再開した「平成の政治史」シリーズ。

 

今回は「民主党」にスポットを当てて見て行こうという企画。

 

躍進・迷走・盛り返し(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12978243863.html

 

自民党総裁に小泉純一郎が就任して「小泉劇場」が開幕。

 

変人宰相登場(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12978711286.html

 

いよいよ、変人宰相・小泉純一郎との直接対決が始まります。

 

名付けて「vs小泉旋風」!

 

小泉政権は5年5ヶ月の長期政権。ぜんぶ一気にやるには長過ぎるので、何回かに分けて見て行こうと思います。予定では2回ですが、3回になるかも…?

 

前回からの続きで、民主党は2人目の代表「鳩山由紀夫(1回目)」期となっています。

 

season2. 鳩山由紀夫/1回目(1999年9月〜2002年12月)

 

2001年4月26日(平成13年)、衆参両院の本議会によって、小泉純一郎が第87代内閣総理大臣に指名。

 

「小泉政権」がスタートしました。

 

小泉純一郎…初期民主党にとって、それは悪魔のような存在。

 

森政権の失態で支持率低迷にあえいでいた自民党は、「自民党をぶっ潰す!」と掲げて勝利を収めた小泉内閣の発足により息を吹き返し、政権支持率は史上最高の80%超を記録。

 

「小泉フィーバー」の熱狂を前に、民主党の存在感は埋没した感が否めなくなってしまいました。

 

当時、民主党がウリにしていた「構造改革」「規制緩和」「地方分権」「官僚主導からの脱却」のスローガン。

 

これらは、小泉首相が「聖域なき構造改革」「三位一体の改革」「地方にできることは地方に」「民間にできることは民間に」と、得意のワンフレーズ戦略で宣言して、完全にお株を奪われてしまいます。

 

政策の方向性が同じになってしまったことで「対立軸」が消滅。この時期の鳩山代表は、ものすごくやりにくかったことでしょう(苦笑)

 

民主党は「小泉改革はパフォーマンスだけで中身がない」「格差を広げるだけの暴走だ」といった「改革の質の追及」に持ち込むしかなくなりました。

 

混乱のあまりか、鳩山代表は国会において、取り返しのつかない失言をしてしまいます。

 

「小泉氏の主張する改革の方向性は、わが党が従来主張してきたものと基本的に同じだ」

 

「小泉首相が本気で構造改革を行うというのであれば、民主党としては惜しみなく協力する」

 

「対決一辺倒ではなく、是々非々で臨みたい」

 

鳩山代表としては、「自民党をぶっ壊す!」と叫ぶ小泉首相に対し「自民党内の守旧派と戦う?本気かどうか、野党である民主党が見極めてやる。何なら手伝ってやってもいいぞ…やれるもんならな!」という挑発のつもりだったのかもしれません。

 

しかし、「是々非々」発言は「自民党の政策をお手伝いしますよ」という意味であり、野党第一党の党首として決定的な「戦略ミス」でした。

 

菅幹事長や岡田政調会長、旧社会党系グループからは強烈な批判が鳩山代表に向けられ、党内はパニック。

 

「野党第一党の本来の役割は、現内閣を倒して自分たちが政権を取ることだ!与党の改革を手助けすることではない!」

 

「これでは民主党が『小泉政権の補給部隊』『二軍』にすぎないと思われてしまうではないか!」

 

さらに「小泉改革(痛みを伴う構造改革・人事解雇の流動化など)」に猛反発していた支持団体からも、「鳩山は小泉の味方をするのか!」と激しいクレームが起きてしまいます。

 

勘が鋭くて喧嘩が強い小泉首相は、この"揺らぎ"を見逃しません。国会において、民主党への牽制弾を直接撃ち込んできます。

 

「是々非々とおっしゃるなら、是非とも改革法案に賛成して頂きたい。それができないのなら、民主党もまた『抵抗勢力』だ!」

 

ワンフレーズ戦法が得意な小泉首相の、クリティカルヒット。

 

改革に賛成して自民党の二軍になるわけにはいかない…。さりとて「民主党も改革を邪魔する抵抗勢力だった」というレッテルは、かなり不本意。

 

