大河ドラマ『光る君へ』第43話「輝きののちに」見ましたー。

 

 

三条天皇が譲位へのカウントダウン。早っ!

 

 

在位わずか5年とはいえ…やっぱり、御世が来るのが遅過ぎたんだ…。

 

ここに来て、大河ドラマの冬の風物詩「早巻きでお願いします」が発動。

 

どうして大河ドラマの脚本家ってヤツは、毎年のようにペース配分に失敗するのでしょうか…(疑問)

 

 

というわけで、いつものように気になった所などを挙げていきたいと思います。

 

 

◆無駄無駄無駄

 

冒頭。長和2年7月6日(1013年)、三条天皇と妍子の娘・禎子内親王が誕生!

 

皇子を望んでいた道長は、生まれたのが女の子と分かると、あからさまに機嫌が悪くなった…と『小右記』には書かれています。

 

しかし、ドラマではスルー。「道長の思惑通りにはいかなかった」というナレーションからの、道長が頭を抱える様子のみ。そんなに「ひどい男・道長」を回避したいのかに。

 

三条天皇が不敵に微笑んでいるように見えたのは「よし、皇子じゃなかった!左大臣の思い通りに進んでたまるかw」という感情表現だったのでしょうか?

 

三条天皇は「禎子内親王が可愛くて可愛くて仕方がない」という様子だったといいます。あれこれ与えようとして、道長が恐れ多さにドン引きしています。

 

「愛娘の誕生に真っ先に左大臣が念頭に上がる」なんて変なキャラ設定ではなく、皇女が可愛くて微笑んだということにしたいですね。

 

しっかし、あの妍子がこうもあっさり三条天皇の皇女を産んでしまうと、敦明親王に色目を使っていたり、「御渡りがない」と口にしていたのは、何だったんだ??ってかんじになりますね…。

 

そういう無駄なことに時間を使って、無駄なことに視聴者をヤキモキさせないでください…って、言いたくなります…。

 

 

◆此の女を以て前々雑事を啓せしむる

 

実は、禎子内親王誕生(7月6日)の1ヶ月ちょっと前、とある出来事が起きています。

 

まずは、『小右記』長和2年5月25日条をご覧ください。

 

資平を去ぬる夜 密々に皇太后宮に参らしめ 東宮 御悩の間 假に依りて参らざる由を啓せしむ 今朝 帰り来たりて云はく 去ぬる夕 女房に相逢ふ<越後守為時の女 此の女を以て 前々 雑事を啓せしむるのみ> 彼の女 云はく 東宮の御悩 重きに非ずと雖も 猶ほ未だ尋常に御さざる内 熱気 未だ散じ給はず 亦 左府 聊か患ふ気有りと てへり

 

敦成親王(春宮)が病悩になったという情報を得た実資が、パシリの資平を彰子(皇太后宮)のもとに遣わしたら、取次に出てきた女房が「越後守為時の女(むすめ)」。これは「紫式部」の可能性が特大と、考えられています。

 

割註には「此の女を以て 前々 雑事を啓せしむるのみ(彼女を通じて色々と情報交換をしていた)」と書かれています。実資にとって紫式部は、中臈ながら信用のおける女房だったわけですねー(『光る君へ』では、なぜか完全無視…本当になぜ??)

 

紫式部は「敦成様の病は重くはないけど油断はできません。まだお熱がありますので。左大臣さまも、調子が悪いようです」と言っています。聞いてもいない左大臣の様子まで伝えているあたりに、日ごろ実資とどういう付き合いをしていたかが伺えるように思えますね。

 

つーか、「冒頭で禎子内親王が誕生」って、「これスルーしたの?」って驚きました…まじですか。

 

紫式部の貴重な「史実での姿」(可能性高し)ですよ?ここでも度々言ってますけど、『光る君へ』って「紫式部大河」なんですよね…??

