ワタクシはすっかり忘れてました&出勤でどのみち見れない身の上でしたが、『光る君へ』総集編の放送があったようですねー。
SNSによると、三条天皇や周明、刀伊の入寇、そして道長薨去あたりは、ごっそり「無かったこと」になっていたとか…w
『光る君へ』総集編で“全カット”された重要キャラ ネット衝撃「嘘でしょ!?」「道長が編集しただろw」 ⇒★(外部リンク)
どーせ無かったことにするなら、ソウルメ(シュクセイ!!シュクセイ!!)
『光る君へ』、ワタクシは全体的には楽しく見れたのですが、しかし満足には遠く。不満はかなり残る評価になりました。
大体さぁ…「これ紫式部大河なんですよね?」って思われちゃーアカンと思うのよねぇ。
それは、ラストシーンにも集約されていました。
「武士の世の到来を感じさせるラスト」って、紫式部大河らしいですか??
んなこたーないですよね。「紫式部の人生」と「武士の世」、繋ぐとしたら、それは結構な無理矢理感。
まぁ、脚本家さんが「本当は戦国時代を書きたかった」らしいので、こうなっちゃったんですかねーと、生暖かい目で見ておりましたけどねw
大体、源頼光も源頼信も平維衡も藤原保昌もキャスティングせずに「武士の世の嵐の音が聞こえる…」って、「なんじゃそりゃ」感は否めません…だったら、出してくださいよ…!お願いしますよ、本当に。
「紫式部大河」に期待していたことといえば、ワタクシは「平安時代の女性を描く」ことでした。
『光る君へ』では大勢の女性が出てきましたが、平安クラスタ的には、描き方がハンパだったなぁ…という印象(-"-;
「え、このキャラ、1~2話出しただけで終わり??」とか「この描き方では、結局何者なのか伝わらなかったのでは」とか「もっと面白い背景を背負っているのにもったいない!」とか、そういうのが多かったです。
「紫式部大河」でなければ出て来ない、貴重なチャンスをものにした女性も多かったのに(彰子サロンの女房たちとかね)
「平安時代の女性を描く」としては、だいぶ物足りない感はありました。ここが不満の4割強を占めています(残りは、道長周りが3割と、未登場に終わった人物のあれこれが3割)
そこで、今回は今年最後の「大河でやらないのなら、うちのブログでやる」恒例のブログネタチャンス!
『光る君へ』に登場しながら、描き方が足りなかったり、ワタクシが語り足したかったりする女性たちを、ご紹介してみます。
「平安時代の女性大河」という切り口での、ワタクシ的『光る君へ』の総集編といったところ…ですかねw
「結局、あれは何者だったの?」という消化不良の解決や、これから『光る君へ』を見る(見返す)という人の手助けにもなったらいいな…と思いつつ。7~8割方はワタクシの今年最後の自己満足です(笑)
というわけで、さっそく語って行きますねー(長文注意報発令)
■藤原時姫(ふじわら の ときひめ)
第1話「約束の月」で登場。道長の生母。
三石琴乃さんが演じると発表があって、放送前は声優オタク(自分含)大盛り上がりw しかし、たったの1話で逝ってしまうとは…天元3年(980年)没では仕方がない。
道隆・道兼の兄たち、そして詮子や、大河では登場しなかった超子の生母でもあります。
なので、一条天皇(詮子の子)と三条天皇(超子の子)にとって、共通の祖母。彼らのおばあちゃんだった…って「言われてみれば」ってかんじです?w
時姫自身は、藤原中正の娘。「山蔭流藤原氏」の出自です。
実は山蔭の孫娘という…なんとなんと。山蔭は「四条流庖丁式」の創始者と伝承では言われている人物です。
系図で見てみよう(四条家/藤原氏善勝寺流)(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12768347270.html
花山天皇の乳母子として、花山朝では権力を握った惟成は、彼女の甥っ子にあたります。
時の権力者・藤原伊尹の弟(兼家)の正室(時姫)の姉妹だから、惟成の母は、花山天皇の乳母になれたのかもしれないですねー(『光る君へ』でも惟成が道長と絡むシーンとか欲しかったですな…従兄弟ですからね)
花山朝だョ!全員集合!(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12837966176.html
兄の藤原安親は、大河には登場しませんでしたが(「勝手に特定」も出来なかった)、一条天皇の御世で「参議」に任じられています。
また、道隆の最初の奥さん(高階貴子より前)は、安親の孫娘(守仁の娘)なので、「母の縁者を最初の妻にした」ことになります(その子が、伊周の異母兄である道頼)
山の井の大納言(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12851634242.html
と、時姫と絡めたお話はこんなにも広げられたのですが…しかし1回しか出て来ないのでは仕方がないのかな(幼少の惟成や道頼が出ていたら、とっ散らかりましたかね)
■藤原遵子(ふじわら の のぶこ)
「声の小さい関白」こと頼忠の娘。公任の同母姉。
第1話「約束の月」で円融天皇に入内。円融天皇の女御である詮子のライバル的存在。
円融天皇の子(懐仁親王=一条天皇)を産んだ詮子は「皇后」になれなくて、天皇の子を産んでいない遵子が「皇后」になる。そこには、円融天皇の寵愛の差があった…道長以外誰にも愛されない詮子が、兼家や道隆たちと反目する原因、というストーリーの裏事情を担う女性。
なので、序盤だけでもう用無しなのか、後はサッパリ出てきませんでしたね…後一条朝(長和5年(1016年)~長元9年(1036年))まで生き延びて「太皇太后」まで上がっているんですけどね。
(寛仁元年(1017年)崩御。あの「望月の歌」が詠まれた威子立后の「穏座」には、公任は遵子の服喪のために参席していなかったりします)
円融帝との仲睦まじい様子は見られましたが、公任との絡みは、ついぞなし(涙)
公任の姉なので、「小野宮流藤原氏」の出自。母方を辿れば醍醐源氏となり、天皇の曾孫。
系図で見てみよう(醍醐源氏/代明親王)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12838983981.html
詮子を差し置いて彼女が「皇后」となったのは、血統の良さもあったのか…?
