夏バテになったのに、ちっとも痩せていないのって、不条理この上ないと憤っている権中納言です。はろーはろー、コンバンハ。如何お過ごしでしょうか。

 

 

京都のお寺の歴史を紹介していくシリーズ。

 

今回は「知恩院」をやってみようかと思います。

 

「知恩院」の名前は結構知られていると思うのですが、「知恩院って、つまり何なの?」と思われる方も、多いのではなかろうか…と予想しての企画です(笑)

 

 

「知恩院」は「浄土宗」の総本山。「浄土宗」は平安時代末期に法然(ほうねん)が始めた、阿弥陀如来を本尊に据える仏教の一派です。

 

そして、「知恩院」が現在ある場所は法然が「浄土宗」を開いた「吉水草庵」があった場所で、さらになんと、法然が没した場所でもあるといわれています。

 

法然の開創入寂の「聖地」。それだけの由緒を誇るからこそ、浄土宗の総本山を堂々と名乗れるわけですなー。

 

「知恩院」は名が知れてますし、その場所はガイドブックなどで周知なのかもしれないですが、改めてご紹介すると、四条の鴨川を渡ったところの「吉水」にあります。

 

「六勝寺」があった「白河(現在の「岡崎」)」の南のほうで、「三十三間堂」などがある「六波羅」の北のほう。地図で確認すると、こんなかんじ。

 

 

北には「青蓮院(しょうれんいん)」。南には「円山公園」。

前回紹介した「大谷祖廟(東大谷)」もすぐそばですなー。

 

 

「浄土宗」が始まった前後の歴史をざっくり紹介すると、法然が「浄土宗」を開いたのは承安7年(1177年)。

 

30年を過ごした比叡山を下りた法然は、前述のように「知恩院」があったあたりに「吉水草庵」を結び、布教活動に乗り出しました。

 

当時、日々の暮らしに忙しく読経や修行の余裕なんて持てない人々は、従来の仏教では徳を積めない…という不安を抱えていました。

 

そこに登場した「阿弥陀如来を拝むだけでいい」「念仏を唱えるだけでいい」という、すごくハードルが低い教えの「浄土宗」。「こんな簡単なことで救われるのなら浄土宗に帰依したい!」という庶民や貴族が続出し、社会現象になっていきます。

 

全く新しい「仏教の在り方」を提案し、人々の支持を集めた「浄土宗」は、仏教界権威「比叡山」と「興福寺」から警戒の目を向けられ、たびたび圧力を加えられることになりました。

 

法然は、時には丁寧に、時にはのらりくらりと南都北嶺の攻撃を跳ねのけて行きますが、「承元の法難」(1207年)はブロックできませんでした。

 

法然の弟子2人が、後鳥羽院の女官2人を魅了し、出家させてしまったのです。

 

これまで南都北嶺の訴えを黙殺してきた後鳥羽院が、激怒して「浄土宗」を睨みます。こうなってしまうと、もう誰にも制止できません。

 

弟子の4人が死罪(出家者に対する死罪は前代未聞)。他に7人の弟子が流罪(そのうちの1人が「浄土真宗」を開く親鸞)

法然自身も免れることはできず、土佐へ流罪となりました(のちに讃岐に変更)

 

4年後の建暦元年(1211年)、赦免と入京の許可を得て、法然は帰京。

長年放置されたこともあって「吉水草庵」は荒れ果てていたので、新たに草庵を結んで、そこに常住して活動を再開します。

 

「吉水草庵」は現在の「知恩院御影堂」、法然が没した場所でもある帰京後の住房は「知恩院勢至堂」のあたりにあったと言われています。

 

入寂したのは、その翌年の建暦2年(1212年)のことだったそうです。

 

 

…と、冒頭の問いかけから始まる語りは以上なんですが、これで終わってしまうのも芸がないなと思いまして(笑)

 

以上の経緯から、あえて疑問を見つけ出すとするなら、ワタクシは2つの点が気になっています。

 

  1. 法然は何故「吉水」を専修念仏の布教場所に選んだのだろうか?
  2. 法然は何故、流罪から帰京後「吉水」に戻ることができたのだろうか?