 

 

◆御簾の整合性

 

長和3年2月(1014年)、内裏が火災により焼失。

 

彰子がいた「枇杷殿」に三条天皇が遷御したため、彰子は藤原頼通の邸宅「高倉殿」に遷ることになりました。

 

ここで、敦康親王と再会。敦康親王は、すでに結婚しておりました。

 

敦康親王の正室は祇子女王(のりこ)。具平親王の娘で、頼通の正室である隆姫の妹。つまり「相婿」…という関係で、同居しているのですねー。

 

東宮になれない身を嘆いたこともあったけれど、伴侶を得て、心穏やかに生活している…という敦康親王。

 

「皇太后様はお変わりになりましたね」

 

突然、不穏なことを言い始めたかと思ったら、


「かつては儚げで消え入りそうであられましたが、今は何かこう、太い芯をお持ちになっているような…」

「幼い頃のわたしは皇太后様をお守りしようと思っておりました。愚かなことを思ったものです」

 

けれども、今の彰子は国母に相応しい、と告げました。

 

これは、初恋の終わりへ穏やかに踏み切った…ということかな。

 

「それはお褒めの言葉ですの?」

「もちろんです」

 

くすくす笑う2人。

 

「ともに成長されたのかな」という、このシーン。

 

じーんとしたい所なんですけど…。

 

御簾越しではなく、対面で談笑しているのが気になって気になって…。

 

「お顔が見えませぬ」といって、御簾を越えて来た、あのシーンは何だったの??

 

御簾をかけるのか、ドラマの都合上で「ない」ことにするのか、どっちかにしてください。

 

整合性が取れていないっていうレベルじゃないんですけど…。

 

 

◆敦成親王の先生

 

「三条譲位・敦成即位」の未来図が心の中で固まったらしい道長が、敦成親王のご機嫌伺いにやってくると、「へんつくり」で遊んでおりました。

 

……えっと。

 

アレは脚本家の「悪趣味なおあそび」でございますかね…?

 

 

まひろの出すお題が「交」「会」「寺」。

 

「寺で会って交わった」で、道長が「難しいのう」…ですか。

 

アレを認める気はほとんどないので、狙い過ぎていて笑えない…まぁ…勝手にやってください(敦成親王の回答は「校」「絵」「時」で、これは深い意味はない…よな?探す気は失せているので、これまで)

 

 

道長が「敦成に帝王学を教える先生を付けたい」と言い出すのを、「三条天皇に執拗に譲位を迫っている」のとかけて、彰子が不安がる…というシーンが続きました。

 

息子の勉強にいい先生がつくのを不安がる母親なんている?という、変な演出の是非はこの際置いておいて。

 

「最高の先生を敦成親王につけなければならん」と言い出す道長。これって、『小右記』の長和3年10月15日条が元ネタかな…?

 

先づ伊予の事<広業>を定めらる 去ぬる春 中納言行成の申すに依り 一定無し 去ぬる寛弘八年十二月 帥親王の封の省符 出来す 国司 国に在る間 弁済使を催し 封物の解文を責め取る 省符 明年四月 国に到る 国司 申して云はく 彼の年の物 所司に弁進する上 其の料無し てへり 其の事に依り 行成卿 確執す 左府 行成卿の陳ぶる所 理無き由を示さる 卿相 相同じ 合格の由を注し付し了んぬ 未与不に依り 勘解由勘文無し 行成卿 頗る面目を失ひ了んぬ 彼是 耳語するに 行成卿云はく 所司 勘へて云はく 官に納むる絹 只 五 六疋有り 其の外 又 帛絹 染絹等有り てへり 相府 云はく 染絹等 指せる宣旨無く 雑散に宛つべからず 又 二十五戸の封に当たる所の絹 二十五疋なり 何ぞ五 六疋を納むるや 足らざる時 国司 申し返すこと 已に例たり 封家 又 納むべからず 国司の陳ぶる所を屈せんが為の詞なりと と云々 御前に於いて披陳の詞無し 或いは卿相 密談する所なり

 

かいつまんで解説すると、国司は任期を終えた後「受領功過定(ずりょうこうかさだめ)」という審査を受けなければなりません。

 

