諦念。つまり沈黙の美学。それでも明日はやってくるのだから。
「努力が報われる」というマントラが示すように、報われなければいても立ってもいられない社会。
報われなくたっていいさ。いつか理解されるときだってあるだろう。
そもそも隣人に理解されなくとも私の努力は「神が」みているだろう。
と、今ここでの世間の承認をひたすら求める必要の無い社会。
自分独自の生き方が今日される社会。
虚子の句に
「人に恥じ 神には恥じぬ初詣」
と言うのがある。
人=世間に承認されないならば、どうしたらいいのだろう。
村八分だ。それが嫌ならひたすら集団同調しなければならない。
さて本題である。前二作を見終わって次のようにこのブログで書いた。
第一作では現世に対する深い絶望感を感じたのだが、
二作目のこの作品では人間の「性(さが)」というものを突きつけているように思う。
これが三部作の最後の作品「さよなら人類」(邦題)ではどうなるのだろうか。
様々なエピソードをパズルのピース、あるいはゲシュタルト心理学で言うところの「地」 にして、どのような「図」が浮かび上がるのだろうか。
この三作目を見終わって、「図」を以下のようにまとめる。
1,移民に対する不安
2,ロシアの脅威
3,ナチス復活の悪夢
4,産業の空洞化
5プロパー(つまり元々のスエーデン人)の高齢化
これは 1と連動して現在の米国白人の不安と重なるだろう。
これらはEUにおける西欧先進諸国の存在不安 と
冒頭、博物館で男が止まり木の鳥を観たシーンの後、字幕が出る。
「人間であることに関する三部作の最終章である。
三つの死との出会い。
その1、ワインのボトルを抜こうと必死な男。
心臓麻痺で倒れ込むが台所の妻は気がついていない。
その2、病院で死の間際の老婆が胸に鞄を抱えている。
上の息子がその鞄、宝石やら現金が入っている鞄を取り上げようとするが、
そのたびに老婆がわめく。天国に持って行けると思っているらしい。
その3,フェリーのカフェテリアの中、カウンターの前で男が絶命している。
カウンターにはその男が支払い済みのビールとスナック。
キャッシャーの女が誰か要りませんか?と客席に問いかけると、
一人の男がビールをもらいに来る。
3っつの死との出会いの後のシーンは、ジプシーのフラメンコ教室。
白人のつまりプロパーのスエーデン人の若い男性が、少し年のいったエロスムンムンの女性教師つまり移民か外国籍の女性から、指導していると見せかけて体を触られる。しつこく手が男性の局所に伸びる。男性は教室を出て下に降りるが、移民らしい掃除婦が地べたに座って携帯で何やら話している。何らかの外国生まれの人たちはスエーデンの20%を占める。最初はEU加盟に伴うシェンゲン協定で東から、ついでシリアなど南から。移民に対する嫌悪感のようなものが漂う。
面白グアッズを売り歩く二人の男ヨナタンとサム。、歯の突き出た吸血鬼の面、笑い袋、怪物マスクの三つが定番だ。道に迷ってあるバーに迷い込む。するとそこに国王陛下の騎馬隊が来て、まず女性を追い出し次に軍楽隊に耳障りなジュークボックスにへばりついている男を追い出し、国王陛下が登場する。
どうやらゲイでカウンター内の若い男に野営のベッドで同衾してよい、と指図する。
ややあって戦闘のあとに再度通りかかる。ロシアの王と一騎討ちをしたが、ロシアの王は隠れて鎧を着る卑怯な手を使ったので負けた、という。
スエーデンは地政学的にバルト海を挟んでロシアと接し、その脅威を感じて徴兵制を敷いたり解いたりしているが何で昔の国王軍か?
