最近、左寄りの皆さんによる、何の必要もない「女性天皇論」に代表されるような「皇室の伝統の破壊」の声が、メディアによって表沙汰にされていますね。
主張する権利は尊重しますが、その先にシアワセはあるのか…?とは、大きな疑問。王の正統性を失って迷走状態や不幸のどん底になった国々の、なんと多いことか。
あって当たり前だから気づかないだけで、正統な王がいることによるアイデンティティの獲得は、意外と大きな面があるとワタクシは思います。こういうものは、失ってから気づいても、もう遅いのですよねー。
で、そんな「世界最長の王朝」たる天皇家の歴史への疑問として聞かれる大きなものの1つが、
「紀元前から2686年も続いているわけないだろ!(令和8年現在)」
というもの。初代の神武天皇は、紀元前660年の即位と、されているからです。
これについては、ワタクシも同意(笑)
以前にも書きましたが、神武天皇の即位は、日本の暦を「グレゴリウス暦」に変更する際に「ついでだから単純に計算して算出した」という、事務的な経緯で求められたもの。
系図で見てみよう(天皇家/至令和126代全体図)(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12954909347.html
歴史学とか、考古学とか、専門家による真摯な検討が反映されているわけではない…そんなものは、歴史学上は空想の産物と言われても仕方ありません。
「皇紀(神武天皇紀)」はキリストと同じ宗教上の産物なので否定する気はないですが、「紀元前660年即位」は、「支持しないけど計算上は」という追記が必要だなと、そんな立場を取っています。
専門家に本気で検証してもらって公表して欲しいです。誰かやらないかなぁ。
ただ…それでもさぁ。
さすがに「初代は紀元前の即位ではない」かもしれない…としても、「古代の天皇は虚像であり、実在しない」と、一律に切り捨ててしまうのは、どうなんだろうか?
古代史好きの間でも、実在した初代の天皇は「第10代・崇神天皇」とする人が多いという印象があります。
その理由は、初代の神武天皇はあまりにも神話じみていて、さらに2代〜9代は「欠史八代」と呼ばれて、「正史に系譜のみで実績が記録されていない」と言われているからです。
実在したのなら何らかの実績があるはず。どうして欠史八代は実績がないのか?歴史を古く見せるために水増ししたからではないのか?というわけですね。
その水増しした結果が、紀元前の古代の天皇たち…となれば、実在しないという答えを出したくなるのも、分からんでもない話ではあります。
では、「欠史八代」を疑問視されている方に、ひとつ質問。
「欠史八代、正史で読んだことありますか?」
意外と「そう言われているから、そう思い込んでいただけで、読んだことはない」という方も多いのではなかろうか。
そこで、突発企画として「欠史八代を読んでみよう!」を、やってみたいと思います。
ただ紀元前まで遡らないだけで、モデルとなった人物や出来事は古代にあって、それを反映させたのが「古代の天皇」…とするならば、「欠史八代」だって、何らかの古代史の鍵を握っているのでは…?
「系譜のみで実績が記録されていない」ということは、そんなに長い文章ではない、ということ。文体も簡潔なので、案外呑み込みやすいのではなかろうか。
崇神天皇よりも前の天皇の実在を、信じるも信じないも、読んでからでも遅くはありません。読んでから決めたかった…という方にもピッタリ。
正史の『日本書紀』は漢文で書かれているので、ワタクシの独断と偏見による解説や見どころも語っていきますw
神武天皇を飛ばしているのは、「神武天皇紀」は長いから(笑)。これはこれで、もしも機会があったらということで…。
なお、内容には御所や御陵も出てくるのですが、今回は割愛して系譜に重点を絞って、ご紹介したいきます。
対象となる「欠史八代」とは、こんな顔ぶれです。
「欠史八代」を読む。それでは、いってみましょう!