(ちなみに詮子は「天皇の子孫」という見方では54代・仁明天皇の昆孫(=6代後裔。仁明帝-人康親王-女-忠平-師輔-兼家-詮子)で、相当遠いです)
■茅子(かやこ)→藤原姚子(?)
第3話「謎の男」で、倫子の女子会メンバーとして登場。第4話「五節の舞姫」で舞姫としても登場し、その際に茅子は「権大納言家の娘」と明かされました。
「権大納言家の娘って誰だ…?」と、ワタクシのリサーチがスタート。
しかし結局、その正体は明かされず、オリキャラだったみたい。
「スマート大河を目指すクセに無駄にキャラだけ増やしやがって!」と、ワタクシを失望と怒りの渦に叩き落としてくれた最初のキャラ(笑)となりました。
ちなみに、ワタクシの中では藤原姚子(とうこ。天禄2年=971年生まれ)ということにしています(注:公式ではないですよ!ワタクシの妄想です)
当時(永観2年=987年)の「権大納言」で、倫子の勉強会に参加しそうな年頃の娘を探すと、藤原朝光の娘・姚子と藤原済時の娘・娍子(すけこ。天禄3年=972年生まれ)が見つかったのですが、娍子は後にキャスティングされたので、おそらくは姚子だったかな…と。
姚子の父の朝光は、顕光の異母弟。出世は彼の方が兄よりも早く、第3話よりちょっと後の「花山朝」では序列5位に並んでおりました。
花山朝「陣の定」群像語り(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12841402045.html
姚子は、永観2年(984年)に「麗景殿」に入り、花山天皇の女御となりました。通称「堀河女御」。しかし寵愛は続かず、わずか1ヶ月で実家に帰って来てしまっています。
女子会は倫子の結婚後=987年も続いていたので、「茅子=藤原姚子」は無理があるのですが、まぁいっか『光る君へ』は歴史改竄が多かったし…としています(笑)。1ヶ月で宮下がりして帰って来てますし、できなくはないかと!
■肇子(はなこ)→藤原佐理の娘?
こちらも第3話「謎の男」で、倫子の女子会メンバーとして登場。後に「藤宰相家の娘」とだけ素性が判明。
当時(永観2年=987年)に「参議(宰相)」だった人は7人ほどおりまして、探すのが面倒になってしまい(笑)、趣味で選んで「藤原佐理の娘」としました…どーせ公式では、ただのオリキャラだし。これでいいんだよ。
佐理は小野宮流藤原氏(道長の大伯父・実頼の子孫)の人。実資や公任の従兄弟。能書家として知られる「三跡」の1人です(他の2人は小野道風と、あの藤原行成)
後に懐平(実資の実兄)の妻になる娘がいて、康保2年(965年)頃の生まれというので、御年19歳前後(倫子の1つ下)。この娘も父に似て能書家だったそう。
ちなみに、劇中の第5話「告白」に、ほんの一瞬登場した「侍従宰相」ことザブングル加藤さんの"お通い"があったと、倫子の女子会で噂になっていました。
それ以降、肇子さんは女子会に参加しなくなってしまいました。もしかして結婚した?となると、ザブングル加藤さんは藤原懐平!?
と心が躍ったのに、「侍従宰相」は「オリキャラ」と公式発表…また君か!!
しかし、もし「侍従宰相=懐平」だったら、ロバート秋山さんの実資とは実の兄弟だったことになったわけで。そうなっていたら、どんな絡みをやっていたのかなぁ…と想像が膨らみますw
公式でやって欲しかった…くやしいです!
