来年の大河『光る君へ』

放送までいよいよ半月…というところまで来ました。

 

今回は『光る君へ』の主人公・紫式部の先祖と子孫について触れた系図をご紹介してみようかなーと、そういうブログになります。

 

例によって『百人一首』のお話も絡めて行きますので、宜しくですです☆

 

 

先に言っておきますが、今回も系図に長々とした解説をつけてあります。

 

解説…ということは、見方によっては「来年大河のネタバレを盛大にやっている」とも言えます。

 

「それはちょっと…」と思われる方は、ご注意くださいね!

 

 

紫式部は藤原氏の1つ「勧修寺流」の出身。

 

「勧修寺」と言うのは、京都・山科にあるお寺のこと。

 

 

お寺の読み方は「かじゅうじ」ですが、地名の訓は「かんしゅうじ」

「勧修寺流藤原氏」は、どっち読みになるんでしょうかね…ワタクシは「かんしゅうじ」って読んでますけども。

 

勧修寺流は、このブログでも度々登場しています(興味ある方はブログ内検索してみてね→が、改めて最初からご紹介していきます(なので長くなりますよー?)

 

 

藤原氏本流から勧修寺流に分かれた大元祖は、良門(よしかど)という人物。

「人臣初の摂政」に任ぜられた藤原良房の異母弟です。

 

良房については、以前メインテーマとして触れているので、そちらをご案内するとして…。

 

藤原の兄弟たち(花婿の禍福編)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12797193366.html

 

詳しい生没年は不明なのですが、良門は2人の子を遺して、早くに亡くなってしまったみたい。

 

なので、お話は良門の息子の代から語られていきます。

 

 

良門には長男・利基(としもと)と次男・高藤(たかふじ)の2人の息子がいたのですが、山科の「勧修寺」と関係を持ったのは、高藤のほう。

 

高藤が15~16歳の頃(838年生まれなので、文徳天皇の御世になりそう)、山科まで大好きな鷹狩に出かけて行った時のこと。

 

申刻(午後4時頃)に突然、雷雨に見舞われ、やむなく近くにあった宮道弥益(みやじ の いやます。宇治郡大領)の家に駆け込み、雨宿りをすることになりました。

 

すると、接待に出て来た弥益の娘・列子(たまこ)に一目惚れ。2人は一夜をともにします。

 

翌朝、高藤は「これを形見に」と太刀を置いて帰るのですが、この勝手な外泊を父(良門)に咎められ、外出を禁じられてしまいました。

 

列子と逢うことも連絡を取ることもできないまま、6年もの歳月が過ぎ…。

良門が亡くなると、ようやく高藤は宮道邸への再訪がかないます。

 

久しぶりに会った列子は娘の胤子(たねこ)と一緒に暮らしており、この娘はなんと、高藤との間の子。高藤は初めて娘との対面を果たすことになりました。

 

そして、列子の枕元には、あの「形見に」と置いて行った太刀…。

高藤は心打たれ、2人を自邸に招いて、ともに暮らすようになったという。

 

そんなラブロマンスが『今昔物語』には描かれています。

 

これは本当の話だったのかどうか…?

 

「高藤が生まれてすぐ亡くなったからエピソードがない」と言われている父・良門が、高藤が二十歳前後になるまで生きている…という設定に無理があるなぁと思いつつ(笑)

 

まぁ、でも、真相はどうでもいいじゃないって思います(ぇ

 

なお、このお話は、子孫の紫式部がオマージュして『源氏物語』の元ネタの1つにされていると言われています。

ワタクシは『源氏物語』読んだことないので比較検証はしませんが…。

 

 

元慶8年(884年)、17歳の陽成天皇から55歳の時康親王に皇位が移るという、異常事態のような甥→大叔父の譲位で「58代・光孝天皇」が即位した直後。

 

先程のお話の中にも登場した娘・胤子が、光孝天皇の皇子・定省王(さだみ)と結婚しました。

 

それから3年後の仁和3年(887年)、光孝天皇が崩御すると、なんだかんだあって世継ぎ候補となっていた夫の定省が即位。「59代・宇多天皇」となります。

 