第2代・綏靖 天皇(神渟名川耳天皇)
神渟名川耳天皇 神日本磐余彥天皇第三子也 母曰媛蹈韛五十鈴媛命 事代主神之大女也 天皇風姿岐嶷 少有雄拔之氣 及壯容貎魁偉 武藝過人 而志尚沈毅 至卌八歲 神日本磐余彥天皇崩 時 神渟名川耳尊 孝性純深 悲慕無已 特留心於喪葬之事焉 其庶兄手硏耳命 行年已長 久歷朝機 故 亦委事而親之 然其王 立操厝懷 本乖仁義 遂以諒闇之際 威福自由 苞藏禍心 圖害二弟 于時也 太歲己卯
冬十一月 神渟名川耳尊 與兄神八井耳命 陰知其志而善防之 至於山陵事畢 乃使弓部稚彥造弓 倭鍛部天津眞浦造眞麛鏃 矢部作箭 及弓矢既成 神渟名川耳尊 欲以射殺手硏耳命 會有手硏耳命於片丘大窨中獨臥于大牀 時渟名川耳尊 謂神八井耳命曰 今適其時也 夫言貴密 事宜愼 故我之陰謀 本無預者 今日之事 唯吾與爾自行之耳 吾當先開窨戸 爾其射之
因相隨進入 神渟名川耳尊 突開其戸 神八井耳命 則手脚戰慄 不能放矢 時神渟名川耳尊 掣取其兄所持弓矢而射手硏耳命 一發中胸 再發中背 遂殺之 於是 神八井耳命 懣然自服 讓於神渟名川耳尊曰 吾是乃兄 而懦弱不能致果 今汝特挺神武 自誅元惡 宜哉乎 汝之光臨天位 以承皇祖之業 吾當爲汝輔之 奉典神祇者 是卽多臣之始祖也
元年春正月壬申朔己卯 神渟名川耳尊 卽天皇位 都葛城 是謂高丘宮 尊皇后曰皇太后 是年也 太歲庚辰
二年春正月 立五十鈴依媛爲皇后 一書云 磯城縣主女川派媛 一書云 春日縣主大日諸女絲織媛也 卽天皇之姨也 后生磯城津彥玉手看天皇
四年夏四月 神八井耳命薨 卽葬于畝傍山北
廿五年春正月壬午朔戊子 立皇子磯城津彥玉手看尊 爲皇太子
卅三年夏五月 天皇不豫 癸酉 崩 時年八十四
2代・綏靖天皇(すいぜい-)は、諱は「神渟名川耳尊(かむぬなかわみみ)」。
庶兄に「手硏耳命(たぎみみ)」、もう1人の兄に「神八井耳命(かむやいみみ)」がおられる、神武天皇の息子3人兄弟の末っ子でした。
兄弟みんな名前に「耳」がついていますが、これは「神秘的な霊力」を表す古代の言葉「ミ」を表し(海の神=ワタツミの"ミ"のような)、それこそが「古代集落の首長の証」ではないかと、考えられる向きもあるようですよ。
なお、手硏耳命は「庶兄」と書いてありますが、ということは他の2人とは生母が違っていたと考えられます。父・神武天皇の「神武東征」の前…南九州の大王時代の正妃だった吾平津媛(あひらつひめ。日向国吾田の豪族の娘)が生母だったと考えられます。
そんな1番上の庶兄・手硏耳命が、問題児。父が崩御して喪中(諒闇)に入ると、ついに2人の弟を葬り去ろう(圖害二弟)と画策(なお、その理由は不明。母が違うので仲が良く無かったのでしょうか?)。
弟たちはそれを察知し、先手必勝を狙って弓矢を用意。兄弟で謀って、手硏耳命を寝込みを襲ってぶっ倒そう!と試みます。
ところが、いざその時になって、兄の神八井耳命は怖くなり、弓矢を持つ手が震えて事を成せなくなってしまいました(則手脚戰慄 不能放矢)。
そこで弟の神渟名川耳尊が、兄の持っていた弓矢を奪い取ってターン開始。一発目で胸を射抜き(一發中胸)、二発目で背中を射抜いて(再發中背)、ついに討ち取ることができたのでした(遂殺之)。
いざという時に役に立てなかった神八井耳命は、自ら恥じ入って、弟に皇位を譲ることを宣言。
「あなたは神々しい武勇で(今汝特挺神武)自ら大悪人を討ち取られた(自誅元惡)。輝かしく皇位に就き(汝之光臨天位)、皇祖の事業を継承される(以承皇祖之業)のは当然のことである(宜哉乎)」
武芸に秀で、兄が恐れおののく中で自ら弓を奪って一発で胸、二発で背中を射抜くという、圧倒的な臨場感と勇敢さが描かれていて、「神武天皇」の次代として「綏靖(すいぜい=安んじ鎮める)」という武勇に満ちた名の由来が讃えられている紀となっています。
なお、皇位を譲った兄はどうなったのかというと、
「私はあなたの補佐となり(吾當爲汝輔之)、神祇の祭祀を奉仕いたしましょう(奉典神祇者)」これがすなわち多氏の始祖である(是卽多臣之始祖也)
…と、皇別氏族「多氏(おおのうじ)」の祖先となった…と由緒が続いています。
多氏の有名な人と言えば、「太 安万侶(おおのやすまろ)」。稗田阿礼(ひえだのあれ)とともに『古事記』を編纂(712年)した人物として知られます。
『古事記』の冒頭にある「古事記序文」の筆者としても知られ、神八井耳命の約束どおり、神聖で文化的な役割を深く担う氏族として歴史に名を残していた…というかんじがありますかねー。
※ただし、だからこそ『古事記』で多氏が出て来たら、鵜呑みにしないで疑いの目で見るべしとも言えます。
さて、肝心の系譜の方を見てみると、皇后は五十鈴依媛(事代主神の娘)を立てたとありますが、「一書云(ある本には)」と前置きし、以下の名前が異説として挙げられています。
- 「川派媛(かわまたひめ)」…磯城県主(しきのあがたぬし)の娘。
- 「絲織媛(いとおりひめ)」…春日県主(かすがのあがたぬし)の大日諸(おおひもろ)の娘。