■藤原忯子(ふじわら の よしこ)
花山天皇の最愛の女御。
第5話「告白」で帝の特殊性癖の犠牲(?)となり、「めでられ過ぎて倒れる」という名言を生んだ女性(笑)
花山天皇の子を懐妊して身重だというのに、会いたい余りに何度もしつこく招聘されて体調を崩し、母子ともに亡くなってしまいました。
藤原斉信の同母妹。ちゃんと斉信が見舞いに来て兄妹であることが明確になっていましたね。
忯子の没後、「彼女に贈皇后するかどうか」の議題が「陣の定」で諮られ、その際には「大納言為光さま、大納言様は忯子さまのお父上。帝のお心遣い有難いとは思いませぬか」と声を掛けられていたので、為光の娘と言うのも一応、言及されておりました。
劇中では、第8話「招かれざる者」で怨霊化…よりましに降りて兼家に襲い掛かり、身を呈して守った道長を押し倒して、首を絞めておりました(笑)
まぁ、安倍晴明に呪詛を命じたのはやり過ぎでしたかね。
■桐子(きりこ)
第7話「おかしきことこそ」で登場した、実資の最初の「北の方」さま。
「くどい。私に言わないで日記に書きなさいよ」と、「双六」に熱中しながら言い放つという、いいキャラを見せました。
「あってはならん!あってはならん!」「日記!日記!」という繰り返し芸の夫婦w
第7話は寛和元年(985年)のお話。この年、実資は女の子をもうけているのですが、上記の画像のように妊婦でも出産後でもなさそうで。
「誰だろう?ただの愛人?」となったところ、第9話「遠くの国」で出番終了。ということで、寛和2年(986年)に亡くなった、最初の妻・源惟正(文徳源氏)の娘というセンで登場していたようです…と予想。
源惟正は、文徳天皇の皇子である源能有(よしあり)の子孫(能有-当時-相職-惟正)。文徳天皇の子といえば清和天皇(惟仁親王。850年生まれ)ですが、能有は承和12年(845年)生まれなので、5歳年上の異母兄にあたります。母が「伴氏の誰かの娘」と言う卑母なためか、第○皇子にも数えられていません。
臣籍にあって宇多天皇の右腕として活躍しましたが(なので、宇多天皇グループだった菅原道真とも親しい)、藤原基経(道長の高祖父)の信用も厚く、基経の娘を娶っています。
基経娘との間に生まれた娘・昭子は忠平に娶られ、師輔の母となりました…つまり、道長にとって能有も高祖父となります(能有-昭子-師輔-兼家-道長)
というわけで、道長と桐子は同じ高祖父をもつ者同士だったわけですが、ここまで離れてしまうと"ほぼ他人"でもあり、それをネタに絡むわけにはいかなかったですかね。
能有の名を出してくれたら、それはそれで平安クラスタは盛り上がったでしょうけれども。
■「高倉の女」なつめ
第10話「月夜の陰謀」で、紫式部の父・為時のお妾さんとして登場。通称「高倉の女」。
重病人で、「愛人」と言うよりは「身寄りがないから為時が世話をしている老女」といった役どころ。為時さんいい人だ。
「最後に娘と会いたい」と願い、娘である"さわ"と"まひろ"が出会い、友達になるきっかけをつくりました。
さわは、紫式部が「姉と呼ぶほど親しかった」女性である「筑紫の君」がモデル。ということは、なつめは「筑紫の君の母」がモデルと考えても良さそう…なのですが。
「筑紫の君」は「桓武平氏」平維将の娘で、母は「藤原雅正の娘」と言われます。
藤原雅正って誰?というと、実は為時の父親(紫式部の祖父)。
ということは、なつめは「為時の異母妹」ということになります …「身寄りがないから世話している」という劇中の設定とは、噛み合いません。兄妹だったら、あなたが身寄りでしょう。いい人と言って損した(笑)
■橘徳子(たちばな の とくこ)
第13話「進むべき道」で、一条天皇が定子の裾の下にもぐって"かくれんぼ"していたシーンで、鬼役をやっていた女性。字幕ではカウントアップしている台詞に「橘徳子」と名前が出ておりました。
…というあたりの御出演。その後も、お姿だけはチラチラ見かけたような気はします。台詞が無かったので「たぶん」程度ですけど…。
橘徳子は、兼家の右腕的存在で「私の左右の目」と言われた、藤原有国の妻。
この信任があったのか、それとも橘氏という出自が効いているのか、兼家の孫にあたる懐仁親王(一条天皇)の乳母となりました(ついでに言えば、敦成親王=後一条天皇の乳母でもあります)。だから、ここで一緒に遊んでいるんですねw
徳子は橘仲遠の娘。和泉式部の最初の夫となった橘道貞とはイトコの関係(道貞の父・仲任と仲遠が兄弟)に当たるので、何かしらの接触があったら(ワタクシが)盛り上がったんですけどもねー。
徳子はドラマに登場しましたが、夫の有国は登場しませんでした…何故なんだぜ…?(涙)
有国と徳子の子である資業は、後醍醐天皇の側近である日野資朝や日野俊基、室町8代将軍・足利義政の妻である日野富子などで知られる権門「日野家」の祖となっています(資業も出なかったな…)
■藤原繁子(ふじわら の しげこ)
一条天皇の乳母で、藤原道兼の妻。第13話「進むべき道」で登場。
藤原師輔の娘。つまり、兼家の異母妹にあたります(姉かもしれないけど、道兼の妻になるくらいですからね…?)。生母は不明。
「寛和の変」が成功して、「これからは俺たちの時代だ!」とばかりに息込む道兼に、ちょっとドン引き気味。団欒しているハズの家の雰囲気が暗いのが印象的でしたね(笑)
兼家の没後、我が家の春を謳歌する「中関白家」とは対象的に、父に見捨てられたこともあって、道兼は酒に溺れて自暴自棄。そんな様子を見た繁子は呆れ果て、夫を置いて出ていってしまい…たぶん、出番はそれっきり。
(どこかで見かけたような気もするのですが、忘れてしまいました・汗)
史実では、その後どうしていたのかというと、正暦3年(992年)頃に平惟仲の妻となっています。
惟仲は、『光る君へ』でも第1話から登場しておりました。ナマズ髭を生やしたお公家さんですねー。先程の橘徳子の夫・有国とともに兼家の側近として信用され、「左右の目」と称された人物でした。
兼家の晩年、2人に「後継者は誰が相応しいか?」と諮問した時、有国は「寛和の変で大功のあった道兼」を推したのに対し、惟仲は「嫡男である道隆」を推しました。
これがために惟仲は道隆に厚遇されたのですが、ちょうどその頃が、繁子が道兼から離れて惟仲の妻になった時期。
「道兼ではなく道隆」と答えた人に、「道兼の前妻」が娶られる。何か裏事情があったりするんですかねぇ…?