「受領功過定」は、国司がちゃんと仕事を全うしたかを公卿たちが審査すること。多数決ではなく、審査員全員の合意がなければ「合格」とはならない審査方法が採られていました。そのために、時には何か月もの時間が掛かることも多々あったようです。

 

伊予守を務めた藤原広業が「受領功過定」を受けることになった時、「敦康親王(帥親王)の封物が未納だ」として、行成は合格判定を保留しておりました。

 

ところが、道長がロビー運動を展開した末に「合格」としてしまいます。

 

実は道長、敦成親王の「読書始の博士」に、文人官僚の筆頭である広業を任じたかったのです。そのため、行成の申し立てを無視するようなことになってしまい、行成は「頗る面目を失し」と、『小右記』に書かれることになってしまいました。

 

長年「敦康親王家別当」を務めた行成としては、「敦康親王への納入を滞納した広業に合格?それは無理でしょう」となるのですが、道長はもはや敦康親王なんてどうでもいいので、「それより、敦成の先生をやってもらわんと」と通過させてしまった…ということなんでしょうかね。

 

国司を務めた者は、公卿たちの審査による「受領功過定」と、後任国司が問題ないことを証言する「解由状(げゆじょう)」の2つを手に入れて、ようやく次の昇進へ進むことができます。

 

後任の伊予守だったのは、藤原為任。三条天皇の皇后・娍子の異母兄でした。

 

為任は、広業に対して「解由状」を出すことを拒否。このために、広業は「任務全う」を認められず次のステージに進む事ができなくなり、敦成親王の「読書始の博士」にはなれなかった…という結果になりました。

 

どうして為任が「解由状」を出さなかったのか、真意は不明。単に「広業の任務は完遂されていませーん。これで引き継ぐのは御免被りまーす」という至極当然の主張だったのか、あるいは娍子の「立后の儀」を妨害した道長への意趣返しだったのか…。

 

 

◆実資らしくない…

 

左大臣の直盧に実資がやって来て、目の前に座り込んで「腹を割って話そう」の姿勢。内容はもちろん、三条天皇から頼まれた「朕を守ってくれ」の実現。

 

なんだそりゃ…となった内容はともかく(笑)、画ヂカラのあるシーンにはなっていたかな…といった印象w

 

 

実資は、『小右記』こそ辛口批評のクセが出ていますが、現実の政治家としては調整型・バランス型だったと思っているので、「こういう "ご意見番" 的なことはやらんと思うのだけど…」と解釈違いなんですが、「ドラマで視聴者の代わりの視点を担う」役割の重要なシーンだと、思っておくとしましょうかね。

 

(それこそ、これが実資ではなく行成だったら、もう「道長終わっている」ですよね。『平清盛』に例えるなら、盛国が死を覚悟して諫言していたシーンに近くなる)

 

ワタクシは「実資の言う正論が理解できないほど、道長の劣化が酷くなった」を表す場面だと思ったのですが、全く異なる見出しをしているネット記事もあって…。

 

ロバート秋山、道長に撃沈する実資に「僕も何を言っているかわからない」⇒(外部リンク)
 

実資が道長に撃沈?逆じゃなくて?オレのとは違うなァ(某刑事ドラマの某氏)

 

しかも、こちらの記事は実資役の人の述懐が大元になっているようで。

 

ワタクシの見当違いなのかな?そこで、両者の台詞を抜き出して検証してみると。

 

 

実資「帝に御譲位を迫っておるそうですな。このまま帝に譲位を責め立て申し上げれば 帝の心も体も弱ってしまいます」

「このまま左大臣殿が己を通せば皆の心は離れます」

道長「離れるとは思わぬ。私は間違ってはおらぬゆえ」

「幼い東宮を即位させ、まつりごとを思うがままになされようとしておることは、誰の目にも明らか」

「左大臣になってかれこれ20年、思いのままのまつりごとなどしたことはない。したくともできぬ。全くできぬ」

「左大臣殿の思うまつりごととは何でありますか?思うがままのまつりごととは?」

「民が幸せに暮らせる世を作ることだ」

「民の幸せとは?そもそも左大臣殿に民の顔なぞ見えておられるのか?」

「幸せなどという曖昧なものを追い求めることは 我々の仕事ではございませぬ。朝廷の仕事は、何か起きた時 まっとうな判断ができるように構えておくことでございます」

「志を持つことで私は私を支えてきたのだ」

「志を追いかける者が力を持つと、志そのものが変わっていく。それが世の習いにございます」

「……ん?意味が分からぬ」

「帝のご譲位、今少しお待ちくださいませ」

 

実資が最後に「譲位を迫るのはお控え下さい」と捨て台詞を吐いて去っているから、「論破された」と演者さんが思っている…ってことなのかな?