ちなみに、『古事記』の方では「河俣毘売(かわまたひめ)」を正后として挙げています。つまり「一書云の1番目(川派媛)」と合致。これ、とても重要。
というのも、『日本書紀』は海外向けの正当性を宣伝するために「神の系譜」にしておいて、本当は『古事記』にあるように「磯城の豪族の娘」を娶ったのではないか…と言われているのです(ただし、だからって「『古事記』が真実」という意味ではないですよ。念のため)。
つまり、何かと「神話じゃん」として切り捨てられがちな「欠史八代」の部分は、海外向けにわざとやっているもので、本当に伝わっていたことは別紙にあるかもしれない…ということ。この視点は大事。切り捨てるんじゃなくて、調べるんじゃよ。
なお、「磯城」というのは大和盆地の東南部にあたるエリア。「本当に実在した初代天皇」と噂される10代・崇神天皇以降の本拠地周辺にあたります。
「磯城県主」は、「神武東征」の時に神武天皇に帰順した「黒速(くろはや。別名「弟磯城(おとしき)」)」の末裔なので、神別氏族となりますね。
※磯城県主は、10代・崇神天皇以降は『日本書紀』にはぱったりと出現しなくなり、40代・天武天皇の頃に「物部氏の関連氏族」として姿を現します。その長い間のどこかで断絶して物部氏が相続したのかも?とされる一方、「欠史八代の頃は本当は存在しないのでは?架空の氏族なのでは?」とも言われるようです。一応、補足として。
「本当は実在しないのでは?」に対する反論としては、そもそも崇神天皇が「磯城」に御所を構えているので、磯城県主の活動も、ぜんぶ崇神天皇の業績として持っていかれているのかもしれない…とか?はてさて。
第3代・安寧 天皇(磯城津彥玉手看天皇)
磯城津彥玉手看天皇 神渟名川耳天皇太子也 母曰五十鈴依媛命 事代主神之少女也 天皇 以神渟名川耳天皇廿五年 立爲皇太子 年廿一
卅三年夏五月 神渟名川耳天皇崩 其年七月癸亥朔乙丑 太子卽天皇位
元年冬十月丙戌朔丙申 葬神渟名川耳天皇於倭桃花鳥田丘上陵 尊皇后曰皇太后 是年也 太歲癸丑
二年遷都於片鹽 是謂浮孔宮
三年春正月戊寅朔壬午 立渟名底仲媛命亦曰渟名襲媛爲皇后 一書云 磯城縣主葉江女川津媛 一書云 大間宿禰女糸井媛 先是 后生二皇子 第一曰息石耳命 第二曰大日本彥耜友天皇 一云 生三皇子 第一曰常津彥某兄 第二曰大日本彥耜友天皇 第三曰磯城津彥命
十一年春正月壬戌朔 立大日本彥耜友尊 爲皇太子也 弟磯城津彥命 是猪使連之始祖也
卅八年冬十二月庚戌朔乙卯 天皇崩 時年五十七
3代・安寧天皇(あんねい-)の和風諡号は「磯城津彥玉手看天皇(しきつひこたまてみー)」。
母は「事代主神の末娘(事代主神之少女也)」と書かれています。
…が、「綏靖紀」で述べた通り、『古事記』のほうが合っているとしたら磯城県主の娘「川派媛」が生母となります。和風諡号に「磯城」が入っているのも意味深ですね。
子供は2人兄弟、あるいは3人兄弟だったようで、まず次代の天皇となる日本彥耜友天皇(=懿德天皇)、その兄に「息石耳命(おきいしみみ)」(または「常津彦某兄(つねつひこなにがしのえ)」)がいました。なぜ兄が皇位を継がなかったのか、理由は不明(早くに亡くなった?それとも古代は「末子相続」だった?)
一説には3兄弟で、「磯城津彥命(しきつひこ)」という、古代の朝廷で「イノシシや豚の飼育・管理・献上」を司った伴造系の職掌部族「猪使連(いかいのむらじ)」の祖となった弟がいた…と書かれています。真相は、やはり不明。
皇后は「渟名襲媛(ぬなそひめ)」という、これまた事代主神の孫娘を本命(?)としながら、またしても異説が挙げられています。
- 「川津媛(かわづひめ)」…磯城県主の葉江(はえ)の娘。
- 「糸井媛(いといひめ)」…大間宿禰(おおまのすくね)の娘。
で、『古事記』はというと、磯城県主(『古事記』での表記は「師木県主」)「波延」の娘という「阿久斗比売(あくとひめ)」が挙げられています。
父の名「はえ」の共通から、『日本書紀』でいう「川津媛」が本当だったのかな?という印象になりますね。
それ以外は、これといった事件などは無し。まさに「安寧」な時代だった…という印象(というか、綏靖天皇の御世が慌ただしいんですよな)
第4代・懿德 天皇(大日本彥耜友天皇)
大日本彥耜友天皇 磯城津彥玉手看天皇第二子也 母曰渟名底仲媛命 事代主神孫 鴨王女也 磯城津彥玉手看天皇十一年正春正月壬戌 立爲皇太子 年十六
卅八年冬十二月 磯城津彥玉手看天皇崩
元年春二月己酉朔壬子 皇太子卽天皇位 秋八月丙午朔 葬磯城津彥玉手看天皇於畝傍山南御陰井上陵 九月丙子朔乙丑 尊皇后曰皇太后 是年也 太歲辛卯
二年春正月甲戌朔戊寅 遷都於輕地 是謂曲峽宮 二月癸卯朔癸丑 立天豐津媛命爲皇后 一云 磯城縣主葉江男弟猪手女泉媛 一云 磯城縣主太眞稚彥女飯日媛也 后 生觀松彥香殖稻天皇 一云 天皇母弟武石彥奇友背命
廿二年春二月丁未朔戊午 立觀松彥香殖稻尊 爲皇太子 年十八
卅四年秋九月甲子朔辛未 天皇崩