道兼と繁子の間には、長女の尊子が生まれています。
道兼は繁子と別れた後「藤原遠量の娘」という後妻を迎えていて、こちらの所生の女の子(次女)を「入内させたい」と願い、尊子は大して尊重していなかったと言われています。
しかし、尊子は長徳4年(998年)に一条天皇に入内し、「暗戸屋女御」と呼ばれるようになりました。
一方、後妻の娘である次女の方はついに入内できず、道長の四女で後一条天皇の皇后となった威子のサロンに出仕して女房となっています。
道兼の娘への想いと出来事は、裏腹になっていたわけですなー。
一条天皇の没後、尊子は藤原通任の妻となっています。通任は、三条天皇の"糟糠の妻"娍子の同母弟にあたる人物ですねー。
一条天皇とも、通任とも、子はできなかったそうです。
■婉子女王(つやこ じょうおう)
実資の2番目の奥様。最後の「北の方」となった人。第14話「星落ちてなお」で登場。
天禄3年(972年)生まれなので、実資の15歳年下。藤原行成と同い年です。
劇中でも触れられていた通り、婉子女王は元々は花山天皇の女御だった人。夫が退位・出家したので実家に戻り、やがて実資の「北の方」に迎えられたのでした。
父は為平親王。「安和の変」の原因になってしまった、円融帝の同母兄にあたる人物です(ということは、婉子は花山帝・一条帝・三条帝とはイトコ同士)
母は源高明の娘なので、源俊賢や明子の姪にもあたります。
実資と結婚する前、『百人一首』52番歌の詠み人である藤原道信も、婉子女王を狙っていたのですが、見事に実資が勝ち獲ってゲット。中々やるじゃない。しかし、婉子女王の取り合いは、やっぱり『光る君へ』ではカット。におわせさえありません(泣)
なお、道信は為光の三男で、斉信の異母弟(ついでに言うと、兼家の養子)。母が藤原伊尹の娘なので、行成ともイトコの関係(ちなみに、同い年)。こんなにオイシイところにポジショニングしているのに登場させないなんて…カナシイ。
婉子女王に話を戻して(笑)、実資の大きなおなかをブヨブヨ揉んでベッドに誘う(?)という、なんだか艶やかなキャラクター。
初回登場以外にも出演していたような気はするのですが、やっていることが同じなので(笑)気に留まることがなく忘れてしまいました(^^;
実は「一条朝」における「伊勢斎宮」である、恭子女王の同母姉にあたります。
いけにえの姫たち外伝(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12858577299.html
まぁ、斎宮の姉だからって清らかな生活せよとは言いませんけど(笑)、艶っぽく来た所を「伊勢斎宮さまの姉だろう!」という実資の台詞の1つでも欲しかったなぁなんて思ったりも…ねぇ。
■藤原光子(ふじわら の みつこ)
第19話「放たれた矢」で、藤原斉信の妹として登場。
歴史上は「寝殿の上」または「三の君」と呼ばれます(ここでは「光子」で統一)
兄である斉信の母は「藤原敦敏の娘」(ちなみに敦敏は、実資や公任と同じ小野宮流の人で、佐理の父)で、花山天皇の寵姫となった忯子も、こちらの所生。
これに対し、光子の母は「藤原伊尹の娘」(伊尹は行成の祖父)。なので、行成とイトコで、斉信とは異母兄妹となります。
ともあれ、歴史的には斉信の妹であることよりも、藤原伊周の愛人だったことが、大きく影響を及ぼしました。
花山院は、光子の同母妹にあたる儼子(たけこ。通称「四の君」)の元に通っておりました(出家の身なのにw)。かつての寵姫・忯子とは母親が違う姉妹なのですが、でも"何か"が似てたんでしょうかね(顔?抱き心地?)
これを、伊周が「"三の君"の元に通っている!」ように勘違い。
「花山院は自分の女を寝取りやがった!許せん!」
弟くんの隆家と郎党を率いて夜襲をかけ、「院に矢を射かける」という大不祥事をやらかしてしまい(「花山院奉射事件」996年)、これがために伊周は失脚。「中関白家」が没落するルートのスタートラインを割ってしまったのでした。
(なお、伊周と隆家が襲撃した時、「相手は花山院だ」というのは、どうやら「知っていた」ようです)
伊周のお妾さんとして登場し、そして「花山院が妹の所にお渡りになっている」という説明のシーンを担って、出番は終了。十分と言えば十分か…?
