東京五輪2020、閉会しましたね。

 

このブログでも書きましたが、ワタクシにはスポーツ観戦するっていう習慣がなくて。

なので、ほぼ見ないまま終わりましたが、twitterで見る限り、楽しんだ方が多くいるようで、良かったですねーと、そんな気分です。

 

一方で、新型ウイルスの疫病が流行る中では、ほとんど楽しめなかったという人も、やっぱり大勢いるんでしょうね。それは残念でしたございましたね。

 

 

…と、とりとめのない時節の挨拶はこれくらいにして…(笑)

 

今日は「系図で見てみよう」シリーズをやってみようかと。

 

天皇家、藤原氏、源氏、平氏と色々ありますが、今日は「高階氏」を取り上げてみようかと思います。

 

「高階氏…って何??」「聞いたことあるけど、誰だっけ…?」と思われる方も、多いのではなかろうか。

 

高階氏はマイナーのようでいて、メジャーにもがっつり関わっている一族。

 

そのあたりも整理しながら、紹介してみようかと思います。

 

例によって、長々としたワタクシの解説も付いてますので、長文ダメな方はご注意くださいね(^^:

 

■高階氏略系図■

 

高階氏は、奈良時代の左大臣・長屋王を祖とする賜姓氏族。

 

長屋王と言えば、「壬申の乱」を勝ち抜いた天武天皇の孫にして、卑母の出のために天武天皇の後継者になれなかった高市皇子(たけちのみこ)の子にあたる人物。藤原四兄弟の謀略で滅亡させられた、「長屋王の変(729年)」の被害者です。

 

系図で見てみよう(藤原氏/藤原四兄弟)(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11241637655.html

 

長屋王には何人かの子がいたのですが、そのうち安宿王高階真人を賜姓されたのが、高階氏の始まりとされます。

 

安宿王の子(と紹介されてる系図もあるけど定かではない…年代は難しいけど合わなくもない)高階遠成は、第18回 遣唐使(805年)のリーダー(遣唐使判官)。

 

彼が戻ってくる時(806年10月)の船団に、あの空海(留学期間を大幅に切り上げて)乗り込んで帰国を果たしています。

 

 

その安宿王の弟にあたる桑田王の末裔が、今回のブログのメイン。

 

ただし、桑田王6世子孫の高階師尚には「桑田王の子孫ではなく、高階氏が養子に引き取った貴種」という噂があります。

 

 

平安時代初期、プレイボーイとして浮名を流した在原業平

百人一首17番の詠み人でもおなじみw

 

ちはやぶる 神代も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとは
在原業平朝臣/古今集 秋 294

 

彼の武勇伝を彩った女性の中に、恬子内親王がおりました。

 

彼女は、第55代・文徳天皇の娘。しかも、伊勢斎宮

 

伊勢斎宮は、未婚の皇女を伊勢大神に仕えさせる職務で、いわば「伊勢大神の妻」ということ。

 

業平が「天皇の皇女にして伊勢大神の妻」にお手て出して子供産ませちゃった…

このままではマズイので、伊勢権守として恬子内親王に仕えていた高階峰緒の家に預けて育てた…

それが高階師尚、というわけです。

 

これ、お話を面白おかしくするために、どこかでくっ付いた尾鰭(つまりウソッパチ)だと思うんですが、何故かそれなりの信憑性を持たれていたみたい。

 

なんで?というと、師尚(あるいは子の良臣あたり)が噂話を政治的に利用したからではなかろうか…とワタクシは思います。

 

師尚は天武天皇から数えてしまったら、9世も後裔。

一方、「在原業平の子」ということにすれば、平城天皇から4世子孫(平城天皇→阿保親王→業平→師尚)、あるいは文徳天皇の3世子孫(文徳天皇→恬子内親王→師尚)になります。

 

「せやったら、天皇家の血筋に近い方にしとこw」ということ。

 

幕末、13代家定の後継者問題の時に井伊直弼が持ち出した慶喜(家康から14代)よりも慶福(家斉から3代)の方が将軍家に近い血筋だから14代将軍は慶福!(後の家茂)と同じ理屈です(余計分かりにくい?ごもっともw)

