前回、法然は比叡山を下りて「知恩院」の場所に「吉水草庵」を結び、「浄土宗」を開いた…と、ご紹介しました。

 

「知恩院」の歴史
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12816072782.html

 

しかし、実は「吉水草庵」の前に、2か所ほど庵を結んだ場所があります。

 

今回は、それをご紹介する、続き…というか、捕捉みたいなブログをやってみようかなと。

 

で、この話には、ちょこっと関連したワタクシの歴史妄想話があるので、ついでに付け足してみようかなと企んでいますw オタノシミニ(?)

 

 

比叡山を下りた法然は、初めは「白河」の地にやってきて、居を構えたようです。

 

平安時代後期で「白河」といえば、「六勝寺」が開かれた場所でしたねー。

 

「六勝寺」の歴史
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12811919188.html

 

現在では「岡崎」と呼ばれています。勘のいい人なら、もう何の話をするのかお分かりですかね(まぁ、タイトルでバラしていますけどねw)

 

ここには、法然の師である叡空(えいくう)の「白河の禅房」があったらしく、それを与えられて住んだ…ということのようです。

 

比叡山を下りたのはいいけど、まだ「阿弥陀如来」にすがることが「本当に正しいことなのか?」と、まだ迷いを持っていた法然でしたが、この地で念仏を唱えると、紫雲がたなびいて光明があたりを照らす瑞兆を得ました。

 

さらに、うたた寝した時に、法然が傾倒する「善導大師(613~681年。唐で「浄土教」を開いた高僧)」と対面する夢を見ます。

 

「あなたはどなたでしょうか?」

「私は善導と申す者」

「なんと、善導大師さま!?何故このような場所におられるのですか!?」

「あなたが専修念仏を弘めようとしているのが貴いからです」

「善導さま…専修念仏をすれば、みな往生できるでしょうか…?」

 

3つ目の問いの答えを聞くより前に、法然は目を覚ましてしまいます。

 

「浄土宗」で語られるところの「二祖対面」のエピソード。

 

夢に善導大師が表れたのは導きに違いない。そんな希望が持てたことから、法然は専修念仏の追求を生涯の志に立てたという。

 

その「白河の禅坊」が、現在の「金戒光明寺」の場所だったとされます。

 

 

「専修念仏の人は往生できますか?」という問いに、善導が答えてない…というのがポイント高いですよねw

 

「その答えは、君が見つけなさい」。厳しくも優しく諭すような答えを説いているようで、美しい師弟関係というかんじ(いや、生きている時代が600年も離れているので師弟ではないんですが)

 

法然の偉人伝は大体、比叡山を下りると「吉水草庵」に行ってしまうので、それよりも前に庵を結んでいたって、聞いてないよ…となるのですが、「白河の禅坊」では「専修念仏の道を確信した」だけで、「浄土宗を開く」までは至っていないから割愛することが多い…ということなんでしょうか。

 

ちなみに、この場所は元々は藤原顕時(あきとき)の別荘があった場所といわれています。


顕時は鳥羽院の院近臣。平忠盛の娘(清盛の妹)を妻に迎え、娘は平時忠(清盛の妻・時子の弟)に嫁ぐなど、平家とつながりを持っていた人物でした。

 

清盛も色々と相談を持ちかけるなど良くしてもらったようで、後白河院の院政を停止する「治承三年の政変」のクーデターの後、顕時の子である行隆を「貴方の父に大変世話になったから」と厚遇して「左少弁」に任じています(『平家物語』の「行隆之沙汰」に事の経緯が描かれています)

 

行隆は平家滅亡後、「南都焼討」で焼け落ちた東大寺の復興を目指し、造東大寺大勧進職の重源と協力して任務に励むことになりました…が、事業の完成を見ることなく歿しています。

 

家柄は勧修寺流藤原氏で、紫式部の夫・宣孝の子孫に当たります…といっても紫式部との結婚前からいた、長男・隆光の系統(隆光-隆方-為房-長隆-顕時)