このあたりの経緯や事情は、だいぶ複雑なので以前に語ったページをご案内するに留めるとして…。

 

藤原の兄弟たち(後見人憂懼編)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12804303698.html

 

宇多天皇と胤子の間には、維城(これざね)という男の子がいたのですが、父が即位したことで彼も皇族に列して敦仁(あつひと)に改名。

 

寛平4年(892年)、敦仁は成人するとともに宇多天皇から譲位を受けて「60代・醍醐天皇」として即位しました。

 

あのラブロマンスから40年…ここに高藤は「天皇の外祖父」となったのでした。

 

良門が位階の低いうちに早死にしてしまったので、息子の高藤は昇進できる道筋が弱かったのですが、「天皇のミウチ」「天皇の外祖父」となったことで急速に昇進を果たしていきます。

 

昌泰3年(900年)に亡くなった時には「内大臣」、没後には「太政大臣」が贈られるまでになりました。

 

胤子の同母弟である定方(さだかた)も、右大臣にまで登り詰めました。

彼こそが『百人一首』25番歌の詠み人「三条右大臣」

 

名にし負はば 逢坂山のさねかづら
人に知られで来るよしもがな


三条右大臣/後撰集 恋 700

 

定方については、以前に触れたのでそちらをご覧いただくとして。

 

蝉丸のにおい(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12733609648.html

 

彼が右大臣の時、隣りの左大臣を勤めていたのは、藤原忠平。

 

『百人一首』26番歌(アンコを「おぐら」と言うようになった元ネタの歌)の詠み人「貞信公」その人です。歌番号も並んでいますな(ちなみに定方が7歳年上)

 

忠平についても語ったことがあるので、宜しければこちらもどうぞー。

 

四十年サイズの怨念服(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12788776757.html

 

 

高藤が亡くなった後、醍醐天皇は祖父母(高藤と列子)が出会ったあの宮道弥益の邸宅跡を、生母・胤子(896年没)の追善のため寺院に改めることにしました。

 

これが「勧修寺」始まりの縁起(高藤の諡号が寺名の由来らしい)

 

なので、「勧修寺流」は高藤の系統で、高藤の兄・利基の系統は、正確には「勧修寺流」ではなく「良門流」と呼ぶみたいです。紫式部はこの利基系の子孫にあたります。

 

ただ、良門流は兼輔(これまた『百人一首』27番歌の詠み人)の子・雅正が、定方の娘と結婚して子孫を成しているので、女系では勧修寺流の血を引いています。

 

…という屁理屈をこねて、ここでは利基の系統も「勧修寺流」としてご紹介していきますw

 

 

その雅正と定方の娘との間に生まれた子が、藤原為時(ためとき)

 

彼が紫式部の父。定方と兼輔、両方の孫にあたる為時は、大河ドラマ『光る君へ』に登場が予定されていて、岸谷五朗サンが配役されております。

 


藤原為時@岸谷五朗さん
2024年大河ドラマ『光る君へ』より

 

為時の漢学の才は当代無双。この頃の「勧修寺流」は受領職を欲しがる下級貴族ながら、師貞親王(後の花山天皇)の漢学の先生をやっていたそうな。

 

漢才に優れる幼い頃の紫式部を「男の子だったら良かったのに…」と嘆いたというお話もありますね。

 

漢学の女(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12742277692.html

 

教え子が花山天皇として即位すると、厚遇を得て「式部丞・六位蔵人」に就任。紫式部の「式部」は、ここから来ています。

 

「寛和の変」(986年)で花山天皇から一条天皇の時代に移ると、コネがなかったのか10年ほど冷遇の憂き目にあってしまうのですが、ある時に得意の「漢詩」で一条天皇を感動させることに成功します。

 

長徳2年(996年)、「越前守」を見事ゲット。現地へ赴任の時、娘の紫式部を伴っていたといいます(紫式部は生年が不明なのですが、973年頃とも言われ、そうだとすれば大体20代半ば頃になりそうですな)

 