 

師尚には小細工のつもりだった(と勝手に想像)これが、後に風評被害的な問題として浮上し、高階氏自身の首を絞めることになります。

 

 

平安時代の中期になると「中関白家」の奥様・貴子として、高階氏が華々しく登場。

 

『百人一首』54番歌の詠み人・儀同三司母は高階氏だったのですねー。

 

忘れじの ゆくすゑまでは かたけれは 今日をかぎりの 命ともがな
儀同三司母/新古今集 恋 1149

 

高階氏は「真人姓」の中級貴族だけれど、藤原朝臣の中でも摂政・関白を務める最も尊い藤原道隆が、どうしてそこの娘を妻を迎えることになったのだろうか?

 

本当の所は分かりませんが、道隆の母・時姫の母方の従兄弟高階良臣(貴子の祖父)なので、その縁だったのかもしれません。

 

 

高階貴子の娘・定子第66代・一条天皇に入内し、敦康親王を産むと、貴子の実家・高階氏は「真人姓」から「朝臣姓」にクラスアップ。

 

このまま敦康親王が即位すれば、さらに地位を上げられる…!という矢先、道隆が病死

 

道隆の子・伊周は叔父の"スーパー望月おじさん"藤原道長との権力争いを演じるのですが、敗北。中関白家は没落していきます。

 

「いや…まだ敦康親王がいる!親王は后腹の第一皇子父帝の寵愛も深い!彼が即位すれば可能性はある!」

 

と期待するも、自分の孫を即位させたい道長は手を抜いてくれません。

 

「高階氏は、在原業平が伊勢斎宮と密通して産ませた子の末裔」

「高階氏の血を引く敦康親王が即位したら、伊勢大神の怒りを買うでしょう」

 

「高階師尚は、実は在原業平の子」という噂話が、ここで仇に…。

 

この意見に左右されたのか、それとも野望の鬼となった道長から我が子を守りたかったのか。

一条天皇は、愛する第一皇子の即位の芽をそっと摘み取り。

中関白家を後ろ盾とした高階氏躍進の道は、完全に閉ざされてしまうのでした。

 

 

ちなみに、貴子の甥が結婚した妻は、定子ではなくライバルの彰子(道長の娘)に仕えておりました。

 

彼女の名は伊勢大輔。『百人一首』61番歌の詠み人ですねー。

 

いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな
伊勢大輔/詞花集 春 29

 

彼女は「大中臣氏」の出身。

大中臣氏は、中臣鎌足の父・御食子(みけこ)の弟にあたる、国子と糠手子の子孫です(伊勢大輔は国子の子孫)

 

「大中臣」でピンと来たアナタはエライ(何)

 

『百人一首』49番歌の詠み人、大中臣能宣(おおなかとみ・よしのぶ)は、伊勢大輔の祖父に当たります。

 

みかきもり 衛士のたく火の夜はもえ 昼は消えつつ ものをこそ思へ
大中臣能宣朝臣/詞花集 恋 225

 

 

貴子の伯父・敏忠の系統では、孫にあたる成章が紫式部の娘・賢子と結婚しました。

 

賢子は、第70代・後冷泉天皇幼少期の乳母で、天皇即位とともに「従三位」に昇叙。旦那の成章も「大宰大弐」に昇進。

 

賢子は夫の「大宰大弐と自身の「従三位を合わせて「大弐三位」と呼ばれました。

 

そう、『百人一首』58番歌の詠み人・大弐三位ですね。

 

ありま山 猪名の篠原 風吹けば いてそよ人を 忘れやはする
大弐三位/後拾遺集 恋 709

 

成章と賢子の2人の間には為家が生まれ、その子孫が平清盛の妻となり、長男の重盛と次男の基盛を産んでいます。

 

大河ドラマ『平清盛』では、娘を清盛にもらって欲しい高階基章が、「祖父の系統を辿れば紫式部にも繋がる家系です!」とプレゼンしていたこともありましたねw

 

史実の清盛が、なぜ高階氏から嫁を迎えたのかは、これまたよく分かりません(白河~鳥羽院の院近臣繋がり、という線が強いようですが、さて…?)