なお、光子には藤原公信という同母弟がおり、彼の名前は「名スパイ・行成」(笑)の「中関白家なき後に道長の政敵になりそうな人リサーチ」に引っかかっておりました(第19話「放たれた矢」)
どうして彼の名が…?というと、この「公信-光子=伊周の妾」という繋がりから、「公信は伊周グループ」と見做されたのかな…といったかんじ。
色々と問題のある脚本家でしたが、こういうところはいい味出してましたよね。「大河ドラマを恋愛モノにする」という邪念が、やっぱり邪魔だったんだよなぁ。
■藤原元子(ふじわら の もとこ)
道長政権時の右大臣・藤原顕光の娘。一条天皇女御。通称「承香殿女御」。
出家した定子と会えなくなり、失意のドン底に落ちてしまった一条天皇に、「他にもいい女御が居ますよ!」と知らしめるべく、顔合わせのための「管弦の会」が開かれた、その主賓の1人(「第23話:雪の舞うころ」)
結局、一条天皇の「定子のことで頭がいっぱい」は収まらず、作戦は失敗となりました。彼女の出番も、これで終わり(なんだかなー)
史実では、一条天皇には大きく寵愛されていたようで、長徳3年(997年)には懐妊の兆候が見られたので里下がりしたのですが、出産時は水が出て来るだけで子供の姿はなく、「想像妊娠だった」と考えられています。
一条天皇の没後、為平親王の子である源頼定(実資の妻・婉子女王の同母弟)と密通。怒り狂った父・顕光によって、家から追い出されてしまいました(のちに帰宅)
頼定も「頼定は斎宮と密通している」という情報で「名スパイ行成のリサーチ情報」に名を連ねていましたねw
頼定は「伊勢斎宮」恭子の同母兄なので、斎宮との密通は「ありえない」率が高いのですが、しかし実際に元子よりも前に1度、密通事件を起こしています。
その相手は居貞親王(=三条天皇)の東宮妃・綏子(兼家の異母妹)。ドラマではスルーされましたが…ともあれ、懲りない男です。
源頼定と元子の間には女の子が生まれており、後に嫄子女王(敦康親王の娘)のもとに女房として出仕しています。
■源幾子(みなもと の いくこ)
伊周の正室。第29話「母として」で登場。歴史上では、実名は不明(「幾子」という名前は、何が由来なんだろう?)
伊周は正暦3年(992年)、舅の源重光から譲りを受けて「権大納言」となりました。
このために、重光は「致仕大納言」とも呼ばれるらしいのですが、ともあれ彼が、幾子の父に当たります。
というわけで、幾子は醍醐源氏・代明親王の孫娘にあたります。公任の母(厳子女王)や行成の祖母(恵子女王)の姪っ子ですね。
系図で見てみよう(醍醐源氏/代明親王)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12838983981.html
ドラマでの役どころは、松君(=道雅)の母親として。
道雅は、後に宣孝の娘(紫式部にとっては前妻の子)を娶っているので、この関係でまひろとも拘わることは可能だったのですが、まひろは宣孝と死別後、夫のことを思い出すことがほぼなかったので(何故だ)、そのルートにはつながりませんでした…。
後に、実の兄が「彰子と敦成親王を呪詛する」という事件を起こして、大騒ぎになってしまうのですが、そのあたりでは登場せず。詳しくは高階光子の項で。
■敏子(としこ)
公任の妻。第30話「つながる言の葉」で登場。なんと、まひろが和歌の先生として招かれる女子会の女主人という役どころ。なお、史実では実名は不明(「敏子」って、どういう経緯で付いた名前なんだろう?)
昭平親王(あきひら)の娘なので、村上天皇(一条天皇の祖父)の孫娘。ということは、一条天皇とはイトコ同士の関係。
昭平親王は、一時期「源氏」を賜って臣籍降下していたのですが、貞元2年(977年)に円融天皇が「兄なのに臣下の礼を取らなければならないのが心苦しい」と仰せになったことで、皇籍に復帰することになりました。
敏子は生年が不明なのですが、もしも父が皇籍復帰後に生まれていたら「敏子女王」。復帰の前に生まれていたとしたら「源敏子」(その場合でも父が「親王」になった時点で、娘も「女王」になるのかは、ワタクシには分かりません…)。
で、公任妻の役名は「敏子女王」でも「源敏子」でもなく、ただの「敏子」。ドラマ制作陣(時代考証の倉本先生?)が、どうするか決められなかったのかな。
公任の妻となる前に、実は道兼の養女となっています。その頃から出して欲しかったですね…(その敏子に招かれたまひろはドラマでは「道兼は親の仇」なので、色々と調理できましたよね)
そのあたりの諸々は、実は「登場しないだろう」と予想して特集しちゃったことがあるので(笑)、そちらをドウゾ。
「四納言」の妻たち(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12856842357.html