 

それは、現在の「知恩院」が「青蓮院」のすぐそばにある…というのがポイントになっていると、ワタクシは思っています。

 

なので、続いては前提知識としての「青蓮院」の歴史についてご紹介します。

 

 

「青蓮院」は、比叡山延暦寺にあった僧坊の1つ「青蓮坊」が大本。

 

最澄が造り、円仁、安慧、相応(千日回峰行の祖)へと伝わり、平安末期には行玄(ぎょうげん)が継承しました。

 

行玄は藤原摂関家の出身で、師実の子にあたります。

 

師実は、白河天皇と二人三脚の関係にあった人。

「白河」の別荘を白河天皇に献上し、それが「六勝寺」となった…というのは、以前にも触れましたねー。

 

「六勝寺」の歴史(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12811919188.html

 

青蓮坊12代大僧正となった行玄は、鳥羽院から篤く信奉され、鳥羽院の第7皇子・覚快法親王を弟子として迎え入れました。

 

久安6年(1150年)、長雨に祟られて法勝寺に行けなくなった美福門院が、鳥羽院を通じて行玄・覚快法親王に止雨祈願を行わせたところ、たちまち晴天に転じたので、これを賞して青蓮坊は「御祈願寺」となり、「青蓮院」に改めて、行玄は初代門主に就任します。

 

仁平2年(1152年)、覚快法親王が譲られて2世門主となると、行玄は三条白河の「松ノ坊」に住まいを移します。ここが、現在の「青蓮院」(実際には、ちょっと違う場所だったようですが、本題ではないので深入りしない方向で…長くなるし^^;)。

 

以降、門主の山上での勤めの際は比叡山の「山上御本坊」で、それ以外は「松ノ坊」で常住するようになり、この里坊も「青蓮院」と呼ばれるようになっていくのでした。

 

養和元年(1181年)に覚快法親王が入寂すると、誰が3世になるか?で後継者争いが勃発。

初代・行玄の実家である摂関家と、覚快法親王ご本人の意向と、本当は2世の予定だったのに覚快に割り込まれた実寛(覚快の兄弟子)の3者が対立し、妥協案が見つからなかったのです。

 

結局、門主は空席のまま時が過ぎ、養和2年(1182年)に実寛が亡くなると、摂関家の子息である慈円が3世門主として着任することになりました。

 

慈円は『百人一首』95番歌の詠み人ですねー。

 

おほけなく うき世の民に おほふかな
わが立つそまに墨染の袖

前大僧正慈円/千載集 雑 1137

 

慈円と言えば比叡山の天台座主として知られますが、その前に「青蓮院」の門主も務めていたわけです。

(ちなみに百人一首の和歌は、最澄が詠んだ「阿耨多羅(あのくたら) 三藐三菩提(さんみゃくさんぼだい)の仏たち わが立つそまに冥加あらせたまへ」の本歌取り。「杣(そま)」は、寺院の材料たる木材が生えている山の意味です)

 

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場したのを覚えておられる方も多いのではなかろうか。山ちゃんが演じておられましたねー。

 

慈円には、九条兼実という同母兄がおりました。『鎌倉殿の13人』では、ココリコ田中さんが演じておられました。

 

 

リアルタイム放送時では、2人が同一画面に映るシーンがあって、「兄弟で同じ画面に映っている!」とtwitterがざわついたことがあったなぁ。

 



左:慈円@山寺宏一さん
右:九条兼実@ココリコ田中直樹さん
2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』より

 

慈円と兼実の関係は(ついでに行玄も)、系図で確認すると、このようなかんじになります。

 

 

初代青蓮院の行玄と兼実・慈円兄弟たちと、「浄土宗」は奇妙な繋がりを見せています。

 

 

法然は、9歳で比叡山に上るのですが、得度の戒師を務めたのが、当時天台座主だった行玄でした。久安3年(1147年)というので、行玄50歳の時。

 

ちなみに、行玄は康治元年(1142年)に鳥羽上皇や藤原忠実の授戒も行っています。法然と鳥羽院は受戒兄弟だったのですねー(?)

 

前述のように、行玄は洛東の「青蓮院」の初代門主となった人。

 

法然は、自分を受戒してくれた人を頼って「吉水」にやって来たのか…と思いきや、行玄は「浄土宗」が開かれる20年前の久寿2年(1155年)に亡くなっています。残念。

 

法然が吉水にやって来た承安7年(1177年)当時、青蓮院の門主は2世の覚快法親王でした。

 

覚快は、法然と同じく行玄のもとで受戒しています。長承3年(1134年)生まれで久安4年(1148年)に得度しているので、法然の1歳年下の弟弟子に当たります。

 

もしかしたら、法然はこの縁で「吉水」にやって来て、「青蓮院」のすぐ近くに庵を構えたのではなかろうか。

なんなら、弟弟子の援助もあった可能性もあるよな…と、ワタクシは思います。

 

覚快は養和元年(1181年)に入寂。法然が「承元の法難」で流罪から帰って来た時、「青蓮院」門主には、慈円が就任していました。

 

慈円の師は、覚快法親王でした。この関係で、青蓮院に住んでいたこともあるとされます。

 

また、比叡山に上ったのは仁安2年(1167年)なので、1175年に下山する法然とは、10年ほど比叡山での在籍期間がかぶっています。

 

一応、年齢は慈円の方が22歳ほど年下…。けれども、両者の間に交流がなかったとは言えないと、ワタクシは思います。

 