というか、野党はそもそも抵抗勢力なんです。それを殊更に悪役に仕立て上げるっていう戦法は、だいぶ汚いやり口です(苦笑)

 

こうして手詰まり状態に陥ったまま、「小泉フィーバー」に乗った自民党と「参議院選挙」で戦う羽目になった民主党。

 

1年前までは「森政権下ではとてもじゃないが戦えない!」と、自民党議員が震えあがっていたのに、すっかり立場は逆転していました。

 

第19回参議院選挙(2001.7.29)
政党 改選 非改選 議席
与党 自民党 61→64 46 110
公明党 13→13 10 23
保守党 3→1 4 5
野党
ほか
民主党 22→26 33 59
自由党 3→6 2 8
共産党 8→5 15 20
社民党 7→3 5 8
無所属 6→3 5 8
自由連合 1→0 0 0
無所属の会 0→0 4 4
二院クラブ 0→0 0 0
自由と希望 0→0 0 0
新風 0→0 0 0
欠員 2→0 0 0
定数247/与党138/ほか109

 

「自民党」は61議席→64議席へと増加。たった3議席しか伸びてないように見えますが、前回の改選組(1998年)が44議席しか取れなかったことを思えば(これにより、橋本龍太郎は退陣)、64議席獲得は「党勢回復」の明るい兆しが見えようというものです。

 

しかも、今回の選挙は公職選挙法改正により、改選定数が126議席から121議席へと「5議席」削減されて、全体数が減っているの中での伸びであり、単独改選過半数の61議席も越えて、中々の結果でした。小泉フィーバーおそるべし。

 

「民主党」も4議席増の26議席で、野党第一党の意地を見せる中々の健闘。しかし、小泉旋風の勢いに押されてしまった感は(特に比例区は)否めないものがありました。

 

 

民主党の存在感を何としても取り戻したい鳩山代表。しかし、看板である「改革」を小泉政権に奪われてしまって、存在感は埋没する一方。


そこで党幹部たちと考えに考え抜いた結果、「責任野党」を目指すと言う戦略に達します。

 

「ただ反対するだけの野党」から脱却し、「政権担当能力のある、現実的な政策集団」であることをアピールすれば、政権交代の実現も近づくだろう…という、とてもいいアイデアでしたw

 

その直後、あの「アメリカ同時多発テロ」(2001年9月11日)が勃発。

 

国際テロ組織アルカイダの指示により、4機のジャンボジェット機が同時にハイジャック。アメリカ国防総省"ペンタゴン"と、ニューヨークの世界貿易センタービル"ツインタワー"に相次いで突入し、3000名近くの犠牲者を出す大惨事となりました。

 

アメリカは報復として中東に派兵を開始し、「アフガニスタン紛争」が開戦。これにより、日本でも政治論争の主軸が「国内政策」から「安全保障・外交問題」にシフトしてしまいます。

 

安全保障は民主党の苦手分野…党内に保守からリベラルまで揃えて統一されていない中で、これは大ピンチ(苦笑)。あの小渕内閣(2000年)での「日米ガイドライン協定修正案」の政策論争時に、薄氷を踏む思いをしたことが否が応でも想起されていたのではなかろうか。

 

小泉内閣は、自衛隊のインド洋派遣を可能にしようと、「テロ対策特別措置法」の成立を目指し動き出しました。

 

「よし、ここで責任野党の始動だ!」と、民主党は「自衛隊派遣そのものには理解」を示しつつ、文民統制を担保する「厳格な事前国会承認」などを盛り込んだ「独自の修正案」を提出し、与党との修正協議に臨みました。

 

与党と協議していく過程を見せれば、党内のリベラル派と保守派もそちらに気を取られて、意見を一本化しやすいだろうというという思惑も、あったかもしれません。

 

しかし、決して短くはない国会議論の末、小泉政権は「事前国会承認」などの要求を一切受け入れず、強硬に法案を成立させる…という挙に出ます。

 

要求が拒否された以上、最終的には法案に反対せざるを得ません。「責任野党(対案路線)」をやりたいのに、圧倒的な支持率で突っぱねられてしまうという、惨めな結果。

 

おまけに、対案まで出して自民党に歩み寄っていたのに、最後はやっぱり反対している光景が「軸がブレている」として、かえって優柔不断で頼りない印象を、有権者に与えることになってしまいました。
 