NATOには加盟せずパートナーシップを結んでいるが、三軍の装備が旧式との不安でもあるのだろうか。
かつては独自の兵器開発をし武器輸出をしていたが、現在はどうか。米ソの間隙を縫って輸出を続けるのは大変な努力が必要だろう。
さらにはロシアの領海侵犯もあり、クリミヤ侵攻や東ウクライナ侵攻などもあってロシアの脅威は現実的に感じられていることだろう。それは北欧三国や旧ソ連東欧諸国も変わらない。
NATO加盟国欧州全体の問題でもあるだろう。
突如犬の吠える音。「急げ」「早くしろ」「立て」「何をしている」と軍人が人々を大きなドラムに追い立てる。ドラムにはラッパのようなものが多数突き出ており、「BOLIDEN}と橫腹に書いてある。
BOLIDEN というスエーデンの鉱山会社がある。ドラムの下に火床が在って着火されやがて回転する。杖をついた老人たちがそれをみてシャンパンを飲んでいる。
ホテルの部屋、ヨナタンの部屋に自転車に突き飛ばされ杖をついたサムが来る。
「恐ろしい、とても恐ろしい、私もその中に」とヨナタンが言う。「何か夢でも見たんだろう」とサム。
「現実のような気がする、だからとても恐い、すごく恐ろしい、誰も神の許しを請わない」
ヨナタンは廊下に出て独白する。
「人を利用して欲望を満たすのか」と。
この展開を前半部に注目すれば、ナチスのイメージが投影されていると思われる。
これを観るヨーロッパの人たちは各国の極右政党の進出を想起するはずだ。
ヨナタンとサム、二人の売り歩く面白グッズは大して売れる商品ではない。
商品を置いてもらうのに苦労し、置いてもらっても代金回収もままならない。
おまけに二人は商品の仕入れ代金さえ滞っている。
そこで連想が働くのが「産業空洞化」。
VOLVOは中国に売り飛ばしてしまった。SAABの将来はどうだろう、電気自動車と自動運転の波を乗り切れるだろうか。いま新型コロナ肺炎のワクチン開発で先端を行くアストラゼネカ(英国)は元々はスエーデンの製薬会社であった。
最後の元々のスエーデン人(プロパー)の高齢化。
エピソードでも60年来のバーの客とか高齢者がたくさん出てくる。
ヨナタンとサムも年取ってきている。
高負担高福祉国家スエーデン、高齢人口は2005年で18%、80歳以上人口比はEU随一らしい。
しかし少子化対策は成功例と言われるが、事実婚を認め法定婚と同様の公共サービスー婚外子であってもーが受けられる、また子供作る間隔を短くすると特典があるらしい。
これにより移民の子がますます増えていく、ということについて、国民のコンセンサスはできているのだろうか。そこは資料が無くてわからない。
以上の問題は北欧三国だけでなく、フランスやドイツ、あるいはスペインやオーストリアなどでも共通である。将来に対する「西欧」の存在不安がこの映画に投影されている。
というのが私の見方だ。
一方ベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞したこの作品。
ロイ・アンダーソン監督は、この映画はイタリア映画の「自転車泥棒」に刺激されて作った、
と言うようなことを言っている。イタリアに対するお礼?
また映画。com のインタビューでは
「全体として三部作は見る者の存在について考察してもらおうと言う試みです。
私たちは何をしているのだろう?私たちはどこに行くのだろう?と問いかけ
自分たちの存在について悲喜劇を用いて”生きる喜び”と人間の存在に対する
根源的な敬意への省察と熟考を促そうとしています。」また
「三部作は人類が終末に向かっている可能性を示しています。
その結果が我々の掌中にあることをも表します」とも言っている。
生きる喜びと人間の存在に対する敬意、
終末、という暗い未来。
つまりは混沌とし、矛盾に満ち、必ずしも明るくはなく、一筋縄ではいかない我々の生、
それでもそれをそれ自体として肯定しなければ、明日を迎える事のできない我々。
それは「諦念」とは違う、強い意志が必要とされる生き方だ。
その「強い意志」はヨナタンとサムにあるだろうか?
ロイ・アンダーソン監督が言うほどの内容になっている、とは思えない。
それとも日本語版予告編にある、諦念を伴った「それでも明日は来る」なのだろうか。
強い意志など無くても、とにかく明日を生きようとする二人が「愛おしい」のだろうか。
だとすればそれもロイ・アンダーソン監督の意図とは合致しないのではないか。
あるいは私の脳裏にある「EU問題」、ギリシャやスペイン、ポルトガルといった加盟国の金融危機問題やイギリスのEU離脱、あるいは対ロシアのミサイル基地敷設などを巡る緊張、クリミア侵攻に見られるプーチンロシアの悪辣さ。あるいは中国の経済面での欧州進出や一帯一路政策、
メルケル退陣後のヨーロッパをマクロン一人でまとめていけるのか、と言う不安、、、
などなどヨーロッパに対する懸念が、この映画を見る視点に投影された、ともいえるだろう。
それは福祉国家としてのヨーロッパ、民主主義同盟としてのヨーロッパ、環境問題や自然エネルギーや脱原発に取り組むヨーロッパには決して衰退してほしくない、という強い願いもある。