 

内容はともかく…と先程言いましたが、内容もさることながら、こうやって書き出してみると対話が成り立ってなくて、終始ギグシャグようなかんじがありますね。

 

実資は「これから孫を天皇にして、我が物にする気なんだろ?」と「先」のことを言っているのに、道長は「我が物にしたこととはないし、やりたくてもできない」と「今まで」のことで反論している(はぐらかしている感じもなく、本当にかみ合ってない)

 

実資が「民の幸せなんて、曖昧なものをコンセプトに仕事をするのはヤメロ!」と言っているのに、道長は「志がなかったら私は倒れている」と、何やらチンプンカンプン。

 

実資は「志とは何のことだ?そんなこと一言も言っておらんが?」と糺すべきなのに、それに反射的に飛びついて「志は権力を持つことで歪んでいくものだぞ」と、よく分からん理屈に出てしまう…という下策。これは道長も「何のことだ?」となりますよな(^^;

 

画面の迫力は目を見張るものがあったけれども、会話の内容がダメダメですね。『光る君へ』名物の「意味深のようでいて中身空っぽ」の1例でしたな(笑)

 

三条天皇を守るのだったら「目が見えぬ耳が聞こえぬでは帝は務まらない」といった時に、「7歳の稚児には務まると?」とやり返すところから始めたら面白かったのにな…と、個人的には思いました。

 

(「朝廷の仕事は、何か起きた時 まっとうな判断ができるように構えておくこと」は、「刀伊の入寇」の布石であって、特にそれ以外に意味のある言葉ではない気がする)

 

 

大体、実資って「幸せなどという曖昧なものを追い求めることは 我々の仕事ではございませぬ」なんて、言わなそうな気がするんですよね。

 

長徳2年(996年)、検非違使別当だった藤原実資は、牢獄の窮乏している状態を調査させ、自費をなげうって井戸を掘らせたり、窮乏している囚人を救済したりしています。

 

そんな、一度は「下々のもの」に対する視点を持った人物に「政治は民の幸せの為じゃない」「権力者は志を追いかけるべきじゃない」「朝廷の役目は待ちの姿勢」と言わせるのは、なんだか似合ってない感じしかしなくて。

 

大体、疫病か何かの時に「民を思うことが」と道隆に対して意見した道長の主張を、うんうんとか頷きながら聞いていませんでしたっけ?

 

実資の人物像と台詞、もう一度ちゃんと練り直して、出直して欲しかったな…というかんじが強いシーンでしたなー。

 

(一応言っておくと、「朝廷の仕事は、何か起きた時 まっとうな判断ができるように構えておくことでございます」は、言いそうなかんじはあります。先例を知って置け…ってことですもんね)

 

 

◆2人の進命婦

 

前回、教通と公任の娘との結婚は盛大にスルーしましたが、子供の誕生はちゃんとやってくれました。

 

倫子が「公任様に顔が似ているわね」と言ってましたが、女の子ですw

 

藤原生子(なりこ)。長和3年8月17日(1014年)生まれ。

 

上級貴族の娘さんは嫁に行く場所が限られていて、生子も行き先が決まらなかったために、そこそこ「年増」(当時)になるまで独身を謳歌した末に、長暦3年(1039年)、従兄弟の後朱雀天皇のもとへ入内となっています。

 

よく頼通が許したな…と思いきや、実は許していません(汗)。教通は頼通が首を縦に振ってくれるのを辛抱強く待っていたのですが、「このままでは生子の結婚適齢期が終わってしまう!」と、反対を押し切って強行突破したのですね。