そして、この「責任野党」路線が、民主党にさらなる苦難を突きつける、ある「不祥事」を起こしてしまいます。

 

 

「自衛隊は防衛部隊なんだから国外に出て行っていいわけないだろ!」と、法案に猛反対していた者たちの中に、大橋巨泉の姿がありました。

 

大橋巨泉が何故ここに?…というと、実は民主党所属の議員になっていたのです。

 

「第19回参院選」(2001年)は「非拘束名簿式」が初めて導入された選挙でした。

 

「非拘束名簿式」は、比例代表の投票に「政党名」ではなく「候補者の名」も書くことが出来る制度。それまでの比例代表は、党が決めた順番に、得票数に応じて当選者が決まっていたのですが、「私が当選させたいのはあの人なのに、当選順位が低いから、いくら入れても当選しないじゃん!」という抗議もあって、その拘束を緩める方向に改正されていたのです。

 

個人名を書くと、その候補者はもちろん、所属政党にも1票が入ります。ここが重要なポイント。

 

人気のある人を候補者にして、いっぱい票が集まれば、それは候補者個人だけでなく党全体の得票にもなるので、他の候補者も恩恵に預かれるわけ。

 

民主党は、これを利用して「人気タレントを候補者に立てて集票しよう」と画策し、目玉候補に立てられたのが、抜群の知名度を誇るタレントの大橋巨泉でした。

 

巨泉は、期待通り約42万票もの個人票を集めて、民主党の比例代表でトップ当選。これは民主党の票にもなるため、かなりウハウハな結果となってくれました。

 

そんな巨泉は、持ち前のリベラル・ハト派的な平和主義の立場から「自衛隊の海外派遣は明確な憲法違反である!戦争反対!」として、法案への反対を強く主張していました。


ところが、党執行部は「責任野党だ!対案路線だ!」といって、自民党との修正協議に入ってしまいました。

 

「自民党の違憲な法案を修正して通そうとするなんて、どう考えてもあり得ないだろ!」と、巨泉が怒り狂っている…と聞いて、驚いた党幹部は説得を試みるのですが、「そんな姿勢なら、自民党の補完勢力と同じじゃないか!」と激しく反発して聞く耳を持ちません。

 

党の方針に失望した大橋巨泉は、2002年1月29日に会見を開き、「これは辞める決意の会見じゃない。すでに辞職願を出して受理された。もう辞めたんです」と言い放ち、当選からわずか半年、任期を5年半も残して議員を辞職するという、異例の事態に発展してしまったのでした。

 

「違憲なんだから追究の手を緩めずにやるべきなのに、やる必要もない修正協議に入って、それでおきながら最終的には反対に回るなんて、野党としての対立軸が不透明で、理念が完全にブレている。民主党は党内もまとめられない政党。これでは政権交代は無理」

 

巨泉の鋭い目線は、民主党が押し出した「責任野党」の弱点も、見事に看破していました。

 

自ら擁立して「42万票」も集めた、比例トップ当選の目玉議員1人すら説得・統制できず離党されたことは、「党内ガバナンスも効かない民主党」というイメージを有権者に植え付ける結果になった…と言われます。

 

(なお、巨泉が辞任会見をしたこの日は、小泉政権が田中真紀子外相を更迭したのと同じ日。ニュースは田中外相失脚で一色になったそうな。巨泉の後釜には、名簿次点だったニュージーランド出身のツルネン・マルテイが繰り上げ当選して、「日本初の西洋人議員」として話題になりました)

 

 

2002年9月、任期満了による民主党代表選が開催。

 

鳩山の手腕を不安視した菅・横路と、「もう鳩山・菅体制は無理。これからは若手中堅に世代交代だ」と、野田佳彦が出馬の意向を示し、4人対抗の代表選に突入します。

 

結果は、以下の通り。

 

候補者 1回目 決選
鳩山由紀夫 194 254
菅直人 158 242
野田佳彦 102
横路孝弘 82

 

1回目で過半数がなかったので、上位2名で決選投票が行われ、わずか12票差で菅を下して、鳩山が再選(通算3選目)を果たしました。

 

勝ちは勝ち…とはいえ、かなりの辛勝。「世代交代」を訴え出た野田が全体の約2割のポイントを掻っ攫っているのも、気になるところ。

 

これで、次の選挙は戦えるだろうか…?