 

そして、もう1つ、慈円と法然の間には大きな繋がりがありました。

 

それが、慈円の同母兄・九条兼実。

 

兼実には、良通(よしみち)という出来のいい長男がいたのですが、文治4年(1188年)に22歳の若さで突然死する不幸に見舞われます。

 

期待する息子に先立たれたショックで、兼実は出家さえ考えたと言われています。

 

そんな失意の中、当時名が知れ渡っていた法然に請うて「往生」について談話を交わしています。

 

兼実はどうやら法然の法話の中に救いを見つけられたようで、以降法然と親しく交流するようになったといいます。

 

「承元の法難」の時、法然の赦免をなんとかもぎ取ろうと働きかけるのですが、流罪が確定してしまいました。

 

土佐へ流罪となったところを、九条家の領地である讃岐へ変更させることには成功しますが、粘りもここまで。

 

この苦しみが老身にこたえたのか、法然の配流を見送った2ヶ月後、兼実は法然の帰京を見届けることなく薨去してしまいます。

 

慈円は、母を2歳の時に、父を10歳の時に亡くし、6歳年上の兼実を父のように慕っていたそうです。

仲のいい兄が身を挺してでも守りたかった法然が京を離れ、そして間もなく兄も亡くなった時、慈円はどう思ったでしょうね…?

 

帰洛を果たした法然に、慈円は「青蓮院」の一坊跡を譲って活動再開を手助けし、それが現在の「知恩院勢至堂」の場所と言われています。

 

法然は建暦2年(1212年)に、慈円は嘉禄元年(1225年)に入寂。

 

嘉禄3年(1227年)、天台座主は円基(摂政関白・近衛基通の子)の時代。

 

教義解釈議論の応酬から、天台僧たちの浄土宗への怒りが頂点に達し、僧兵たちが勝手に「浄土宗の廟を破壊して法然の遺骸を川に流す!」と宣言し、吉水を襲撃する「暴挙」に打って出ました。

 

法然の弟子たちは驚く暇もなく、直ちに対応に追われます。

幸い、法然の遺骸は移送に成功しましたが、禅坊は破壊されてしまいました(「嘉禄の法難」)

 

この苦難を乗り越え、文暦元年(1234年)、法然の高弟の1人・源智(げんち)が「勢至堂」を再興。

 

四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜され、ここに「知恩院」の名が誕生したのでした。

 

 

時は大きく流れて、「応仁の乱」の戦火に焼かれて、戦国時代を迎えた頃。

 

灰燼と化した「知恩院」の再興を託されたのは、25世門主の超誉存牛(ちょうよ ぞんぎゅう)。

 

存牛は三河国の生まれで、父は岩津城主・松平親忠(まつだいら ちかただ)でした。

 

三河国の松平といえば…?そう、徳川家康。

 

存牛は家康の高祖父・長親の弟に当たる人物だったのです(親忠-長親-信忠-清康-広忠-家康)

 

知恩院24世・訓公と兄弟弟子の間柄だったため、遺言により門主の座を譲られたのでした(存牛は固辞したのですが、後柏原天皇の綸旨が下ってしまっては、抗う術はなかったようです…)。

 

この縁と、徳川家が代々の浄土宗徒だったこともあり、江戸時代になると、徳川幕府は「知恩院」の積極的な拡大造営を行います。

 

慶長8年(1603年)、家康は知恩院を永代菩提所と定めて寺領703石余を寄進。

北隣する青蓮院の寺領を割いて知恩院の境内を拡大し、諸堂を整備。

「寛永の大火」(1633年)で焼け落ちてしまうと、ただちに3代将軍・家光の元で再建が進められるなど、手厚い庇護を受けたのでした。

 

(このためか、知恩院の公式サイトを覗くと「三つ葉葵」の家紋が表示されます)

 

 

というわけで、知恩院の歴史については以上。

 

どさくさに紛れて「青蓮院」の歴史も混じってしまいましたが(笑)、隣接しているだけあって関係は深かった…というあたりが伝われば幸いです。

 

本稿で語れなかった部分は、余談か、後日また改めて…ということにしますかねー。

 

 

 

以下、余談。

 

 

余談、その1。

 

「知恩院」について語るなら、一緒にやっておきたいお寺がもう1つあります。

 

「百万遍知恩寺」←これです。

 

 

「知恩院」と「知恩寺」。

名前が似ているけど、どんな関係だろう?