長徳4年(998年)頃、紫式部は熱烈プロポーズをして来た藤原宣孝(のぶたか)との恋愛が進んで結婚することになり、寒い冬の中を単身で帰京します。

 

宣孝は定方の曾孫にあたる人物で、紫式部にとっては(父方祖母系の)又従兄弟の関係。大河ドラマ『光る君へ』では、佐々木蔵之介サンが演じられることになっています。

 


藤原宣孝@佐々木蔵之介さん
2024年大河ドラマ『光る君へ』より

 

長保2年(1000年)、夫妻の間に長女・賢子が誕生。

しかし、長保3年(1001年)に宣孝が卒去。

 

シングルマザーとなってしまいますが、間もなく任期を終えて帰京した父に引き取られて生活したと思われ、この頃に『源氏物語』が書かれたと言われています。

 

だとするなら、『源氏物語』の執筆は、為時の「勧め」があったんだろうな(少なくとも反対はしていない?)と推測されますねー。

 

なお、賢子は後年「後冷泉天皇の乳母」を勤めたので、本名が後世まで伝わっています。通称は「大弐三位」で、『百人一首』に58番歌の詠み人として採られています。

 

ありま山 猪名ゐなの篠原 風吹けば
いてそよ人を 忘れやはする


大弐三位/後拾遺集 恋 709

 

「大弐三位ってどういう意味?」とか、その辺は以前にご紹介してますので、これまたそちらをどうぞ(こればっかりだな)

 

系図で見てみよう(高階氏)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12691477064.html

 

 

ところで、紫式部が藤原道長の娘・彰子(上東門院)のもとに出仕して、宮仕えをしたのは御存知の通り(来年の大河でみっちりやると思うので、ここでは触れませんw)

 

その彰子のライバルだった定子(中関白家)との不思議な関係ですが、夫・宣孝の前妻との間の娘が、定子の甥(伊周の子)の妻となっています。

 

相手の名は藤原道雅(みちまさ)。『百人一首』63番の詠み人ですねー。

 

いまはただ 思ひ絶えなむ とばかりを
人づてならで言ふよしもがな


左京大夫道雅/後拾遺集 恋 750

 

中関白家が没落の下り坂を転げ始めた長徳2年(996年)、道雅は5歳。

チヤホヤされていたのが突然落ち目になり、つらい幼少期を送ったのが性格を歪めてしまったのか、道雅には目に余る乱行が数多く語られ、「悪三位」と渾名されています。

 

和歌の意味は「貴方との恋はもう諦めます。それを人伝ではなく貴方に直接伝える、その手立てがあって欲しい。今はただ、それだけしかありません」みたいなかんじ。

 

和歌の宛先は当子内親王(まさこ)。三条天皇の皇女で、伊勢斎宮となっていたのですが、父帝が退位したことで任を解かれていました。

 

京に戻ってくると、道雅が訪ねてきて密通を重ねていき…この危険な火遊びが三条上皇にバレてしまい、激怒を買った上で引き裂かれてしまった…その時の気持ちを詠んだ歌というわけ。

 

上皇の娘に手を出すなんて、なんともアバンチュールな悪三位(^^;

当子は悲嘆のあまり(?)出家してしまい、その後若くして亡くなってしまいます。なんとも薄幸のプリンセス…来年の大河で見たい(ね?NHKさん)

 

そんなかんじで、当子との間はうまく行きませんでしたが、先の宣孝の娘(紫式部の義理の娘)との間に女の子が生まれていて、「上東門院中将」という女流歌人として知られているそうです。上東門院…ということは、彰子に仕えたんですね(道雅は「左近衛中将」を経たことがあるので、これが由来でしょうかね)

 

 

宣孝の長男(紫式部にとって先妻の子)にあたる隆光(たかみつ)は、天延元年(973年)生まれなので、紫式部と同い年か、同年代の男性(なので、宣孝は生年が不明ながら「親子ほど離れた歳の差婚」と言われるわけですな)

 

大河ドラマ『光る君へ』では、まだ配役が発表されていないのですが、きっと登場すると思います…たぶん。

 