『百人一首』64番歌の詠み人・藤原定頼の生母でもあります。定頼は字幕版で、どこかで名を見かけたのですが、どこだったか忘れちゃいました…。
■百乃(ももの)
実資の愛人。第31話「月の下」で、「公任の邸で実資と逢瀬を繰り返している」という、ぶっとんだ設定で登場(笑)
中の人の千野裕子さんは、なんと『光る君へ』の「古文訳考証」を担当しているスタッフさん。学習院大学准教授。大河ドラマの役者出演は、『功名が辻(黒田長政の妻)』『八重の桜(孝明天皇の女官)』に続いて3回目という謎の経歴の持ち主(笑)
というキャスティングなので、実資の愛人と言う1発ネタだけの役かな…と思っていたら、なんと実資が50歳を超えて出来た愛娘・千古の母親として第42話「川辺の誓い」で再登場。
「"千"古の母だから"百"乃なのか…なるほど」と、当時は感心したものですw
千古の生母は出自は不明ですが「源頼定の乳母の娘」とされています。ということは、頼定とは乳母兄妹というかんじですかね?(異性でも乳母子になるのか?)。頼定は、先程の「藤原元子」の項目で紹介しました。
頼定と元子が密通事件を起こしたのは、一条天皇の没後なので寛弘8年(1011年)以降のこと。千古は寛弘8年(1011年)頃の出生(詳細は不明)。
「乳母子の頼定が事件を起こした責任感から塞ぎ込んでいる時に実資と関係をもった」としたい所ですが、1年ほど時期が合わず、妄想は立ち消えです。チッ。
■彰子サロンの女房たち
第32話「式部誕生」で、「彰子の女房」という新たなステージに立ったまひろを出迎えた方々。
こちらは1ページまるまる使って特集したので、そちらのリンクをご紹介しますw
彰子サロンの女房たち(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12864539135.html
リンク先を読んで頂くと分かると思うのですが、『光る君へ』では「日本紀の局」も「ルームメイト」も「イタズラ魔・藤式部」も「乗車順に難癖」も「道長の召人」もありませんでした…。
本当に「紫式部大河」だったんですか…?(本当にな)
■筑前の命婦(ちくぜん の みょうぶ)
第34話「目覚め」で登場。『源氏物語』を読み上げる女房の役。
中の人は、アニメ『おじゃる丸』の主人公"おじゃる丸"役の声優さん(2代目)。三石琴乃さんに続き、ざわつく声優オタクたち(自分含)。『おじゃる丸』が『光る君へ』とコラボしていたので、その関係での出演となったようです。
「筑前の命婦」という役名は、ドラマオリジナルの架空の人なのでしょう。登場も1回限り。一応、探してみたら当時の「筑前守」は「藤原永道」という人だったみたい…というところまでは分かったのですが、これ以上は不明。
まさか、16年ほど前に「筑前守」だった宣孝が関係あるとか、そんなことないですよね…?(その頃から宮仕えを始めた設定にすれば、あり得る)
■斎院の中将(さいいん の ちゅうじょう)
一条朝の「賀茂斎院」を務める選子内親王に仕える女房。紫式部の弟・惟規のイイ人(笑)。
夜、惟規が「賀茂斎院」に忍び込んで逢瀬を遂げるも、見つかってしまった…という事件の当事者。第35話「中宮の涙」で突如として登場。
光孝源氏・為理の娘。為理は「斎院司長官」だったので、父のコネで出仕していたのでしょうかね。
母は斎院女房の「播磨」。大江雅致の娘なので、和泉式部とは姉妹だったりします(ということは、斎院の中将は和泉式部の姪っ子)
惟規との逢瀬が事件になったのは、寛弘4年(1007年)。
紫式部が35歳くらいなので、和泉式部は30歳くらい、その妹は28歳くらいと仮定されそう。15歳で出産したとすると、この時「斎院の中将」は13歳くらい…?
惟規は紫式部の弟なので、33歳くらい?(しかも妻子持ち…妻は藤原貞仲の娘)
とすると、惟規と「斎院の中将」は20歳差??まじですか。すさまじいですな。
なお、『紫式部日記』によると、紫式部は「斎院の中将」が書いた恋文を、惟規から見せてもらったらしい記述が伺えたりします。
その時の紫式部の感想は「とても腹が立つ(すずろに心やましう)」「下賤な人(よからぬ人)」「憎らしくなる(にくくこそ思う)」と、もうボロクソに扱き下ろす有様(笑)
「彰子サロン」を背負う身として「斎院サロン」と張り合う気持ちが、そんな言葉を呼び起こさせたのだろうと言われているのですが、さて…。
そして、惟規の「辞世の歌」には、実は2パターンあるのですが、その一方は「斎院の中将」に宛てて、紫式部(もしくは為時)が詠み直したもの…とも考えられています。しかし、そういうシーンは作られなかったようです。
■高階光子(たかしな の みつこ)