「百万遍」って何?というわけ。

 

元々は、現在の「相国寺」のあたりにあったみたい。その頃は比叡山東塔「功徳院」の里坊で、「下鴨神社」の神領だったところ。法然の頃は「今出川釈迦堂」とも呼ばれていました。

 

ちなみに「功徳院」に住んでいたのは皇円(こうえん)という僧で、一時期は法然の師匠でもありました(後に離れて叡空の元に移っています)

 

 

ところで、法然は、元は美作国(岡山県)の人。

初名は漆間勢至丸(うるま せいしまる)といいました。

 

長承2年(1133年)生まれと言うので、「平治の乱」の首魁となった藤原信頼や、平清盛の弟の頼盛と同い年です(ということは、清盛の15歳年下)

 

漆間氏は、伝説では神武天皇の兄・稲飯命(いないのみこと)の末裔とされます。

 

神武天皇は四兄弟の末っ子で、稲飯命は次兄に当たります。

「神武東征」の時、嵐のために熊野に入れなかったことに「天神と海神の子である我らを、陸と海で苦しめるとは何事か!」と憤り、剣を抜いて海に入って行って鎮めた…という、「鋤持(さいもち)の神」伝承を残している人(神?)です。

 

その後、稲飯命の子孫は宇佐八幡宮の宮司を務める家柄になっていき、漆間氏は美作国に移った氏族(美作立石氏)のさらに支族の末裔…となるみたい。

 

そんな漆間氏の、さらに枝分かれした支族の1つが、下鴨神社の宮司を務める家柄になっていました。

 

この同族の縁で、法然は「今出川釈迦堂」の仏事によく招かれていたそうで、法然の拠点の1つとなっていたわけです。

 

これを、法然の弟子・源智が継いで堂宇を建立し、寺院としての様相をまとめていった…これが「知恩寺」の始まりとされます。

法然の命日に「知恩講」と呼ばれる追善法会を行っていたことが、「知恩院」の名前の由来ですが、「知恩寺」の場合も同じです。

 

前述のように、源智は「嘉禄の法難」で天台僧兵にぶっ壊された法然の御廟を再建し、「知恩院」の寺名を賜った人。なので、「知恩院」も「知恩寺」も、源智を歴代住職に数えています。

 

なお、なぜ源智が「今出川釈迦堂」を受け継いだのか?については、ちとフクザツな話があって長くなるのでまた後日にということで…もしかしたらオタノシミニ。

 

元弘元年(1331年)、巷では疫病が大流行して朝廷の頭を悩ませていた時、知恩寺8世の善阿空円が、7日間の「百万遍念仏」を行って、霊験があったといいます。

 

これに感動した後醍醐天皇が、「百万遍」の号を下賜して「勅願寺」とした…これが「百万遍知恩寺」の名の由来となっています。

 

室町時代に入ると、3代将軍・足利義満の「相国寺」造営によって、「一条小川」へ移転させられました。

江戸時代の寛文元年(1661年)には火災に遭い、「北白川田中」に移転。ここが現在地となっています。

 

ちなみに、一条小川にあった頃の名残は「元百万遍町」という地名として現在も伝わっています。

 

 

 

 

余談、その2。

 

「青蓮院」の門主で比叡山の天台座主にもなった慈円ですが、「知恩院」の近くに寺院を建立しています。

 

「安養寺」。場所は「知恩院」のすぐ南にあります。

 

 

建久年間というので、1190年~1199年のあたり。ちなみに、頼朝の「奥州征伐」があったのが1189年、頼朝の征夷大将軍就任や「蘇我兄弟の仇討ち」があったのが1192年、頼朝が亡くなったのが1199年です。

 

「安養寺」は「吉水草庵」があった場所…と言われているのですが、法然が草庵を結んだのは1177年なので、法然の草庵があった場所に慈円が安養寺を建てたの…??と矛盾があるんですよねー。実際にはどうなんだろう。

 

法然が来る前に「安養寺」があって、慈円がそれを法然に譲ったという話なら「なるほどなー」ってなるんですけれども…(なので、当ブログでは「吉水草庵=知恩院御影堂」説を採用して書きました)

 

慈円は比叡山無動寺(「千日回峰行」の不動堂で有名)から弁財天を勧請し、弁天堂を安養寺の鎮守社として構えました。

弁財天は芸の神。そして、安養寺の近くには祇園があります。そんなわけで、弁天堂が荒廃していたこのあたりを盛り返すきっかけになったとかどうとか。

 

こうした経緯から、慈円の名前を山号にとって「慈円山 安養寺」と呼ばれるようになったと言います。

 

やがて、安養寺も荒廃してしまうのですが、南北朝時代に時宗の僧・国阿上人が住職として入寺し、再興。

以後、時宗のお寺として、現在を迎えています。

 

明治時代になって「廃仏毀釈」が行われると、安養寺の境内も多くが接収されてしまい、現在では整備されて「円山公園」になっています。

 

「円山公園」の「円山」、実は安養寺の山号の「慈円山」が由来。

慈円の名前は、こんなところにもひょっこり顔を見せていたんですねー。

 

 

【関連】

 

神社仏閣の歴史シリーズ