隆光は、清少納言『枕草子』あはれなるもの(しみじみとするもの)」の段に登場しています。

 

「父母を敬い仕える人。身分の高い若い男が御嶽詣のために精進の禁欲生活をしてボロボロになっていく様(孝ある人の子 よき男の若きが御嶽精進したる)」と「あはれなるもの」が列挙された後、『しみじみとするもの』ではないけど御嶽詣の話が出たついでに(これは あはれなる事にはあらねど 御嶽のついでなり)」として、宣孝と隆光のことを語っています。

 

なほいみじき人と聞ゆれど こよなくやつれてこそ詣づと知りたれ 衛門の佐信孝(宣孝)といひたる人は あぢきなきことなり ただ清き衣を着て詣でむに なでふ事かあらむ 必ず よも あやしうて詣でよと 御嶽さらにのたまはじとて 三月晦日に 紫のいと濃き指貫 白き襖 山吹のいみじうおどろおどろしきなど着て 隆光が主殿の亮なるには 青色の襖 紅の衣 摺りもどろかしたる水干という袴を着せて うち続き詣でたりけるを 帰る人も今詣づるも 珍しう怪しき事に すべて昔よりこの山にかかる姿の人見えざりつと あさましがりしを 四月朔日に帰りて 六月十日の程に筑前の守の辞せしになりたりしこそ げに言ひけるに違はずもと聞えしか

 

「右衛門佐・宣孝という人は『御嶽詣は清潔な着物なら問題ないだろう。蔵王権現様が必ず粗末な身なりで参れと言ったわけではあるまい』と言って、息子の主殿亮・隆光とともに派手な格好で参詣して、他の参詣客を唖然とさせた」というお話。

 

その一ヶ月後、宣孝は「筑前守」に任ぜられ、「宣孝の言うことは間違ってなかったんだなぁ(げに言ひけるに違はずもと聞えしか)」と結んでいるので、これは正暦元年(990年)の夏、紫式部と結婚する8年ほど前の話になります。

 

隆光と紫式部との間にも何かしらの交流はあったんでしょうけど、詳細はワタクシは知らず…まぁ、来年の大河で何かしら描かれるでしょうかね。

 

 

そんな隆光の孫娘にあたる光子は、堀河天皇・鳥羽天皇の乳母を勤めた人。

 

閑院流藤原氏の公成に嫁いで、生まれた娘・璋子(たまこ)は鳥羽天皇に入内して顕仁親王(崇徳天皇雅仁親王(後白河天皇の2人の天皇の生母となりました。

 

後に女院号を得て「待賢門院」

これまた当ブログでは度々登場している女性…いくつかリンクご案内しますねー。

 

系図で見てみよう(藤原北家/待賢門院&美福門院周辺)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11240438200.html

 

「六勝寺」の歴史(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12811919188.html

 

時代は「院政期」に差し掛かり、光子の同母兄にあたる為房(ためふさ)は「院近臣」として活躍。

有能な能吏でもありましたが、光子の人間関係も手伝って異例の昇進を重ね、勧修寺流としては為輔(宣孝の父)以来、125年ぶりの公卿に列し、勧修寺流の本流となっていきました。

 

子孫には吉田経房(源頼朝がまだ流人になる前、京武者だった時代の同僚。鎌倉幕府の初代「関東申次」。甘露寺家・坊城家・万里小路家の祖)葉室惟方(「平治の乱」首謀者の1人。こちらをドウゾ→「二人の側近」などがおります。

 

三男・長隆の系統では、『平家物語』に登場する行隆や、浄土宗を開いた法然の弟子・信空などが名を連ねています。

彼らについては、以前にも触れたので、またまたそちらをご覧いただくことにして…

 

「光明寺」の歴史(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12817555664.html

 

『百人一首』関連で注目なのは、為房の次男である「夜の関白」こと顕隆の曾孫・重頼(しげより)。

 

彼の配偶者が通称「二条院讃岐」という『百人一首』92番歌の詠み人なんですねー。

 

わが袖は 潮干に見えぬ沖の石の
人こそ知らね乾くまもなし


二条院讃岐/千載集 恋 760

 