 

焦った鳩山代表は、打開策として政界屈指の腕腕であり、野党結集の旗振り役であった小沢一郎との合流を思いつきます。

 

鳩山と小沢は、もとは自民党の「経世会(竹下派)」の所属議員(小沢:1969~1993/鳩山:1986~1993)。「非自民連立政権(細川内閣)」でも、それぞれ「新生党」と「さきがけ」のメンバーとして、政権運営を担っていた関係です。

 

2002年10月15日、鳩山代表は小沢と極秘裏に会談。この時点では「国政選挙での協力体制」を確認する穏健なものだったそうです。

 

しかし、小泉フィーバーに押されていた鳩山は、「小沢氏と組むことでしか党勢を挽回できないのではないか?」という思考へと、徐々に暴走。

 

歯止めが効かなくなったのか、「両党の衆参での統一会派結成、および将来的な政党合併」へ向けて急接近し、「自由党との合流」の事実上の合意を取り付けるに至りました。

 

問題だったのは、これを党内幹部(菅幹事長など)や所属議員に一切の相談・根回しすることなく、独自にやってしまったこと(!)

 

12月2日、「自由党との合流」を、突如としてトップダウンで発表。文字通り、民主党は蜂の巣を突いたような大混乱になってしまいます(そりゃそうだ)

 

どうして、鳩山は勝手に話を進めたんだろうか…?

 

これまでの「壊し屋」な経歴から、民主党内には小沢に嫌悪感を持っている議員(=実際に、自分がいた政党や政権をぶち壊された当事者)は多く、最初に相談したら潰される可能性が高かったので、「既成事実を作ってしまえば、党内も従わざるを得ないだろう」という賭け(甘い計算)があった…と言われます。

 

これを否定しない上で、そこには鳩山の独特のキャラクターに原因があったのではなかろうか。

 

彼は理想主義的な一方で、「自分が良いと思ったことは、間違いないと思い込み、周囲も現実も見えなくなって突然突っ走る」という悪癖が出る傾向があったと、ワタクシは思います。

 

鳩山政権時でやらかした数々は省略しますが(笑)、日韓国交正常化50年の節目を迎えた2015年、韓国を訪問した際に「西大門刑務所歴史館」で、ひざまずいて「心から申し訳なくお詫びを申し上げます」と謝罪したことは、人々の記憶に新しいところですよね。

 

「元首相としての立場をわきまえていない、国益を損なう軽率な行動だ」と激しい批判を浴びましたが、あの唐突な行動も、この自由党極秘合併騒動の時から、ちっとも変っていない悪癖を思い知らされた出来事でした。

 

鳩山政権時に批評したアメリカ「ワシントンポスト」の言葉を借りれば「ルーピー(頭がおかしい)」というヤツ。

 

「民主党と自由党が1つになることが日本のために絶対に正しい」という大義名分にとりつかれ、周囲の合意形成プロセスを全部すっ飛ばして、自己完結した結果が「民主党・自由党合併構想」。

 

「これをやり遂げれば、党内の求心力も一気に回復し、自分のリーダーシップも盤石になる!」という、三段跳びの思い込みもあったのではなかろうか(^^;

 

もし、小沢なみの非情さやカリスマ性、組織支配力が鳩山にあったなら、この時に「民主党・自由党の合流」は実現したかもしれません。

 

しかし、現実に待っていたのは、党内からの激怒の声の噴出。そして、マスコミからも「鳩山代表の独走」「密室政治の復活」と大々的に報じられ、党の求心力はもうゼロ。

 

12月4日、自由党との合併騒動を引き起こした責任と、一連の党内混乱の引責として、鳩山は代表辞意を表明。

 

菅直人と岡田克也で代表選が行われ、後任として菅直人が代表に復帰。幹事長には代表選の対抗馬だった岡田克也(保守派)を起用して「挙党体制」をアピール。民主党の再建に乗り出そうとします。

 

 

このまま2002年が終わるか…と思われた、12月24日。

 

