今日は「系図で見てみよう」シリーズで、藤原南家を取り上げたいと思います。

 

藤原摂関家を出した藤原北家と比べると、あまりぱっとしないイメージですが、意外と底力のある一族。

 

大河ドラマ「平清盛」にも大きく関わっているので、やっておかねばなるまいな!と考えてのチョイスとなりましたw

 

■藤原氏略系図 (藤原南家)■

 

藤原南家(ふじわらなんけ)は、藤原鎌足の孫にあたる、藤原四兄弟の長男・武智麻呂(むちまろ)から始まる一族です。

 

ちなみに、摂関家の祖先は藤原北家で、次男・房前の子孫
房前の屋敷より南にあったことから、「南家」と呼ばれています。

 

■系図で見てみよう(藤原氏/藤原四兄弟)
http://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11241637655.html

 

藤原南家は、奈良時代に1度、天下を取ったことがあります。

 

「長屋王の祟りだ!」と騒がれた、天然痘による四兄弟の全滅によって、藤原氏は没落。
その後に登場したのが、時の帝・聖武天皇の義理の兄だった橘諸兄(たちばなのもろえ)でした。

 

諸兄は吉備真備(きびのまきび)など有能な官僚を用いて政権を運営したのですが、武智麻呂の次男だった仲麻呂(なかまろ)が、聖武天皇の后・光明皇后と手を組んだため、辞任に追い込まれてしまいます。

 

これぞまさしく、藤原南家が天下を取った瞬間。

仲麻呂は古来の英雄・武内宿禰の再来などと称賛され、「恵美押勝(えみしのおしかつ)の名を賜るなど、絶頂期を迎えます。

 

しかし、やがて「藤原仲麻呂の乱(764年)を起こし、敗退。

藤原南家は没落し、藤原式家藤原北家が天下を取っていく中、隅に追いやられて長い雌伏の時を送ることになりました。

 

平安時代中期、武智麻呂から数えて8代子孫の実範(さねのり)の頃から、南家は「学問」をお家芸とする家門となり、以降、学者や学僧を多く輩出する家柄となりました。

 

一説には、菅原道真(すがわらみちざね)とライバル関係にあった一族の藤原菅根(すがね)の影響だとも言われています。

 

その実範のひ孫にあたるのが、藤原通憲(みちのり)

またの名を高階通憲

 

出家して「信西入道」と呼ばれた人物。

 

信西は、藤原南家の出身だったのですねー。

 

信西
高階通憲/信西@阿部サダヲさん
(写真引用先:NHK「平清盛」公式サイト→

 

当時の天才・藤原頼長にも劣らない彼の学才は、お家芸として培われ、育まれたものだったわけです。

信西は、(前妻は養子になった高階家の娘でしたが)後妻に同じく南家の娘(といっても遠い親戚)・藤原朝子を迎えます。
そして、朝子が雅仁親王(まさひと)の乳母となったことで、出世の道が開くことになりました。

 

■朝子の七光り
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11294055402.html

 

やがて、雅仁親王は後白河天皇として即位。

天皇の養父の立場となった信西の活躍によって、藤原南家は再び天下を取ることができたのでした。

 

しかし、新興勢力であり、平家にやたら肩入れする信西は、旧来の門閥貴族たちからは嫌われていました。

 

平治元年、冬。都のど真ん中でクーデターが起こり(「平治の乱」=1160年)、信西は捕えられて斬首されてしまいます。

こうして藤原南家は再び没落の憂き目にあわされてしまうのです。

 

でも、彼らは意外と底力のある一族。
そう遠くはない将来に、また歴史の舞台に還ってくることになるのです・・・・が、それはまた別のお話。

 

ところで、藤原南家の一派は熱田神宮の宮司を務める家系となっておりました。
その娘の1人が義朝の妻・由良御前です。

 

由良御前は、後白河帝の准母(じゅんぼ。天皇の母と同格の女性)であった統子内親王(むねこないしんのう)に仕えており、そして信西は後白河帝の近臣でした。

 

「平治の乱」で対立した信西と義朝は、由良御前を通して繋がりがあったわけです。

 

しかし、「平治の乱」の直前に、彼女は亡くなってしまいました。

もし彼女がまだ長生きしていたら、藤原信頼らの策略に乗った夫を止めてくれたのかも・・・・?

なんていう妄想をしてしまいたくなるのですが、どうでしょうかねー。

 

 

なお、藤原南家には他に、奈良・当麻寺の当麻曼荼羅にまつわる伝説で知られる中将姫や、菅原道真の祟りが起こした「清涼殿落雷事件」で派手に死んだ清貫(きよつら)鳥羽天皇の乳母だった悦子(勧修寺流藤原氏に嫁ぎました)などがおります。

 

 

百人一首の詠み人も何人か。

 

藤原敏行は、清和天皇~醍醐天皇あたりの平安時代初期の人で、「空海」にも並ぶと称された能書家。三十六歌仙。世俗の身でありながら(身を清めもせずに)法華経を、頼まれるまま写経したせいで、地獄に落ちたとも言われる人物。(18・すみの江の 岸による波よるさへや 夢のかよひ路 人目よくらむ)

 

右近は、穏子(醍醐天皇中宮)に仕えた女房(父の季縄が右近少将なので、右近。たぶん)。藤原師輔や朝忠(藤原高藤流。彼も百人一首の詠み人)、源順(したごう)などとの恋愛模様でも知られる人物。(38・忘らるる 身をば思はず誓ひてし 人の命の惜しくもあるかな)

 

祐子内親王家紀伊は、祐子内親王(後朱雀天皇第一皇女)に仕えた女房(夫の藤原重経が紀伊守なので、紀伊。たぶん)。29歳の藤原俊忠(定家の祖父)に贈られた和歌に、70歳の彼女が返したあの和歌が採用されています(72・音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ)

 

また、藤原為憲(ためのり)という人物は、工藤氏伊藤氏伊東氏相良氏二階堂氏吉川氏などの祖となった人物です。

伊東と相良は、戦国時代に九州の真ん中を抑える戦国大名になっています。
吉川は、あの毛利両川の吉川氏です。

 

他にも、今年の大河にも登場する源頼政(よりまさ)の母となる人物も、藤原南家の出身。

 

武門を築いた藤原氏は、何も秀郷流だけじゃないんだぜ・・・・?(何)