4代・懿德天皇(いとく-)の和風諡号は「大日本彥耜友天皇(おおやまとひこすきともー)」。
母は「事代主神の孫娘(事代主神孫 鴨王女也)」とあります。「鴨王女」とは、「鴨王(かものきみ)の娘」という意味で、人の世に近づいてきていますね。
なお、鴨王というのは当時、大和盆地の西部に位置する「葛城(かつらぎ)」エリアにいた豪族でした。ついでに言えば、「事代主神」は鴨氏が祀っていた神です。
こちらも『古事記』が正しければ、磯城県主の葉江の娘「アクトヒメ(『日本書紀』には記述なし…もしかしたら「川津媛」)」が生母だったことになりそうです。
皇后には「天豊津媛命(あまとよつひめ)」を立てたとあり、先ほどの「安寧天皇」の紀に出てきた、息石耳命(懿德天皇の兄)の娘です。
ただし、例によって異説があって、
- 「泉媛(いずみひめ)」…磯城県主の葉江(はえ)の弟・猪手(いで)の娘。
- 「飯日媛(いいひひめ)」…磯城県主の太真稚彦(ふとまわかひこ)の娘。
奇しくも(?)どちらも磯城県主の女性。
では、『古事記』では…というと、ここまで読まれた皆さんの予想通り(笑)、『日本書紀』とは違う女性を記していて、「飯日媛」を懿德天皇の皇后としています。
これは一云の2番目と一致。ということは、本当は「磯城」と縁組していたのかな…というかんじがしますね。
その続きに、一説には「武石彦奇友背命(たけいしひこきともせ)」という子がいたかもしれない…とありますが、詳細は不明。神話(作り話)だとするなら、そこもちゃんと詰めておいて欲しいところですな(史実なら、不明なことがあるのは仕方がないけれど)
それ以外には、事件などはないまま、次の代へ移っていきます。
第5代・孝昭 天皇(觀松彥香殖稻天皇)
觀松彥香殖稻天皇 大日本彥耜友天皇太子也 母皇后天豐津媛命 息石耳命之女也 天皇 以大日本彥耜友天皇廿二年春二月丁未朔戊午 立爲皇太子 卅四年秋九月 大日本彥耜友天皇崩 明年冬十月戊午庚午 葬大日本彥耜友天皇於畝傍山南纎沙谿上陵
元年春正月丙戌朔甲午 皇太子卽天皇位 夏四月乙卯朔己未 尊皇后曰皇太后 秋七月 遷都於掖上 是謂池心宮 是年也 太歲丙寅
廿九年春正月甲辰朔丙午 立世襲足媛爲皇后 一云 磯城縣主葉江女渟名城津媛 一云 倭國豐秋狹太媛女大井媛也 后生天足彥國押人命・日本足彥國押人天皇
六十八年春正月丁亥朔庚子 立日本足彥國押人尊 皇太子 年廿 天足彥國押人命 此和珥臣等始祖也
八十三年秋八月丁巳朔辛酉 天皇崩
5代・孝昭天皇(こうしょう-)の和風諡号は「観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねー)」。
母は息石耳命の娘の天豐津媛命。もしそうであれば、皇位を継がなかった兄・息石耳命の血統が、再びここで統一された…という感があります。
皇后(後述)との間に息子が2人。1人は「日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくにおしひと)」で、後の第6代・孝安天皇。もう1人、「天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひと)」がいて、こちらが兄。
2人とも「足(タラシ)」という字を持っています(ついでに言うと、皇后も)。「タラシ」とは「満ち足りている」「霊力が満ちている」ことを意味する尊称で、第5代孝昭天皇以降から頻出するようになります。
重要なのは、天足彦国押人命は「和珥氏(わに-)」の始祖である(天足彥國押人命 此和珥臣等始祖也)という部分。
超重要古代豪族の「和珥氏」が登場!!
和珥氏は春日氏・小野氏・柿本氏などの共通の祖先。これは日本古代史において極めて重大な記録といえます。
そして、もう1つ重要なこととして、皇后には「世襲足媛(よそたらしひめ)」を立てています。
この女性は、尾張連の遠祖とされる瀛津世襲(おきつよそ)の妹。ということは、5代・孝昭天皇の時代に、「尾張」など東国との接点が出来始めてきたのかなぁ…という印象になりますね。
皇后には、こちらも異説があって、
- 「渟名城津媛(ぬなきつひめ)」…磯城県主の葉江の娘。
- 「大井媛(おいひめ)」…倭国(やまとのくに)の豊秋狭太媛(とよあきさたひめ)の娘。
磯城県主の「はえ」が「川津媛の父(安徳紀)」「泉媛の伯父(懿德紀)」に続いて3度目のお目見え。
もう1人の大井媛の父・豊秋狭太媛については、素性はよく分かりません。「媛(ひめ)」ってことは、夫や義父よりも高貴な女性だったのかな、というかんじはありますが…。
さて、『古事記』では皇后を誰にしたのか?と確認してみると、磯城県主の娘でも、豊秋狭太媛の娘でもなく、
「尾張連が祖、奥津余曾(おくつよそ)が妹、名を余曾多本毘売命(よそたほびめ)」と書かれています。
『日本書紀は』「ヨソタラシヒメ」、『古事記』は「ヨソタホヒメ」で微妙に名前は違っていますが、「尾張連の祖であるオクツヨソの娘」で同じ。
第5代・孝昭天皇の代にして、両書とも突然の一致!