「旧民社党」出身の党内保守派の重鎮・熊谷弘が、離党を告げました。

 

「小泉政権の圧倒的な人気に対抗しなければならない時に、このようなバラバラの民主党では、次の衆院選で惨敗し、政権交代なぞ夢のまた夢になる」

 

民主党に見切りをつけた5名が、党を離れて「保守新党」結成へと去って行きます。

 

「民主党(1998)」結党時に持ち込まれた「党内矛盾」の爆弾の1つが、ついに爆発。

 

「小泉旋風」の前になすすべもなく、リベラル派の目玉議員と保守派の重鎮議員を相次いで失った2002年は、民主党にとって痛恨の1年となったのでした。

 

season3. 菅直人/2回目(2002年12月〜2004年5月)

 

混乱の2002年が明けると、国内政策では「有事関連三法」を巡る対決がやって来ます。

 

「有事関連三法」とは、ざっくり言えば有事が起きた時に、行政と自衛隊が迅速な行動ができるようにするための法律。「自治体の権限の再定義」「自衛隊の行動原理と処遇の改善」「安全保障会議(有事の際の国家の司令塔)の位置づけの強化・見直し」という三項目で成り立っています。

 

「安全保障・外交政策」は民主党の苦手分野…。でも、ピンチはチャンス。これを機会に「安全保障を考えられない野党」というレッテルを剥ぎ取ってやる。

 

そこで、自民党案が「アメリカへの協力」に偏って「国民の権利侵害や避難措置についての議論が不十分」であった点を鋭く見抜いて「国民なき有事法制」と指摘。

 

それだけでなく、「国民保護」や「基本的人権の尊重」を織り込んだ独自の「対案」を作成して、「これが日本のための法案じゃあ!」と叩きつけます。これは、中々の手腕w

 

こうして菅代表は、修正協議に応じる姿勢を見せつつ、政府与党の法案の危うさを厳しく追及して、野党第一党としての存在感をアピールします。

 

小泉政権は突っぱねることもなく、この対案を比較的あっさり受け入れて、法案を成立させます。「取り入れて当然の内容ではあるけど、なんだか手ごたえがないな?」と訝しむ菅代表。

 

実は、小泉は前面に野党という敵を見据えながら、後方にも「抵抗勢力」という敵を抱えていて、この対応に民主党案を利用したのです。

 

「有事関連三法」が難航したら後ろから撃ってやる…と待ち構えていた抵抗勢力は、民主党と合意したことで退かざるを得なくなってしまったわけです。

 

反小泉勢力を黙らせる、そのために野党案を利用するという手腕の鮮やかさは、菅代表も舌を巻くしかありません(^^;

 

おまけに「小泉フィーバー」に目がくらんでいた世論は、「菅直人が政策論で追い詰めた」ことよりも「小泉首相が与野党合意で法律を通した」という政治的成果として受け取って、民主党の支持率上昇には繋がりませんでした。

 

でも、この不条理な現実が、かえって菅直人の闘志を燃やしたのかもしれません。

 

「対案路線で攻勢の足がかりを作れたのに、まだ何か足りない。それは何か?」

 

「政策的なアピールやパフォーマンスだけでは、小泉政権という巨大な壁は破れない」

 

「選挙で勝つ以外に、小泉政権を倒すすべはない。そのためには、数と組織力が必要だ」

 

この現実に気づいた時、「あの男」が真っ先に脳裡に浮かんだはずです――。

 

 

2003年9月26日、「民主党」と「自由党」が合併すると、民主党の菅代表と自由党の小沢代表により発表され、調印式が行われました。

 

いわゆる「民由合併」。衆院137人、参議67人、所属国会議員204人となる野党巨大勢力「民主党」が誕生しました。

 

「昨日の敵(自由党)と手を組む」という大ナタを振るうことで小泉政権との決戦に挑む。この賭けがどう出るか?

 

決戦の衆院総選挙は、もうすぐそこに来ていました。

 

 


↑左から岡田克也(民主党幹事長)・菅直人(民主党代表)・小沢一郎(自由党党首)・藤井裕久(自由党幹事長)。藤井さん…いましたなー。思い出しました(笑)。この頃は、まだ小沢一郎とは蜜月関係ですね…。