なお、隆光は『枕草子』の「あはれなるもの」にも登場しているんですよ。

 

閑話休題…。

 

顕時は叡空に帰依して別荘を寄進し、建てられたのが「白河の禅房」。

 

叡空は「比叡山西塔黒谷」所属の僧。この関係で、金戒光明寺のあたりを「黒谷」と呼ぶようになったようです(「白河」なのに「黒谷」と呼んだりややこしい。公式サイトでも「浄土宗大本山・くろ谷 金戒光明寺」と名乗っておられます⇒

 

叡空からもらい受けた「白河の禅房」は、後年、法然の弟子・信空(しんくう)に伝えられます。

 

信空は、なんと藤原顕時の孫(顕時-行隆-信空)。法然を通じて、祖父伝領の別荘を相続した…となるわけなんですねー。

 

「光明寺」の名前になったのは、5世・恵顗(えぎ)の頃。伽藍を整え、法然が見た縁起に因んで「光明寺」と号したといいます。

 

法然が見た縁起というのは、先程の「光明があたりを照らした」瑞兆のこと。

 

…善導大師は「光明大師」という別称があって、唐の長安で布教活動していた時、その拠点にしていたお寺が「光明寺」…だから、「縁起=二祖対面」かと思いきや、違うんですな…(-"-;ウーム

 

室町時代、8世・運空(うんくう)が、後光厳天皇に円頓戒を授けた際に「金戒」の二字を賜り、「金戒光明寺」と呼ばれるようになりました。

 

江戸時代、「金戒光明寺」もまた「知恩院」と同じく、浄土宗徒の徳川家によって優遇されます。

幕末には「京都守護職」の拠点となり、会津藩主・松平容保がここに陣取った…というのは、幕末大河ドラマでもおなじみですかねー。

 

 

と、話を平安時代に戻して…。

 

その後、法然は「吉水」に草庵を結んで専修念仏の道場に。

 

…とはまだ行かず、もう1つ遠回りしていて、今度は「西山の広谷」に向かっています。

 

「西山」とは、ざっくり言うと「長岡京」があったあたり。

ここには「遊蓮房円照」という念仏聖がいて、それを訪ねて行ったようです。

 

 

円照は、善導大師の念仏をひたすらやり続けるという「偏依善導」を実践する求道者でした。善導大師に傾倒していた法然は、どうしても会いたかったんでしょうね。

 

なお、円照は俗名を「藤原是憲」といって、なんと父は藤原通憲。

大河ドラマ『平清盛』でもおなじみの、あの信西入道です。

 

藤原通憲
藤原(高階)通憲・信西@阿部サダヲさん
2012年大河ドラマ『平清盛』より

 

「平治の乱」(1159年)で父が殺された際に出家して、西山で念仏三昧の生活を送っていたのでした。

 

円照は法然の6歳年下だったのですが、治承元年(1177年)に先立ってしまいます。

 

亡くなる時、念仏を9遍まで称えて力尽きようとしたところ、法然に「もう1念」と勧められ、高声に1念を挙げて39歳で往生したと言われています。

 

法然と道交したのはほんの短期間ですが、晩年になっても「浄土の法門と遊蓮房とに会えるこそ人界の生を受けたる思い出に侍れ」と述懐するほど、法然にとって忘れられない人物だったようです。

 

法然も円照も、どちらも父を殺されている身。何か想いをともにするところがあったんでしょうかね。

 

円照の往生を見送った法然は、いよいよ「吉水草庵」へと居を移し、前回のブログに繋がっていきます。

 

 

と、ここで時間を50年ほどすっ飛ばして、嘉禄3年(1227年)、法然寂後に起きた「嘉禄の法難」について。

 

なんだかんだあって、比叡山の僧兵たちが「法然の廟所をぶっ壊して、法然の遺骸を鴨川に放り捨ててやる!」と怒り狂っている…という報せが「吉水草庵」に届きます。

 

「山法師どもに上人の遺骸を渡してはならん!」と、浄土宗徒たちは大慌てで法然の遺骸を掘り起こし、嵯峨の「二尊院」に運び込みました。

 