伊周の母・高階貴子の妹(つまり、伊周の叔母)。
劇中では言及されていませんでしたが(たぶん)、実は敦康親王の乳母だったりします。
伊周の妻(ドラマでは「幾子」)の兄である源方理(かたまさ)とともに、第37話「波紋」で登場。
寛弘6年2月20日(1009年)に起きた「彰子・敦成親王呪詛事件」の関係者。
この時、主犯役と目された僧・円能が白状した供述が『政事要略』に記録されているのですが、光子の邸宅に出入りしていた者の中に僧「道満」の名が出てきます。
安倍晴明のライバル「蘆屋道満」のモデルとされる人物ですねw 光子の配役が発表された時、道満も出て来るのでは…と楽しみにしていたのですが…。
伊周は直ちに朝参停止。方理は官位剥奪。光子も入獄されてしまいました。
しかし、わずか4ヶ月あまりの6月13日には、3人とも赦免。この落着の速さから、道長(派の誰か)による陰謀だ…という声も根強いようです。
■藤原延子(ふじわら の のぶこ)
三条天皇の第1皇子である、敦明親王の正室。
道長政権時の右大臣・藤原顕光の娘。一条天皇女御「承香殿女御」元子の同母妹。
第39話「とだえぬ絆」で、夫の敦明親王と並んで、父帝の新たな女御となった妍子にご挨拶する…というシーンで登場。そして出番終了(たしか)
敦明親王は、ドラマでは道長の次女である妍子に狙われる…というオイシイ役目も負わされていたのですが、妍子と延子がぶつかるようなシーンはなかったですね(まぁ、身分差がありすぎて、やらせるとしても派手にはできませんけどね)
一条天皇が崩御する前年の寛弘7年(1010年)頃、敦明王と結婚。
ドラマでは「無能の象徴」のような顕光ですが、この布石は中々に鋭い筋を突いています。「一条天皇 → 三条天皇 → 敦康親王 → 敦明親王 → 円融皇統の誰か → 敦貞親王(敦明と延子の皇子)」という皇位継承の筋道が見えて来るかのようw
一条帝女御・元子が外戚になるのに失敗したので、次の手を打った…ということですね(この扱いが、元子が頼定と密通することになった遠因だったりして…)
しかし、三条天皇の東宮には、敦康親王ではなく、敦成親王(のちの後一条天皇)が立ってしまいました。
正暦5年(994年)生まれの敦明親王は、長保元年(999年)生まれな5つ年下の敦康親王の東宮なら「待てなくもない」ですが、寛弘5年(1008年)生まれの14歳も年下の敦成親王の「次」を待つのは、かなりキツイ…。
おまけに、道長と言う最強の後ろ盾のある敦成親王に対し、自分の外祖父・藤原済時はとっくに故人で、外戚が頼りになりません。
長和6年(1017年)、敦明親王は東宮を辞退。すると、道長は「小一条院」として、上皇並みの厚遇をすることを約束。三女の寛子(明子所生)の婿として「近衛御門第」に迎え入れます。
つまり、敦明親王は延子と子供たちの元を去ることに…。延子は、道長に「夫を奪われる」ような形になってしまいました。
悲嘆した延子は、寛仁3年(1019年)に衰弱した所を病にかかって死去。道長によって全てを失った顕光は、一夜にして白髪になったそうな。
顕光の没後、敦明親王を奪った寛子、東宮・敦良親王の正妃・嬉子、三条天皇の中宮・妍子と、道長の娘たちが次々に死去。
「顕光の祟り」と噂され、顕光は「悪霊左府」と呼ばれるようになってしまったのでした(『光る君へ』ではスルーされました…)
■隆姫女王(たかひめ じょうおう)
道長の嫡男・頼通の正室。別名「高倉北政所」。
第43話「輝きののちに」では、まだ子が出来ないことを道長と倫子に(遠回しに)責められて、頼通をブチギレさせておりました。
隆姫は村上天皇の第7皇子である具平親王(ともひら)の娘で、「村上天皇の孫娘」という高貴な血筋にあたります。母は為平親王の娘なので、実資の後妻・婉子女王の姪っ子(同母妹の娘)ってことにもなりますねー。
具平親王は為時の一族と交流があり、また彰子のサロンに来る前の紫式部が出仕していたとも言われるので、「紫式部大河」では欠かせないだろう…と放送前はにらんでいたのですが、蓋を開けてみたら未登場で終わりました(涙)
隆姫は、頼通とは仲睦まじい夫婦だった一方で、劇中で道長が苦言を呈した通り、子供には恵まれませんでした。
しかし、子無しであったことが、歴史上でとある重要事を発生させました。
それは、隆姫の13歳年下の同母弟・資定王(すけさだおう)の処遇。
具平親王は寛弘6年(1009年)に薨去(『光る君へ』では第38話「まぶしき闇」の頃)。1歳にして父を亡くした資定王は、後ろ盾を失ってしまいました。
そこで、養い先として頼られることになったのが、子供のいなかった姉の隆姫女王のもと。資定王は頼通・隆姫夫妻の猶子となったのでした(賜姓して源師房。源氏なのは、「養子」ではなく「猶子」だからなんですかね…?)