以降、『日本書紀』と『古事記』は、本文で挙げる天皇の正妃(皇后)について、ずっと一致が続いて行きます。
もう事代主神の名は出現しれません(笑)。5代・孝昭天皇に至って、ようやく「神話パワーでバフする」やり方が終わった…というかんじがしますねw
第6代・孝安 天皇(日本足彥國押人天皇)
日本足彥國押人天皇 觀松彥香殖稻天皇第二子也 母曰世襲足媛 尾張連遠祖瀛津世襲之妹也 天皇 以觀松彥香殖稻天皇六十八年春正月 立爲皇太子 八十三年秋八月 觀松彥香殖稻天皇崩
元年春正月乙酉朔辛卯 皇太子卽天皇位 秋八月辛巳朔 尊皇后曰皇太后 是年也 太歲己丑
二年冬十月 遷都於室地 是謂秋津嶋宮
廿六年春二月己丑朔壬寅 立姪押媛爲皇后 一云 磯城縣主葉江女長媛 一云 十市縣主五十坂彥女五十坂媛也 后生大日本根子彥太瓊天皇
卅八年秋八月丙子朔己丑 葬觀松彥香殖稻天皇于掖上博多山上陵
七十六年春正月己巳朔癸酉 立大日本根子彥太瓊尊 爲皇太子 年廿六
百二年春正月戊戌朔丙午 天皇崩
6代・孝安天皇(こうあん-)の和風諡号は「日本足彥國押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとー)」。
母は世襲足媛。尾張氏の娘を生母とする天皇の初登場。これまで大和盆地の内側(磯城県主との同盟)で地盤を固めてきた天皇家が、いよいよ盆地の外…東海の尾張氏とのネットワークを結び始めた、歴史的転換点が見えて来るかのよう。
皇后は、姪にあたる「押媛(おしひめ)」が立てられたとあります。これは、「孝昭紀」に登場していた和珥氏の祖・天足彦国押人命の娘という意味。
相変わらず異説もあって、
- 「長媛(ながひめ)」…磯城県主の葉江の娘。
- 「五十坂媛(いさかひめ)」…十市県主(とおちのあがたぬし)の五十坂彦(いさかひこ)の娘。
磯城県主の「はえ」が4度目の登場(全部「異説では」ですが)。これだけ頻出すると、何か代かに渡って襲名した名前だったのかな?というかんじがあります。
一応、『古事記』を確認してみると、「姪の忍鹿比売命(おしかひめ)を娶りて」とあるので、「押媛」でこちらも一致しています。
兄(和珥氏の祖)の娘を、弟(天皇)の妃に迎えることで、「天皇の血統」と「和珥氏の血統」を両方を強固に緊密化させて完成させている…といった印象。
和珥氏は「大和盆地」の若狭や丹波、中山道・北陸道方面への玄関口「春日」を本拠地として抑え、外交や軍事にも極めて高いポテンシャルを発揮していた氏族。
これをミウチに取り込むことで、天皇家の飛躍の礎にし、そして外へ飛び出していくための「溜め」だったのが「考安紀」だった…といえるのかもしれないですね。
第7代・孝霊 天皇(大日本根子彥太瓊天皇)
大日本根子彥太瓊天皇 日本足彥國押人天皇太子也 母曰押媛 蓋天足彥國押人命之女乎 天皇 以日本足彥國押人天皇七十六年春正月 立爲皇太子 百二年春正月 日本足彥國押人天皇崩 秋九月甲午朔丙午 葬日本足彥國押人天皇于玉手丘上陵 冬十二月癸亥朔丙寅 皇太子遷都於黑田 是謂廬戸宮
元年春正月壬辰朔癸卯 太子卽天皇位 尊皇后曰皇太后 是年也 太歲辛未
二年春二月丙辰朔丙寅 立細媛命 爲皇后 一云 春日千乳早山香媛 一云 十市縣主等祖女眞舌媛也 后生大日本根子彥國牽天皇 妃倭國香媛亦名絚某姉 生倭迹々日百襲姬命 彥五十狹芹彥命 亦名吉備津彥命 倭迹々稚屋姬命 亦妃絚某弟 生彥狹嶋命 稚武彥命 弟稚武彥命 是吉備臣之始祖也
卅六年春正月己亥朔 立彥國牽尊 爲皇太子
七十六年春二月丙午朔癸丑 天皇崩
7代・孝霊天皇(こうれい-)の和風諡号は「大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとのねこひこふとにー)」。
尊称「ネコヒコ(またはネコヒメ)」のはじまり。これは第7代孝霊・第8代孝元・第9代開化と、連続して使われることになります。この時代に、一定のモデルとなる王権の何かがあったと、歴史学的には注目されているキーワードです。
皇后に立てられたのは「細媛命(ほそひめ)」。磯城県主の大目の娘。ここでまた磯城県主との関係を再構築している様子が伺えます。
異説も2つあり、
- 「山香媛(やまかひめ)」…春日の千乳早(ちちはや)の娘。
- 「真舌媛(またちひめ)」…十市県主らの祖の娘。