この時、中心として動いていたのが、「白河の禅房(金戒光明寺)」を受け継いだ、あの信空でした。

 

 

「二尊院」は、「釈迦如来」と「阿弥陀如来」の二尊を本尊とすることから付けられた通称で、正式には「小倉山華台寺」。

 

天台宗の寺院ですが、荒廃していたところを法然の弟子・湛空(たんくう)が復興させて、専修念仏の拠点になっていました(現在も天台宗の寺院)

 

ちなみに、湛空は閑院流藤原氏の出身で、徳大寺家の祖・実能(さねよし。待賢門院の兄)の孫に当たります(実能-円実-湛空)

 

もしも、法然を移送したことが比叡山にバレたら、手が付けられない…。

 

そこで、秘密裏に事を運んだのですが、事態を聞きつけた「蓮生(宇都宮頼綱…藤原定家の子・為家の舅)」「信生(塩谷朝業…頼綱の弟)」「法阿(東胤頼…千葉常胤の子)」ら東国武士出身の出家者たちが、六波羅探題の武士団ら1千の軍勢を引き連れて護衛にあたったため、比叡山にバレバレ(笑)

 

「ここにはいない方がいい」と判断し、太秦「広隆寺」へと運ばれて、一旦「改葬」ということになりました。

 

「太秦の広隆寺」といえば、国宝第一号の「弥勒菩薩半跏思惟像」で有名なお寺ですねw

 

広隆寺←弥勒菩薩半跏思惟像

 

法然の遺骸は、広隆寺の「来迎院」に運ばれました。当時、法然の弟子・円空(えんくう)が住んでいた僧房で、現在の「西光寺」の場所でした。

 

 

法然の弟子たちが比叡山の求める流罪に処されるなどして、「嘉禄の法難」が鎮静化した安貞2年(1228年)。

 

法然の遺骸は広隆寺から「西山」の粟生にあった「念仏三昧院」に運び込まれ、ここで荼毘に付されることになりました。

 

法然の石棺からまばゆい光明が発せられたといわれ、これを聞いた四条天皇から「光明寺」の勅額を賜り、現在も「光明寺」と呼ばれています(「粟生光明寺」とも)

 

そして、「念仏三昧院(粟生光明寺)」が建っている場所は、法然が遊蓮坊円照と交流するために1年ほど住んでいた草庵の、すぐ近くだったとされています。

 

 

「光明寺」となる前の「念仏三昧院」は、熊谷直実(くまがや なおざね)が建てたものでした。

 

直実は「一ノ谷の合戦」の時、自分の息子と同い年の平敦盛を泣く泣く討ち取るなど、武士の生き方に嫌気が差して、出家の道を探していた折に法然と出会い、熱心な信者となった人です。

 

出家後の名は「蓮生」。奇しくも宇都宮頼綱と同じ…。ややこしいので(?)、直実は「れんせい」、頼綱は「れんしょう」と呼び方を分ける向きがあるようです。

 

直実は、法然ゆかりの「西山」に寺院を建立。

法然から頂戴した寺号が「念仏三昧院」でした。

 

「法然ゆかりの」というのは、一般的には「法然が最初に説法を行った地」のことを指しています。まだ比叡山に居た若い頃、この地の偉い人と将来説法する約束を交わしていて、下山して最初にそれを果たしたから…という伝承があるんです。

 

これを否定しない上で、ワタクシは「法然と遊蓮坊円照の思い出」のことが、直実の思う「ゆかり」なんじゃないかな…と思っています。

 

というのも、直実が法然と初めて会った時、その取り次ぎを頼んだ法然の弟子・聖覚が信西の孫にあたる人物で、ここでも信西とつながりがあるから。

 

「聖覚、てめーの叔父さん所縁の地でもあるんか!じゃあ寺を建ててやろう!」こんなかんじ?(笑)

 