 

頼通は妨害に転じ、公卿たちは頼通の機嫌を気にして顔を出さない挙に出たので、寂しい入内となったようですが(既視感あるw)、後朱雀天皇と生子は、大層仲睦まじい夫婦となったそうです。

 

 

…とまぁ、赤ちゃんに紙面を割くのはこれくらいにしておいて(笑)

 

道長は頼通の妻・隆姫にも「はやく子の顔を見せよ」とプレッシャーをかけます。

 

倫子も「頼通ももう一人の妻を娶りなさい」と、違うプレッシャー。

 

頼通をカンカンに怒らせてしまいました…。

 

頼通は隆姫にゾッコン愛妻家なんですよね…後に「進命婦(しんのみょうぶ)」という女性に手を出してしまったりもするのですが…。

 

 

この「進命婦」、一説には「具平親王の娘」とも言われ、さらに一説には、今回登場した敦康親王の正室と同一人物ではないか…なんて言われたりもしています。

 

 

敦康親王の妻は「具平親王の次女」で、本当は名前が分かっていないはずなんですが(たぶん)、ドラマでは「祇子女王」と名がついています。

 

で、頼通の妻となった「進命婦」は、藤原祇子という名前だった…とされています。

 

え…何この一致?

 

まさか、「頼通の妻は敦康親王の正室」説は採らないとは思いますが、『光る君へ』はそのあたりの信用度が低いので(笑)、どうなりますかね…。

 

(それにしても祇子女王、どことなく定子@高橋充希さんと顔が似てますね)

 

 

◆人事の行方

 

道長にお目通りを願い出て、「大宰府に行きたい」と申し出る行成。

 

「私の元から離れたいのか?」という道長に「私は左大臣様のお役に立っておりませぬ」

 

あくまで道長ファースト…と見せかけて、本音は「離れたい」ですよね?

 

このやり取りで、道長が「行成が離反したがるほど、自分はどうかしている」と気づいたかどうか?は、全く読めません…。
 

その後、実資が隆家の邸宅にやって来て(史実では、隆家が実資邸に伺っています)、目の病のことを相談され、「大宰府に眼科の名医が居る。行ってみたらどうだ」と助言。

 

結果、大宰府行きは隆家に決定。

 

ついに「刀伊の入寇」への扉が開きました。本当のところ、道長は「中関白家が大宰府に勢力を扶植したらどうしよう」と渋っていたらしいのですが、あっさり味に落ち着きました。

 

申し出が叶えられず、行成は「道長さまは私を何だとお思いでございますか!私の望みを捨て置いて隆家殿を大宰権帥になさるとは!」と悲痛な叫び(「左大臣」ではなく「道長」呼びになっている…?)

 

「行成は…」

「俺のそばにいろ」

「そういうことだ」

 

ここで「そういうことって、どういうこと??」となったのはワタクシだけではないハズ(本当に、どういうこと??)

 

ちなみに、行成が太宰府に行きたいと望んでいたのは事実だったようで、先の「藤原広業の受領功過定」の件で中央官僚がイヤになったのではないかと、ワタクシは思っているのですが、本当はどうだったんですかね。

 

(なお、数年後には、それこそ今回行成が言っていたように「財が欲しくて」願い出たりもしています)

 

 

そして「蔵人頭」は、三条天皇が実資に約束していた資平ではなく、藤原道兼の子である兼綱が選ばれました。

 

これは、敦明親王が「我が友を蔵人頭にしてやってください」と、三条天皇に推薦する形での人選。

 

敦明親王と道兼の息子が友人だったの…?となるところですが、これには右大臣・顕光が関係しています。

 

というのも、顕光は後妻を迎えているのですが、それが兼綱の母(つまり道兼の妻)だったから。

 

そして、敦明親王の正室は、『光る君へ』にも登場した通り、顕光の娘。

 

 

おそらくは、この繋がりで兼綱が推挙され、「蔵人頭」になったのだろうな…と考えられるのですねー。

 

 

「資平を蔵人頭に」の約束を反故にされた実資は、プンプン。

 