「春日」は、後の「平城京」が置かれる場所ですが、当時は和珥氏の本拠地。孝霊紀においても和珥氏の存在がちらついていますね。
「十市」は、後に「藤原京」がおかれた場所のちょっと外れ(朱雀門のあたり)。「綏靖紀」に出て来た神八井耳命の末裔「多氏」の本拠地があるところでもあります(ただし、十市県主は磯城県主の同族なので別の氏族)
『古事記』では「細比売命(ほそひめ)を娶して」とあるので、『日本書紀』本文の細媛命と一致しています。
皇后は後継者となる孝元天皇を産みましたが、これとは別に異なる妃(第二・第三夫人?)を連れていたことが分かります。
それは、倭国香媛(やまとのくにかひめ。別名「絚某姉(はえいろね)」)と絚某弟(はえいろど)の2人の妃で、両者は姉妹の関係。
系譜は不明なのですが、「はえ」といえばこれまで度々出て来た「磯城県主の葉江(はえ)」…ということで、磯城県主の末裔だった(もしくは、これまでの異説はただの伝説で、この姉妹こそが葉江の娘)と見られるようです。
お姉さんに当たる第二夫人・絚某姉の所生は、以下の通り。
- 彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこ。またの名を吉備津彦命)
- 倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)
- 倭迹迹稚屋姫命(やまとととわかやひめ)
妹君にあたる絚某弟の所生は、以下の通り。
- 彦狭嶋命(ひこさしま)
- 稚武彦命(わかたけひこ)
彦五十狭芹彦命と稚武彦命は、10代・崇神朝における「四道将軍」の「吉備方面」で活躍するタッグコンビ。異母兄弟で従兄弟という関係にあたります。
兄の彦五十狭芹彦命は征服事業を担当したようで、その武勇から「吉備津彦命(きびつひこ)」と呼ばれるようになり(現地の鬼・温羅(うら)から名付けられる)、この伝承が「桃太郎」の話となっていきました。
弟の稚武彦命は現地に留まって治政を担当したようで、地元の豪族「吉備氏(きび-)」の始祖となっています。
そして、お姉さんが産んだ娘の「倭迹迹日百襲姫命(ももそひめ)」は、実は「卑弥呼の墓」と盛んに宣伝されている「箸墓」の被葬者に比定されている人物。
卑弥呼は没年が247~248年頃と推定されているので、もし「卑弥呼=ももそひめ」だったならば、孝霊天皇は3世紀頃の人物で、何故か娘が政権を担っていた(と魏に伝わった)ことになりますね。
第8代・孝元 天皇(大日本根子彥國牽天皇)
大日本根子彥國牽天皇 大日本根子彥太瓊天皇太子也 母曰細媛命 磯城縣主大目之女也 天皇 以大日本根子彥太瓊天皇卅六年春正月 立爲皇太子 年十九 七十六年春二月 大日本根子彥太瓊天皇崩
元年春正月辛未朔甲申 太子卽天皇位 尊皇后曰皇太后 是年也 太歲丁亥
四年春三月甲申朔甲午 遷都於輕地 是謂境原宮
六年秋九月戊戌朔癸卯 葬大日本根子彥太瓊天皇于片丘馬坂陵
七年春二月丙寅朔丁卯 立欝色謎命爲皇后 后生二男一女 第一曰大彥命 第二曰稚日本根子彥大日々天皇 第三曰倭迹々姬命 一云 天皇母弟少彥男心命也 妃伊香色謎命 生彥太忍信命 次妃河內靑玉繋女埴安媛 生武埴安彥命 兄大彥命 是阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狹々城山君・筑紫國造・越國造・伊賀臣 凡七族之始祖也 彥太忍信命 是武內宿禰之祖父也
廿二年春正月己巳朔壬午 立稚日本根子彥大日々尊 爲皇太子 年十六
五十七年秋九月壬申朔癸酉 大日本根子彥牽天皇崩
8代・孝元天皇(こうげん-)の和風諡号は「大日本根子彥國牽天皇(おおやまとのねこひこくにくる)」。
皇后には「欝色謎命(うつしこめ)」が立てられており、異説(一云)がないので、これで確定っぽい。一応『古事記』でも確認してみると「内色許売命(うちしこめ)を娶して」とあるので、一致しています。
皇后との間には、子供が3人生まれました。
- 大彦命(おおびこ)
- 日本根子彦大日々天皇(わかやまとのねこひこおおひひ =第9代・開化天皇)
- 倭迹迹姫命(やまとととひめ)
- (異説では、少彥男心命(すくなひこおこころ))
そして、第二夫人(たぶん)の「伊香色謎命(いかいろめ)」は、子供が1人。
- 彦太忍信命(ひこふとおしのまこと)
さらに、第三夫人(たぶん)の「埴安媛(はにやすひめ)」も、子供が1人。