二条院讃岐は源頼政の娘。頼政は「鵺退治」で有名、かつ「以仁王の挙兵」で戦死した人物。つまり「摂津源氏」の出身です。

 

系図で見てみよう(清和源氏/摂津源氏&河内源氏諸流)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11235167975.html

 

その名の通り、元は二条天皇(六条天皇に譲位して二条院)に仕えていた女房だったみたい。

しかし、二条院は23歳の若さで崩御。その後、重頼と結婚して平穏な結婚生活を送った…と言われています。

 

二条天皇の御世、重頼は何をしていたのか?はよく分かりませんでした…。

ただ、父の重方は二条天皇-六条天皇の蔵人を勤めているので、近い所にはいたのではなかろうか。

 

平家滅亡後は鎌倉幕府に仕えています。

 

 

さらに、為房の長男・為隆の系統で、吉田経房の従姉妹にあたる女性は『平家物語』に登場しています。

 

通称「小宰相(こさいしょう)」。清盛の甥っ子である平通盛(みちもり。教盛の子)の妻です。

 

法勝寺での花見の時、宮中一と謳われた美貌に、通盛は見とれてゾッコン。恋文アタックを繰り返して、その心をようやくゲットします。

 

しかし、"平家滅びの序章"「一ノ谷の戦い」(1184年)で、通盛は戦死。

この知らせを聞いた小宰相は、悲しみのあまり屋島の海に身を投げて後を追った…という悲しいストーリーのヒロイン。

 

 

平家関連では、紫式部の弟・惟規(これのり)の子孫も、平家の妻になっています。

 

こちらは、清盛の五男・重衡(しげひら)の妻・輔子。

通称「大納言典侍(だいなごんのてんじ)」

 

父は邦綱(くにつな)という人で、大河ドラマ『平清盛』にも登場しておりました(演:岡本信人さん)

 

通称「五条大納言」と呼ばれた平家政権の重臣。邦綱の系統(いわゆる「良門流」)で公卿に列したのは、兼輔以来という超出世人でした。

 

輔子の夫・重衡は平家の名将。数々の戦いで連勝を重ねますが、「南都焼討」で仏敵の汚名を着てしまいました。

 

その後、「一ノ谷の戦い」で重衡は捕縛。鎌倉に連れ去られることになります…が、このあたりは、これまた以前に語ったことがあるので、そちらに譲っておいて。

 

奈良仏師と最後の大将(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12789636973.html

 

寺院を焼き尽くされ深い恨みをもつ南都は「重衡の身柄を渡してほしい」と鎌倉にしつこく要求。

ついには引き渡され、京へ護送される途中、重衡は処刑されてしまうことになります。

 

護送途中、重衡は護衛に請うて妻の輔子と再会することが叶い、そのシーンは『平家物語』でも屈指の美しく悲しいシーンとなっています。

 

 

で、実は紫式部の子孫も、平家と関係を持っています。

 

紫式部と夫・宣孝の間に生まれた大弐三位は、高階氏と結婚。

その子孫は平清盛と結婚して、長男・重盛の母となっています。

 

重盛もまた激動の人生を生き切った人。その人柄、その人生は「早死にしなかったら平家は滅亡しなかったかもしれない」と、よく歴史のif話で語られる人物ですな。

 

もしも平重盛が早死にしなかったら~平家滅亡回避話(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12690186883.html

 

重盛の子供たちも平家滅亡の諸行無常に呑まれていきましたが、生き残った者は京都のとある有名なお寺にその人生を刻みつけています。

 

MY「勢観房源智」人物考(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12819473780.html

 

 

というわけで、紫式部の先祖と子孫まで触れた所で、今回はここまで。

 

かなり長くなってしまいましたが(なんだか過去ブログの紹介リストにもなってますね^^;)、勧修寺流藤原氏、実はこれで大体半分くらいだったりします…ナンテコッタ。

 

続きはまた、別の機会に…ということで。

もしかしたらオタノシミニ。

 

 

 

【続編記事】

 

系図で見てみよう(藤原氏勧修寺流)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12832517474.html