 

ただ、同じ高階氏に、藤原南家から養子に入り、高階氏の娘を妻とした通憲という男がおりました。

 

彼こそが"黒衣の宰相"信西。後白河天皇の乳母父にして、「保元の乱」の勝者にして、清盛が熊野に旅立ったタイミングを見計らって討ち取られた、あの男です。

 


高階通憲/信西@阿部サダオさん
2012年NHK大河『平清盛』より

 

信西自身の出自などについては、以前紹介したのでそちらをご覧いただくとして。

 

系図で見てみよう(藤原南家)(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11281600559.html

 

「保元の乱」の後、清盛の立場は「二条親政派」であり、義妹の滋子が入内するまでは後白河上皇とは関係が希薄だったのに、後白河上皇のブレーンの信西とは何故か歩みを共にしていたのですが、そこには「どちらも妻が高階氏」という縁があったのかもしれません。

 

信西と高階氏の娘との間には、「鹿ケ谷の陰謀」後に後白河法皇の弁解を清盛に届けるための使者を勤めた僧侶の静賢、孫娘には歌人の八条院高倉などがおりました。

 

 

紫式部の娘・賢子を妻に迎えた成章の、別の女性を母とする子孫には、平家滅亡後に後白河法皇の女房となった栄子がおります。別名「丹後局」

 

彼女との間に生まれた覲子内親王は、後白河院から広大な王家領「長講堂領」を相続。

 

この経済力をバックに丹後局は政界の実力者となり、九条兼実を失脚させたり、源頼朝の関心を買って貢物をさせたりしました。

 

覲子内親王(宣陽門院)も、鎌倉時代初期のフィクサーとして無視できない存在となりましたが、目をかけていた第87代・四条天皇が幼くして亡くなってしまったので、挫折。

 

紆余曲折を経て、「長講堂領」第89代・後深草天皇の所有となり、持明院統の基盤として南北朝時代へ受け継がれることになりました。

 

 

信西の妻の甥っ子、高階泰経は、後白河院の院近臣。

 

平家の滅亡後、兄・頼朝との関係が急速に悪化した義経は、ついに頼朝追討の院宣を出してくれ!」と後白河院に要求しています。

 

これを後白河院に取り次いだのが、高階泰経。

 

頼朝が逆襲して義経を京都から蹴散らすと、「頼朝を討て」の命令を出した後白河院の立場は一気に大ピンチ。

高階泰経が手紙を仲介して、頼朝に弁明します。

 

「義経の言うこと聞かなかったら、どうなっていたか分かりません。仕方がなかったんです。あれは天魔の仕業です。法皇さまの御意向ではないんです」

 

それに対する頼朝の返答は有名。

 

「謀反を起こした義経が天魔なら、貴方さまは日本第一の大天狗でございますな」

 

この「日本第一の大天狗」と書かれた手紙、実は泰経宛てに出されていて、「日本第一の大天狗」とは後白河院ではなく泰経を指しているのでは…なんて説もあるみたい。

 

でも、届けられたのは泰経邸ではなく後白河院の院庁だったり、後白河院の「天魔」に対抗しての「大天狗」だろうと推測されたりと、否定はしないまでも、そんなに強く推せる説でもないみたいですねー。

 

 

…と、やはり案の定、長くなってしまいました…(汗)

本日は、これまでに致します。

 

 

系図の中に見える「高氏」は、室町時代を切り開く足利尊氏の、執事を務めた「高師直」の高氏です。

 

高師直は、高階氏だったんですねー。………というより、「高階」を略して「高」としたのが、この氏の発端。

だから「高」で「こう」ではなく「こうの」と読むのが正しい、らしいです。

 

このへんは正直よく分からないので(笑)、高師直あたりの話を出すまでの宿題、ということで。ではではー。