- 武埴安彦命(たけはにやすひこ)
大彦命は、崇神朝の「四道将軍」で「北陸方面」を担当したことで、ヤマト政権に貢献した人物です。
そして、「阿倍氏の祖」という超重要人物。引用文にもある通り、膳臣(かしわで-)・阿閉臣(あえ-)・佐々貴山君(ささき の やまのきみ)・筑紫国造(つくし の くにのみやつこ)・越国造(こし-)・伊賀臣(いが-)の、七族の始祖となっています。
「高松塚/キトラ古墳」被葬者列伝(「阿倍御主人」編)(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12969920284.html
後裔氏族の顔ぶれを見ると、大彦命以降に「越」「筑紫」「近江(佐々貴山)」「伊賀」と、各地に天皇家の勢力圏が広がっていた様子が伺えますね。
そして、伊香色謎命が産んだ彦太忍信命は、孫があの古代ヤマト朝廷の巨星「武内宿禰(たけのうちすくね)」。かつての1円札の顔(肖像)としてもお馴染み(いや、実物を見たことはないですが…)
武内宿禰は、『日本書紀』では上記のようにあっさり終わっていますが、『古事記』では紀氏・葛城氏・平郡氏・巨勢氏・蘇我氏などの共通の祖となっていることが記されています(『古事記』では「建内宿禰」表記で「彦太忍信命の子」)
後の飛鳥時代~奈良時代~平安時代を語る上で、欠かせない重要氏族たちです。どうして『日本書紀』の「孝元天皇紀」には武内宿禰の後裔の記事がないのかは、謎。大彦命の後裔記事はあるのにね。
そしてさらに注目は、婚姻関係。皇后となった欝色謎命は、「欝色雄命(うつしこお)の同母妹」、さらに伊香色謎命は欝色雄命の娘と見られています。
欝色雄命は、神話時代「神武東征」でヤマトの地を譲った饒速日命(にぎはやひ)の末裔…つまり、天津神系の神別氏族「穂積氏(ほづみ)」の祖にあたる人物。
穂積氏は物部氏(もののべー)・采女氏(うねめー)の同族(総本家)という氏族なのです。
ここに、四大古代豪族(とワタクシが勝手に呼んでいる)「物部氏」「大伴氏」「蘇我氏」「阿倍氏」のうち3氏族がそろい踏み!
(「大伴氏」は神武期にすでに登場しているのですが、欠史八代の中では目立ちません。爆発するのは5世紀後半の第21代・雄略天皇の頃以降。これも大注目なので、機会があったらいつかやりたい)
孝霊天皇の時代は、欝色雄命というキーパーソンを通じて、「物部氏およびその同族たち」の中央軍事・政治豪族と固い血縁同盟を結ぶという、まさに「血統形成と婚姻政治のクライマックス」。
そして、外戚となった物部氏の持つ軍事力をバックに、次の時代からはヤマト周辺を飛び出して全国へ、「局地政権」から「日本列島を網羅する中央政府」への大転換期だったと言えるのです。
なお、もう1人の妃である埴安媛は、「河内青玉繋(かわち の あおたまかけ)」の娘とされています。
「河内国(大阪)」の「海人(玉作)」を冠する名前から察すると、河内平野の在地・海上豪族だったのかなぁといった印象。
ただし、この埴安媛が生んだ武埴安彦命は、後の崇神朝において「武埴安彦の乱」を起こしてしまい、滅ぼされる運命にあります(河内地方の豪族勢力とヤマト王権の中央集権化を巡る軋轢が背景にあると考えられています)
第9代・開化 天皇(稚日本根子彥大日々天皇)
稚日本根子彥大日々天皇 大日本根子彥國牽天皇第二子也 母曰欝色謎命 穗積臣達祖欝色雄命之妹也 天皇 以大日本根子彥國牽天皇廿二年春正月 立爲皇太子 年十六 五十七年秋九月 大日本根子彥國牽天皇崩 冬十一月辛未朔壬午 太子卽天皇位
元年春正月庚午朔癸酉 尊皇后曰皇太后 冬十月丙申朔戊申 遷都于春日之地春日 此云箇酒鵝 是謂率川宮 率川 此云伊社箇波 是年也 太歲甲申
五年春二月丁未朔壬子 葬大日本根子彥國牽天皇于劒池嶋上陵
六年春正月辛丑朔甲寅 立伊香色謎命爲皇后 是庶母也 后生御間城入彥五十瓊殖天皇 先是 天皇 納丹波竹野媛爲妃 生彥湯産隅命 亦名彥蔣簀命 次妃和珥臣遠祖姥津命之妹姥津媛 生彥坐王
廿八年春正月癸巳朔丁酉 立御間城入彥尊 爲皇太子 年十九
六十年夏四月丙辰朔甲子 天皇崩 冬十月癸丑朔乙卯 葬于春日率川坂本陵 一云 坂上陵 時年百十五
いよいよ、「欠史八代」の締めくくり。「実在性が極めて高い大王」とされる第10代・崇神天皇へとバトンをつなぐ、重要かつ決定的な結びの巻。