どうでもいい話なんですが、おだやかな法然に対して、法然には絶対的に敬服しているけど基本的には手の付けられない暴れん坊(鎌倉武者ですもんね…)で実際に強かった直実って、なんだか『西遊記』の三蔵法師と孫悟空みたいだな…ってイメージがあるんですよねー。ただ、法然は「緊箍児(きんこじ。悟空の頭にはまってる輪っか)」を持っているわけじゃないから、色々と大変だったろうな…(笑)

 

直実は建永2年(1207年)に往生しているので、「嘉禄の法難」の時はすでに故人。もし生きていたら、どんな大暴…もとい、かつやくがあったんでしょうか(棒)

 

ともあれ、「吉水草庵」に来る前に深い思い出となった「西山」の地が、「吉水草庵」の後でまた登場して、法然の終焉の場所となったというのが、なんだか宿命的な感じがして面白いな…と思っていたので、ご紹介いたしましたw

(偶然、どちらも「光明寺」でタイトル的にもバッチリだったのでね)

 

 

というわけで、「浄土宗」開宗の聖地「吉水草庵」の前後にあった「白河」「西山」2つの「光明寺」について語ってみましたが、1つ疑問に思うことがあります。

 

「白河」から「西山」へ行った法然は、どうして「白河」に戻らずに「吉水」に草庵を開いたのだろうか?

 

「吉水」には「青蓮院」があって、弟弟子の覚快法親王が門主となっていたので、その縁でこの地に草庵を結んだのかな…というのは、前回語ってみました。

 

でも、「白河」に拠点があったのに、新しい拠点をわざわざ作って帰らなかった…というのは、どうしてなんだろうか?

 

まぁ、「吉水」が布教に都合が良かったとか、覚快に挨拶に訪れたら僧房を譲る案が出たとか、「白河」は他の誰かに任せていた(信空とか?)から戻る必要がなかったとか、本当のところはそんなところなんでしょうけど、せっかくの機会なので歴史妄想をぶちまけてみると。

 

ワタクシは、「安全保障上の問題で白河に帰れなかったから」ではないか…とも思っています。

 

というのも、法然が「吉水草庵」を結んだ安元3年(1177年)は、「鹿ケ谷の陰謀」があった年でもあるからなんです。

 

 

「鹿ケ谷の陰謀」は、安元3年6月(1177年)に起きた「アンチ平家の企みが清盛にバレて粛清の嵐が吹き荒れた」事件。

 

「鹿ケ谷の山荘」で陰謀を練っていたのがバレたので、この呼称で呼ばれています。

 

「鹿ケ谷」は「白河」から東山山麓に入った、すごく近い場所にありました。だから危険で「白河」に帰れなかった…かというと、もう一歩踏み込めてしまう、法然なりの事情がありました。

 

それが、「西山」で法然が交流していた「遊蓮坊円照」のこと。

 

陰謀が行われた「鹿ケ谷の山荘」は、『平家物語』では「俊寛の山荘」となっていますが、『愚管抄』では「静賢の山荘」と記述されていて、おそらくはこちらの方が真相でした。

 

静賢は、後白河法皇の近臣で「法勝寺」トップの僧なのですが、実は信西入道の子。

つまり、遊蓮坊円照の同母兄にあたる人物なのです。

 

「鹿ケ谷の陰謀」をやった山荘の持ち主の同母弟である遊蓮坊円照と、1年近く「西山」で何かをやっていた…。

そやつが、一味が一網打尽となった途端に「鹿ケ谷」に近い「白河」に帰ってくる…。

 

そんなふうに平家に嫌疑をかけられてしまったら、法然の身に危険が及ぶかもしれません。

 

法然自身は「潔白である」として堂々と帰ろうとしたかもしれず、あるいはそんな事情を知る由もなかったかもしれないですが、法然の身の安全を図ったのは、他ならぬ覚快だったと思います。

 

鳥羽院の皇子で、摂関家出身の慈円を弟子に持ち、「鹿ケ谷」にもほど近い門跡寺院「青蓮院」のトップの覚快なら、「鹿ケ谷の事」の情報をいち早くゲットしていたと思われるからです。

