短い連休が、今日で終わりました(←土曜日出勤の人)
悲しくなんかないやい。
さて、今日も「系図で見てみよう」をやります。
平安時代は藤原氏の時代と言ってもいいほど、藤原な人がたくさん出てきますが、その始まりとなった藤原四兄弟を取り上げるのが、今回の主旨。
藤原氏はココから始めると分かりやすい・・・・というか、取っ付きやすい。
これが自分の通ってきた道なので、平安時代ではないですが(奈良時代)、やってみる所存です。
藤原氏の祖は、中臣鎌足(なかとみのかまたり)という、飛鳥時代の人物。
この時代、女帝である第35代・皇極天皇(こうぎょくてんのう)の時代、天皇の子・葛城皇子(かつらぎのみこ。通称「中大兄(なかのおおえ)」)がおりました。
645年、葛城皇子は横暴を極める実力者・蘇我入鹿(いるか)を暗殺。
さらに翌日、甘樫丘(あまかしのおか)にある蘇我氏の邸宅を囲んで、入鹿の父・蝦夷(えみし)を自害に追い込み、古来からの大豪族(おそらく、ヤマト建国からの功臣)・蘇我宗家は、ここに滅亡しました。
この時、鎌足は葛城皇子の懐刀として活躍していたと言われています。
歴史上「乙巳の変(いっしのへん)」と呼ばれているこの事件は、多くの謎に包まれた出来事。
たとえば、
蘇我入鹿は刀で首を討ち取られて絶命したのですが、手を下したのは葛城皇子ご本人。鎌足は後方で弓を構えていたそうです。
・・・・なんか主従が逆転してない?普通なら、従者である鎌足が最前線に立って「成敗!」って刀を振るうべきじゃないの?
とか、
「乙巳の変(いっしのへん)」が起きたのは645年ですが、葛城皇子が天皇に即位できたのは668年。23年も経っています。
なんで、すぐに即位できなかったの?その間に自分の母親が重祚してるけど、なんで自分が即位しなかったの?
「大悪人」蘇我入鹿を討ち果たした英雄じゃなかったの?
とかとか。
そうした謎をつっつくのも楽しいですが、今回は主旨ではないのでお預けして。
669年、葛城皇子は、死病の床についていた鎌足を見舞うと、大織冠(たいしょくかん)を授けて内大臣に任じ、「藤原」の姓を賜ります。
これぞ、後の権勢の一門藤原氏が誕生した瞬間。
ご覧の通り、鎌足が「藤原」を賜ったのは亡くなる直前だったので、。
・生前の動きを記述する時→「中臣鎌足」
・没後のことを記述する時→「藤原鎌足」。
このように歴史学界では使い分ける・・・・みたいな話を聞いたことがあります。
ワタクシは、こだわりませんけどね。学界の人じゃないし、何よりめんどくさいから(笑)
ちなみに、葛城皇子は即位して天智天皇となります。
「百人一首」の最初を飾る詠み人ですねー。
(「秋の田の かりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露に濡れつつ」)
天智天皇のあとを継いだのは息子の大友皇子(おおともおうじ)でしたが、天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのみこ)との戦い(=壬申の乱。672年)に敗れ、自害してしまいます。
大海人皇子は、天武天皇として即位。
皇統は天智朝から天武朝に移ることになりました。
天智天皇の右腕だった藤原氏は、天智朝と一緒に没落していったはず。
ですが、鎌足の息子・藤原不比等(ふじわらのふひと)が、いつの間にか歴史の表舞台に現れ、いつの間にか大臣級まで昇進を果たし、いつの間にか天皇の外戚の地位をゲットしやがっています。
この人、日本史上で5本の指に入る「すげー人」だと思います(笑)
そんな、藤原氏を完全復活させた藤原不比等には、「藤原四子(ふじわらよんし)」と称される四兄弟がいました。
彼らはそれぞれに独立して家を作り、平安時代に続く藤原氏の原点となります。
長男:武智麻呂(むちまろ)
次男:房前(ふささき)
三男:宇合(うまかい)
四男:麻呂(まろ)
で、それぞれの家の名前は、次のようになっています。
「武智麻呂の家が南にあった」・・・・藤原南家(ふじわらなんけ)
「房前の家が北にあった」・・・・・・・・藤原北家(ふじわらほっけ)
「宇合が式部卿を務めた」・・・・・・・・藤原式家(ふじわらしきけ)
「麻呂が左京大夫を務めた」・・・・・・藤原京家(ふじわらきょうけ)
このうち、平安時代に公家社会頂点の「藤原摂関家」を排出したのは、次男の家系「藤原北家」でした。
(「平清盛」の頃でも元気だったのは、この「藤原北家」と、長男の家系「藤原南家」くらいなので、ドラマの人間関係を理解するだけなら、この2家を覚えておけばOKです)
四兄弟は藤原不比等が亡くなった後、政敵で妹婿だった左大臣・長屋王を滅ぼして天下を取りました(=長屋王の変。729年)
しかし、737年に天然痘が大流行。四兄弟は次々に病に倒れ、わずか5ヶ月あまりで全滅。
働き盛りの実力者を一気に失った藤原氏は政権から転がり落ち、しばらく不遇の時代を過ごすことになってしまいます。
どれくらい「しばらく」かというと、「平安京遷都」して奈良時代が終わるくらいまで。
藤原氏にとって2度目の最大の危機だったこの60年間は、ちょうど奈良時代の中盤から終盤に重なります。
だから、奈良時代もけっこう楽しいのですw。
まだ手をつけてない方・・・・おすすめですよー。
以下、趣味的妄想話w。
四兄弟のMYイメージは、
長男:武智麻呂
真面目で博学。名前に反して、あまり体は強くない人。
(大学制度の設立に尽力した人。弟・房前より出世では一歩遅れている)
次男:房前
人当たりが良くて物知り。自分で語るよりは、人の話に乗る聞き上手な人。
(四兄弟の中で、最も政治力に優れていた人)
三男:宇合
武人肌。直情的だけど、情にもろい。
(「長屋王の変」で長屋王の邸宅を囲んだ指揮官)
四男:麻呂
人に優しく、何でもできる器用な人で、そのために損をするタイプ。
(道路の開拓などの事業も進んでやっていたらしい)
こんな感じw。
個性的な兄弟の長所を活かし合い、お互いの短所を補い合って、鉄壁の政治力を捻出していた・・・・というのが、ワタクシのイメージです。
四兄弟は天然痘で次々に亡くなっていますが、これは相互に見舞いにやってきて、感染してしまったということなんでしょう。
長屋王が好きなワタクシとしては、王の謀殺を仕組んだ憎きヤツらですけど、兄弟仲が良好な権力者って、なんだかとてもイイですよねー。