「約束を反故にするならもう私を頼りにするな!」

 

激怒しながら墨を擦るカット、gifアニメにしたいくらいイイですねw

 

 

◆防人の歌

 

賢子と双寿丸のシーンは…ねぇ?(何)

 

全体的に急ぎ足になっているのに、こんなことのんびりやんの?と、だいぶ冷めた目で見てしまっています(-"-;

 

「大宰府に行くことになった」「私も連れてって」「連れて行かぬ」とアオハルした場所は、かつて直秀が「行かねぇよな」と言った、あの社ですかね?(そんな気がしただけ)

 

まひろは「フラれたことある」って言ってましたが、道長はフっているけどフラれてはいないよね…もしかして実資の「ハナクソ女」のこと??(認知しているの?)

 

フラれたのに送別会をしたいという、賢子。

 

「せめてあの人の思い出に残って欲しいの…」

 

そういう時はね、花の名前を教えるんだよ。花は毎年咲くから、そのたびに貴方を思い出すんだよ(何の指南よ)

 

そして開いた別れの宴で、歌っていたあの踊り。

 

「ふたつに ひさしき かしまだち いやさか いやさか」

 

かしまだち…って「鹿島立ち」のことですかね?

 

663年、朝鮮半島で唐・新羅連合軍に大敗を喫した「白村江の戦い」。

 

敵軍の侵攻を恐れた天智天皇は、対馬、壱岐、筑紫国に防衛拠点を構築。

「防人(さきもり)」を置いて、国防の守りを固めました。

 

ここに駆り出された防人は、主に東国(遠江以東)から集められ、九州に赴任させられていたそうで。

 

こうして防人に選ばれた人たちが、鹿島神宮で「無事の帰還」を祈願したことが「鹿島立ち」の起原とされています。

 

「ふたつ」というのは、鹿島神宮(武甕槌命)と香取神宮(経津主命)の2社で、2柱の武神で「鹿島明神」ともされている…ってことでしょうか。

 

「ひさしき」は、たぶん「寿き」と書いて、「武神の加護がありますように」ということなのでしょうね。

 

…って考えて来て、ふと。

 

「ふたつ(双)」に「ひさしき(寿)」って、この歌は「双寿丸」のことを歌っているとも取れそう…じゃない?(これが名前の元ネタ?)

 

「防人の歌」というのも、大宰府に赴任する双寿丸にビンゴ。

 

その先にあるのは「刀伊の入寇」…はてさて、無事に帰るのか、それとも雲路を行ってしまうのか。

 

それは…なんだか分かりやすいフラグが立ったようにも見えますが(笑)、オリキャラだから分かりませんねw

 

 

 

というわけで、今回は以上。

 

 

 

三条天皇の眼病は、「桓算供奉(かんさんぐぶ)」という物の怪(鴉天狗)のせいだとも言われたそうな。

 

こやつが羽ばたくので、翼が目を覆った時に目が見えたりしたのだとか。

 

そんな、三条天皇の目が見えなくなっていく…という病(中毒?)を中心に、見えるもの、見えないもの、見たくないもの、聞きたくないもの…を散りばめられた回だったかな…と思いました。

 

道長は実資の諫言や行成の悲痛さを聞こえないことにした(聞きたくなかった)

 

道長には民の顔が見えているのか、民の声は聞こえているのか。

 

敦康親王は、東宮を諦めた自分が取るべき未来が見えて来た。

 

彰子には「国母たる彰子」が見えていなかったが見えてきた。

 

実資は、約束を反故にするいい加減で弱い帝の本心が見えていなかった。

 

遠く大宰府に旅立つ双寿丸にフラれたことを、賢子は聞こえなかったことにはしなかった。

 

清少納言は、これまで怒りに囚われて見えなかったことが、見えるようになった。

 

…といったあたりでしょうか。


 

「見える・見る」「聞こえる・聞く」の成長を遂げる者の中に、主人公と準主役の姿はない…(笑)

 

次回以降、ちっとはマシなキャラになっていくでしょうかね…?

 

 

 

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