 

「法然さま、どうか白河に帰るのはおやめください!」

「この青蓮院の一僧房をお預けいたしますので、しばらくはそちらにお住まい下さい!」

「どうか弟弟子の願いを叶えてやってください!」

 

挨拶に訪れた法然を、覚快が必死に引き留めて匿った…それが「吉水草庵」という可能性も、なくはない気がするんですが、どうでしょうかねー。

 

(でも、歴史オタクの何の根拠もない妄想なので、あまり鵜呑みにしないでくださいね…^^;)

 

 

法然は「鹿ケ谷」に近いがゆえに「白河」に帰れなかった…の真偽はともあれ、その後はちゃんと「白河」に戻ることができています。

 

そもそも、法然と「鹿ケ谷の陰謀」を繋ぐキーパーソンの山荘の持ち主・静賢は、お咎めナシになっています(なので「鹿ケ谷の陰謀」自体が「清盛のでっち上げ」とも言われています)

そこからゆるーく繋がってるだけの法然が何かされることは、なさそうですもんね。

 

法然は「鹿ケ谷」にも拠点を作って「念仏道場」をやっていました。

 

そこは、現在の「法然院」であったと言われます。

 

 

法然の最大の試練といえば、「承元の法難」(1207年)

法然が弟子の罪に連座して、京都を離れざるを得なくなった事件です。

 

建永元年12月頃(1206年)、後鳥羽上皇が熊野行幸で不在の京で、女官が勝手に出家してしまうと言う事件が勃発。

 

熊野から還幸した後鳥羽上皇は、それを知って大激怒。「誰の仕業だ…」と捜査したところ、法然の弟子である住蓮(じゅうれん)と安楽(あんらく)が、「鹿ケ谷」の寺院で催した念仏のつどいが発端であることを突き止めました。

 

その念仏のつどいは「六時礼賛」という、中国浄土宗の「往生礼讃偈」をリズミカルに唱える、仏事に音楽ライブの躍動感を加味したようなイベントで、女官たちはその楽しさに夢中になってしまったのです(住蓮と安楽には音楽的才能があったということですな)

 

「興福寺が専修念仏を批判しているが、仏教界の小競り合いに過ぎない」としてきた朝廷が、ついに法然たちに弾圧の手を向けます。

 

住蓮と安楽とほか2名が死罪。出家者に対する死罪は前代未聞。

そして、法然は土佐へ、親鸞は越後へ、ほか6名が流罪となってしまいました。

 

この念仏のつどいが行われた「鹿ケ谷の寺院」が、「法然院」だったのでは…というわけ。

 

法然、何かと「鹿ケ谷」に煮え湯を呑まされる生涯ですな…。

 

「承元の法難」の後は荒廃してしまったのですが、江戸時代になって「知恩院」門主・萬無が再興して、現在まで続いているそうです。

 

罪を許されて京へ戻った法然は、後鳥羽院が「承久の乱」で京を去った後、死罪となった弟子たちの菩提を弔うために、かつて彼らが研鑽を重ねていた「法然院」にほど近い場所に寺院を建立します。

 

それが「住蓮山安楽寺」。

 

 

山号が「住蓮山」で寺号が「安楽寺」。

後鳥羽院の逆鱗に触れた住蓮と安楽、両者の名を冠する寺名になっていますねー。

 

 

というわけで、ずっとため込んでいた妄想を開陳してスッキリしたところで(笑)、本日のブログはこれまで。

 

本当はこれ、前回の「知恩院」編と同一ブログだったんですよ。

法然を一気にやっちゃおうと思っていたので。

 

長過ぎたので分割したけど、それでも長くなっちゃいましたね。

毎度のことながら長文失礼イタシマシタ。

 

 

「粟生光明寺」については、まだ語り足りていない部分があるので、すが、さすがに長すぎるので分割して、後日またアップしたいと思いますw

 

 

 

【関連】

 

神社仏閣の歴史シリーズ