9代・開化天皇(かいか-)の和風諡号は「稚日本根子彦大日々天皇(わかやまとのねこひこおおひひ)」。
皇后となったのは、伊香色謎命。これは先程の「孝元天皇紀」に登場した、欝色雄命の娘と同じ名前。本文にも「是庶母也(これは庶母(父の妃)なり)」と注釈が書かれています。
開化天皇は、父の妃であった伊香色謎命を、そのまま自分の「皇后(正妻)」に繰り上げた…というわけ。
古代において、父の妃を娶るというのは、「父が構築していた外戚との同盟関係を、強力に継承する」という宣言に他なりません。これを「継母婚」「継承婚」と呼びます。
こうして天皇家は、大きな軍事力を持つ「欝色雄命(穂積氏・物部氏)」と盤石な同盟関係を再構築。その後ろ盾を背景として、開化天皇と物部氏の間の子・崇神天皇は、日本列島の全国へと勢力圏を広げていくことになった…という「四道将軍派遣」を行った「崇神天皇の力の背景」が見えて来そうです。
他には、2人の妃がいたことが分かります。
- 「丹波竹野媛(たかのひめ)」…丹波大県主(たにわ おおあがたぬし。尾張氏の同族)の由碁理(ゆごり)の娘。
- 「姥津命(ははつ)」…和珥臣の遠祖・日子押人命(ひこおしひと)の娘。
竹野媛には「彦湯産隅命(ひこゆむすみ)」、姥津命には「彦坐王(ひこいます)」という息子が生まれています。
彦坐王は、特に古代史上の最重要キーパーソン。息子の「丹波道主命(たんばのみちぬし)」は、崇神朝において「四道将軍」の「丹波・山陰道方面担当」として派遣されている人物。
別の息子の「山代之大筒木真若王(まわかのみこ)」は、「神功皇后(近江の息長氏)」や、現在の皇室の直接遠祖にあたる「26代・継体天皇」の直接の祖先にあたります。
これらをまとめてみると、開化天皇紀では
「中央の物部氏」
「側近の和珥氏」
「北方の丹波・山陰」
という、三方向への同盟形成を構築し、在地勢力(磯城など)から脱皮して、広域同盟へと歩み出す外交革命を起こしていたことが確認できますね。
ちなみに、「孝霊(大日本根子彦太瓊)」→「孝元(大日本根子彦国牽)」→「開化(稚日本根子彦大日々)」と続いてきた「ネコヒコ」は、開化天皇で終焉。
「崇神天皇=御間城入彦(ミマキイリヒコ)」以降は、「イリヒコ・イリヒメ」の時代へとなって行きます。
名前の変遷から見ても、「欠史八代」というエポックの終わり、そして新たな時代へと移り変わる…という様子が、伺えるような気がしますねー。
というわけで、「欠史八代を読んでみよう!」企画は、以上ここまで。
好き勝手にしゃべりまくったせいで(笑)、伝わっているかどうか不安なので、ワタクシの主張したいことをざっくりとまとめてみると、
【前半】第2代~第4代:大和の足場固め
『日本書紀』では神様(事代主神)の血統を記されていますが、これは国家の威厳を保つための海外向けの顔であり、本当は『古事記』にあるように、磯城県主という「大和盆地の強力な中央豪族」と同盟関係を結んでいたと考えられます。
- 第2代 綏靖:事代主神の末娘/(古事記)磯城県主の娘
- 第3代 安寧:事代主神の孫娘(鴨王女)/(古事記)磯城県主葉江の娘
- 第4代 懿徳:兄(息石耳命)の娘/(古事記)磯城県主太真稚彦の娘
【後半】第5代~第9代:全国へのエリア拡大
「全国進出への準備」を着々と整えていく血縁同盟の足跡。
- 第5代 孝昭:【東海】尾張氏と提携。和珥氏の誕生。
- 第6代 孝安:【中央】和珥氏(春日)を取り込む。
- 第7代 孝霊:【山陽】磯城県主と婚姻。吉備進出への布石(桃太郎のモデル)
- 第8代 孝元:【北陸】物部氏と同盟&大彦命の誕生=東海・筑紫・伊賀への準備。
- 第9代 開化:【丹波】物部氏と再同盟。彦坐王の誕生=山陰・近江へ拡大の予感。
「欠史八代」は、初期ヤマト王権(10代・崇神天皇)が日本列島を治める国家へ成長するための準備を整えていく過程を描いていることになりそうだ、という読み方もできますよ…というのが、ワタクシの主張。
つまり、単純に「神話でしょ」と切り捨てると、古代の理解がサッパリ進まなくなるかもしれないですよ…と。
「欠史八代とはいうけれど、決して無下にはできないな」とワタクシは考えているのですが、うまいこと伝わったでしょうか…?
全文を引用したこともあり、相当長くなってしまったので、「欠史八代の続き」あるいは「崇神天皇以降」については、また別の機会に。
もしかしたらオタノシミニ。