師房はとても利発な子だったようで、頼通のお気に入りの子供となりました。道長も大層気に入ったようで、万寿元年(1024年)には道長の五女・尊子(頼通の異母妹。明子の所生)を妻に娶り、婿となりました。
以降、師房の子孫は藤原摂関家と足並みを揃え婚姻を繰り返す「村上源氏」として、繁栄していくことになるのですが、それは頼通と隆姫が、子宝恵まれなかったから始まった歴史だったのですねー。
■藤原頼子(ふじわら の よりこ)
教通の妻。第43話「輝きののちに」で子供(長女・生子)とともに登場。頼子はドラマ版の名前で、史実では不明(ここでは「頼子」で統一)。
倫子が、孫娘を抱いて「公任さまにそっくり」と言っていた通り、頼子は公任の長女。母は先述の敏子で、定頼(995年生まれ)の同母妹(1000年生まれ)に当たります。
公任は、教通を婿に迎え入れていたのですねー。これには公任も相当に喜んだようで、実資に自慢話をしてムスっとされたりもしています(笑)
頼子が子供を連れてきたことで、子供のいない頼通と隆姫は「早く子供を」とせっつかれてしまう…というお話の起点を作りました。出番は、これで終わり。
長女の生子(1014年生まれ。のちに後朱雀天皇女御)を始め、次女の真子(1016年生まれ)、長男の信家(1018年生まれ)、次男の通基(1021年生まれ)、三女の歓子(1021年生まれ。のちの後冷泉天皇皇后)、三男の信長(1022年生まれ)、四男の静覚(1024年生まれ)ら四男三女と、頼子は教通に多くの子女をもうけてくれた女性なんですけどね…道長大河だったら、もうちょっと出番はあったのかもな。
治安4年(1024年)、24歳で死去。娘と死別するショックは相当堪えたようで、公任が権大納言を辞任し、出家を遂げるきっかけにもなったようです(自宅が火事になって1年延期していますが)
なお、「はやく子供を」と急かされた頼通は、道長に「妻は1人にする必要はない」と三条天皇の皇女・禔子内親王(やすこ)を室に迎えさせられそうになります。
しかし頼通は、隆姫を気に掛けるあまりこれを拒否。「重病のフリをして断る」という策に打って出たのは、『光る君へ』でも描かれておりましたね。
その頼通が断った禔子内親王は、万寿3年(1026年)、頼子を失った教通が妻に迎えることになりました。ただし、2人の間に子女はもうけられなかったようです。
■祇子女王(のりこ じょうおう)
定子の忘れ形見・敦康親王の妃。第43話「輝きののちに」で登場。
頼通の正室・隆姫女王の同母妹。つまり、敦康親王と頼通は「相婿」。
この関係で、敦康は道長によって「不遇のドン底」に突き落とされたにも拘わらず、道長の嫡男・頼通とは親密な関係になっています。
長和2年(1013年)、「具平親王の次女」と婚姻。敦康親王の妻は本当は名前が分かっていないはずなんですが(たぶん)、ドラマでは「祇子女王」という役名がついています。
ところで、子宝に恵まれなかった頼通は、何人かの第二夫人以下を娶っているのですが、その中に「進命婦(しんのみょうぶ)」という女性がおりました。
進命婦は「祇子」という名前だったとされています…え…何この一致?まさか、『光る君へ』では祇子を頼通と敦康とで取り合うつもりなの??と心配したのですが、全くそんなことはありませんでしたw(時間の都合でカットされただけかもしれない)
もしも、彼女が「進命婦」だとしたら、後世の「摂関家」へと繋がっていく頼通の息子・師実の母と言うことにもなります(ワタクシは認めませんけどね)
なお、本来の「進命婦=祇子」は、具平親王の子である藤原頼成の娘とされています。頼成は、源氏ではなく藤原氏となっていますが、これは藤原伊祐の養子となったため。
で、この伊祐、実は紫式部の従兄弟だったりします(父の為頼が、為時の兄)。
要するに、紫式部の従兄弟の養子が、敦康親王妃の父だった…というわけ。こっち方面から攻める『光る君へ』見たかったなぁ…。
話を戻して、敦康親王と祇子女王の間には、嫄子女王(もとこ)という娘が1人生まれています。
第45話「はばたき」で登場。長和5年(1016年)生まれ。
寛仁2年(1018年)、父・敦康親王が薨去したことで、母の同母姉である頼通・隆姫夫妻の養女となりました。
関白・頼通の養女ということで「后かね」となり、長元10年(1037年)、嫄子は後朱雀天皇に入内。
やがて「中宮」に冊立されます。かの中宮・定子の孫娘が、再び「中宮」にカムバックしたのです。『枕草子』派としては、胸アツな展開ですね!
(この立后には、面白そうな話もちょこっとあるのですが、これは別の機会に…ということで)
祐子内親王・禖子内親王の2人の後朱雀帝の皇女をもうけますが、皇子を産むことはなく、2人目の出産のあとで力尽きてしましました。享年24。
「源氏なのに藤原氏として立后したから、春日社の神の怒りを買った」などという噂が立ったそう。思えば、父の敦康は「高階氏の血を引くから立太子したら伊勢神の怒りを買う」として東宮になれなかった人。かえって、2人とも「神に近い存在」というような印象さえ、持ってしまいますな…。
というわけで、本日は以上。さすがに22人も紹介するとなると、簡潔に…とはいけませんね(笑)
いつもながら長々とした歴史語り、お目汚し失礼イタシマシタ…。
これが、『光る君へ』を見るときの何かの参考になってもらえたら幸いです。
2025年、平安大河にかこつけて、毎週のように平安時代を語れて、楽しいことこの上なかったなぁ。
来年も違う制作陣で"第二の『光る君へ』"をやりませんかね??って思うくらい(笑)
また、平安大河の放送年がやって来て、こうして平安語りを毎週できる日が来ることを楽しみにしつつ。
今年もありがとうございましたー。
これまで読んでくださった皆さまも、ありがとうございましたー。
ではでは、またその時に。